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許婚5 天秤
しおりを挟むセラフィナが屋敷を訪れるようになって、何度目かのことだった。
その日も俺は、ルシアンと彼女が交わす腹の探り合いのような会話を、紅茶と茶菓子を用意しながら、ただ無心で聞いていた。
やがてルシアンが「あ、ちょっとトイレ」と何の気なしに席を立った。
書斎には、俺と、セラフィナ。二人だけが取り残される。
(……嫌だな)
この女は主人が席を外す、ほんのわずかな隙を、決して見逃さない。
案の定。彼女はそれまで座っていたソファから静かに立ち上がると、俺の前へと歩み寄ってきた。
紫水晶のような瞳が、俺をまっすぐに、射抜く。
「リオンさん。単刀直入に、伺いますわ」
その声は、低く、どこまでも真剣だった。
「あなたが本当に欲しいものは何?」
欲しいもの?
早く帰ってほしい。心底。
……俺が、本当に、欲しいもの?
ぶっきらぼうに「別にない」と答えれば、彼女はさらに食い下がってくるだろう。
この厄介な質問をどうやって終わらせるか。
(面倒だ……)
俺は、かつて誰かの秘書を演じた時に叩き込まれた、処世術を思い出した。
最も当たり障りのない完璧な答え。
俺は顔の筋肉を意識して動かし、完璧な、ビジネス用の、「にっこり」とした笑みを作ってみせた。
そして完璧に訓練された丁寧な口調で、答える。
「セラフィナ様。お気持ちだけで、充分にございます」
俺のその返事を聞いて。
セラフィナは、なぜか、息を呑んで、固まっていた。
その、いつもは氷のように冷たいはずの頬が、ほんのりと、赤く染まっている。
その、紫の瞳が、驚きと、そして、俺には理解できない、何か、熱っぽい光をたたえて、揺れていた。
(なんだ、こいつ?)
俺は彼女のその奇妙な反応に、内心いぶかしんでいた。
そんなことは、露ほども知らないまま。
ルシアンが鼻歌まじりで、のんきに書斎へと戻ってきた。
「ただいまー。あれ? セラ、まだいたの?」
セラフィナは、はっとしたように、慌てて俺から視線をそらした。
「え、ええ。そろそろ、失礼いたしますわ」
その声はいつもより、ほんの少しだけ、上ずっていた。
彼女は何かぶつぶつとつぶやきながら、足早に、部屋を出ていく。
ルシアンは、そのいつもと違う彼女の様子を、不思議そうに見送っていた。
「なんだろ、あいつ。変な顔して」
俺は何も答えなかった。
ただ、面倒な女がようやく帰ったことに、安堵の息をそっと漏らしただけだった。
あの日、リオンが、セラフィナの命を救ってから。
屋敷には奇妙な変化が起きていた。
セラがやけに頻繁に、俺との「契約の話し合い」という、クソつまらない口実で、この屋敷を訪れるようになったのだ。
そしてそのたびに、彼女は、俺の犬に、何かを贈ろうとする。
「リオンさん。先日こんなものを手に入れたのですけれど。私では持て余してしまいますので、専門家であるあなたにもらっていただけると嬉しいわ」
そう言って彼女が差し出したのは、どこかの紛争地帯でしか手に入らないような、希少な軍事戦術の専門書だった。
だがリオンは、一瞥しただけで、完璧な所作で首を横に振る。
「……私には、もったいないものです。お気持ちだけいただきます、セラフィナ様」
またある時には、精巧な作りのカスタムナイフを。
またある時には、あいつが時々飲むコーヒー豆の最高級品を。
その全てを、俺の犬は、表情一つ変えずに、丁重に、しかし、きっぱりと断り続けた。
「お気持ちだけで、充分でございます。セラフィナ様」
俺はその光景を最高のエンタメとして楽しんでいた。
(あはは、見てよ、これ。面白いなぁ。俺の犬に、あのプライドの高いセラが、意地になってる)
俺の完璧な犬は、こんなにも魅力的で、他の女まで虜にしてしまう。その事実に、俺は誇らしい気持ちにすらなっていた。
だがその光景が、あまりにも何度も繰り返されるうちに。
俺は、見てしまったのだ。
セラフィナが、リオンを見つめる時。
その、ただの興味ではない、本物の、熱を帯びた「女」の視線を。
(……なんだ。こいつの、この目)
(こいつ。本気で、俺のものを、自分のものにしたいって思ってるのか?)
