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第二楽章 信用と信頼
安藤日織
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あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
時計の針が動くたび、定まった周期で音を奏でるが、私の時間はいつまでも止まったままだった。
思えば、私の時間は停止したまま今に至っていたのかもしれない。
一度味わった快感を忘れられずに、
――声優って、どんな仕事なの?
まだ中学生に満たない、小さな少女だったみーちゃんは、私にそう聞いてきた。
どうやら、最近できた友達から何かを吹き込まれたらしい。
綺麗な声をしているとでも言われたのだろうか。
高校生になって初めて声優活動を始めた私は、まだ成熟した大人ではなかった。
収録現場を囲うのは常に大人達なのに、私はただ一人未成年。
そんな私は、幾分早すぎる現実を常に受け続けてきた。
当然だ。私の席を渇望する人間はごまんといたのだから。
嫉妬や影口なんて序の口、わざとらしく憎悪を顔に出す人もいた。
初めの頃は辛くて、何度も辞めようと思った。孤独に泣く小夜もあった。
だからこそ、今の仕事が楽しいことばかりではないことを知っていた。
純粋な想いで足を踏み入れてはいけない場所だと理解していた。
みーちゃんの応援を始めたのも、初めは諦めさせるつもりだった。
一度味わえば興味も薄れるだろう、そう考えていた。
「……いいえ、違うわね」
私がそんな善人のような振る舞いをするはずがないのだ。
本当はそんな大層な目的でない。
退屈な日常に辟易していた鬱憤を晴らすため。私欲だった。
だって、私は偽善者だと言うのだから。
当時既に人気声優の仲間入りを果たしていた私のことを蔑む人間はいつの間にか消えていた。
嫉妬や憎悪の目は羨望の眼差しに代わり、誰もが私を尊敬するようになった。
私の演技に酔いしれ、スタンディングオベーションに沸く観衆。まさにステージの上でスポットライトを浴びる主演のようだった。
ようやく私が認められているのだと実感が沸き、高揚が止まらなかった。
でも、同時に相反する感情が頭を支配した。
私のステージには誰も上がってこない、私は独りぼっちだと、そんな退屈な思い。
尊敬され、羨ましいと思われることが次第に疎ましくなった。
誰一人として私と対等であろうとしない、それが嫌だと思った。
音楽家の父と共に仕事するという幼少期から憧れた夢のため、櫛風羽翼しっぷうよくうの思いで歩んできたのに、今の私は暗闇の中で足掻くことすらできずにいた。
退屈、その言葉が端的だ。
だから、応援というのは名ばかりの、単なる憂さ晴らしのつもりだったのだ。
けれど、あの子がマイクに向かった瞬間、私の信念は簡単に曲げられた。
気がつけば、私は彼女の手を取り、長く忘れていたものを見つけたかのように目を輝かせていた。
「懐かしいわね……」
今でも鮮明に覚えている。
あの時、みーちゃんが演技を始めた瞬間、私の前には別世界が広がっていた。
鉛色に染まった世界が、一瞬で彩られていったのだった―――
「…………」
リビングの照明を点け、私は革製の鞄から手のひらサイズのポシェットを取り出す。
中を確認すると、年季の入った領収書が束になっていた。
要所に折り目を直した痕跡が残り、色あせている。
遺しておいても意味はないが、私は大切に保管している。
一枚一枚の紙切れがみーちゃんの根源なのだと思うと、それだけで嬉しくなるから。
「中学……いや、小学生の頃だから、五、六十枚ってところかしら」
残念ながら、私は人に教えるのが上手ではない。
みーちゃんという原石を私如きの素人が磨くのは許されざる行為だった。
だから、私は自身が信頼に値する人物に依頼をした。
自分の恩師だったのもあるが、まず伊予さんは実績があった。
若い頃は養成所で数多の人材を輩出し、各所への顔も利く。私が知りうる中で最もな適任者だった。
だからこそ、退職後は小さなビルの一角で隠居な講師をしていると聞き、私は私の妹を託した。
結果から言うと、私の思惑通りにみーちゃんは養育されていった。
