2 / 38
リッキーと私
しおりを挟む
リッキーこと榎本力也は、私の幼なじみ兼クラスメイトの小学六年生。遠視用メガネ越しのギョロリと大きく見える目が印象的な男子だ。いつも軽口を叩いて回っているけれど、それが、おしゃべりな気の良い奴、という風では全然ない。他人が傷つくだろう攻撃的な言葉やいわゆる下ネタを、意図的に連発しているとしか思えないのだ。上島くんの件もそうだ。彼と、そして宮崎くんとはいつも一緒につるんでいるのに、その二人にだって、リッキーの容赦ない言葉は向かっていく。そして、私に対しても。
キーンコーン……、と間延びしたチャイムが響き始めると同時に、教室は騒がしくなる。椅子が床をこする音、潮の満ち干きみたいにザワザワした話し声に、遠くの席へ呼びかける大声。そのうるささに、後半の「カーンコーン」は飲み込まれてしまう。
私は隣の席の真美ちゃんとしゃべっていた。
さっきのさ、「露悪的」って、リッキーのことだよね、と私が言うと、真美ちゃんも、本当だ、と頷き、続ける。いつも嫌なことばっかり言うもんね。せっかくいいことしてんのに、宮崎くん、かわいそう。
んー、でも宮崎くんはそういうの気にするキャラじゃなくない? やっぱりかわいそうなのは上島くん。
いや、まあ、そうだけど、宮崎くんはすごく優しい気持ちで――
「おい、メスゴリラ!」
私たちの会話を遮って、後ろから声が飛んできた。休み時間になると誰かしらに投げかけられる、リッキーの嵐みたいなからかいだ。「メスゴリラ」というのは、いつの間にか男子の間に浸透してしまった私のあだ名。命名したのは、もちろんリッキーだ。今では「山崎かな」という本名で私を呼ぶ男子は、ほとんどいない。
私が振り返ると、一番後ろの席の机に座ったリッキーが、キラリといたずらっぽい光を映し、目を細めた。
「今度さ、 郷城中でバスケの試合があんだけどさ、お前行くといいよ。オレのいとこが出んだけど、そいつ、ゴリラだからさ。お前とだったら、超お似合い。ゴリラ同士だし、どっちもバスケやってんだからさ!」
くだらないことを、尻上がりの小馬鹿にしたような調子でまくし立てるリッキー。私は怒りの全部を眉間にかき集めて、思い切り嫌な顔をしてやった。そうして前へ向き直る。でも、背中にはリッキーの言葉が浴びせられ続けていた。
怪力メスゴリラとオスゴリラ。あ、でも結婚式とか行かないからな。オレは一応人間だから、動物の結婚式とか怖くて行けなーい。
リッキーは、いつもこんな感じだ。毎日毎日、取っかえ引っ変えクラスメイトをからかって、はしゃいでいる。当然煙たがられるし、一部の男子からは敵視されてもいるようだけれど、リッキーにそれで怯む様子はない。どれだけ冷ややかな目を向けられても、悪意の透けた言葉で人の気にしているところを小突き回す。上島くんなんて、「うんこ」話で笑いものにされただけじゃない。昨年のことだけど、顔立ちがあまり整っていないからという理由で、リッキーは彼に「顔面障害者」なんてひどいあだ名をつけたらしいのだ。当時、私は違うクラスだったから詳しいことは知らないけれど、リッキーが「顔面障害者!」と騒いでいたことは、何となく知っている。その時から同じクラスだった宮崎くんは、リッキーのように上島くんをひどいあだ名で呼んだりはしていなかったと思うけど、それでもリッキーの悪ふざけに乗ってしまうことは、よくある。本人に悪気はないのだろうけど……。空気が読めないって、恐ろしいことだ。そして、あの二人と上島くんが仲良くしているのも、すごく不思議だ。
でも、リッキーも昔から「露悪的」だったわけじゃない。ずっとずっと前、保育園で出会った頃は、今とは全然違っていた。
