世界で一番やさしいリッキー

ぞぞ

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寒い道

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 外へ出ると、冷たく乾いた夜の空気に、体に残っていた温もりを一瞬で奪われた。寒さで頬がチクチクする。
「さみぃな」
 ゴリラが肩をすぼめて、歯と歯の間から漏らす。なんか、ごめんね。私が言うと、彼はこっちを向いてニコッと笑った。
「そういう意味じゃないって」
 こっちだよな? と言いながら、ゴリラはもう歩き始めていた。私も追いかけ、横に並ぶ。
 しばらく、お互いに何も言わなかった。この辺りは、昼間は小中学生が多く賑やかだけれど、暗くなってくると途端に静かになる。肌がピリピリ痛いくらい寒い夜の闇に、私たちの靴音が響いていた。
「あの」
 私が意を決して話しかけると、ゴリラは、前を向いたまま、ん? と返してきた。
「ゴリラは、知ってたの? リッキーがおばあさんの子どもだって」
「まあな」
 素っ気ないくらい、軽い答えが返ってきた。
「オレは一応、親戚だからさ。直接聞かなくても、何となく分かること、結構あるし」
「そうなんだ」
 私は顔をふせた。灰色に色あせたコンクリートが後ろへ流れていく。本当はもう一つ、聞いておきたいことがあるのだけど、彼の軽い感じの返事が、私の質問にまともに取り合わないとを示しているようで、のどでつっかえて声が出てこない。でも、絶対に、確かめておきたい。
「お母さんのことも、知ってる?」
 声を絞り出すと、頭上で、ゴリラが息をつく気配がした。
「知ってるけど、それもオレから聞いたわけじゃない。あんまりさ、詮索しないでやってくれよ。あいつが話したい時に話せるように」
 ゴリラの言葉が胸に痛かった。
 そうだ。リッキーの抱えているものが気になってしまう、リッキーの心の底を知りたいと願ってしまう私の思いは、たぶん、リッキーの気持ちを辛くするだけなんだ。話したくないこと、知られたくないことを無理矢理あばかれるなんて、そんなことは望んでいるはずがない。
「知らない奴がいるってのも、大事なんだよ」
 うつうつと考えている時に降ってきた声は、さっきより少し丸みがあって、私はつい顔を上げた。相変わらず前を向いたままのゴリラの横顔は、かすかに笑っていた。
「オレはさ、ばあちゃんと力也の関係はあいつより先に知ってたくらいだから。なんか吐き出したいっていうか、打ち明けたい時って、あんま役に立たないんだよ。ほら、あんじゃん? 今までずっとしまってたもの外に出したら、楽になるってこと。そういう風にできるように、あいつが自分から打ち明けるまでは知らないでいてやってほしいんだよ。あいつは、そういうこと、お前が一番話しやすいみたいだし」
 心臓が大きく脈打った。私が一番話しやすい?
「和真はさ、いい奴なんだけど、能天気すぎっつか、呑気で他人の気持ちにうといとこあるから、力也が話してもあいつの気持ち、よく分かんないと思うんだよ。そういう、細かいこと気にしない和真のことと自分を、力也はすげぇ比べちまうみたいでさ。あと、和真は口も軽いし。たぶんその辺の理由で、力也も和真には何にも話すつもりないらしい。和真のことはめちゃくちゃ好きなんだけどな」
「そっか」
 私はリッキーが大切なことを打ち明けられる相手なんだ。トクトクお湯が注がれたように、胸が温かくなった。その温かさにじっと心を澄ましていると、自然と頬がゆるんでくる。
 すると、ゴリラがまた口を開いた。