今までの自然体は勿論、感情がセリフに乗るようになり、発声も良くなった。
映画の吹き替えと比べても寸分違わず、今すぐにでも主演に抜擢される実力を纏っていた。
子供の成長は早い。
幼少期から木を植えれば、瞬く間に芽吹く。彼女はそれを体現していた。
だからといって、私は何もしていなかった訳ではない。
両親が自宅を空けていたことから、私はみーちゃんの保護者代理だった。
実費で高額なレッスン料を支払い、その他オーディションに向けた交通費など、みーちゃんのために資金を費やした。
それが身を切る行為だとは思わない。
寧ろ、自分好みに育てているのだと快楽に浸る程だった。
私はただ水を与えればいい。そうすれば、彼女は勝手に成熟する。
私のステージに上がり、そして私を蹴落とす。彼女はそれを成し得る存在なのだ。
私の退屈を晴らす逸材がもうすぐ誕生する。
もう少し、あと少しで叶うはず。
そう思っていた。
「高校生からの分……は、無いのよね……」
領収書の紙切れは二年前の印字で最後だった。
今に至るまでの空白の期間、私は出資していない。
勿論、私が止めたわけではない。
ある日突然、伊予さんから退会手続き申請を求められたのが契機だ。
初めは意味が理解できなかった。
一方的な債務の不履行に、声を失ったのを覚えている。
あの聡明な伊予さんが何を言い出したのかと混乱した。
でも、その後の言葉が更に私を混濁させた。
私は帰って来たみーちゃんに事情を聞いた。
感情の整理が追い付かないまま、それでも冷静を心掛けて。
きっと何かの間違いなのだと、自分に言い聞かせながら。
でも、結局のところ、それは無駄だった。
はっきりとした物言いで、突き放すように彼女は言った。
――もうお姉ちゃんの言いなりになんてならないから
非合理的だった。
このまま進めば、彼女自身が望む結末を迎えられるのに、それをあろうことか彼女自身が捨てた。
その瞬間、私は一つの結論を導き出す。
時期としては晩生、それでも現状を一言で言い表すことができる答え。
「……反抗期」
テーブルに置かれたグラス、その脚に当たるステムに手を添え、それを一気に飲み干す。
棚奥で貯蔵し、熟成させてきた葡萄酒を躊躇いなく。
滑らかな舌触りが特徴と聞いていたが、私には水同然に感じられた。
味を感じられない、そう言った方が正しいか。
「…………」
酔いが回ったのか、普段よりも頭がボーっとする。
それも当たり前か。私はアルコール類に滅法弱いのだから。
普段は飲まないのに、今日に限っては抑えられなかった。
テーブルに突っ伏し、僅かに中身の残ったグラスを眺める。
光沢を纏い、照明に当てられたそれは、唯一煌びやかだった。
優しく、愛でるように、その縁を人差し指でなぞる。
「こんなにも愛しているのに……」
抑えきれず、私は思いを吐露した。
既に理性が機能していないらしい。
当時、あれだけ注いでいた私の期待を、あの子は裏切ってしまった。
私の敷いた道のりを黙って歩いていれば安泰だったのに、あの子は自分で傀儡を放棄した。
きっとあの子は感情的になっているのだと、私は結論付けていた。
反抗期だと定義付けて、あの子のことを理解しようとせずに。
事実だけを見れば、あの子の演技は中学生の時よりもキレがない。
自分でも気づかずに、スランプに陥っている。
私の傍から離れた途端に、あの子は駄目になってしまった。
私がいなければ、あの子は駄目なのだ。
まだ、子供でしかない。当時の私はそう思っていた。
だから、私は色々と手引きをして手綱を握った。
選考に顔を出し、あの子が選出されるように印象操作した。
実践経験を積ませて、実力を取り戻してもらおうとした。
他にも手回しをして、あの子が目の前に集中できるように取り計らった。
疎ましく思われても関係ない。
全てはあの子のため、そう信じてやってきた。
今は軋轢は生じている関係性でも、あの子が大成すれば全てが元通りになる。
私に感謝を述べ、これまでの非礼を謝罪し、最後には笑顔になるだろう。
もう少しで、それが叶う。
そう、信じていたのだ。
「なのに、どうして……」
どうして、あの青年に靡なびいてしまったのか。
大事な時期だったのに、あの子は色恋沙汰に目を輝かせていた。
街中を二人で闊歩し、笑顔で青年と話す彼女。
