Marieに捧ぐ 安藤未衣奈は心に溺れる

そらどり

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第二楽章 信用と信頼

信じることの大切さ

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俺の両親は離婚した。

母さんは家に帰らなくなり、家の中にあった母さんの面影は次第に消えていった。

ピアノも、衣服も、家具も、母さんの部屋には何も残っていない。

残っているのは、母さんが確かに存在していたという、慰めにも受け取れる微かな思い出。



「…………」



扉を開け、空になった部屋を一人眺める。

家具があった時は狭く感じたのに、今はとても広く感じられた。

失って初めて気づくことだった。



無言で階段を降りると、リビングからは笑い声が聞こえてくる。

「またか」と口には出すが、否定はしない。

寧ろ、憐憫に思う。

母さんを失った悲しみは俺以上に父さんが受けているのだから。



リビングに入ると、父さんは昼間から酒に心酔していた。

テレビを大音量で鑑賞し、ソファに寝そべりながら、目の前に置かれた缶酒を口に押し込んでいる。

豪快に喉を鳴らしながら、潤うことのない渇きを慰めていた。



「……おい、ゆうすけぇ、冷蔵庫のビール持って来い……!」



虚ろな瞳で催促する父さん。

面倒を避けるため、冷蔵庫のビールを多めに持ち出す。



「はい、持ってきたよ」



落とさないよう大切に持ってきた缶酒らを、一つずつ丁寧に並べる。



「おいおい、テレビ画面が隠れるだろうが……! 俺が見れるように配慮しろよ……」

「……ごめん、気をつける」



すぐに並べ方を改める。

神経を逆なでしないよう、音を立てずに。



「ったく……、初めからそうしておけば良かっただろうが」

「……うん、ごめん」



そう言って、俺は父さんから離れる。

去りゆく際、父さんは並べられた缶酒を乱雑に扱っていた。



「…………」



その光景を目の当たりにし、俺は悲しい気持ちになった。

でも、何かを言い返せば、激昂するのは目に見えている。

これまでも、何回も、中身の残った缶酒を投げつけられた。

カーペットの滲み、フローリングの傷、どちらも最近になってついたものだ。

あの頃の笑顔で包まれた思い出が少しずつ汚れていく。

これ以上、大好きだった家を穢されたくなかった。



母さんが消え、父さんが狂い、最後に残った俺は何者に変貌してしまうのか。恐ろしいことばかりが思考を巡る。

変わってしまうことが怖い。

変わる前の、あの頃の家族に戻りたい。

あの頃の笑いの絶えない家族のままでいたい、たったそれだけを願っていたのに。



でも、俺の望みが叶うことはなかった。

胸躍るような心地よさで柔らかく澄み渡った音色は、腸に針を通され身の毛がよだつ程の不快音へと変貌を遂げた。

初めから裏切られる結末を知っていれば、俺は母さんを信用することもなかったのに。

父さんは変わらずに、二人で平凡な生活を送れたかもしれない。

俺が信じてしまったから家族は崩壊したと、そう思い込むようになってしまった。



大好きだった家はもう存在しない。

もう一つの居場所も、存在を微塵も感じさせない、まっさらな更地となっていた。

三人で木材をかき集め、崩れないよう丁寧に組み立てて、ブルーシートで覆った自分達だけの秘密基地。

台風が通り過ぎた後、泥水が浸み込んで使い物にならない木材を交換し、倒れた壁木を垣根に立て掛け、もう少しで修繕が終わろうとしていたのに、人為的な何かによって跡形もなく消えていた。