私が保育園に入ったのは、三歳の時。小さい頃の記憶なんて、ほとんど残っていないけれど、初めての登園が怖かったことは覚えている。門のところでお母さんと別れると、とたんに鼓動が太鼓みたいにドンドンドンと胸を打ち始め、手が変に震えた。先生が、ブルブルする私の手を取って中へ連れて行ってくれたけど、なぜだかその手の感触も、その他の見えるものも聞こえるものも全部が遠くて、ただ、私の耳には自分の心音ばかりが響いてきた。
他の子たちの中へ放り込まれても同じで、私は周りを薄もやで覆われてしまったような感覚のまま、何をしたらいいかも分からず、一人きりで座っていた。その時、
あそぼう。
突然、薄もやを突き破って、ひどく鮮やかな高い声がした。驚いて顔を上げると、すぐそこに自分より少し小さな男の子が立っていた。まだメガネをかけていないためか、今よりずっと優しい目つきに見えた。彼は黒目がちな目を三日月型に細めて笑った。そして、そっと私の手に手を重ねると、もう一度、あそぼう、と言った。熱くて少し湿った手のひらの温度に、固く絡まって動かなくなっていた心がするする解けていった。私は幼いリッキーに手を引かれ、みんなの輪の中へ入っていった。
あの時のリッキーの手の感触は、焼き込まれたみたいに手のひらに残っている。今では、もう失われてしまっただろう感触。
それから、リッキーとは小学二年生まで、ずっと同じクラスだった。その頃、彼はまだ「露悪的」じゃなかった。けれど、一度転校し、五年生で戻ってきたリッキーは、すっかり今のリッキーになっていた。
いったい、何がどうなったらここまで人が変わるのか、全然分からない。たぶん、私は二年生までずっとリッキーに恋していたけれど、戻ってきた彼を見て、その思いは再燃するどころか、あっという間に冷めてしまった。
キーンコーン……、と間延びしたチャイムが響き始めると同時に、教室は騒がしくなる。椅子が床をこする音、潮の満ち干きみたいにザワザワした話し声に、遠くの席へ呼びかける大声。そのうるささに、後半の「カーンコーン」は飲み込まれてしまう。
私は隣の席の真美ちゃんとしゃべっていた。
さっきのさ、「露悪的」って、リッキーのことだよね、と私が言うと、真美ちゃんも、本当だ、と頷き、続ける。いつも嫌なことばっかり言うもんね。せっかくいいことしてんのに、宮崎くん、かわいそう。
んー、でも宮崎くんはそういうの気にするキャラじゃなくない? やっぱりかわいそうなのは上島くん。
いや、まあ、そうだけど、宮崎くんはすごく優しい気持ちで――
「おい、メスゴリラ!」
私たちの会話を遮って、後ろから声が飛んできた。休み時間になると誰かしらに投げかけられる、リッキーの嵐みたいなからかいだ。「メスゴリラ」というのは、いつの間にか男子の間に浸透してしまった私のあだ名。命名したのは、もちろんリッキーだ。今では「山崎かな」という本名で私を呼ぶ男子は、ほとんどいない。
私が振り返ると、一番後ろの席の机に座ったリッキーが、キラリといたずらっぽい光を映し、目を細めた。
「今度さ、 郷城中でバスケの試合があんだけどさ、お前行くといいよ。オレのいとこが出んだけど、そいつ、ゴリラだからさ。お前とだったら、超お似合い。ゴリラ同士だし、どっちもバスケやってんだからさ!」
くだらないことを、尻上がりの小馬鹿にしたような調子でまくし立てるリッキー。私は怒りの全部を眉間にかき集めて、思い切り嫌な顔をしてやった。そうして前へ向き直る。でも、背中にはリッキーの言葉が浴びせられ続けていた。
怪力メスゴリラとオスゴリラ。あ、でも結婚式とか行かないからな。オレは一応人間だから、動物の結婚式とか怖くて行けなーい。