初めてそれを見た時、私はその様子を目で追っていた。
信号が変わったことに気づかず、車のハンドルを強く握りしめながら。
再び裏切られた気分だった。
私が苗木から大切に育てたのに、芽吹く直前でそれを奪われる。それも、身元の知らない誰かによって。
私は許せなかった。
これ以上、私の知らない妹を見たくなかった。
「…………」
再びグラスに注ごうとするが、飲み慣れた白い葡萄酒は先程の一杯でなくなった。
仕方なく、家に貯蔵していたもう一つの葡萄酒を棚から取り出す。
席に戻り、持ってきたそれをすぐさまグラスに注いでいく。
僅かに残った白物は赤く混ざり、敢え無く染められていった。
果実を潰して発酵された赤いワインは、舌に渋みをもたらすと耳にしたため、私の好みではないはず。
一度飲むことを躊躇うが、勢いに任せて口に入れる。
「……辛い」
特有の渋み以上に、辛さが真っ先に現れる。
まろやかな舌触りとは裏腹に、かなり攻撃的な風味だ。飲み慣れない代物は異物のように感じられる。
やはり、私には白いワインがお似合いなのだろう。
でも、合理的を求める私が今日に限っては挑戦的なことをしている。
普段なら安定を願うのに、地足が定まっていないかのようだ。
酔いが人を狂わせるのか、人が酔いを携えているのか、私は答えを持ち合わせていない。
手元にあるのは、千切れた糸だけ。
その先に手を伸ばしても、私の誇りは消えていく。
伸ばしても、伸ばしても、愛で育て上げた掌中の珠は離れていく。
それでも認められず、縋りつくように手を伸ばす。
なんと滑稽な話だろうか。
「ああ……っ、もう、うるさい…………!」
突き付けられた後悔が走馬灯のように脳内を駆け巡る。
離れず纏わりつく悔恨が、これまでの私を思い出させる。
あの子のためにやってきたことが私の自己満足でしかなかったなんて、そんなこと認めたくないのに。
私が想像をしていなかった、そんなこと有り得ないと、そう思っていたのに。
私は、自分自身のせいで、あの子に拒絶されてしまった。
「……っ、どうして……どうしてなの……!」
私はただ、昔のような笑顔を向けてほしかっただけなのに、私のやってきたことは全て無責任だという。
あの子のためにやってきたこと全てが自己満足で偽善的だという。
もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「―――っ!」
紛らわすように、衝動的に葡萄酒に手を出す。
頭に痛みが走るが、そんなもの構わない。
忘れられるなら忘れたい。
藁にも縋る思いで飲み干していく。
「―――んっ、はぁ…はぁ…!」
空になったボトルが無造作に床に落ちる。
手に力が入らなかった。
「……日下と、私が同類なんて……」
振り子のように揺れ動く視界。
平衡感覚を失い、まともに椅子に座れない。
それどころか、揺さぶられたせいで吐き気を覚える。
「無責任……なんて、認めたくない……っ」
朧げな意識の中、私は何かを求めて歩く。
とにかく楽になれる場所へ、覚束無い足取りでは途方もなく感じられる道のりを、私は進んだ。
前に進む度に視界が狭まっていく。
息が苦しい。胸が苦しい。もう、楽になりたい。
でも、歩けど歩けど、胸の苦しみは収まらなかった。
ーーー
どれくらい歩いたのだろう。
塀に手を添え、感触を確かめるように私は暗闇を進んでいる。
一定の間隔で視界を包み込む光。目に痛みが走り、脳がふらつく。
足を止めて、その場にへたり込みたいのに、それを拒む自分がいる。
まるで何かに引き寄せられているようだ。
「――――っ、く……!」
平衡感覚が崩れ、路地に倒れ込む。
足元を見ると、アスファルトが剝がれていた。
「痛……!」
足首を擦りむいたらしい。神経を伝って痛みが全身に回る。
大した怪我ではないが、久しく忘れていた感覚が鮮明になっていく。
「もう、最悪……」
私には全てが終焉を迎えたように感じられた。
未来を夢見ることも、今を顧みることも、私にはできない。
今だって、現実を直視できずに何処かへ歩いている。
目的地などあるはずがないのに、私は逃げるようにあの家を飛び出している。
意味なんてない。
でも、私は足を止めない。
足を止めてしまったら、考えたくもない事が脳に回帰してしまうから。
「くっ……!」
だから、私は立ち上がった。
