断罪された悪役令嬢は、吸血鬼の棲む館へ永久追放されました

雨舍紫苑

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第一夜 呪いの館

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 軋む音とともに、檻付きの馬車が森の奥深くへと進んでいく。
 朝霧の名残が幌の隙間から射し込み、ロザリアの頬に淡く冷たい光を落としていた。

 かつて豪奢なドレスを纏い、絹張りの座席に腰かけ、四頭立ての馬車に揺られていた日々は、幻だったのだろうか。
 今の彼女を囲むのは、錆びた鉄格子とわずかな藁、そして手首を締めつける冷たい錠。辛うじて身に張り付いている白い布切れの裾は擦り切れ、足は泥塗れだった。冷えきった鎖が、彼女の自由も尊厳も、幻想までもを容赦なく剥ぎ取っていく。

 王子の微笑みが、自分だけのものではなかったと知ったのは、すべてを失った後だった。
 ロザリア・ヴァルブロワ。名門の末裔として育ち、絹に包まれ、宝石のように愛されていた少女にとって、「選ばれない」という事実は、世界そのものの崩壊に等しかった。

 あの日、王子は彼女に手を差し伸べ、舞踏会の始まりを告げる最初のダンスを捧げた。
 だから、当然だと思った。選ばれるのは、自分だと。
 けれど王子の眼差しが注がれていたのは、舞台袖の影にいた平民の娘。透き通るような瞳を持つ、名も知らぬ少女だった。

 嫉妬は静かに彼女の中で形を成し、やがて醜悪な影を引き摺って姿を現す。
 礼節に見せかけた悪意、上品な仮面の裏に隠した策略。すべては、自分の居場所を守るための手段だった。
 だが、その悪事も長くは続かなかった。

 慈愛の仮面の奥にある冷徹な判断力。
 正義を語る王子の唇は、ロザリアにではなく、彼女を憎んだ者たちのために動いた。
 婚約は破棄され、優雅に築かれた生活も、楽園のような日々もすべて剥ぎ取られ。
 残されたのは追放と言う名の烙印と、冷えきった未来だけだった。


 馬車が軋みとともに停止する。
 ロザリアが顔を上げると、格子の向こうに黒々とした館が姿を現した。

「――降りろ」

 騎士の無機質な声に促されても尚、ロザリアは身じろぎもせず、ただ館を見つめていた。
 その場所を、彼女は知っていた。否、街で知らぬ者などいなかった。
 訪れた者が皆、消息を絶つという、町外れの呪われた館。
 風もないのに揺れるカーテン、人の気配のない窓辺に映る人影。誰もが子供の頃に一度は耳にした、怪談話の舞台。

 足を踏み出せないでいた彼女は、乱暴に引き摺り出されるようにして、地面に放り出された。
 転がった視線の先。黒い脚が二本、格子のように立ちはだかる。
 長い脚を辿り視線を上げると、そこにいたのは、あの恐ろしいほど美しいタナトスだった。

 漆黒の外套を風に翻し、蝙蝠のような傘の陰に潜み、朽ちかけた門を背にして立つその姿は、まるで額縁に収められた古い絵画のようだ。
 だが、ロザリアはすぐに後悔する。
 心の中で彼を美しいと評してしまったことを。



「私はこんな愚作を頼んだ覚えはないが?」



 男の声音は、艶やかで、氷のように冷たい。
「届け先を間違えているのでは?」と続けた彼の目線は、あからさまに地面へ転がっている女を嘲っていた。

「……な、何ですって……っ」
「おや。自覚がおありだったとは、感心ですな」

 屈辱に頬を紅潮させたロザリアが詰め寄ろうとするのを、騎士が慌てて押さえ込む。
 男は、その様子を首根っこを掴まれた猫でも眺めるかのように、薄く笑った。

「昨日はあんなに青い顔をしていたというのに、随分とお元気になられたようで。ご挨拶が遅れました。私はルシフェル・ド・ノクス=ヴァレンティス。以後、お見知りおきを。ロザリア姫……ああ、失敬。“元”姫でしたか」

 その微笑みは、笑みなどではなかった。
 それは、牙を剥く獣の表情。

 ロザリアの顔色は赤から青、そして紫へと目まぐるしく変化し、ついには凍りついたように動かなくなる。
 その傍らで、騎士が国王から預かっていた手紙を読み上げた。
 どうやら、自分の身柄はこの男に“譲渡”されたらしい。つまりは、ロザリアの命運はすべてこの男の手に握られているというわけだ。
 遠い意識の果てで、それだけはロザリアにも理解出来た。

 先程の自分の愚かな言動を思い出し、後悔するも時既に遅く。
 馬車は軽快な足音を響かせながら走り去り、無慈悲にも彼女だけが館の前に取り残された。



「わ、私を……どうするつもり……?」

 震える声で問う憐れな彼女に、ルシフェルは無言で近付いた。
 一瞬身構えたロザリアだったが、彼は黙ったまま手錠の鍵を鍵穴へと宛てがう。
 錠が外れる音とともに、鎖が地面に滑り落ちる。
 ロザリアの手首は冷たい金属の縛りから解放され、心做しか幾分息がしやすくなった気がした。