友達の保護者か、或いは市の業者か、真相は分からない。

でも、再び作業をする意欲は風と共に消えていった。

いつも遊んでいた友達とは縁切り。あれだけ多くの思い出を共有してきたのに、結果は実らない。

俺にはもう居場所がなかった。



それからの日々は、心に穴が開いたように空虚な日常に変容した。

家では仕事を辞めた父さんがリビングに居座り、満足な愛情を受けられない。

学校では危険な場所に友達を連れて行こうとした犯罪予備軍。異端を排除する空気感が教室に漂っていた。

離婚の噂を聞いた近所の人からは憐憫の目を向けられ、同情という名の一方的な差別を受けた。

父さんの機嫌を伺い、友人の視線に気づかないふりをして、隣人に気丈な振る舞いを見せる。

怒られないように、自分を守るために、悟られないように、俺は仮面をかぶる。

自分以外の人間に向けられる視線に敏感になり、段々と自分が分からなくなる。

見るものが全てつまらない。感情が揺れ動かない。心が冷めていく。

急速に変わりゆく環境に神経を擦り減らし、俺は次第に精神を疲弊していった。





「もう……どうでもいいかな…………」



撤去され、更地となった場所に立ち尽くしながら、一人呟いた。

信じた俺が悪い。人は簡単に裏切る。

俺が如何に陶酔しても、母さんはいなくなるし、友達も消えていく。

もう十分だろう。

信じるから後になって苦しくなる。

信じるから裏切られた時に後悔する。

信じれば信じる程、その悲壮は大きくなるんだ。



だったら、人を信じるのはもう止めよう。

そうすれば、自分が傷つかなくて済む。

噛みつかず、時世に流され、世に溶け込む。

異端が価値無き世界、その住人なら正しく在れ。

数多くの大人を観察して、至った結論。俺が強く掲げた信念はきっと生涯揺らぐことは無いのだろう。

自分を守る術は自分を穢された時に初めて崩れ去るもの。

自らが相手の領域に踏み込もうとしない限り、決して侵されることのない聖域。





でも、一度だけ、信念が揺らいだことがある。

今になって思えば、あの時は、あの時だけは、穢されることを望んでいた。

残滓なき更地、その前方に設置された鞦韆しゅうせんに跨り、漂う無常感に身を任せていた当時、目の前に現れた少女は俺と同じ瞳を持っていた。

輝きを失った瞳孔は、赤子のように虚弱で今にも壊れそうな程に俯瞰的で淀んでいた。

消え入りそうな声に返事をし、俺はその少女と親密になった。

同じ境遇とは言い難いが、それでも彼女は彼女自身の抱える劣等感に怯えていた。

周囲の期待に気づかないふりをして必死に自分を守る、そんな彼女の姿を見て、俺は喜んだ。

初めてだった。共感してもらえる人に出会えたのは。

受け入れられる感覚を久しく忘れていたせいで、彼女と話す時はいつも歯痒い思いに駆られる。

放課後を一緒に過ごし、休日を共に分かち合うようになると、初めは笑顔の少なかった彼女も次第に満面の笑みを浮かべるようになった。

周りの目を気にせず、媚び諂うこともなく、安寧を享受できる日々は、俺がずっと求め願っていた夢物語。その日常はまさしく夢心地に浸っているようで、甘美だった。





ある日、いつものように公園で遊んでいると、彼女はランドセルから徐に一枚の紙を取り出す。

どうやら、新年度になり教壇で自己紹介をするために使用する用紙を各自書くようにと宿題を課せられていたらしい。

筆記用具を取り出し、ブランコに揺さぶられながら、一つずつ空欄を埋めていく。

隣でその様子をぼんやり眺めていると、鉛筆を持つ手がいきなり止まった。

疑問に思い、立ち上がって後ろから確認すると、記入されて埋まっている欄の中で一つだけ空欄が残っていた。

どうしたのかと問いかけると、彼女は恥ずかしそうに目を合わせてきたのを覚えている。

羞恥心に囚われ、視線を泳がせながらも目を合わせてくる彼女を見て、俺は思わず惹き込まれていた。

俺はこの時既に彼女に陶酔していたのかもしれない。



俺は迷っていた。

これ以上踏み込んでしまえば、もう後戻りはできない。

信頼してくれているのに、俺の浅はかな行動一つで関係が崩れ去る。そう思うと、怖くて仕方なかった。

俺が揺らいでいることもつゆ知らず、将来の夢を彼女は聞いてくるが、俺に答えられるわけがない。

傷つくことを恐れて未知に飛び込む挑戦から逃避している俺が、白いキャンパスに何も描こうとせず目を逸らしている俺が、果てしなく何処までも広がっている未来を思い描ける訳がなかった。