闇夜を彷徨い、痛む足をかばいながら、私は歩み続ける。
次第に街灯が消え、真の意味で孤独になったのだと自覚すると、露出した肌が寒気を覚える。
夏夜だというのに、昼間の熱をため込んだ空気は何処かへ消えていた。
異常な程の不気味さは、私が誰もいない世界に一人取り残されたように感じさせる。
酔いが私に幻覚を見せているのかもしれない。
もう正常な判断などできる訳がなかった。
それでも、私は足取りを止めない。
信念などない。ただ、僅かに甘美な匂いに導かれるように歩む。
傍から見れば、私はおびき寄せられる獲物と大差ない。
きっと彼らも救いを求めているのだろう。
救いとは即ち快楽。
最後に捕食されるとしても、それに抗うことはできないのだ。
導かれて進んだ先に待つものが望まない結果だったとしても、私は受け入れなければならない。
それが、それこそが、私の生き方。
私には抗うことができない。
「はぁ…、痛…い……っ」
血管を巡りが早いせいだろうか、心臓が痛い。
そう言えば、アルコールを摂取した状態で運動をするのは危険だと何処かで聞いた記憶がある。
飲み慣れないせいで、そんな基本のことを忘れていた。
「気持ち、悪い……」
立つこともままならなくなる。
その場に座り込み、嘔気に必死に耐える。
「―――けほっ、げほっ!」
が、耐えられずに咳を漏らす。
それを皮切りに、全身に寒気が伝播する。
身体が危険信号を出しているのだと理解できた。
「だ…れ…っ、か……」
誰もいない路上で、僅かな力で助けを求めた。
それでも、絞り出した微かな声は風になびいて消えていく。
正真正銘の孤独。
手先も冷たくなり、震えが止まらない。
「た…っ、け…て……」
もう意識が朦朧としている。
その中で、私は必死に命乞いをした。
誰でも良い。私を助けてほしい。
「―――――っ、大丈夫ですか……!」
後ろから誰かの声がした。
苦しさの中、なんとか視線を向ける。
朦朧とする視界では、相手が誰なのかさえ分からなかった。
「取り敢えず横になって―――! 今、救急車呼びますから!」
駄目だ。視界が狭くなる。
耳を傾けても、何も聞こえない。
何か話しかけられているが、分からなかった。
それ以降の記憶はない。
でも、消えゆく意識の中、私は夢心地の気分だった。
時計の針が動くたび、定まった周期で音を奏でるが、私の時間はいつまでも止まったままだった。
思えば、私の時間は停止したまま今に至っていたのかもしれない。
一度味わった快感を忘れられずに、
――声優って、どんな仕事なの?
まだ中学生に満たない、小さな少女だったみーちゃんは、私にそう聞いてきた。
どうやら、最近できた友達から何かを吹き込まれたらしい。
綺麗な声をしているとでも言われたのだろうか。
高校生になって初めて声優活動を始めた私は、まだ成熟した大人ではなかった。
収録現場を囲うのは常に大人達なのに、私はただ一人未成年。
そんな私は、幾分早すぎる現実を常に受け続けてきた。
当然だ。私の席を渇望する人間はごまんといたのだから。
嫉妬や影口なんて序の口、わざとらしく憎悪を顔に出す人もいた。
初めの頃は辛くて、何度も辞めようと思った。孤独に泣く小夜もあった。
だからこそ、今の仕事が楽しいことばかりではないことを知っていた。
純粋な想いで足を踏み入れてはいけない場所だと理解していた。
みーちゃんの応援を始めたのも、初めは諦めさせるつもりだった。
一度味わえば興味も薄れるだろう、そう考えていた。
「……いいえ、違うわね」
私がそんな善人のような振る舞いをするはずがないのだ。
本当はそんな大層な目的でない。
退屈な日常に辟易していた鬱憤を晴らすため。私欲だった。
だって、私は偽善者だと言うのだから。
当時既に人気声優の仲間入りを果たしていた私のことを蔑む人間はいつの間にか消えていた。
嫉妬や憎悪の目は羨望の眼差しに代わり、誰もが私を尊敬するようになった。
私の演技に酔いしれ、スタンディングオベーションに沸く観衆。まさにステージの上でスポットライトを浴びる主演のようだった。
ようやく私が認められているのだと実感が沸き、高揚が止まらなかった。
でも、同時に相反する感情が頭を支配した。
私のステージには誰も上がってこない、私は独りぼっちだと、そんな退屈な思い。
