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意外な一面
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寒空の下、セレンは街道を指差した。昨夜少しの休息をとって出発し、今は昼前だ。はるか前方に、灰色の道が延々と横たわっているのが見た。
「あ、見えてきましたね。あれがリマノ街道です」
「あれが」
「そうです。南へ行けばトリトニアへ、北へいけばベルニーザ領です。街道にのれば、馬車も早く進みますよ」
遠くでけむるように続いてる灰色の線を、団長は目を細めて見つめた。今にも消えそうなたよりない線にしか見えない。
「本当に今日中にたどりつくのか?」
「団長は、街道は、初めてですか?」
彼がうなずいたので、思わずセレンは苦笑した。昔の自分を思い出したのだ。
「たしかに、遠く見えますよね。私も子どもの時分は不安になったものです。歩いても歩いてもたどりつかないんじゃないかって。でも大丈夫です。馬に乗っていますし、今日中にはつきますよ」
街道を見つめながらそう話す彼女の顔を、トラディスはじっと見つめていた。
果たして彼女の言うとおり、夕刻には街道に到達し、夜には宿場町に馬を止めることができた。
「おかみさん、夕食おねがいします。11人分ね」
冬なので旅人は少なく、旅籠も居酒屋もがら空きだった。当たり前のようにこういった交渉もセレンにまかされ、セレンが如才なく宿を手配し、夕食を注文するのを、兵士達はものめずらしそうに見ていた。
出てきた料理は、大皿に盛られたカラッカだった。たっぷりの油でこんがりと揚げられた、香ばしい良いにおいがする。
「な、なぁセレンさん、これは何なんだ?」
若い兵士の一人が聞いてきたので、セレンは詳しく説明した。
「これはカラッカといって、じゃがいもをすりつぶして、ヤギのバターを練りこんでひき肉や野菜と一緒に丸めて揚げたものです。おいしいですよ」
セレンが一つとると、安心したのか皆食べ始めた。その様子を見てセレンは実感した。
「ほんとうに全員…外、初めてなんだ」
そのつぶやきに、隣の団長がこたえた。
「そうだ。白霧山脈に根を下ろして以来、イベリス人が森から出ることはほとんどなかった。シャルリュス宰相の家臣を別にすればっ…!!」
そこまでいいかけて、団長はむせた。
「わ、大丈夫ですか」
団長はゴブレットをテーブルにおいて憮然と言った。
「水かと思ったら、これは酒ではないか!」
その怒った顔にセレンは思わず笑いそうになってしまった。
「ああ。このへんは川が遠いので、水は貴重なんです。酒のほうが安いんですよ」
「そういうものなのか…」
うまいうまいとカラッカにかぶりつく兵士たちを尻目に、セレンは言った。
「そうです。どの土地も様々な特色がありますが…中には住みにくい場所もあります。皆知恵をしぼってなんとか生活しているのですよ」
「そうか…たしかにイベリスは不便な山のなかにあるが、水は豊富だ」
団長は今きがついたとでも言うようにつぶやいた。
「不便とは思いませんよ。あの立派な城と城壁、城下を建設した人々は大変だったと思いますが、今イベリスの人はその中で快適にくらしているじゃないですか。特産品のおかげでお金もあるし、飢えてる人もいない。この辺境で日銭を稼いで暮らすひとより、よほど幸せだと思いますよ」
団長はシャルリュスの応接室を思い出した。もしあそこでシャルリュスの「提案」を飲んで兵を出していたら、この宿屋も村も踏み砕かれからっぽになり、カラッカを出したおかみも、今ごろ奴隷になっていたのかもしれない…。
そう思った団長はなんとはなしに背中が寒くなった。
「そういう…ものか」
セレンは団長の内心など気づくはずもなく言った。
「ええ。とても上手くいっていると思いますよ、イベリスは。ジュエルが出続けるかぎり、栄えていくでしょうね」
ウツギの人々を犠牲にしながらね…とセレンは胸中で続けた。
「つまりお前は、ジュエル以外の方法を見つけろ、といいたいのか?」
「えっ」
胸の内を見透かされたような質問に、セレンはあわてた。
「いえ、別にそういう意味で言ったわけでは」
「遠慮するな。お前の意見を聞かせろ」
セレンは少し身構えた。
「私はただの侍女ですから…大した意見なんてありませんよ。でも」
「でも?」
セレンは適当に思いついたことを言ってみた。