「あいつはさ、例のこと、ずっと知らない振りしてばあちゃんと暮らしてたみたいなんだ。それも結構キツかったんだと思う。全部知ってるのに、なんにも知らない平気な顔でずっといなくちゃならなくて。それが二年近く続いてんだから、平気なフリすんの限界だったってのも、あるんじゃねぇかなって思うんだよ。だから、お前にぶちまけられて、良かったんじゃないかな」
 ゴリラがフッと息を吐く。白い煙が、彼の横顔の輪郭をなぞるように上っていった。それから、彼は目を光らせて私を見た。
「それはそうとさ、オレもひとつだけ聞いときたい。なんで近藤のこと、知ってんだ?」
 ドキッとした。あの時、私たちはリッキーの家へ忍び込み、おばあさんがあの近藤という人に電話で話すのを盗み聞きしたのだ。近藤のことを知ったのは、その後だったけれど、私の中で二つの出来事はひと続きみたいになっていたから、勝手に家へ入ったことを責められたような気持ちになった。緊張で狭まった喉から何とか声を出す。
「リッキーの家の前で、会ったの」
 私はゆっくり、自分の言葉のひとつひとつを確かめるくらい慎重に話した。
「余所の家の前で遊ぶなって、怒られた」
「あいつのやりそうなことだな」
 ゴリラがそう言い視線を前へ向けるのを見て、ちょっと体の強張りが解けた。
「たぶん、そん時かな。あのクズ、家に電話してきてさ、うちのババアと大喧嘩になったんだ。ババアもキレて怒鳴りまくってさ、力也のこと、認知もしてないくせに、こんな時だけしゃしゃり出てくんじゃねぇって。あれに関しては、オレもババアと同じ意見」
 ゴリラは、乱暴に息をついた。白い吐息の塊が、また彼の顔を撫でるようにゆらゆら上へ伸びていく。
「でも、ほんとにめちゃくちゃでかい声で怒鳴るから、力也にも全部丸聞こえんなっちまって、ちっとは気ぃ使えよって、今度はオレとババアが喧嘩んなって。そういうのも全部力也に筒抜けだったんだから、オレもやってることはババアと同じだったんだよな。力也には、マジで悪いことしちまった」
 それから、ゴリラは声の調子を落とした。
「そんなんばっかだよ。力んなってやりたいとは思うんだけど、なんにもしてやれないし、逆に余計辛くさせるばっかでさ」
「そんなことないじゃん」
 考えるより先に言葉が出ていた。
「だって、リッキーは他の誰のところでもなく、ゴリラのとこに来たんじゃん。ゴリラを一番頼りにしてるからだよ」
 私じゃなくて。そう思った。リッキーはゴリラを真っ先に頼ってきたんだ。よりどころになっているというだけで、十分力になっている。でも、ゴリラは首を振った。
「こないだだって、めちゃくちゃ怖い思いもさせちまったし」
「怖い思い?」
 私が聞くと、ゴリラは、これ、とマスクを指さした。
「怖かったと思うんだよ。誰かが暴力ふるわれんの見んのはさ。そういうの、あいつは見てきたから」
「お母さんのこと?」
 胸の底がヒヤッとして私が尋ねると、ゴリラはちょっと笑みを深めた。
「それは、あいつが話すまで待っててやってくれよ。たぶん、そのうちまた限界きて、話さないでいられなくなると思うから」
 ゴリラが深く息をつく。口から白い煙が出て、ゆらゆら闇を上っていく。
「あの件は大山にも悪いことしちまったしな」
「大山?」
 いきなり全く知らない名前が出てきて、調子の外れた声を上げてしまった。ゴリラがまた、マスクを指し示したのを見て、ハッとした。ピアスだ。
「悪いことって、なんで? ケガさせられたのに」
 と言ってすぐ、別の疑問が浮かんだ。「大山」って、なんで名前をちゃんと知ってるんだろう? もしかして知り合い?