尊敬され、羨ましいと思われることが次第に疎ましくなった。
誰一人として私と対等であろうとしない、それが嫌だと思った。
音楽家の父と共に仕事するという幼少期から憧れた夢のため、櫛風羽翼しっぷうよくうの思いで歩んできたのに、今の私は暗闇の中で足掻くことすらできずにいた。
退屈、その言葉が端的だ。
だから、応援というのは名ばかりの、単なる憂さ晴らしのつもりだったのだ。
けれど、あの子がマイクに向かった瞬間、私の信念は簡単に曲げられた。
気がつけば、私は彼女の手を取り、長く忘れていたものを見つけたかのように目を輝かせていた。
「懐かしいわね……」
今でも鮮明に覚えている。
あの時、みーちゃんが演技を始めた瞬間、私の前には別世界が広がっていた。
鉛色に染まった世界が、一瞬で彩られていったのだった―――
「…………」
リビングの照明を点け、私は革製の鞄から手のひらサイズのポシェットを取り出す。
中を確認すると、年季の入った領収書が束になっていた。
要所に折り目を直した痕跡が残り、色あせている。
遺しておいても意味はないが、私は大切に保管している。
一枚一枚の紙切れがみーちゃんの根源なのだと思うと、それだけで嬉しくなるから。
「中学……いや、小学生の頃だから、五、六十枚ってところかしら」
残念ながら、私は人に教えるのが上手ではない。
みーちゃんという原石を私如きの素人が磨くのは許されざる行為だった。
だから、私は自身が信頼に値する人物に依頼をした。
自分の恩師だったのもあるが、まず伊予さんは実績があった。
若い頃は養成所で数多の人材を輩出し、各所への顔も利く。私が知りうる中で最もな適任者だった。
だからこそ、退職後は小さなビルの一角で隠居な講師をしていると聞き、私は私の妹を託した。
結果から言うと、私の思惑通りにみーちゃんは養育されていった。
今までの自然体は勿論、感情がセリフに乗るようになり、発声も良くなった。
映画の吹き替えと比べても寸分違わず、今すぐにでも主演に抜擢される実力を纏っていた。
子供の成長は早い。
幼少期から木を植えれば、瞬く間に芽吹く。彼女はそれを体現していた。
だからといって、私は何もしていなかった訳ではない。
両親が自宅を空けていたことから、私はみーちゃんの保護者代理だった。
実費で高額なレッスン料を支払い、その他オーディションに向けた交通費など、みーちゃんのために資金を費やした。
それが身を切る行為だとは思わない。
寧ろ、自分好みに育てているのだと快楽に浸る程だった。
私はただ水を与えればいい。そうすれば、彼女は勝手に成熟する。
私のステージに上がり、そして私を蹴落とす。彼女はそれを成し得る存在なのだ。
私の退屈を晴らす逸材がもうすぐ誕生する。
もう少し、あと少しで叶うはず。
そう思っていた。
「高校生からの分……は、無いのよね……」
領収書の紙切れは二年前の印字で最後だった。
今に至るまでの空白の期間、私は出資していない。
勿論、私が止めたわけではない。
ある日突然、伊予さんから退会手続き申請を求められたのが契機だ。
初めは意味が理解できなかった。
一方的な債務の不履行に、声を失ったのを覚えている。
あの聡明な伊予さんが何を言い出したのかと混乱した。
でも、その後の言葉が更に私を混濁させた。
私は帰って来たみーちゃんに事情を聞いた。
感情の整理が追い付かないまま、それでも冷静を心掛けて。
きっと何かの間違いなのだと、自分に言い聞かせながら。
でも、結局のところ、それは無駄だった。
はっきりとした物言いで、突き放すように彼女は言った。
――もうお姉ちゃんの言いなりになんてならないから
非合理的だった。
このまま進めば、彼女自身が望む結末を迎えられるのに、それをあろうことか彼女自身が捨てた。
その瞬間、私は一つの結論を導き出す。
時期としては晩生、それでも現状を一言で言い表すことができる答え。
「……反抗期」
テーブルに置かれたグラス、その脚に当たるステムに手を添え、それを一気に飲み干す。
棚奥で貯蔵し、熟成させてきた葡萄酒を躊躇いなく。
滑らかな舌触りが特徴と聞いていたが、私には水同然に感じられた。
味を感じられない、そう言った方が正しいか。
「…………」
酔いが回ったのか、普段よりも頭がボーっとする。