「せっかく平和で、踏み荒らされる心配もないのですから…自分達の分以外にも、もっと畑を作ってみてはどうでしょうかね。イベリスの山は自然豊かですから。ぶどうとかできるかも。それでワインを造って、売るとか」
「ぶどう?それはどうやって作るものなんだ?」
セレンは苦笑した。
「さすがにわかりませんよ!でも、ワイン農家ならトリトニアの北の、リオーズのものが有名ですよ。若者を何人かそこにやって勉強させて、技術を持ち帰ってもらって…ワインに限らず、どこの国もそうやって産業を発展させて、お金を稼いでいますね」
「トリトニアもか」
「そうですね。トリトニアはオレンジと銀細工が特産です。オレンジは甘くてみずみずしくて、本当においしいです」
「果物に、銀細工…か」
団長は考え込んだ。たしかにイベリスは、ジュエル以外になにもない。そのジュエルもウツギだよりだ。イベリスの人々は採掘の方法も、加工の技術も学ぶ気はさらさらなく、汚れ仕事として彼らにそれをさせている。
(だがウツギも今は不安定要素ばかり…。それ以上に、いつかジュエルは枯渇して、取れなくなる日がくる)
そも、ジュエルはワインや銀細工のように技術をみがいて獲得したものではなく、戦いによって強引にうばったものだ。なのでいつまた他のものに奪われるかわからない。
そして奪われればそれっきりだ。
(俺達が生まれる前に、叔父上はジュエルを手に入れた。が、今となってはそれも諸刃の刃だ)
ここ最近のさまざまな事件によって、この国の基盤がいかに脆いものか、団長は改めて気が付いていた。
(ウツギの民がもし反乱をおこせば、イベリス兵によって鎮圧しなければならない。やつらが捨て身できたら殺すしかない。だがそうするとジュエルの取り手もいなくる…)
「どうしたんですか、団長?」
セレンが怪訝な顔で団長を覗き込んだ。
「いや…お前の言ったことについて考えていた。産業に着手してみるというのは、なかなかいい考えかもしれん」
そういわれて、セレンは少し微笑んだ。
「そうですね。産業を興すのは難しくて、すぐに結果は出ないかもしれませんが…最初にしっかりお金をかけて本腰で取り組めば、いつか倍になって帰ってくるはずですよ」
「投資のようなものか」
投資。言いえて妙だ。セレンはほほえんだ。
「そうですね。最初は損をするかもしれませんが、それによってあとで大きな得をえる。そんな感じですね、うん」
彼女が笑うと、その表情は一瞬疲れも硬さも消え、無防備な少女が顔をのぞかせたようだった。団長は思わずセレンから目をそらした。
(対等に話しているとつい忘れるが、こいつは女なのだった)
そう思うと芋づる式にセレンの踊りやあのリボンを解いた時の匂いなどが思い出され、トラディスは反射的に席を立った。
(今、こいつのそばにいたくない)
その背中に、セレンの声がとんできた。
「団長?どうしましたーー?」
トラディスは混乱する胸の内をおさえかねながら、振り返りもせず居酒屋を出た。
(なんなのだろうか、この苛立ちは)
宿屋で一人になったトラディスは、どさりと寝台に腰掛け頭に手をやった。
「まったく…」
あれと接近するととたんに調子が狂う。なぜらなトラディスはこれまで、ろくに女性と会話をしたことがない。
(母は物心ついたころには死んだし、妻は…あれと何か言葉をかわしたことがあっただろうか)
イベリスの女の美徳は、夫につくすこと。それに必要な能力は家事の腕と子どもを産むことで、そこに会話や知性は含まれては居ない。
そういうものだと思っていた若い日の彼は、初々しい妻とどう接していいのかわからなかったこともあって、ほとんど会話しなかった。彼女の事を、嫌いではなかった。邪険にすることもなかったし、家計もまかせ好きなようにすごさせていたが、心の交流のようなものは一切なかった。
小柄だった妻は時がたつにつれどんどん細っていき、やがて冬にたちの悪い風邪をひいてあっけなく死んだ。
死んで棺におさまった妻を見て、彼は少年のときつかまえた甲虫を思い出した。美しいその虫を自分のものにした時、少年の自分はたしかに嬉しかった。甲虫を箱の中にいれ、毎日世話をした。が、まもなく死んだ。そのときトラディスは思った。外にいればもっと長く生きられた。自分が用意したこの箱の中は、甲虫にとっては監獄だったのではないかと。
その時の後悔がまざまざと思い出され、トラディスは心に決めた。もう二度と妻を迎えることはすまいと。