 私の顔つきから、疑問を察したのだろう。ゴリラが説明した。
「小学ん時、オレもあいつもミニバスやってたから。チームは違ったけど、練習一緒にすることもあったし、試合とかでとよく顔合わせてて、会ったらあいさつくらいはしてたんだ。まぁ、逆にその程度の仲だったけど。」
 ゴリラは、少しうつむいて続けた。
「あいつ、昔からキレやすいとこあってさ。ファウル取られたり負けたりした時、思いっきり壁にボール投げつけてたり、そういうのはよく見かけた。ケンカん時はあいつが相手だって初めは知らなくてさ。分かってからは、とりあえずキレて力也たちになんかされないように、まずあいつをやんないとなって、思ってたんだ。でも、あん時はキレなかったから、落ち着いてきてんのかなって思って、ちょっと油断してた。まあ、波があんだろうな」
 ゴリラはちょっと息をついて、続ける。
「オレもあん時はムキになっちまってさ。あいつ、最初のうち、髪茶色い奴と一緒になって、見えないように嫌がらせしてきてたから。だから、オレもパスとか出さずにあいつのこと抜いてやろうって思っちまって、プレイも強引になってた。それにあいつはムカついてたんだと思う」
 ゴリラは、また言葉を切り、遠くのものを見ようとするように目を細めた。
「最初は見えないようにやってきてたんだよ、本当に。でも、だんだん様子が変わってきて、外から見てはっきり分かるように、こっちに当たってきた。バレないようにやってた時は、わざとだからさ、逆に自制できてたんだと思う。けど、そうじゃなくなってからは、たぶん、自分でもセーブできなくなってたんじゃねぇかなって、後から思ってさ。だって、あいつ、オレがファウル受けて倒れたりすると、一瞬、顔引つるって言うか泣きそうな感じの顔んなってんだよ。オレはそれでも、あいつにムカついてて、全然、あいつのこと考えてやれなかった」
「そんなの当たり前じゃん」
 お腹から、違うという気持ちがぐっと上がってきて、私は言った。
「あの人にはあの人の事情があったのかもしれないけど、でも、だからってあんなことしちゃだめだよ。あんなの、ひどすぎるよ。ひどすぎることされたのに、ゴリラが悪いなんて思うことないよ」
 ゴリラはちょっと下を向いて、笑った。
「みんなひどいって言うけどさ、オレにとっては、そんな大騒ぎするようなことじゃないんだよ。そりゃ、すげぇ痛かったし、あん時はめちゃくちゃ悔しかったしムカついたし、あいつのこともぶん殴ってやりたいくらいだったけどさ、過ぎちまえば、オレにはなんでもないんだよ、本当に。たぶん、こういうことって本人よりも周りの奴の方がキツいんだと思う。見た感じすごいヤバかっただろうから、余計にさ。大山や力也の方が、オレなんかより精神的なダメージはでかかったと思う」
 だからさ、とゴリラは続けた。オレ、あいつにまた試合で会ったりしたら、「オレは平気だ」って、「全然気にしてない」って、「だからお前も気にすんなよ」って、言ってやろうと思ってたんだ。でも、あいつ、部活も辞めちまったらしいから、それもできなくてさ。
「ゴリラって、なんか、すごいね……」
 私が言うと、ゴリラはちょっと苦そうな笑みを浮かべて首を振った。
 でも、本当にすごいと思わずにはいられなかった。だって、この人は他人のことばかり考えているんだから。自分のことを、ほとんど考えていなさそうだ。それがいいことか悪いことか分からないけれど、でも、きっと、こんな風に考えられる人は、そうそういないだろう。それは、すごいことだ。
 話している間に、家の近くまで来ていた。なぜだか分からないけれど、私はゴリラの話を聞くのが少し辛くなってきていて、足を止めて言った。
「この辺でいいよ。もうすぐそこだからだから」
 ゴリラがきょとんとして私を見た。
「あ、そっか」
 彼はにっと笑い、じゃあな、とすぐに背を向けた。
 
 ゴリラの話は、不思議と私の心を乱していた。どうして彼はあんな風に自分のことを後回しに考えられるのだろう。なんで自分より他人を優先してしまうんだろう。それが分からないことが、なんとなく悲しかった。自分がとても小さな人間に思えてしまった。
 そして、リッキーのことが頭をよぎる。
 リッキーが私に何か大きなことを打ち明けてくれた時、私は自分より彼のことを考えてあげられるだろうか。自分の辛さや悲しみや悔しさを全部飲み込んで、彼のことだけ考えてあげられるだろうか。
 きっとできない。できないことが悪いかは分からないけど、でもそれができないのは、リッキーのことをゴリラみたいに受け止めてあげることができないってことじゃないかと思った。それは、とてもとても悲しい。
 リッキーの顔がまぶたに浮かぶ。さっき、ゴリラの家で見た、ポロポロ涙を流す顔が。そうして、やっと気がついた。
 笑ってくれなかった。
 みんなでリッキーを笑わせようと思って作ったあの人面マスクを見て、リッキーは笑わなかった。ニコリともしなかった。それを思うと、心がぎゅっとして、目の奥が熱くなった。
 笑ってほしかった。
 胸を痛めながら、私は自宅のドアを開けた。
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