Marieに捧ぐ 安藤未衣奈は心に溺れる

そらどり

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第二楽章 信用と信頼

もう誤魔化せない

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電車に揺られること数分、南小鞠駅到着後はバスに乗り換える。

平日の宵、帰宅途中の会社員達が車両内で所狭しとしている中、運よく席を確保できた俺は窓際から外の景色を眺めていた。

混雑するスーパーマーケットの出入口、居酒屋の前で立ち止まるスーツを着た集団、駅前のロータリーでバスを待つ列。

商業施設から漏れ出る光の束一つ一つが生きているように存在を主張し、それを一身に浴びている人らの表情は陰りで隠される。各々が意志を持っているはずなのに、まるで亡霊のように道を徘徊しているようで不気味だった。

エンジン音と共に車体が揺れると、車内で体勢を崩したのか、スーツを着た女性の声が耳に入ってきた。それを皮切りにバスが移動を始め、俺も窓の外に向けていた意識を別に向ける。

スマホ画面に映るマップを閲覧し、目的地の最寄りバス停を再確認していると、揺れ動く席に諭されて睡魔に襲われ始める。

危険に思って画面を閉じ、気を紛らわせるように窓の向こうを見ると、急速に変化する景色を受けて次第に眠気が薄れていく。

密集するように立ち並ぶ施設は姿を消し、古びた衣服店やシャッターの閉まった店舗が辺りを蔓延る景色。こちらに迫りくる情報を余すことなく受け入れて、意識的に睡魔と戦う。



――お待たせ致しました。次は『小鞠総合医療センター』……



下らない瀬戸際に興じているうちに、目的の下車場所が迫っていた。

ランプを点灯させ、目的の場所で停車したことを確認してから下車する。



見上げると一目で何階まであるか分からない程の大きさに思わず身が竦むが、時間を確認してすぐに入口へ動き出す。決められた時間に受付を済ませなければ、ここまでの道中全てが無駄になってしまう。

