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新婚さん
しおりを挟む夜明け前の薄闇の中、俺は静かに目を覚ました。
隣で眠る主人の寝息を邪魔せぬよう、音もなくベッドを抜け出す。
俺はまず、自分という道具を綺麗にすることから一日を始める。
シャワーを浴び、身体の内側から昨夜の支配の証を洗い流す。
それは、誰にも見られることのない、屈辱的で、しかし献身的な朝の儀式だった。
清潔になった身体にバスローブを羽織ってバスルームを出ると、ベッドの上で主人が身を起こし、こちらを見て微笑んでいた。
「あ。おはよー、リオン。きれいになった? いい匂いだね」
彼はベッドから降りると、俺を手招きした。
「おいで、乾かしたげる」
俺が彼の前に座ると、ルシアンは大きなタオルで優しく、しかし念入りに俺の髪の水分を取っていく。
彼の指が髪を梳く感触は、いつも心地いい。
ドライヤーの温かい風を当てながら、彼は楽しそうに話しかけてきた。
「ねぇ、リオン。お前は俺のお嫁さんだよね?」
その突拍子もない言葉に、俺は呆れて答える。
「……ワンちゃんだろ」
「兼お嫁さんだよね? こないだ実家に紹介したじゃん!」
「……婚約者じゃなかったか?」
「似たようなもんでしょ?」
その理論は全く理解できないが、反論するだけ無駄だ。
「……好きに呼べよ、もう」
俺の諦観のこもった返事に、ルシアンは満足げに笑った。
「それでね。俺、お嫁さんができたら、絶対叶えたい夢があったんだけど、聞いてくれる?」
髪を乾かし終えた彼が、クローゼットから取り出してきたのは、白いフリルがたくさんついた、可愛らしいエプロンだった。
俺はこめかみが引きつるのを感じた。
「……これがテメェの言う、ご大層な夢か?」
「そう!」
彼は満面の笑みで頷いた。
「裸エプロンは男のロマンでしょ!」
結局、俺は主人の「夢」を叶えるため、素肌の上にそのふざけたエプロンだけを身につけた。
首元の黒革のチョーカーと、不似合いな純白のエプロン。鏡も見ずとも自分がとんでもなく倒錯した格好をしていることだけは、よく分かった。
「わー、いいねぇ。すっごい新妻っぽい。リオンは何着てもほんと似合うね!」
その姿を眺めながら、ルシアンは何度も頷いている。
「……言ってろ」
キッチンに立つと、エプロンの隙間から入り込む空気が、やけに肌寒かった。
メニューは、ルシアンのリクエストで、ベーコンエッグとソーセージ。どちらも調理中に油が跳ねる厄介な代物だ。
「かわいー。背中丸見えなのいいねぇ。キスマークが色っぽい」
ダイニングテーブルの椅子に座り、マグカップでコーヒーを飲みながら、ルシアンが楽しそうに声をかけてくる。
その視線が背中に突き刺さるのを感じながら、俺は黙ってフライパンに火をつけた。
熱したフライパンに、厚切りのベーコンを並べた瞬間だった。
ジュッ、という音と共に、熱い油が四方八方に飛び散った。
「……っつ!」
いくつかの油滴が、エプロンで守られていない俺の腹や胸の素肌に直撃する。思わず声が漏れ、熱さと鋭い痛みに、身体がびくりと大きく跳ねた。
「えっ、なにその反応! すごい可愛い!」
そのあまりにも腹立たしい反応のあとに、はっと我に返ったように、ルシアンが付け足す。
「でも大丈夫? 火傷しなかった?」
彼は椅子から立ち上がると、俺の後ろに回り込み、油が跳ねて小さく赤くなった箇所を、心配そうに指でそっとなぞった。
小さな痛みを主人の指で撫でられる、その感触。
身体が跳ねそうになるのを必死でこらえる。
「あー、赤くなっちゃったね。かわいそうに」
その手つきは、心配しているのか、俺の敏感な反応を、楽しんでいるのか。
「……邪魔だ、どけ」
なんとしても震えないよう、俺はそれだけを声に出すと、何でもないように調理を再開する。
なんとか完成させた朝食をテーブルに並べると、ルシアンは最高の笑顔を見せた。
「いただきます!」
待ち切れない様子で一口ほおばる。
「うん、おいしー! 俺の可愛いお嫁さんが、裸エプロンで作ってくれた朝ごはんだから、世界で一番美味しいや!」