それも当たり前か。私はアルコール類に滅法弱いのだから。
普段は飲まないのに、今日に限っては抑えられなかった。
テーブルに突っ伏し、僅かに中身の残ったグラスを眺める。
光沢を纏い、照明に当てられたそれは、唯一煌びやかだった。
優しく、愛でるように、その縁を人差し指でなぞる。
「こんなにも愛しているのに……」
抑えきれず、私は思いを吐露した。
既に理性が機能していないらしい。
当時、あれだけ注いでいた私の期待を、あの子は裏切ってしまった。
私の敷いた道のりを黙って歩いていれば安泰だったのに、あの子は自分で傀儡を放棄した。
きっとあの子は感情的になっているのだと、私は結論付けていた。
反抗期だと定義付けて、あの子のことを理解しようとせずに。
事実だけを見れば、あの子の演技は中学生の時よりもキレがない。
自分でも気づかずに、スランプに陥っている。
私の傍から離れた途端に、あの子は駄目になってしまった。
私がいなければ、あの子は駄目なのだ。
まだ、子供でしかない。当時の私はそう思っていた。
だから、私は色々と手引きをして手綱を握った。
選考に顔を出し、あの子が選出されるように印象操作した。
実践経験を積ませて、実力を取り戻してもらおうとした。
他にも手回しをして、あの子が目の前に集中できるように取り計らった。
疎ましく思われても関係ない。
全てはあの子のため、そう信じてやってきた。
今は軋轢は生じている関係性でも、あの子が大成すれば全てが元通りになる。
私に感謝を述べ、これまでの非礼を謝罪し、最後には笑顔になるだろう。
もう少しで、それが叶う。
そう、信じていたのだ。
「なのに、どうして……」
どうして、あの青年に靡なびいてしまったのか。
大事な時期だったのに、あの子は色恋沙汰に目を輝かせていた。
街中を二人で闊歩し、笑顔で青年と話す彼女。
初めてそれを見た時、私はその様子を目で追っていた。
信号が変わったことに気づかず、車のハンドルを強く握りしめながら。
再び裏切られた気分だった。
私が苗木から大切に育てたのに、芽吹く直前でそれを奪われる。それも、身元の知らない誰かによって。
私は許せなかった。
これ以上、私の知らない妹を見たくなかった。
「…………」
再びグラスに注ごうとするが、飲み慣れた白い葡萄酒は先程の一杯でなくなった。
仕方なく、家に貯蔵していたもう一つの葡萄酒を棚から取り出す。
席に戻り、持ってきたそれをすぐさまグラスに注いでいく。
僅かに残った白物は赤く混ざり、敢え無く染められていった。
果実を潰して発酵された赤いワインは、舌に渋みをもたらすと耳にしたため、私の好みではないはず。
一度飲むことを躊躇うが、勢いに任せて口に入れる。
「……辛い」
特有の渋み以上に、辛さが真っ先に現れる。
まろやかな舌触りとは裏腹に、かなり攻撃的な風味だ。飲み慣れない代物は異物のように感じられる。
やはり、私には白いワインがお似合いなのだろう。
でも、合理的を求める私が今日に限っては挑戦的なことをしている。
普段なら安定を願うのに、地足が定まっていないかのようだ。
酔いが人を狂わせるのか、人が酔いを携えているのか、私は答えを持ち合わせていない。
手元にあるのは、千切れた糸だけ。
その先に手を伸ばしても、私の誇りは消えていく。
伸ばしても、伸ばしても、愛で育て上げた掌中の珠は離れていく。
それでも認められず、縋りつくように手を伸ばす。
なんと滑稽な話だろうか。
「ああ……っ、もう、うるさい…………!」
突き付けられた後悔が走馬灯のように脳内を駆け巡る。
離れず纏わりつく悔恨が、これまでの私を思い出させる。
あの子のためにやってきたことが私の自己満足でしかなかったなんて、そんなこと認めたくないのに。
私が想像をしていなかった、そんなこと有り得ないと、そう思っていたのに。
私は、自分自身のせいで、あの子に拒絶されてしまった。
「……っ、どうして……どうしてなの……!」
私はただ、昔のような笑顔を向けてほしかっただけなのに、私のやってきたことは全て無責任だという。
あの子のためにやってきたこと全てが自己満足で偽善的だという。
もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「―――っ!」
紛らわすように、衝動的に葡萄酒に手を出す。