でも、彼女の瞳はこれまでになく光り輝いていた。

初めて会った時の濁り切った瞳孔は姿を消し、澄み渡るような輝きは眩しく感じられる。

この瞳の正体を俺は知っていた。夢を持つ人間が希望を抱く具現化の象徴だから。



親密な人が変わっていく。

俺の知らない別物に変貌を遂げる瞬間を目の当たりにしている。

俺は再び置いて行かれる。見捨てられる。そう思うと怖くて堪らなかった。

だからこそ、俺は自分を守る行動を取ったはずだ。



………………



でも、思い出せない。

俺は何をしたのか。

あの後、彼女はどうなったのか。

思い出せるはずだ。昔のことは俺にしか分からない。



…………



忘れてはいけない出来事だったはずだ。

思い出せ。俺ならできる。



……



思い…出……、せ……







ーーー







「――――ぃ……」



誰かの声が聞こえる。

でも、待ってほしい。

もう少しで思い出せそうな―――



「おい、起きろよ―――!」

「―――ッつ!?」



頬に強い衝撃が走り、痛みで飛び上がった。

突然のことに混乱するが、首を振って周囲を確認すると、俺の机の前には悠馬が立っていた。



「いってぇ……、何すんだよ……!」



苦言を漏らすと、鬱陶しそうな表情を浮かべながら悠馬は答える。



「何って……部活前なのに呑気に眠ってる蹴球部の代表さんを起こしてあげただけ、なんだけど?」

「……ああ、そういう……」

「寝過ごして顧問にボロクソに怒られる方をご所望かな?」

「いや、それは嫌だ……」



教室に取り付けられた時計の時刻を確認し、机に並べられた教材を急いで片付ける。

六限目の世界史の内容は殆ど覚えていない。冒頭からすでに夢の中だったらしい。



「……」



ここ数日、授業をまともに聞いていない気がする。

部活終了後に個人的に町内をランニングしているせいで、疲労感が半端ない。

そのため、期末考査終了後は殆ど単元の進まない授業内容なのを良いことに、俺は睡眠時間の確保に利用していた。



「じゃあ、俺は先に行く」



悠馬はそう言うと踵を返して教室の外に向かって行った。



「―――悠馬!」



遠くなる前に、背中を向ける悠馬に声をかける。

「なに」と言いながら振り向く悠馬。俺は目を合わせて笑顔で伝えた。



「ありがとう、起こしてくれて」

「……別に」



無愛想な声を出して再び踵を返す悠馬。

振り返らず、教室の扉を開いて廊下の向こうに消えていった。



「…………」



アクセサリーの一件以降、悠馬は俺と話をしてくれるようになった。

いきなり以前と同じような関係に戻ることはできないが、それでも一時期の険悪な関係性は改善されていると思う。

どちらが謝罪した訳ではない。自然と少しずつ対話を重ねるようになっただけ。

だから、まだ悠馬に対してぎこちなさを感じつつも自然を装って話している状態。以前の振る舞いを思い出しながら、なんとか関係を維持している最中。



「……俺が謝るべきなのかな」



胸の内を独り言ちるが、周りの生徒は既に部活か帰宅かで教室には残っていない。



「って、こんなことしてる暇ないだろ……」



リュックサックのファスナーを閉め、急いで教室を出た。

いつもは集まりの悪い部活連中も、最近は時間通りに練習する準備をして開始に備えてくれている。

試合が近くなり、顧問の山口先生がグラウンドに顔を出すからだろう。

それなのに、あいつらが粛々と準備をしている中、肝心の俺が遅刻したせいで連帯責任なんてことになれあいつらに申し訳が立たない。



胸の内のもやもやが晴れないまま、俺は昇降口を出て部室棟へ向かう。

部室には誰もおらず、皆グラウンドに集まっていることが分かる。

急いで練習着に着替え、スパイクに履き替えると、アスファルトには不向きのスパイクでグラウンドまでの道程を一気に駆け下りた。

既にグラウンドでは、練習前の道具の準備を終えて、皆がストレッチを始めていた。



「ごめん……! 準備に間に合わなくて…………!」