彼は満足げに食べ進めていく。俺は、その姿を横目で見ながら、自分の分にはまだ手をつけていなかった。
「おい」
俺が声をかけると、ルシアンは「んー?」と小首を傾げた。
「俺はいつまでこのふざけた格好してなきゃならねぇんだ。服着て飯食っていいか?」
素肌で直接椅子に座るのは、単純に気持ちが悪い。早くこのエプロンを脱ぎたかった。
「えっ、もう脱いじゃうの? かわいいのに」
ルシアンは、心底名残惜しそうに眉を下げる。
「じゃあちょっと待って。さっきのとこ、薬だけ塗ったげるから」
彼はそう言うと席を立ち、薬箱を取ってきて、俺の隣にしゃがみ込んだ。そして、油が跳ねてできた、腹の小さな赤い跡をじっと見つめる。次の瞬間、そこに彼の温かい舌が這った。
「んっ…!」
驚いて身を引こうとする俺を、彼は力強く押さえつける。唾液で消毒するかのように執拗に舐め上げると、今度は薬箱から取り出した軟膏を、愛撫と区別のつかない、ねっとりとした手つきで塗り込んでいく。
「うーん、それにしても可愛い。困ったな。その気になっちゃう」
恍惚として囁きながら、彼の指がエプロンの下に滑り込み、俺の身体をまさぐり始めた。俺は、声を押し殺して、その侵入に耐える。
「……朝だぞ」
かろうじて、それだけを絞り出した。
「そうなんだよねぇ。この後お仕事あるし」
ルシアンは、本当に残念そうにため息をつくと、名残惜しげに手を離した。
「今はやめとく! また夜にね。さ、ご飯食べちゃおっか。冷めちゃったかな。冷めてもおいしいけど」
彼は何事もなかったかのように、自分の席に戻っていった。
ようやくエプロンを脱ぐことを許され、バスローブを羽織って冷めた朝食を腹に収める。
「それにしても。裸エプロンって、危ないんだねぇ。知らなかった」
彼は、しみじみと呟いた。
「火傷すると跡残っちゃうもんね。せっかくお肌スベスベなのに。やっぱりお料理は、ちゃんと安全にやらなきゃダメだね。明日からはちゃんと服着てやろう」
その言葉に、俺は聞き捨てならない単語を反芻した。
「……明日?」
ルシアンは、俺の疑問に、心の底から不思議そうな顔で、そして最高の笑顔で答えた。
「だって、俺の可愛いお嫁さんだからね! 俺、毎日リオンの作った朝ごはんが食べたいな!」
俺は、そのあまりにも純粋な笑顔を前に、何も言えなくなった。
「新婚さんごっこ」は、一日限りのゲームではなかった。明日から続く、俺の新しい「仕事」なのだと、静かに悟るしかなかった。
食事が終わると、俺はルシアンにウォークインクローゼットへと連れて行かれる。
「さて。今度は、俺の完璧な秘書にならなきゃね!」
彼は楽しそうに、その日の俺の服装を選び、着替えを手伝い始める。
シャツのボタンを一つずつ留め、髪を完璧に整える。その手つきは、まるでお気に入りの人形をドレスアップさせているかのようだった。
「でーきた! 今日もかわいい!」
ようやく身支度が整い、二人で部屋を出る。
ドアノブに手をかけようとした、その時だった。
「いってらっしゃいのキスは?」
ルシアンが、子供のように唇を尖らせてねだってきた。
俺は、呆れ顔で彼を見る。
「……一緒に出るんだろ」
「それでもでしょ!」
彼は、ぷくりと頬を膨らませて譲らない。
俺は観念して深いため息をつくと、その唇に儀式のようなごく軽いキスをした。
ルシアンは、それでようやく満足したように、にっこりと笑う。
倒錯した「新婚さんごっこ」の朝が終わり、いつもの「主人と秘書」としての一日が、こうして始まった。
■あとがき■
ルシアンはリオンの髪を乾かすのが好き。動物の毛並みを撫でてるみたいだから。リオンが自分で乾かしてしまうと拗ねる。
読んでいただきありがとうございました!
このあいだまたお気に入り登録してもらうことができました。とても嬉しいです!
※次回更新予定は12/1(月) 20:00 です。
もう12月が来るというのですか…?
―――――次回予告―――――
それは、かつての俺が知っていた、自由の味だった。
第16話 『バイク』
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