エントランスに設置された構内地図を頼りに受付に向かい、事前に受け取った情報と照らし合わせながら受付を済ませると、エレベーターの階層を案内された。



「……十二階か」



エレベーターが一階に到着する前に、取り付けられた案内板で目的の部屋を確認しておく。

部屋の番号は『1207』 該当階に着いてから廊下を右手に曲がり、少し歩くと辿り着くはずだ。



「お兄さん、乗らんのかい?」

「え?」



後ろから声を掛けられ、エレベーターの扉が開いていたことに気がつく。

「いえ、乗ります」と言い、急いで乗り込む。

声をかけた老婆は杖を叩きながらゆっくり乗り込み、俺は他に人がいないことを確認してボタンを押した。



「今日はお見舞いかい?」



念のため周囲に目を通すが、他に乗っている人はいなかった。



「えっと、そうですね。知人……のお見舞いに」



躊躇いながら返事をしたが、少し不自然だったと反省した。

「そうかい」と感慨深そうに頷くと、老婆はこちらに一歩近づいてきて話を続けた。



「おばあちゃんみたいな老い耄れになるとね、誰も会いに来なくて寂しいんだ……、息子も最近は顔を出さないし……」



「孫にも会いたいねぇ」と言ちる老婆の曲がった背中は寂しそうに見えた。



「だからね、たくさん話してあげたらその子も喜んでくれるよ」

「……はい」

「おお、いい返事だねぇ。最近の子は皆素直で偉いよ」



ただ返事をしただけなのに、少し照れくさい。



「息子も素直な性格なら良かったんだけどね―――おや、お兄さん、ご到着だね」



階数が横一列に並べられたランプを見上げると、目的の階のランプは既に点灯していた。

ぺこりと頭を下げてエレベーターを出ると、扉の向こうでは朗らかな笑みで見つめる老婆の姿があった。

手を振ってくるので、俺も小さく手を振る。面と向かって恥ずかしかった。



「じゃあね、また会えたらお話ししましょうね」



俺が頷くと、扉が閉まるまでずっと老婆は満足そうな笑みをしていた。



「……」



扉が閉まり誰もいなくなった後も、その場で少し立ち止まっていた。

胸の温かさを噛み締めたくなってしまった。

いきなりで混乱したけど、話ができて良かったと思える程にあの女性の優しさに触れた。

少し、気が楽になった。



「……時間、勿体ないよな」



左を向き、遠くに見える人影の元に勇み足で向かった。

その人物は通路のソファに座り、右手にスマホを持っている。足を動かしてどこか落ち着きがない。

が、やがてこちらに気がつくとすぐに立ち上がり、一度躊躇いつつもこちらに近づいてきた。



「時間通り……だよな」



声をかけると、「うん」とだけ返事をして安藤は扉の取ってに手をかけようとした。



「ちょっと待てよ……! ……あの後どうなったかくらいは先に教えてくれよ。いきなり部屋に入れられても……」



慌ててつい声が出てしまったが、想定以上の反響を反省して声を抑える。



「あ、そうだったね……、えっと……」



少し驚いたのか、視線を離しながら言葉を紡ぐ安藤。

その過剰な反応に違和感を覚えるが、今は気にしない。

話を聞く方が優先だ。



「三日間入院……、いや、その前に症状が悪かった原因があって……待って違う、それよりも先に―――」

「おい、ちょっと落ち着けよ……!」



両肩に手を置いて、段々と声を震わせる安藤を静止させる。

両手を組みながら小さくなる安藤は、明らかに冷静さを欠いていた。

背後に設置されているソファに一度安藤を座らせて、事前に購入していた水を渡す。



「大丈夫だから、別に……」

「いいから、ほら……」



渋々受け取ると、安藤は少量を口に含み、耐え切れずにそのまま残りの分も飲み干してしまった。

余程喉が渇いていたのに、その渇きに気がついていなかったらしい。

空にしたペットボトルを謝られたが、気にしなかった。



「取り敢えず落ち着いたか?」

「うん……マシになった」



俺が聞くと、安藤は頷きながら返事をした。

震えていた声も幾分か良くなっている。



「……そろそろ、離れてほしいんだけど」

「え……、あ、ごめ――――!」



安藤の右肩まで回していた自分の手をすぐに離す。無意識とはいえ、不快感を与えてしまった。

もう一度謝ると、「別に」とだけ応えてくれた。



「……で、新藤さんは大丈夫なのか? 詳細までは聞いてないから教えてほしい」



話題を切り替えようと、俺は新藤さんの容態を尋ねた。

事前に連絡を取った段階では、救急車に搬送された後のことまでの情報がない。

突然のことで混乱していた安藤に事細かく聞くのは配慮に欠けるからだ。



「そこまで大したことじゃないって、担当医の人は言ってた。アルコール摂取後に過度な運動をしたせいだって。念のために三日は様子を見てから退院の判断をするみたいだけど」