皆に謝罪をして、俺も輪に加わると、それと同時に顧問がグラウンドに現れた。

中断させて顧問の前に集合すると、一言をもらって再びストレッチを始める。

皆が準備を終えたことを確認してから練習開始の掛け声を出すと、グラウンド周りのランニングを行うために列を成す。



「おい、祐介」



先頭で横に立った悠馬に声を掛けられ、俺は顔を向ける。

「どうした」と返事をすると、悠馬は何故か声を潜めて呟いた。



「部活終わって帰る時にさ、ちょっと校門で待っててくれよ」

「……? なんで?」

「いいからさ……、後から合流するよ」

「まあ、いいけど……」



笑みを零しながら囁く悠馬は不気味に感じながらも、俺は了承した。

本当なら町内をランニングする予定だったが、霧の晴れないままでいるのも歯痒かった。



「じゃあ、そこんとこ頼むぜ」



声量を戻し、右手を高らかに上げる悠馬。

後ろでも同様に手を挙げているチームメイトを視認すると、列が整った合図だった。

それを皮切りに足を動かし始めると、列全体が動き出す。

そのまま、四、五百メートル程の円周を何周も回っていった。

それを終えると、今度は対人でボールの交換練習を行い、身体を十分に温める。

夕方まで授業が続くと、放課後の練習時間は自ずと限られてくる。

そのため、短時間で質のある練習を次々とこなし、最後の試合形式までやってくると皆の疲労は限界に達してしまう。

その状態で迎える試合形式が最も辛く、ただでさえ疲労困憊で心臓がねじれるような苦痛を味わっているのに、それに加えて夕方でも熱気に沸くグラウンドの中を走り続けなければならない。

サボろうにも顧問の監視下にあれば、それも不可能。

痙攣するふくらはぎを抑えながら、沸騰する空気を貪ることが如何に地獄か。

そんな途方にも思えるような時間を耐え耐え消化し、俺達はようやく一日の練習スケジュールを終えることができた。







ーーー







「お待たせ」



部活を終え、校門で待っていた俺は、走ってやってきた悠馬に声を掛けられた。

いじっていたスマホをポケットに仕舞い、顔を上げる。

が、予想外のことに思わず目を見開いた。



「何だよ、他人を見てすぐに驚嘆なんて失礼だろうが」

「いや、なんでまだ練習着なんだよ。着替える時間くらい別に待てるからさ、さっさと着替えてこいよ」

「待たなくていいよ……まあ、ちょっと見せたいものがあってな……」

「見せたいもの……?」

「ああ、静かについて来いよ」



そう言って、悠馬はグラウンドの方へ向かう。

付随するように悠馬の後ろをついていき、学校の敷地内に戻っていくと、次第に複数人の声が聞こえてきた。まだ部活が続いているところがあるらしい。



「……?」



違和感があった。

俺達が部活を終えて部室棟に戻っていく途中、グラウンドで練習を続けている部活はもうなかった。

下校時刻を控え、野球部もテニス部もグラウンド整備に勤しんでいたはずだ。

残って自主練をしている生徒がいるということなのか。



「ほら、着いたぞ」



遅れて着いた俺は、垣根で隠れていたグラウンドを見渡した。



「―――――…………!」



俺は戦慄した。

複数人と思ったが、それでも二、三人程度とばかり考えていた。

しかし、点を数えると、その数を大いに超える生徒が練習に励んでいた。



「ど、どうしてあいつらが…………」



ボールを追いかけている生徒全員は、俺がよく知っているチームメイトだった。

湯川をはじめ、佐藤や高知らも勢ぞろいで練習をしている。

あれ程にまで練習を毛嫌いしていたチームメイト達が、俺のいないところで集団練習を行っている光景が視界に広がっていた。



「あいつらが最初に言い始めたんだぜ? 残って練習しようって。湯川なんてさ、自分から顧問にナイターの許可申請しに行ってんだから。笑えるだろ?」



湯川は元々野球部に所属していた。

やる気があったらしいが、周りとの温度差に嫌気が差して三か月で退部。その後、路頭に迷っていた湯川を俺が勧誘したが、依然として練習でも達観していてやる気を見せなかった。

本気で取り組めば再び軋轢を生むと考えているからかもしれない。



「佐藤は前回の試合のミスが悔しかったんだとよ。結構負い目を感じてるんだろうな、あいつ真面目だから」



佐藤は教室で浮いていた生徒だった。

盲腸を患ったせいで入学式を欠席し、快復した時には既に教室内でグループが形成されていた。

同級生と馴染めず教室での居場所をなくしていた佐藤を見かけた時に、俺が狙いをつけて呼び込んだのだった。

練習態度は良好だが、唯一のスポーツ未経験が尾を引き、サッカーに意欲を見出せずにいたと思っていた。



「あとは……高知も珍しく参加したいって意義込んでたな。隙があればサボる奴なのにさ」



一緒に練習していると分かってきたことだが、高知は飽き性な一面があり、そのせいで部活を転々としていたらしい。当時、部員が足りずに困っていた俺達の絶好の的となっていた高知は、勧めると難なく入部を決めてくれた。

楽な方を選び、辛い事を避けるが信条の高地にとって、居残り練習は何よりも選び難いもののはず。



「他の奴らも同じだよ。皆自分から練習に取り組んでる。この一か月ほぼ毎日だぜ? 凄いだろ?」



以前に感じた違和感。

泣き言を垂れながら練習しているのに、いつからかその光景が消えていた。

隙を見てサボる奴もいない。練習中に自ら指示出しをする。何よりも最後まで練習に付いてきていた。



「なんで、あんなに必死になってんだよ……」



俺には理解できなかった。

サッカーを目的に入部した人間なんて誰もいない。転部して来た、何となく入った、居場所を求めて入った、どれも自己が中心の理由だ。

部室で他クラスの友人と雑談し、年齢の垣根なしに遊びに興じる。教室の片隅で放課後を過ごすことの叶わなかった代わりに、唯一の拠り所となるのが部活動のメンバー達なのだ。

誰も彼もがサッカーをしたくて入部したのではない。それは入部を勧めた俺が一番よく知っていた。



「皆お前のために頑張ってんだとよ。あんなに貪欲になって勝とうとしてたお前を見て、皆恩返しがしたくなったんだよ」

「恩返し……」



そんなの、俺がしたいくらいだ。

入部してくれただけで有難いのに、俺の我儘に付き合わせて。



「……お前さ、自分の我儘にあいつらを付き合わせてるって考えてんだろ」

「そんなことは……」



図星だった。

勝ちたいと願ったのは俺自身だけ。その我儘にあいつらは本来付き合う道理はない。

人数合わせのために入ってくれるだけでいい、そう謳い文句を垂れた。初めに俺自身が言ったことだ、忘れる訳がない。

だから俺は、あいつらが勝ちに拘っていなくとも責めることはできない。

それ自体があいつらを裏切ってしまうと思ったから。



「あいつらの信頼を失いたくないからって消極的になるのも分からなくはないよ。謳い文句を信用して入って来た奴らが殆どだしな。でも、信じてもらうことと信じることは全くの別物だ。いくらお前が頑張っても、あいつらが付いてこない限り一人では何もできないんだ」

「あいつらを、信じる…………」



一度でもあいつらが俺に文句を垂れただろうか。

俺の言ったことに不満を持っていただろうか。

結局、自分への言い訳だったのかもしれない。

あいつらを裏切りたくない、その思いが肥大化して、俺は大切なものを見落としていた。

俺は等身大のあいつらを見ていなかったんだ。

自分のことばかり考えて、俺はあいつらに拒絶されるのを恐れていたんだ。



「自分達の居場所をくれたお前に、今度はあいつらが恩を返す番なんだよ。だったらお前がやるべきことはただ一つ、あいつらを信じてやることだろ?」

「―――――…………!」



変わることが怖い。

自分の保身ばかり考えて、時世の荒波に身を任せて、自ら能動的に行動することを拒んでいた。

何度も変わろうともがいても、気がつけば元の自分に戻っていた。

信用してもらいたくて、自分のことを知ってもらいたくて、相手に身を委ねている。

それは本当の意味で変わったとは言えない。

相手に依存して、そこに自分の意思は存在しない。

どんなに変革を望んでも、滲みついた生き方が邪魔建てをしていた。



俺はこれまでの人生ずっと一人で生きていたんだ。



「……そうだな」



俺は根本的に間違っていた。

他人に嫌われたくなくて、拒絶されたくなくて、自分のことばかり考えて。

誰かと繋がろうとせず、独りよがりな生き方をしてきた。

他人を信じるなんて、俺にはできないと思っていた。

でも、皆は俺を信頼してくれていて、俺のことを待っている。

これを裏切るなんて、それこそ冒涜だ。



「もっと、あいつらを信じてみれば良かった」



もう過去の自分とはお別れだ。

相手に受け入れられて喜ぶ自分、相手に距離を置かれて悲しむ自分。そんな受け身に回った生き方は卒業しよう。

あの日、泣いている安藤にしたように、今度は俺が皆を変える番。



「ありがとう。……やっぱ悠馬は頭良いな、言語化されたら自分の生き方が分かった気がするよ」



感謝を告げると、悠馬はそっぽを向く。



「別に……俺はただ講釈を垂れただけだ」

「でも、俺のやるべきことが明確になった。悠馬のお陰だよ」



「そうかよ」と言いながら、悠馬はグラウンドを眺めていた。

依然としてグラウンドでボールを追いかけるチームメイトはこちらに気づいていない。



「……あのさ」



でも、再びこちらに身体を向けて、悠馬は迷いながら言葉を発した。



「この間は、その……、悪かったな」

「……え」



急過ぎて、思わず声が出てしまった。



「だから! ……インターハイの試合の日の帰り道、俺がお前に言ったことだよ……」

「それは、覚えてるけど……」



その日、悠馬は強く否定していた。

現実的に生きていけば、自分が傷つくこともないし、他人と軋轢を起こすこともない。

夢を語っていた俺に対して、悠馬は現実を見ていた。



「……俺に兄貴がいるってのは覚えてるか?」

「ああ、秋人さんだろ。家行った時に一回だけ会った」

「まあ、その兄貴なんだけどさ……俺よりも賢くて、運動もできて、今では弁護士になってるんだ。だから秋人くんよりも下な俺は、皆から卑下されるってわけよ。本当に最悪だよ……」

「悠馬……」

「優秀な兄と比較されるのが当たり前な俺にとって、夢なんていう戯言は失言に違いない。夢なんて持てば、更に兄と比べられることになるんだからな」

「…………」



悠馬がそんな境遇だったなんて知らなかった。

夢を持ってしまえば、夢を叶えたお兄さんと嫌でも比べられてしまうということ。

初めから不確かな幻想を抱かなければ、余計に自分自身に失望せずに済むから。だから、悠馬は夢を否定した。



「ごめん……知らずに酷いことしてた」

「別に良いんだよ。隠してた俺が馬鹿だっただけなんだからさ」

「……でも、俺は自分の意見が間違ってると思えなかった……だから、ごめん……」

「お前まで謝んのかよ……」



でも、あの時の俺は自分が正しいと思ったから、悠馬と対立することになった。

俺は悠馬の意見を強く否定した。きっと昔の自分を思い出してしまうから。

対話以上に自分の感情を優先した、俺は初めから対話する気はなかったんだ。



「昔の自分に戻りたくなかった。過去を否定していないと一瞬で足元が崩れてしまいそうで怖かったんだ……」



未知の世界に足を踏み入れる勇気が欲しくて、必死になって虚勢を張っていた。

結局自分のことで精一杯だったんだ。



「でも、今なら分かる。あの時の俺は背伸びしていただけで、変わらずに過去に縛られてたままだったって。講釈を垂れたのは寧ろ俺だったんだ、自分を棚に上げて……だから、ごめん…………」