俺の犬。
俺が拾って。俺が躾けて。俺が、俺だけが、こいつの価値を、その魂のありかを知っている。
こいつの、あの、可愛い鳴き声も、無防備な姿も、俺だけが知っている。
それをなんだ? この女は。
横からぽっと出てきて。勝手に値段をつけて。自分のものにできるとでも思っているのか?
俺の犬の、飼い主は、自分こそがふさわしいとでも?
「……リオンー」
呼ばれて、俺の犬が顔を上げる。そばまで寄ってくる。真っすぐに俺を見つめる、その瞳。
「なんだ」
俺は笑って、その頭を撫でてやる。
「なんでもない!」
それは明確な、苛立ちだった。
その日。
セラフィナはルシアンに対して、ただ二人きりでの、公式な会談を申し入れた。
場所はルシアンの屋敷の重厚な書斎。
リオンは、主人とセラフィナの命令通り、その会談の場に影のように控えていた。
セラフィナは護衛も連れず、ただ一人。完璧なスーツに身を包み、ルシアンの正面のソファに、深く腰掛けていた。
その顔にはもはや、リオンへの個人的な興味や、ルシアンへの苛立ちといった、感情の色は一切ない。
そこにあるのは、巨大な組織を率いる、冷徹な女王の顔だけだった。
彼女は挨拶もそこそこに、一枚のデータディスクを、テーブルの上に滑らせた。
「まずは私からの、誠意よ」
ルシアンがそのディスクをタブレットで確認すると、その金色の瞳がわずかに見開かれた。
「へえ?」
中に入っていたのは、彼の一族が長年、喉から手が出るほど欲しがっていた、いくつかの重要な利権の、無条件での譲渡契約書だった。
「大盤振る舞いじゃん、セラ。で? 見返りは?」
ルシアンはその破格の条件にも動じることなく、楽しそうに尋ねた。
セラフィナはその紫水晶のような瞳で、ルシアンを、そして、その後ろに控えるリオンを、まっすぐに、射抜いた。
彼女はたった一つだけ、その見返りを、口にした。
「―――私に、リオンをください」
しん、と、部屋の空気が凍りついた。
ルシアンの顔から、すっと、全ての笑みが消え失せた。
セラフィナはその反応を意にも介さず、静かに言葉を続ける。
「あなたがその条件を飲めないというのなら、結構。その代わり明日から、私の一族は、あなたの組織の敵になる」
セラフィナがゆるく足を組む。
「どちらがあなたにとって、得な話かしら? よく考えてね、ルカ」
それは、あまりにも傲慢で、そして、絶対的な、最後通牒だった。
彼女はリオンを手に入れるためなら、裏社会全体を巻き込む全面戦争すら、辞さない覚悟。
その狂気にも似た、真剣な「求愛」を前に、ルシアンは生まれて初めて、言葉を失っていた。
彼の、最も大切な「所有物」を、手放すか。
あるいは、自らが築き上げた、完璧な「遊び場」を、血の海に沈めるか。
ルシアンは生まれて初めて、自分の「所有物」を巡って、他者から、絶対的な選択を突きつけられた。
その金色の瞳。
それは、自らの王国と、唯一つの宝物を、勝手に天秤にかけられた、王の、冷たい眼だった。
■あとがき■
ルシアンはいつもゴキゲン。めったなことではイライラしないのだけども……
読んでいただきありがとうございました!
※次回更新予定は1/3(土) 20:00 です。
えっ、もう正月三が日が終わるというのですか…?
―――――次回予告―――――
やがて、長い、長い沈黙を破り、ルシアンが口を開いた。
「リオン、おいで」
その声は驚くほど優しかった。
第32話『許婚6 レディに対する言葉遣い』
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