その時、トントンとノックの音がして、トラディスは追憶から引き戻された。
「なんだ」
ガチャリとドアがあき、セレンが入ってきた。
「あ、団長、大丈夫ですか?皆心配していましたよ。カラッカ、残りもってきました」
トラディスは彼女から目を逸らした。いやなときにくるものだ。
「なぜ来た。お前も食事中だろう」
「兵士の方に、私がもっていくよう頼まれたんですよ」
ニコニコ顔の老兵の顔が目に浮かんだ。彼は前の戦の経験もある歴戦の兵士かつ、兵医でずっと重宝されているのだが、どうも人の心を見透かしておせっかいを焼くところがある。それがいつもはありがたいのだが、こういった気遣いは・・・。
「エイレンめ。大きなお世話だ」
「何ですか、不機嫌な顔をして。カラッカが気に入らなかったんですか?」
「そういうわけではない。それはお前にやるから、行け」
トラディスは手をふってそういった。その仕草にむっとしたセレンは言い返した。
「行け、って、失礼な。犬や猫じゃないんですから…。体調が悪いわけではないのですか?」
「別にどこも悪くない」
「そうですか。てっきりお酒をのんでしまったから、具合が悪くなったのかと」
「バカにするな。一口くらい飲んだところで、どうにもならん」
鬼瓦のような顔で強がるトラディスを見て、セレンは自分でも思いがけず笑ってしまった。
「何を笑う」
「いいえ。じゃあこれ、半分にしましょうか」
全部独り占めするのも悪いので、セレンはカラッカを半分にし片方を差し出した。
「食べとかないと。明日もたくさん移動するんですから」
セレンは立ったままあっというまにカラッカをむしゃむしゃ食べつくした。女にあるまじき行為である。トラディスは顔をしかめた。
「…行儀のない女だな、お前は」
セレンは鼻で笑った。
「行儀もなにも、昨日はじべたに座って食事したじゃないですか」
セレンはあの時のシチューの味を思い出した。
「でも、昨日のシチューは美味しかったですね。誰が考えたレシピなんでしょう」
「誰というものではない。イベリスの野戦食のひとつだ」
また食べたいのでレシピを教えて欲しい(きっとシザリアは上手くつくってくれる)と思ったが、さすがに言い出せなかった。
「じゃあ私、失礼します。もう寝なければ」
ふとトラディスはたずねた。
「お前はどの部屋で休むんだ?」
「え?ああ、兵たちと同じ部屋ですよ」
何でもないことのようにセレンは言ったが、トラディスの表情は変わった。
「な…!ダメだろう、それは。寝るのは他の部屋にしろ」
セレンは困った。
「そういわれても、もう部屋とっちゃいましたし…」
「宿屋に言って、変えてもらえ」
「団長、一人部屋なんて、普通の旅人はそんな使わないんですよ。王子や、偉い人だけです。だから私は大部屋で十分です」
トラディスはぐっとつまった。
「そういう問題ではない!男ばかりの場所で寝るのは…良くないだろうが」
セレンは一瞬ぽかんとしたが、すぐ苦笑いになった。
「大丈夫ですよ。今回の人選は団長がしたんでしょう?皆いい人じゃないですか。心配ないですよ」
トラディスが選び抜いただけあって、統率がとれている。ミリアネスの侍女に夜這いをかけるような不届きものはいないだろう。とセレンは思った。
「何を悠長なことを言っている!常識的に考えて、兵士と同じ部屋で一晩明かす女がいるか!」
セレンは涼しい顔で言い返した。
「ではどうしますかね。ここの床で寝ますか。前みたいに」
いつも厳しい顔つきのトラディスが、わかりやすくうろたえるのは、少し面白かった。
「なっ…!ばかを言うな!!」
トラディスからしてみれば、そんな事は今もっともしたくない事だった。
「いいじゃないですか、別にどこでも。団長は前、私と同じ部屋で寝ても何も気にしなかったじゃないですか。同じですよ」
トラディスは頭をかかえたくなった。何も気にしなかったわけがない。
「いかん!あれは非常時のことで…!」
セレンは肩眉を上げて団長を見た。ではどうしろと?の表情だ。
トラディスは10秒ほどで答えを出した
「俺も大部屋で寝る」
「えっ…でも」
「あいてるだろう」
セレンのいうこともきかず、トラディスは荷物をひっつかんで部屋を出た。彼からしてみれば、自分さえいれば他の兵たちも恐れ入るので安心、という考えからだったが、セレンにはその行動の理由がよくわからなかった。
(そんな心配することも、ないと思うけれど…)
「あ、見えてきましたね。あれがリマノ街道です」
「あれが」
「そうです。南へ行けばトリトニアへ、北へいけばベルニーザ領です。街道にのれば、馬車も早く進みますよ」
遠くでけむるように続いてる灰色の線を、団長は目を細めて見つめた。今にも消えそうなたよりない線にしか見えない。
「本当に今日中にたどりつくのか?」
「団長は、街道は、初めてですか?」
彼がうなずいたので、思わずセレンは苦笑した。昔の自分を思い出したのだ。
「たしかに、遠く見えますよね。私も子どもの時分は不安になったものです。歩いても歩いてもたどりつかないんじゃないかって。でも大丈夫です。馬に乗っていますし、今日中にはつきますよ」
街道を見つめながらそう話す彼女の顔を、トラディスはじっと見つめていた。
果たして彼女の言うとおり、夕刻には街道に到達し、夜には宿場町に馬を止めることができた。
「おかみさん、夕食おねがいします。11人分ね」
冬なので旅人は少なく、旅籠も居酒屋もがら空きだった。当たり前のようにこういった交渉もセレンにまかされ、セレンが如才なく宿を手配し、夕食を注文するのを、兵士達はものめずらしそうに見ていた。
出てきた料理は、大皿に盛られたカラッカだった。たっぷりの油でこんがりと揚げられた、香ばしい良いにおいがする。
「な、なぁセレンさん、これは何なんだ?」
若い兵士の一人が聞いてきたので、セレンは詳しく説明した。
「これはカラッカといって、じゃがいもをすりつぶして、ヤギのバターを練りこんでひき肉や野菜と一緒に丸めて揚げたものです。おいしいですよ」
セレンが一つとると、安心したのか皆食べ始めた。その様子を見てセレンは実感した。
「ほんとうに全員…外、初めてなんだ」
そのつぶやきに、隣の団長がこたえた。
「そうだ。白霧山脈に根を下ろして以来、イベリス人が森から出ることはほとんどなかった。シャルリュス宰相の家臣を別にすればっ…!!」
そこまでいいかけて、団長はむせた。
「わ、大丈夫ですか」
団長はゴブレットをテーブルにおいて憮然と言った。
「水かと思ったら、これは酒ではないか!」
その怒った顔にセレンは思わず笑いそうになってしまった。
「ああ。このへんは川が遠いので、水は貴重なんです。酒のほうが安いんですよ」
「そういうものなのか…」
うまいうまいとカラッカにかぶりつく兵士たちを尻目に、セレンは言った。
「そうです。どの土地も様々な特色がありますが…中には住みにくい場所もあります。皆知恵をしぼってなんとか生活しているのですよ」
「そうか…たしかにイベリスは不便な山のなかにあるが、水は豊富だ」
団長は今きがついたとでも言うようにつぶやいた。
「不便とは思いませんよ。あの立派な城と城壁、城下を建設した人々は大変だったと思いますが、今イベリスの人はその中で快適にくらしているじゃないですか。特産品のおかげでお金もあるし、飢えてる人もいない。この辺境で日銭を稼いで暮らすひとより、よほど幸せだと思いますよ」
団長はシャルリュスの応接室を思い出した。もしあそこでシャルリュスの「提案」を飲んで兵を出していたら、この宿屋も村も踏み砕かれからっぽになり、カラッカを出したおかみも、今ごろ奴隷になっていたのかもしれない…。
そう思った団長はなんとはなしに背中が寒くなった。
「そういう…ものか」
セレンは団長の内心など気づくはずもなく言った。
「ええ。とても上手くいっていると思いますよ、イベリスは。ジュエルが出続けるかぎり、栄えていくでしょうね」
ウツギの人々を犠牲にしながらね…とセレンは胸中で続けた。
「つまりお前は、ジュエル以外の方法を見つけろ、といいたいのか?」
「えっ」
胸の内を見透かされたような質問に、セレンはあわてた。
「いえ、別にそういう意味で言ったわけでは」
「遠慮するな。お前の意見を聞かせろ」
セレンは少し身構えた。
「私はただの侍女ですから…大した意見なんてありませんよ。でも」
「でも?」
セレンは適当に思いついたことを言ってみた。
「せっかく平和で、踏み荒らされる心配もないのですから…自分達の分以外にも、もっと畑を作ってみてはどうでしょうかね。イベリスの山は自然豊かですから。ぶどうとかできるかも。それでワインを造って、売るとか」
「ぶどう?それはどうやって作るものなんだ?」
セレンは苦笑した。
「さすがにわかりませんよ!でも、ワイン農家ならトリトニアの北の、リオーズのものが有名ですよ。若者を何人かそこにやって勉強させて、技術を持ち帰ってもらって…ワインに限らず、どこの国もそうやって産業を発展させて、お金を稼いでいますね」
「トリトニアもか」
「そうですね。トリトニアはオレンジと銀細工が特産です。オレンジは甘くてみずみずしくて、本当においしいです」
「果物に、銀細工…か」
団長は考え込んだ。たしかにイベリスは、ジュエル以外になにもない。そのジュエルもウツギだよりだ。イベリスの人々は採掘の方法も、加工の技術も学ぶ気はさらさらなく、汚れ仕事として彼らにそれをさせている。
(だがウツギも今は不安定要素ばかり…。それ以上に、いつかジュエルは枯渇して、取れなくなる日がくる)
そも、ジュエルはワインや銀細工のように技術をみがいて獲得したものではなく、戦いによって強引にうばったものだ。なのでいつまた他のものに奪われるかわからない。
そして奪われればそれっきりだ。
(俺達が生まれる前に、叔父上はジュエルを手に入れた。が、今となってはそれも諸刃の刃だ)
ここ最近のさまざまな事件によって、この国の基盤がいかに脆いものか、団長は改めて気が付いていた。
(ウツギの民がもし反乱をおこせば、イベリス兵によって鎮圧しなければならない。やつらが捨て身できたら殺すしかない。だがそうするとジュエルの取り手もいなくる…)
「どうしたんですか、団長?」
セレンが怪訝な顔で団長を覗き込んだ。
「いや…お前の言ったことについて考えていた。産業に着手してみるというのは、なかなかいい考えかもしれん」
そういわれて、セレンは少し微笑んだ。
「そうですね。産業を興すのは難しくて、すぐに結果は出ないかもしれませんが…最初にしっかりお金をかけて本腰で取り組めば、いつか倍になって帰ってくるはずですよ」
「投資のようなものか」
投資。言いえて妙だ。セレンはほほえんだ。
「そうですね。最初は損をするかもしれませんが、それによってあとで大きな得をえる。そんな感じですね、うん」
彼女が笑うと、その表情は一瞬疲れも硬さも消え、無防備な少女が顔をのぞかせたようだった。団長は思わずセレンから目をそらした。
(対等に話しているとつい忘れるが、こいつは女なのだった)
そう思うと芋づる式にセレンの踊りやあのリボンを解いた時の匂いなどが思い出され、トラディスは反射的に席を立った。
(今、こいつのそばにいたくない)
その背中に、セレンの声がとんできた。
「団長?どうしましたーー?」
トラディスは混乱する胸の内をおさえかねながら、振り返りもせず居酒屋を出た。
(なんなのだろうか、この苛立ちは)
宿屋で一人になったトラディスは、どさりと寝台に腰掛け頭に手をやった。
「まったく…」
あれと接近するととたんに調子が狂う。なぜらなトラディスはこれまで、ろくに女性と会話をしたことがない。
(母は物心ついたころには死んだし、妻は…あれと何か言葉をかわしたことがあっただろうか)
イベリスの女の美徳は、夫につくすこと。それに必要な能力は家事の腕と子どもを産むことで、そこに会話や知性は含まれては居ない。
そういうものだと思っていた若い日の彼は、初々しい妻とどう接していいのかわからなかったこともあって、ほとんど会話しなかった。彼女の事を、嫌いではなかった。邪険にすることもなかったし、家計もまかせ好きなようにすごさせていたが、心の交流のようなものは一切なかった。
小柄だった妻は時がたつにつれどんどん細っていき、やがて冬にたちの悪い風邪をひいてあっけなく死んだ。
死んで棺におさまった妻を見て、彼は少年のときつかまえた甲虫を思い出した。美しいその虫を自分のものにした時、少年の自分はたしかに嬉しかった。甲虫を箱の中にいれ、毎日世話をした。が、まもなく死んだ。そのときトラディスは思った。外にいればもっと長く生きられた。自分が用意したこの箱の中は、甲虫にとっては監獄だったのではないかと。
その時の後悔がまざまざと思い出され、トラディスは心に決めた。もう二度と妻を迎えることはすまいと。
その時、トントンとノックの音がして、トラディスは追憶から引き戻された。
「なんだ」
ガチャリとドアがあき、セレンが入ってきた。
「あ、団長、大丈夫ですか?皆心配していましたよ。カラッカ、残りもってきました」
トラディスは彼女から目を逸らした。いやなときにくるものだ。
「なぜ来た。お前も食事中だろう」
「兵士の方に、私がもっていくよう頼まれたんですよ」
ニコニコ顔の老兵の顔が目に浮かんだ。彼は前の戦の経験もある歴戦の兵士かつ、兵医でずっと重宝されているのだが、どうも人の心を見透かしておせっかいを焼くところがある。それがいつもはありがたいのだが、こういった気遣いは・・・。
「エイレンめ。大きなお世話だ」
「何ですか、不機嫌な顔をして。カラッカが気に入らなかったんですか?」
「そういうわけではない。それはお前にやるから、行け」
トラディスは手をふってそういった。その仕草にむっとしたセレンは言い返した。
「行け、って、失礼な。犬や猫じゃないんですから…。体調が悪いわけではないのですか?」
「別にどこも悪くない」
「そうですか。てっきりお酒をのんでしまったから、具合が悪くなったのかと」
「バカにするな。一口くらい飲んだところで、どうにもならん」
鬼瓦のような顔で強がるトラディスを見て、セレンは自分でも思いがけず笑ってしまった。
「何を笑う」
「いいえ。じゃあこれ、半分にしましょうか」
全部独り占めするのも悪いので、セレンはカラッカを半分にし片方を差し出した。
「食べとかないと。明日もたくさん移動するんですから」
セレンは立ったままあっというまにカラッカをむしゃむしゃ食べつくした。女にあるまじき行為である。トラディスは顔をしかめた。
「…行儀のない女だな、お前は」
セレンは鼻で笑った。
「行儀もなにも、昨日はじべたに座って食事したじゃないですか」
セレンはあの時のシチューの味を思い出した。
「でも、昨日のシチューは美味しかったですね。誰が考えたレシピなんでしょう」
「誰というものではない。イベリスの野戦食のひとつだ」
また食べたいのでレシピを教えて欲しい(きっとシザリアは上手くつくってくれる)と思ったが、さすがに言い出せなかった。
「じゃあ私、失礼します。もう寝なければ」
ふとトラディスはたずねた。
「お前はどの部屋で休むんだ?」
「え?ああ、兵たちと同じ部屋ですよ」
何でもないことのようにセレンは言ったが、トラディスの表情は変わった。
「な…!ダメだろう、それは。寝るのは他の部屋にしろ」
セレンは困った。
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「団長、一人部屋なんて、普通の旅人はそんな使わないんですよ。王子や、偉い人だけです。だから私は大部屋で十分です」
トラディスはぐっとつまった。
「そういう問題ではない!男ばかりの場所で寝るのは…良くないだろうが」
セレンは一瞬ぽかんとしたが、すぐ苦笑いになった。
「大丈夫ですよ。今回の人選は団長がしたんでしょう?皆いい人じゃないですか。心配ないですよ」
トラディスが選び抜いただけあって、統率がとれている。ミリアネスの侍女に夜這いをかけるような不届きものはいないだろう。とセレンは思った。
「何を悠長なことを言っている!常識的に考えて、兵士と同じ部屋で一晩明かす女がいるか!」
セレンは涼しい顔で言い返した。
「ではどうしますかね。ここの床で寝ますか。前みたいに」
いつも厳しい顔つきのトラディスが、わかりやすくうろたえるのは、少し面白かった。
「なっ…!ばかを言うな!!」
トラディスからしてみれば、そんな事は今もっともしたくない事だった。
「いいじゃないですか、別にどこでも。団長は前、私と同じ部屋で寝ても何も気にしなかったじゃないですか。同じですよ」
トラディスは頭をかかえたくなった。何も気にしなかったわけがない。
「いかん!あれは非常時のことで…!」
セレンは肩眉を上げて団長を見た。ではどうしろと?の表情だ。
トラディスは10秒ほどで答えを出した
「俺も大部屋で寝る」
「えっ…でも」
「あいてるだろう」
セレンのいうこともきかず、トラディスは荷物をひっつかんで部屋を出た。彼からしてみれば、自分さえいれば他の兵たちも恐れ入るので安心、という考えからだったが、セレンにはその行動の理由がよくわからなかった。
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私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
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