「そっか……」



悠馬には悠馬の正義があって、俺はそれを貶める権利を持っていない。

俺の正義は間違っていたと、今になって思う。

未来を語っておいて、実際は過去から逃避していただけなんだから。



悠馬は怒っているだろうか。

偉そうなことを言った俺に失望したのだろうか。

そう思うと怖くて、顔を向けられなかった。



「……でもさ、俺、祐介も同じなんだって気づけて安心したよ……急にお前までもが変わっていったら、俺は取り残されてたから」

「え……」



軽快な声で笑みを向ける悠馬に、俺は予想を外された。

いつもみたいに妬みの一つや二つでも言うと思っていた。



「過去を乗り越えて、自分のなりたいもんに変わったと勘違いして、俺は嫉妬してた。どうして俺を置き去りにして行っちまうのかって」

「悠馬が、俺に嫉妬……?」

「そうだよ。俺は変わるのが怖い……どうして安寧を享受できる今を捨てて理不尽が蔓延る未来を望むのかっていつも思ってた」



でも、自らの弱みを曝け出す悠馬の目に、迷いはなかった。



「でも、お前は必死に変わろうと藻掻いてた。道標が無くても、自分の立ち位置が分かんなくなっても、一歩ずつ前に進もうとしてただけだった」



真剣な目で、真っ直ぐに俺を見ていた。



「お前が変わろうと足掻いてっから、俺も夢を見ようって思うようになっちまった。怖くても一歩前に踏み出そうって決心が沸いてきたんだ」

「…………」

「結局俺も、昔を言い訳の捌け口にして、今の自分を正当化してただけなのかもしれない。被害者面していつまでも子供のままで……、でもこんな自分なんて俺でも好きになれないよ」



辛く険しい未来へ目を向けず、過去に縋る。

自分を守るため、心の平穏を保つため。それが人間の防衛本能なのかもしれない。

それは、俺が一番よく知っている。



「俺と、同じ……」



気づけば、その言葉が出ていた。

悠馬は俺とは違う。常々そう思っていた。

趣味に夢中になれて、他人の目を憚ることなく自分の好きなものを主張出来て、言いたいことははっきりと言う。

好きと思えるものが何もない俺にとって、悠馬は真反対の人間だった。



「……あいつらが恩返ししたいって言うけどな、俺だってお前に借りがあるんだぜ? 中学ん時、俺が同級生と諍い事してたところにお前が間に入って助けてくれたこと、同じ部活に勧めてくれたこと、今でも忘れない」

「…………」



人と接することに躊躇いを感じていた当時、教室の机で複数人に囲まれている悠馬を見て、俺は初めて声をかけた。

自分の好きなものを否定され、自分よりも体格の良い同級生たちに吠え付く悠馬は、まるで以前の自分のようで。

あの時の俺は、小学生だった自分の面影を悠馬に重ねていた。

救ってあげたかった、居場所を作ってあげたかった。まだ、間に合うと思ったから。

俺みたいに辛い思いをしてほしくなかったから。

これ以上、辛い思い出を掘り起こしたくなかったから。



「……自分のためにやったことだ」

「けどそのお陰で、俺は一人にならずに済んだ。繋がりがあったから、今こうして前を向けられる……違うか?」

「…………」



真逆の人間と思っていた悠馬は俺と同じ人間で、俺も悠馬と同じ人間。

反発し合っていた信念も、経緯を辿れば始まりは同じ。

どちらも正しくて、どちらも間違っていた。



「俺はな……ずっと後ろめたさがあったんだ。ずっと祐介に何もしてやれない、負い目を感じてた」



悠馬は右手を差し出し、身体を向けて。



「でも、これで貸し借りはなし。やっと、対等になれたな…………」



自身に言い聞かせるように、悠馬は優しい口調だった。



「悠馬――――……」



差し出された手は、包み込むように俺を待っている。

孤独に彷徨っていた人生に、皆が手を差し伸べてくれる。



勝手に相手を思いやり、勝手な解釈をして、一人崩れる。

知らなかったから、聞かなかったから。そんな言い訳をして、従属的な生き方に甘えて、永遠に殻に閉じこもって。



でも、そんな慈しみは相手を裏切ることと同意なのだと俺は知っている。

だから、右手を差し出して応える。



「やるからには勝つぞ、祐介」

「当たり前だ、悠馬」



離れないよう固く握りしめ、繋がりを確かめる。

絶対に離さない。



「じゃあ早速、あいつらに混ざって練習するか。さっさと練習着に着替えて来いよ」

「ああ、分かってる――――」



一人で黙々とランニングする日々はもう終わりだ。

これからは、皆と一緒に練習すればいい。

それが一番効率的で、俺にできる信頼の示し方だから。

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