「そっか……なら、ひとまずは安心ってことだよな」



「うん」と安藤は頷き、それ以上は語らなかった。

深入りするべきではないと察知する。



「……じゃあ、俺はさっさと面会してくるよ」



余計な言論を慎み、俺は立ち上がって部屋の扉に向かう。

視線を感じるが、今は気づかないふりをして。



「…………」



扉の前に立ち、三回ノックすると声が返ってきた。

途端に緊張が走るが、深呼吸をしてゆっくりと開けていく。



「……失礼します」



なるべく声が響かないように、且つ相手に届くように心掛けて、俺は儀礼を行った。

中に入ると、四つのベッドが置かれているが、使用されているのは一つのみ。

カーテンの敷居が中途半端に敷かれている左奥のスペースに、その人はいた。



「あら、あなただったの」

「あなたって……、声で分かるじゃないですか」



新藤さんは「そうね」と言いながら、手に持っていた小説を閉じ、花瓶の置かれた横机の上にそっと置いた。

連動するように点滴が取り付けられたスタンドが音を立てると、右腕に巻かれた白帯、その膨れ上がった部分にまで繋げられているチューブが揺れていた。



「……」

「点滴なんて別に痛くはないわよ。常に針が刺さってるだけ」

「い、いや……針は痛いですよ」



注射が苦手な俺にとって、常に針が刺さっている感覚は想像し難い。

見ているだけでも十分すぎる程に痛々しさが伝わってきた。



「それよりも……いつまでそこで立ってるの?」

「あ、すみません……」



手招きされ、促されるまま、横に置かれた丸椅子に着席する。

すぐ近くに新藤さんがいると思うと、緊張が止まらなかった。



「……別に怒らないわよ、わざわざ面会に来てくれたのに……安心しなさい」

「はい……分かってます」



新藤さんの気遣いに触れるが、それでも染みついた苦手意識は払拭できない。

いや、苦手意識以上に、畏怖と言った方が正しい。

それ程までに俺は、新藤さんに良いイメージを持っていなかった。



「……」



新藤さんも何か思うことがあるのか、何も言わずにいた。窓の向こうに目を向け、遠くに見える駅の絶景に心を奪われているように見える。確かに十二階からの絶景は目を見張るものがあった。

でも俺は窓の向こうよりも、それを見つめる新藤さんの横顔に目を奪われた。

外で見た時の大人の女性を思わせるような服装と異なり、今の新藤さんは病院服に身を包んでいる。

髪を全て下ろし、点滴を受ける姿は、正直見るに堪えない。

なのに、自ずと視線を離すことができなかった。



「そんなにジロジロ見て、何か付いてるのかしら」



流石に視線に気づいた新藤さんが俺に聞いていた。

焦りすぐに否定すると、「傷ついた」と揶揄うように笑い、



「でも、無様な恰好よね、本当に……」



一人ボソッと呟いた。



「…………」



何も言えない俺を見て、新藤さんは身体を向けながら言葉を並べた。



「あの時、あなただったのよね、倒れてた私を助けてくれた人は」



いつになく優しい口調に、少し混乱する。

そんな俺を知ってか知らずか、新藤さんはそのまま話を続けた。



「応急処置も的確だったと、担当医師の方が言ってたわ。身近に同じような人でもいたのかしら?」

「えっと……一応、昔の父がそうだったので……」



父さんが酒に心酔していた時、リビングで倒れて苦しそうにすることが時折あった。

その介護をさせられた俺は、度々病院のお世話になっていたこともあり、処置の手順を知っていた。

仰向けにせずに顔を横に向けて、窒息を防止する方法。それが偶然、今回に役立っただけだ。



「でも、俺はしたのはそれだけで、後のことは救急隊の人が全てやってくれたので」

「救急車が来る以前に、あなたがいなければ私は野垂れ死にしてたもの。私にとっては命の恩人なんだから、もっと自信を持ちなさい」

「……はい」



「ありがとう」と付け加え、新藤さんは笑みを浮かべた。

以前では考えられない程に優しい新藤さんは、見せることのなかった隙を見せ、近寄り違かった雰囲気を纏うこともなかった。

その姿に思わず緊張が緩んでいくのが分かった。

けど、緊張が解けてゆくにつれて、同時に別の疑問が頭に浮かんでくる。



「……一つだけ質問、いいかしら」



突然声を掛けられて、少し動揺した。



「え、と……なんでしょう?」

「助けてくれたことには感謝するわ。でも一つ腑に落ちないの、どうしてあの場所にいたのかしらって」



揺さぶりを掛けているわけではない。本心から疑問を抱いている顔だった。



「それは……」

「責めている訳じゃないの。ただ、あの場所は人通りも珍しいのに、よりによってあなたと出くわすなんて、普通は有り得ないでしょう?」



普通は。その言葉が印象に残る。

俺が新藤さんに苦手意識を有していることは分かっているはず。普通であれば、一度新藤さんと出くわした教会付近に近寄るような真似は避けるだろう。

だから、新藤さんは疑問を抱いているのだ。



日暮れにジョギングをしていると説明すれば言い訳も付く。事実、それをしていたのだから後ろめたく思う必要もない。

でも、そんな上辺な答えを新藤さんは求めていない気がした。

正直であるべきだと思った。



「……安藤が熱を出したって聞いて、もしかしたら俺のせいかもと思ったら、身体が勝手に動いて、ました」



あの日の夜、安藤を家まで送ろうとしたが、一人になりたいからと言われて断られてしまった。

足元が定まっていないのか、覚束ない足取りで去って行く彼女の後ろ姿は今でも覚えている。

今にも崩れてしまいそうな姿かたち。暗闇に消えていく彼女は細々としていた。

届かないと分かっていながら手を伸ばす。やりきれない思いが身に沁みた。



「住所も聞かずに歩き回って、結局何もできずに今に至るんです……ほんと馬鹿みたいですよね」



事前に聞いていた情報を頼りに、区画を設定して虱潰しに表札を確認していったが、夕方の限られた時間では全てを確認し終える程の猶予はない。

結局捜索を打ち切って、明日に再開しようと思った矢先に新藤さんに出くわしたのだ。



「……なるほどね、背景は何となく理解できた。でも、他に賢いやり方はあったでしょう? ……未・衣・奈・に聞くとか」



新藤さんは呆れながら、指を動かしていた。



「泣いているのに、更に追い込めって言うんですか。俺にはできませんよ」



俺がそう言うと、新藤さんは「ふふっ」と微笑み、徐に窓の向こうに視線をやった。



「でも……そうね、ただの他人にそこまではできないわね」



そう呟く新藤さんの横顔はどこか寂しさを思わせる。

今にも消え入りそうな声で、恰もこれが最後の会話だと言いたげに。

思わず目を奪われる。



「…………」

「どうしたの?」

「すみません、じっと見てしまって……」



凝視を指摘され一度逸らそうとしたが、すぐに改めて意を決したように見つめ返す。

気づいてしまったのに、このまま見過ごすなんてできなかった。



「……新藤さん、失礼なこと、聞いてもいいですか」



新藤さんは何も言わない。

俺が何を言うのか既に見通しているかのように、唇を結んで次の言葉を待っていた。

失礼なのは重々承知。

だから、俺もありのままに言った。



「新藤さん……どうして今にも死にそうな顔をしてるんですか。そんな姿、今まで一度も……」

「……あなた、本当に失礼ね。限度ってものがあるでしょう」



慌てて「すみません」と返し、一息置いてからそれに至る経緯を伝える。



「口調に違和感を覚えたのもそうなんですが、それ以上に新藤さんが……その……諦めたような表情をしてたので……」



ここに入ってからずっと新藤さんの話し方は優しくて、でもどこか寂しさを思わせる。

弛緩していると言えば聞こえは良いが、それだけでは説明がつかないような覇気のなさ。

俺のよく知っている新藤理沙とは明らかに別人だった。



「ストーカーの類ね。よく見てるじゃない」

「いや、ストーカーなんてしてませんよ……」

「そう? なら、アポもなしに女性の家に押し入ろうとしたあなたは一体何者なのかしらね?」



否定できない問いかけに窮していると、新藤さんは「冗談よ」と微笑みながら、再び表情を暗くした。

ひきつった顔を見せ、余裕のなさが浮き彫りになる。

髪の間から覗かせる目は少し怯えているように見えた。



「……でも、そうね……誰かに聞いてもらいたい気分」

「何があったんですか」



相手の問いかけに、新藤さんは頷きもせずただ指を動かしているだけだった。

強張って思うように動かない指先を解くことなく、取り留めのない空白に手先を伸ばしていた。

次第に諦めたのかその動作を止め、掛けられた毛布の上に力なく置かれると、新藤さんは沈黙を破って言葉を紡いだ。



「私ね、妹に嫌われちゃった…………」



か弱き声は淡い風と共に消えてしまいそうだった。

どうすればいいのか思いあぐねてしまう。



「……昔話があるの……聞きたい?」



新藤さんは見透かしていたらしい。

俺が頷くと、新藤さんは力なく笑い、話を始めた。



「小さい時からずっと私の傍にいて、家の中でも、学校が終わった後でも、家族で旅行に行っても、いっつも私から離れないの。離れたと思ったら今度は事あるごとに泣いてばかりで……本当に世話が焼ける子だった」

「そんなにですか」

「そう、そんなに私のことが好きなのかってくらいべったり。家にいれば私の部屋に入ってくる、外で歩けば私の傍を離れない、完全に私に依存してた。昔に一度だけかくれんぼしたことがあったんだけど、最後まで私を見つけられなかったからって、あの子は公園の中心で泣きじゃくってたのよ」



「単なる遊びなのにね」と懐かしむように言う新藤さん。

昔の安藤を語る新藤さんの表情は本当に楽しそうで、この後の結末を知りたくないと思った



「どうしてあの子が声優を目指したかって知ってる?」



首を横に振るが、途中で思い出す。

初めて安藤が家にやってきた日、とある目的の実現のため、安藤が安達未菜であることを伏せるように要求されたことがあった。

皆を笑顔にしたいから、とても大層な理由だと思った。

でも本性を知った後は、それだけが理由ではないのだと何となく分かった。

以前に理由を問うた時は結局教えてはくれなかった。なら、一つだけ心当たりがある。



「……新藤さんが関わってるんですか?」

「よく分かったね……その通り、正解」



あの時、俺は新藤さんとの接触で気を病んだ時期から抜け出したばかりだった。

きっと、安藤は配慮したのかもしれない。無神経なところがある安藤には似遣わないけど。



「まあ、これだけ私に陶酔してたら自然と、ね」



新藤さんは話を続ける。



「やるの一点張りで全く譲らないから、一度だけ試しでスタジオを借りて収録することになったの。適当な童話に声を当てるタイプね。台本も用意されてて、あとは収録して最後に完成したものを鑑賞するっていう娯楽」



設備の揃ったスタジオで事前に用意された童話作品に声を当てるだけ。収録された音声はそのままキャラクターの一部となり、収録後の鑑賞会で実際に当てられた声に一喜一憂しながら楽しむ類いの娯楽があると、以前に聞いたことがあった。



「あの子の演技は凄かった。作り物なんかじゃない、生命を芽吹かせる別次元のものだった」

「生命……」



僅かに高揚する新藤さんの例えは、少し理解ができなかった。

それでも、目を輝かせる新藤さんの姿がその凄さを物語っていた。



「あの子は自分の凄さに気がついてなかったけどね。私の声が聞こえるって感想ばかりで、無邪気に笑ってた」



「でもね」と新藤さんは言う。

目の前に置かれた手先には、僅かに力がこもっていた。



「あの瞬間、私には使命感が芽生えた。この才能を根絶やしにしてはいけない、開花させなければ無駄になると」

「使命感、ですか」

「そう。育て上げて一流のタレントにする義務。才能ある者はその芽を大切にしなければ勿体ない、と思ってね」



新藤理沙というタレントは、俺でも一度は名前を聞いたことがある程の有名人。

トップを走るため、日々あらゆる研究を重ねて万人に受ける努力をしていたはず。

新藤さん自身が声優という生き物を熟知しているからこそ、その機微を感じ取ったのだろう。



「専属のコーチを雇ったり、金銭援助をしたり。そのお金があれば、世界一周旅行に何度も行けたかもね」



それでも、新藤さんは安藤に入れ込むことに躊躇いはなかったのだろう。

過去二回会った時でさえ、恐怖を覚える程に妹に固執していた。それだけで十分に動機が理解できる。



「だからまあ、そのまま成長してくれたら全てが上手くいく、と思ってたんだけどね」

「……駄目だったんですか」

「うん……駄目だった。全部駄目。あの子の夢も、私の努力も望みも、全部崩れちゃった」



光を失った瞳から今にも零れそうになる涙。

大人びた女性の風格を纏っていた新藤さんの今はまるで子供みたいで、見ているだけで胸が苦しくなった。



「新藤さん……」



意味なくその名を呼ぶ。

俺にはそれしかできなかった。



「……ほんとどうして、こうなっちゃったのかなぁ」



震える声。



「最初はただ、あの子が笑顔になってくれたら、それだけで良かったのに……」



嗚咽を漏らす新藤さんの姿は、崩れそうになる自分を必死に繋ぎ止めているようだった。

その姿を見せまいと表情を隠し、肩を震わせ独り耐えている。

それでも隠し切れずに覗かせる横顔を見ると、俺は何も言えなかった。



「……」



初めて会った時から、俺は新藤さんのことを好意的に捉えることはできなかった。

いきなり安藤と関わるなと忠告され、俺の存在自体に否定的だった。

初対面でそこまで嫌悪を剥き出しにされたら、誰だって嫌になる。

でも、今はそれすらも忘れる程に新藤さんに同情してしまう。



「付き合わせて悪かったわね」



沈黙が続いた後、新藤さんは取り繕った笑みをした。



「いえ……」



でも、話題を変えようと繕うその姿はかえってあまりにも痛々しかった。

慰めの言葉も掛けられない、何もできない。

無力な自分に苛立ちさえ覚える。



「…………」



新藤さんは何か呟くと、身体を動かし何も繋がれていない左手をこちらに伸ばす。

伸びた手はゆっくりとこちらに向かい、そして―――



「え……」



新藤さんの手に握られ、思わず声を出してしまった。

膝の上に置いていた右手を掬い上げられ、冷たい感触が押し寄せてくる。

突然のことに驚いていると、新藤さんは掬い上げた右手を親指で愛でながら、言葉を続けた。



「私のことが嫌いなのに……同情しても良いことなんて一つもないでしょう?」

「そんなの……! するに決まってますよ…………」



こんな話を聞かされて、他人事のように扱うなんてできる訳がない。



「そう……祐介くんは優しいのね」



それ以上は何も言わず、新藤さんは掴んでいた手を離して姿勢を戻した。

すると、新藤さんが覗き込むような視線を向けてきた。

何かを見極めるように、じっと目が合う。

思わず気後れしていると、新藤さんが切り出すように口を動かした。



「……けど、どうしてなの? 誰にでも悩みや葛藤は備わっている。それら全てに耳を傾けていたら、あなた自身が壊れてしまうわ。なのに……どうして自分に関係ないことに首を突っ込むの?」



合理的ではない、新藤さんはそう言いたいのだろう。



「あなたには関係のない別世界のお話なのに、その垣根を越えてあなたは干渉しようとする。良いことなんて何一つないじゃない」



絡まった糸を解いていくように、優しく語る。



「あなたは誰に対してもそうするの? 相手が誰でも、あなたは自ら関わろうとするの?」



優しくも、真っ直ぐに真意を見出すように、新藤さんは答えを求めていた。

ずっと新藤さんが俺に感じていた疑問を、俺自身にも理解できない疑問を、面と向かってはっきりと突き付けられる。

新藤さんが求める答えを、俺は持ち合わせていないかもしれないのに。



「……確かに合理的ではない、ですよね」



俺はずっと考えていた。

流れに身を任せて受動的に生きてきた自分が、どうして彼女に執着するのか。

損得勘定を鑑みれば、面倒事に足を踏み入れているだけ。



「でも……それでも、俺は彼女と関わっていきたいんです」



確かに新藤さんの好む合理性に基づけば、もっと楽に正解に辿り着くのかもしれない。

でもそこには、感・情・という最も非合理的な要素が欠如している。

不確かなものに縋り、間違いだらけで非生産的。究極の発展を望む社会において、感情とは最早不要な存在なのかもしれない。

それでも人間が存在していられるのは、その不確かな感情を有しているからだ。

人間は間違いを学び、学習し、成長していく。不確かなものを確かなものにする努力ができる唯一の生き物だ。

だから俺は、自分の内の言い表せない何かを理解したい。証明したい。

それがどんなに回り道でも、非合理的でも、安藤が傷心しているなら、俺は知らず存ぜずではいられなかった。





ああ、そうだ――――





やっと分かった。

俺は既に答えを持ち合わせていた。

たった三か月程度の関係なのに、俺の中で彼女の存在が大きく膨らんで、いつの間にか、かけがえのないものになっていた。

気づかないふりをして、無意識に向き合うことから避けていた。

でも、これ以上は無理だ。

一度自覚してしまえば、もう自分を誤魔化せない。



「じゃあ、どうしてあの子と関わりたいの?」



新藤さんの最後の質問。もう、後戻りはできない。

答えてしまえば、今までの人生も、生き方も、全てを置き去りにする。それが変わるという意味。

それでも俺は迷いなく伝えた。新藤さんが求める答えを。





「―――俺、安藤のことが好きなんです」



好きだから、自ら関わりたいと願う。

彼女が求めていなくとも、信用されていなくとも、俺は永遠に付き添いたいと願ってしまう。

もっと知りたい、もっと一緒にいたい。そう思うだけで、身体が熱くなる。

きっと今の自分は耳まで赤くなっているのだろう。

自分の胸の内を暴露することが、こんなにも恥ずかしいと感じたことは無い。羞恥心でどうにかなってしまいそうだ。



でも、この気持ちはもう隠したくない。

誰にどう思われようとも、蔑まれようとも、否定されようとも、この気持ちだけは大切にしたい。

誰のためじゃない、自分のために。

それが自分の見つけ出した答え――――――



「そう……」



分かっていた、そう言いたげな含みを持たせて、新藤さんは深く息を吐いた。



「でも、まさかここまで爽々と言われるとは思ってなかったわ」

「す、すみません……」



顔がどんどん熱くなっていくのを感じる。

でもこれまでの人生で一番無防備な恰好を曝け出している以上、隠そうとするのは今更だ。



「……良いと思うわ。手当たり次第に手を出す無責任な人に比べたらね」

「あ……、ありがとうございます……」



突然の称賛に、何かがこみ上げてきた。

知らない感情ばかりが渋滞して、嬉しいのか恥ずかしいのか分からない。何だこれ。

そしてやはり顔に出ていたのか、新藤さんに「赤いわよ」と指摘されてしまった。



「でも……うん、そうね…………」



俺が何も反論できずにいると、笑みを浮かべていた新藤さんは次第に陰りを浮かばせていた。

そして何かを呟くと、思断つ表情でこちらを見る。



「新藤さん……?」



その表情はどこか寂しげで、この病室で初めて新藤さんの姿を認めた時と同じ目をしていた。

全てを諦めたような覇気のない瞳に再び戻っていた。



「あなたなら、祐介くんなら、あの子のことを任せられる。あの子自身が決めたことなら、私は尊重してあげないと」



自身に言い聞かせる様に、何度も頷く。



「私は部外者だから、代わりにあの子を支えてあげてね。私にはできないけど、きっとあなたにならできると思うから」



まるで自分は無価値だと言いたげに。

選べたはずなのに、自身の感情を押し殺して、新藤さんは違う道を進もうとしている。



「…………」



痛々しいとしか形容できない程に取り繕った笑みを向けられ、俺は押し黙った。

目の前で小さくなっている新藤さんは、記憶の中のあの人と瓜二つだったから。

二度と思い出したくない悪夢、その中で泣いている母さん。どうしても姿かたちが重なって見えてしまった。



「本当に……このままでいいんですか……?」



気づけば俺は口に出していた。

僅かに目を開かせてこちらを見る新藤さんに、俺は伝えたい言葉を渡す。



「安藤のこと……妹を何よりも大事にしてきたから、新藤さんは全てを捧げてきたんじゃないですか……? 妹の夢を本気で叶えてあげたかったから、笑顔になってほしかったから、だから新藤さんは身を切る覚悟でここまで来たんじゃないんですか……?」



自身が他人にどう思われようとも、自身の立場が悪くなったとしても、安藤のためなら身を捧げてきたのだろう。

それは、執拗なまでに警告されてきた俺が一番よく知っている。

俺との関係を隔てようとしたのも、安藤を想ってのこと。

新藤さんが他人から非難されようとも、安藤さえ良ければと本気で考えていたのだろう。



「なのに、嫌われたからって理由で容易に諦めて良いんですか……? そんな理由で引き下がっても、新藤さんは何も浮かばれない……辛いだけだ」



最後に報われるべき人間が報われない。望んでいた結末を迎えられない。

バッドエンドな結末なんて、誰も心から笑顔になれない。



「記憶の中の妹は決して新藤さんを嫌ってはいなかった、それはあなたが自分で言っていたじゃないですか。自身の中の妹さえ信じられなくなったら、もう何も残らないんです……何も信じられなくなるんです…………」