リッキーは、いつもこんな感じだ。毎日毎日、取っかえ引っ変えクラスメイトをからかって、はしゃいでいる。当然煙たがられるし、一部の男子からは敵視されてもいるようだけれど、リッキーにそれで怯む様子はない。どれだけ冷ややかな目を向けられても、悪意の透けた言葉で人の気にしているところを小突き回す。上島くんなんて、「うんこ」話で笑いものにされただけじゃない。昨年のことだけど、顔立ちがあまり整っていないからという理由で、リッキーは彼に「顔面障害者」なんてひどいあだ名をつけたらしいのだ。当時、私は違うクラスだったから詳しいことは知らないけれど、リッキーが「顔面障害者!」と騒いでいたことは、何となく知っている。その時から同じクラスだった宮崎くんは、リッキーのように上島くんをひどいあだ名で呼んだりはしていなかったと思うけど、それでもリッキーの悪ふざけに乗ってしまうことは、よくある。本人に悪気はないのだろうけど……。空気が読めないって、恐ろしいことだ。そして、あの二人と上島くんが仲良くしているのも、すごく不思議だ。
でも、リッキーも昔から「露悪的」だったわけじゃない。ずっとずっと前、保育園で出会った頃は、今とは全然違っていた。
私が保育園に入ったのは、三歳の時。小さい頃の記憶なんて、ほとんど残っていないけれど、初めての登園が怖かったことは覚えている。門のところでお母さんと別れると、とたんに鼓動が太鼓みたいにドンドンドンと胸を打ち始め、手が変に震えた。先生が、ブルブルする私の手を取って中へ連れて行ってくれたけど、なぜだかその手の感触も、その他の見えるものも聞こえるものも全部が遠くて、ただ、私の耳には自分の心音ばかりが響いてきた。
他の子たちの中へ放り込まれても同じで、私は周りを薄もやで覆われてしまったような感覚のまま、何をしたらいいかも分からず、一人きりで座っていた。その時、
あそぼう。
突然、薄もやを突き破って、ひどく鮮やかな高い声がした。驚いて顔を上げると、すぐそこに自分より少し小さな男の子が立っていた。まだメガネをかけていないためか、今よりずっと優しい目つきに見えた。彼は黒目がちな目を三日月型に細めて笑った。そして、そっと私の手に手を重ねると、もう一度、あそぼう、と言った。熱くて少し湿った手のひらの温度に、固く絡まって動かなくなっていた心がするする解けていった。私は幼いリッキーに手を引かれ、みんなの輪の中へ入っていった。
あの時のリッキーの手の感触は、焼き込まれたみたいに手のひらに残っている。今では、もう失われてしまっただろう感触。
それから、リッキーとは小学二年生まで、ずっと同じクラスだった。その頃、彼はまだ「露悪的」じゃなかった。けれど、一度転校し、五年生で戻ってきたリッキーは、すっかり今のリッキーになっていた。
いったい、何がどうなったらここまで人が変わるのか、全然分からない。たぶん、私は二年生までずっとリッキーに恋していたけれど、戻ってきた彼を見て、その思いは再燃するどころか、あっという間に冷めてしまった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】僕は君を思い出すことができない
朱村びすりん
青春
「久しぶり!」
高校の入学式当日。隣の席に座る見知らぬ女子に、突然声をかけられた。
どうして君は、僕のことを覚えているの……?
心の中で、たしかに残り続ける幼い頃の思い出。君たちと交わした、大切な約束。海のような、美しいメロディ。
思い出を取り戻すのか。生きることを選ぶのか。迷う必要なんてないはずなのに。
僕はその答えに、悩んでしまっていた──
「いま」を懸命に生きる、少年少女の青春ストーリー。
■素敵なイラストはみつ葉さまにかいていただきました! ありがとうございます!
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる