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最終話
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収穫祭の熱狂から一夜明けた。
黒鱗宮(こくりんきゅう)を包む空気は、これまでにないほど澄み渡っている。火山の噴煙さえも、朝日に照らされて薄桃色の雲のようにたなびいていた。
エリアンは、再生した温室の特等席――蒼天の氷蓮が咲き誇る池のほとりで、一冊の分厚いノートを広げていた。
それはオルテシア皇后が遺した記録の続きであり、同時に、エリアンがこの城に来てから書き留めてきた「皇帝ヴァレリウスの体調管理日誌」でもある。
「……よし。心拍、体温、魔力の循環速度。すべてにおいて、この一ヶ月で最も安定していますね」
エリアンは満足げにペンを置き、大きく伸びをした。
温室内には、土の香ばしい匂いと、新緑のみずみずしい香りが充満している。
パシャリ、と水面を叩く音がした。昨日の祭りでも元気に跳ねていた陽炎錦(かげろうにしき)が、エリアンの影を見つけて餌をねだるように寄ってくる。
「お前たちは本当に元気ですね。……私も、少しは役に立てたのでしょうか」
ふふ、と独り言を漏らしたその時、背後から音もなく熱い壁が迫ってきた。
振り返るよりも早く、肩を抱き寄せられる。
首筋に当たる熱い吐息と、漆黒の髪が頬をかすめる感触。
「役に立ったどころではない。……貴様がいなければ、この城は今頃、私の熱で炭になっていたはずだ」
ヴァレリウスが、エリアンの肩に顎を乗せた。
皇帝の正装は脱ぎ捨てられ、今は動きやすい薄手のシャツ一枚だ。それでも、触れ合う部分から伝わる熱量は、エリアンの心臓をいつもより少しだけ騒がしくさせる。
「陛下。……また、お忍びで中庭に来たのですか? マリスさんがお探しでしたよ」
「あやつは小言が多すぎる。……それよりも、これを見ろ」
ヴァレリウスが差し出したのは、銀で作られた小さな鍵だった。
持ち手の部分には、エリアンの若草色の瞳と同じ色の宝石――エメラルドが埋め込まれている。
「これは……?」
「温室の奥にある、古い宝物庫の鍵だ。……今日から、あそこを自由に使え。お前が欲しがっていた、東方の古い薬草の種や、魔力を含んだ特殊な土が眠っている」
エリアンの瞳が、一瞬で宝石よりも輝いた。
「本当ですか!? あそこ、ずっと気になっていたんです! 中には『千年冬至草』の記録もあるって噂で……!」
「……やはり、真っ先に草の話か」
ヴァレリウスは呆れたように笑うと、エリアンの手を握り締め、その手のひらに鍵を押し込んだ。
「エリアン。……これは、ただの鍵ではない。……この城のすべてをお前に委ねるという、私なりの誓いだ」
ヴァレリウスの黄金の瞳が、至近距離でエリアンを見つめる。
そこには、かつて彼を苦しめていた孤独や殺意は微塵もない。ただ一人の青年を、何よりも大切に、そして独占したいという、純粋な愛着だけが揺れていた。
「誓い、ですか」
「ああ。……お前をジルベル家から奪い、ここに繋ぎ止めたのは、竜の気まぐれだったかもしれない。……だが、今お前にここにいてほしいと願うのは、一人の男としての我欲だ」
ヴァレリウスは、エリアンの細い指を一つずつ絡めるようにして、深く、熱い口づけを落とした。
肌が焼けるような熱。けれどエリアンは、その熱を心地よいと感じている自分に気づいていた。
「……陛下。私は、最初から逃げるつもりなんてありませんよ。……ここであなたの熱を測り、草を育て、美味しいお茶を淹れる。それが、私の見つけた一番の『薬』なんですから」
エリアンはそう言うと、自分からヴァレリウスの広い胸に顔を埋めた。
ドクン、ドクン。
不器用で、けれど真っ直ぐな、皇帝の心臓の音。
「……エリアン。……重いか」
「ええ、すごく重いです。陛下、筋肉がつきすぎなんですよ。お世話をする私の腰が、毎日悲鳴を上げているんですから」
エリアンがわざとらしく溜息をつくと、ヴァレリウスは満足げに腕の力を強めた。
「ならば、一生かけて私が支えてやろう。……腰が砕けて動けなくなっても、私がどこへでも運んでやる」
「それは困ります。私、自分の足で薬草を採りに行きたいんですから!」
温室に、二人の明るい笑い声が響き渡る。
入り口では、ゼフィールがマリスと並んで、苦笑しながらその様子を眺めていた。カイルはといえば、新しく手に入れた肥料の袋を抱えて、すでに池の向こうで作業を始めている。
火山に抱かれた、孤独な城。
かつて死を待つ場所だったそこは、今や大陸で最も温かく、そして生命力に溢れた場所へと生まれ変わっていた。
銀の薬師が、不器用な竜の皇帝に寄り添い、その熱を愛へと変えていく。
二人の物語は、これからもゆっくりと、けれど確実に、この大地の隅々まで緑を広げていくだろう。
「さあ、陛下。……今日のお仕事が終わったら、温室の池で獲れたお魚のムニエルを試作しますよ。覚悟してくださいね」
「…………。お前、やはりあの魚を食うつもりか」
「毒見は陛下にお任せしますから!」
陽光を浴びて輝く青い花びら。
重なり合った二人の影。
薬師エリアンの処方箋に、終わりはない。
なぜなら、彼が癒すべき愛おしい竜帝は、今日も明日も、一生分の愛を抱えて、彼の隣に立っているのだから。
黒鱗宮(こくりんきゅう)を包む空気は、これまでにないほど澄み渡っている。火山の噴煙さえも、朝日に照らされて薄桃色の雲のようにたなびいていた。
エリアンは、再生した温室の特等席――蒼天の氷蓮が咲き誇る池のほとりで、一冊の分厚いノートを広げていた。
それはオルテシア皇后が遺した記録の続きであり、同時に、エリアンがこの城に来てから書き留めてきた「皇帝ヴァレリウスの体調管理日誌」でもある。
「……よし。心拍、体温、魔力の循環速度。すべてにおいて、この一ヶ月で最も安定していますね」
エリアンは満足げにペンを置き、大きく伸びをした。
温室内には、土の香ばしい匂いと、新緑のみずみずしい香りが充満している。
パシャリ、と水面を叩く音がした。昨日の祭りでも元気に跳ねていた陽炎錦(かげろうにしき)が、エリアンの影を見つけて餌をねだるように寄ってくる。
「お前たちは本当に元気ですね。……私も、少しは役に立てたのでしょうか」
ふふ、と独り言を漏らしたその時、背後から音もなく熱い壁が迫ってきた。
振り返るよりも早く、肩を抱き寄せられる。
首筋に当たる熱い吐息と、漆黒の髪が頬をかすめる感触。
「役に立ったどころではない。……貴様がいなければ、この城は今頃、私の熱で炭になっていたはずだ」
ヴァレリウスが、エリアンの肩に顎を乗せた。
皇帝の正装は脱ぎ捨てられ、今は動きやすい薄手のシャツ一枚だ。それでも、触れ合う部分から伝わる熱量は、エリアンの心臓をいつもより少しだけ騒がしくさせる。
「陛下。……また、お忍びで中庭に来たのですか? マリスさんがお探しでしたよ」
「あやつは小言が多すぎる。……それよりも、これを見ろ」
ヴァレリウスが差し出したのは、銀で作られた小さな鍵だった。
持ち手の部分には、エリアンの若草色の瞳と同じ色の宝石――エメラルドが埋め込まれている。
「これは……?」
「温室の奥にある、古い宝物庫の鍵だ。……今日から、あそこを自由に使え。お前が欲しがっていた、東方の古い薬草の種や、魔力を含んだ特殊な土が眠っている」
エリアンの瞳が、一瞬で宝石よりも輝いた。
「本当ですか!? あそこ、ずっと気になっていたんです! 中には『千年冬至草』の記録もあるって噂で……!」
「……やはり、真っ先に草の話か」
ヴァレリウスは呆れたように笑うと、エリアンの手を握り締め、その手のひらに鍵を押し込んだ。
「エリアン。……これは、ただの鍵ではない。……この城のすべてをお前に委ねるという、私なりの誓いだ」
ヴァレリウスの黄金の瞳が、至近距離でエリアンを見つめる。
そこには、かつて彼を苦しめていた孤独や殺意は微塵もない。ただ一人の青年を、何よりも大切に、そして独占したいという、純粋な愛着だけが揺れていた。
「誓い、ですか」
「ああ。……お前をジルベル家から奪い、ここに繋ぎ止めたのは、竜の気まぐれだったかもしれない。……だが、今お前にここにいてほしいと願うのは、一人の男としての我欲だ」
ヴァレリウスは、エリアンの細い指を一つずつ絡めるようにして、深く、熱い口づけを落とした。
肌が焼けるような熱。けれどエリアンは、その熱を心地よいと感じている自分に気づいていた。
「……陛下。私は、最初から逃げるつもりなんてありませんよ。……ここであなたの熱を測り、草を育て、美味しいお茶を淹れる。それが、私の見つけた一番の『薬』なんですから」
エリアンはそう言うと、自分からヴァレリウスの広い胸に顔を埋めた。
ドクン、ドクン。
不器用で、けれど真っ直ぐな、皇帝の心臓の音。
「……エリアン。……重いか」
「ええ、すごく重いです。陛下、筋肉がつきすぎなんですよ。お世話をする私の腰が、毎日悲鳴を上げているんですから」
エリアンがわざとらしく溜息をつくと、ヴァレリウスは満足げに腕の力を強めた。
「ならば、一生かけて私が支えてやろう。……腰が砕けて動けなくなっても、私がどこへでも運んでやる」
「それは困ります。私、自分の足で薬草を採りに行きたいんですから!」
温室に、二人の明るい笑い声が響き渡る。
入り口では、ゼフィールがマリスと並んで、苦笑しながらその様子を眺めていた。カイルはといえば、新しく手に入れた肥料の袋を抱えて、すでに池の向こうで作業を始めている。
火山に抱かれた、孤独な城。
かつて死を待つ場所だったそこは、今や大陸で最も温かく、そして生命力に溢れた場所へと生まれ変わっていた。
銀の薬師が、不器用な竜の皇帝に寄り添い、その熱を愛へと変えていく。
二人の物語は、これからもゆっくりと、けれど確実に、この大地の隅々まで緑を広げていくだろう。
「さあ、陛下。……今日のお仕事が終わったら、温室の池で獲れたお魚のムニエルを試作しますよ。覚悟してくださいね」
「…………。お前、やはりあの魚を食うつもりか」
「毒見は陛下にお任せしますから!」
陽光を浴びて輝く青い花びら。
重なり合った二人の影。
薬師エリアンの処方箋に、終わりはない。
なぜなら、彼が癒すべき愛おしい竜帝は、今日も明日も、一生分の愛を抱えて、彼の隣に立っているのだから。
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