頭に痛みが走るが、そんなもの構わない。
忘れられるなら忘れたい。
藁にも縋る思いで飲み干していく。
「―――んっ、はぁ…はぁ…!」
空になったボトルが無造作に床に落ちる。
手に力が入らなかった。
「……日下と、私が同類なんて……」
振り子のように揺れ動く視界。
平衡感覚を失い、まともに椅子に座れない。
それどころか、揺さぶられたせいで吐き気を覚える。
「無責任……なんて、認めたくない……っ」
朧げな意識の中、私は何かを求めて歩く。
とにかく楽になれる場所へ、覚束無い足取りでは途方もなく感じられる道のりを、私は進んだ。
前に進む度に視界が狭まっていく。
息が苦しい。胸が苦しい。もう、楽になりたい。
でも、歩けど歩けど、胸の苦しみは収まらなかった。
ーーー
どれくらい歩いたのだろう。
塀に手を添え、感触を確かめるように私は暗闇を進んでいる。
一定の間隔で視界を包み込む光。目に痛みが走り、脳がふらつく。
足を止めて、その場にへたり込みたいのに、それを拒む自分がいる。
まるで何かに引き寄せられているようだ。
「――――っ、く……!」
平衡感覚が崩れ、路地に倒れ込む。
足元を見ると、アスファルトが剝がれていた。
「痛……!」
足首を擦りむいたらしい。神経を伝って痛みが全身に回る。
大した怪我ではないが、久しく忘れていた感覚が鮮明になっていく。
「もう、最悪……」
私には全てが終焉を迎えたように感じられた。
未来を夢見ることも、今を顧みることも、私にはできない。
今だって、現実を直視できずに何処かへ歩いている。
目的地などあるはずがないのに、私は逃げるようにあの家を飛び出している。
意味なんてない。
でも、私は足を止めない。
足を止めてしまったら、考えたくもない事が脳に回帰してしまうから。
「くっ……!」
だから、私は立ち上がった。
闇夜を彷徨い、痛む足をかばいながら、私は歩み続ける。
次第に街灯が消え、真の意味で孤独になったのだと自覚すると、露出した肌が寒気を覚える。
夏夜だというのに、昼間の熱をため込んだ空気は何処かへ消えていた。
異常な程の不気味さは、私が誰もいない世界に一人取り残されたように感じさせる。
酔いが私に幻覚を見せているのかもしれない。
もう正常な判断などできる訳がなかった。
それでも、私は足取りを止めない。
信念などない。ただ、僅かに甘美な匂いに導かれるように歩む。
傍から見れば、私はおびき寄せられる獲物と大差ない。
きっと彼らも救いを求めているのだろう。
救いとは即ち快楽。
最後に捕食されるとしても、それに抗うことはできないのだ。
導かれて進んだ先に待つものが望まない結果だったとしても、私は受け入れなければならない。
それが、それこそが、私の生き方。
私には抗うことができない。
「はぁ…、痛…い……っ」
血管を巡りが早いせいだろうか、心臓が痛い。
そう言えば、アルコールを摂取した状態で運動をするのは危険だと何処かで聞いた記憶がある。
飲み慣れないせいで、そんな基本のことを忘れていた。
「気持ち、悪い……」
立つこともままならなくなる。
その場に座り込み、嘔気に必死に耐える。
「―――けほっ、げほっ!」
が、耐えられずに咳を漏らす。
それを皮切りに、全身に寒気が伝播する。
身体が危険信号を出しているのだと理解できた。
「だ…れ…っ、か……」
誰もいない路上で、僅かな力で助けを求めた。
それでも、絞り出した微かな声は風になびいて消えていく。
正真正銘の孤独。
手先も冷たくなり、震えが止まらない。
「た…っ、け…て……」
もう意識が朦朧としている。
その中で、私は必死に命乞いをした。
誰でも良い。私を助けてほしい。
「―――――っ、大丈夫ですか……!」
後ろから誰かの声がした。
苦しさの中、なんとか視線を向ける。
朦朧とする視界では、相手が誰なのかさえ分からなかった。
「取り敢えず横になって―――! 今、救急車呼びますから!」
駄目だ。視界が狭くなる。
耳を傾けても、何も聞こえない。
何か話しかけられているが、分からなかった。
それ以降の記憶はない。
でも、消えゆく意識の中、私は夢心地の気分だった。
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