一度失ったものは二度と戻らない。

裏切られたと相手を憎み、在りし姿も塗り潰されていく。大好きだったという感情も、見惚れた姿も、心地良かった全てが踏み躙られてしまう。

そんな結末は、もう繰り返してはいけない。



「……だからお願いします。もう一度だけ信じてほしいんです……、新藤さんが大好きだった安藤未衣奈を……」



それだけでいい。それさえあれば、まだ信じられるから。

俺が手放してしまった繋がりも、得られたはずの愛情を、まだ信じることができるから。



「…………信じ続けるのって、すごく残酷なことだと思うわ。思い出に浸って、最後は現実との乖離に絶望するもの」

「それでもまだ繋がりが残ってる。一度手放してしまえば、もう二度と戻らないんです」

「無理よ……もうあんな目に会いたくない……、辛いだけの人生なら、もう……」



新藤さんは自身の手を握りしめる。

握った左手を右手で包み込み、失われていく体温を逃がさないようにしていた。

ぽっかりと空いた隙間を埋めるように、小さくなりながら。



「―――だったら」



俺はそう言うと、幼い赤子を抱きかかえるように優しく触れ、丁寧に新藤さんの手を包んだ。

両手で触れる新藤さんの手はとても冷たくて、今にも溶けてしまいそうに思えた。



「え……」



一連の動作に驚き顔を上げる新藤さん。

しっかりとその目を合わせ、真摯に、俺は言葉を贈った。



「だったら、俺を信じてください。辛くて何も信じられなくなっても、俺の言葉を思い出してほしいんです。俺だけは新藤さんを絶対に裏切ったりしません。だから、全てを手放したりしないでください」



繋がりがあれば、自分を見失わずに済む。

何度も見失ってきた俺だからこそ贈ることができる言葉。

それを余すことなく差し出す。



「……あ、えっと……その…………」



上手く伝わらなかったのか、新藤さんは差し出された手を受け取らずに取り乱していた。

もう一度言うべきか悩んだが、すぐに原因に気がつく。



「―――あ、すみません……!」



触れていた両手を離し、距離を取る。

冷静に考えても、今の行動は余りにも不躾だった。



「……ううん、私も一度触れたから、おあいこ……」

「あ、そうでしたね……」



片言になってしまったが、咎められなかったのでセーフだろう。

急いで姿勢を正し、少しでも誠意を示す。

新藤さんも雰囲気を戻して、表情を硬くした。



「……俺を信じろだなんて、随分と横暴なんじゃない?」

「すみません……」



急造の誠意では足りなかったらしい、新藤さんの機嫌を損ねてしまった。



「……検討、するだけよ」



囁くような声に、思わず「え」と聞き返してしまった。

新藤さんは眉をひそめたが、それも一瞬だった。



「余程苦い経験をしてきたのね。実感が籠ってたから伝わってきた……だから少しは信じてあげる」



「少しだけね」と強調しつつも、新藤さんは俺の話を頷いてくれた。

不機嫌そうな表情を変えることはなかったが、それでも俺のことを信じてくれた事実が只々喜びだった。

きっと誰でも分かり合える、前向きに思えた。



「でも、これならきっと安藤とも仲直りできますよ……そうだ! 今、安藤が外にいるので――――」



席を立ち、外で座っている安藤に声を掛けようとした。

でも、新藤さんの一言で、どの足を止めた。



「……あの子は来ないわよ」



俺は振り返る。

どうして、そう聞き返したいができなかった。



「あの子はね、もう私と会う気がないみたいだから……」



新藤さんの口調は、とても悲しそうで、見透かしているかのように冷淡だったから。
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