 けれどもそれは、自由を与えられたわけではない。ただ、縛る必要すらないと見なされたのだ。
 彼女が困惑のまま立ち尽くしていると、ルシフェルは一言だけ呟いた。

「私が君をどうするかは、君次第だ」

 夜の香りを纏った外套が翻り、黒い傘が茂みの中へと消えてゆく。

 ロザリアの胸の奥に、鈍く重たい何かが落ちる。
 愛されると信じて疑わなかった過去、赦されることを当然と思っていた日々。そのすべてが、いま足元から崩れてゆく。
 誰にも愛されず、誰にも選ばれず、ただ罪だけを背負って、この場に立っている。


 歩を進める毎に、輝かしい過去の記憶が剥がれ落ちる。
 その一枚一枚が肌を裂き、血を滲ませ、痛みを残して、ロザリアという存在を削り取ってゆく。

 それでも、彼女は振り返らなかった。
 もう、戻れる場所など何処にも無いと理解っている。

 館の扉が、ひどく緩慢な動作で軋みながら開く。
 ルシフェルが扉を押さえ、ロザリアへ早く中へと入るよう促す。
 彼女はほんの一瞬躊躇った後。意を決してあしをあげた。

 恐る恐る踏み入れた館の中は、まるで時間の底に沈んだまま、歴史に取り残された古代文明のようだった。
 壁には煤けた肖像画が並び、重く垂れ下がったカーテンは風も通さない。床は長い年月に軋み、絨毯には微かな血のような染みが、点々と模様を描いている。

(……吐き気がするほど時代遅れ。よくもこんな薄気味悪い場所に住めるものね……)

「喜んでいただけたようで、何より」

 ロザリアが内心で吐き捨てた瞬間、背後から皮肉ったらしい声が返ってきた。
 彼女はぎょっとして振り返る。
 そこには、ルシフェルが相変わらず古い絵画に描かれた貴族のような無表情で、つっ立っているばかりだ。

(ま、まさか心を読んだわけじゃないわよね……。いいえ、幾ら胡散臭い男だからって、そんな芸当出来るはずは、)

「その卑しい心根をさっさと直さないと、遅かれ早かれ誰かに刺されるだろうな」

 ルシフェルは笑いもせず、ただ淡々と彼女を見下ろしていた。
 冷たい指先で心臓の奥を撫でられ、薄ら寒い感覚が背筋を這い昇る。
 息が止まりかけた。
 再び頭の中を覗かれたような錯覚に陥り、胸が脈打つ。

 ──あり得ない。
 現実にこんな事、あって良いはずがない。
 だがこの男には、世間一般の常識さえ通じない気がした。

「我が家がお気に召さなくて悪かったな。……だが、今の君には、自分で思っているより遥かに此処がお似合いだ」
「……っ!」

 ルシフェルはロザリアの、ボロ雑巾さながらの衣服、汚れた頬、乱れた髪に至るまで、容赦のない視線を滑らせ、鼻先で笑った。
 彼女は羞恥と怒りで頬が熱くなる。
 けれど、何処を探しても言い返す言葉が見つからず、ムッとして唇を噛み、目の前の底意地の汚い悪魔から顔を背けた。

 まるで叱られた子供のような反応を見せる彼女に、彼はほんのわずか、唇の端が自然と緩んだ。 
 それは嘲りでも憐憫でもなく、感情と呼ぶにはあまりにも微細な、ほんの一滴。
 名もなき情に似た、何かが混じった微笑みだった。

 重く扉が閉じ、館の中は静寂に包まれる。
 風も時間も眠ったままの館を、重苦しい暗闇だけがゆっくりと飲み込んでいくのを、ロザリアは唇を噛み締め、ただ見つめていた。



 ✦︎ ✦︎ ✦︎



 与えられた部屋は、それなりに広さこそあれど、ほとんど牢の延長のようだった。
 窓は固く閉ざされ、天蓋付きのベッドは朽ちかけたレースに覆われていた。壁紙はひび割れ、カーテンからは乾いた埃の匂いが漂う。

 ロザリアは力なくベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。

(ここが、私の終焉の地)

 胸の奥がちくりと痛む。悔しさなのか、虚しさなのか、それとも自業自得の諦めなのか、自分でもよく分からなかった。
 ただひとつ、確かなことは。
 自分はもう、誰にも愛されないということだった。

 かつて王子の微笑みに、未来の全てを見た。
 あの時、あの瞬間に戻れるのなら、どれほどのものを投げ捨ててでも……

 でも、それは思い描いても虚しいだけの、叶わぬ夢だった。
 気がつけば、頬を涙が伝っていた。
 我儘で傲慢だった少女の、最後の涙。
 それはひどく冷たくて、けれど確かに、まだ自分が生きている証でもあった。

 怒りも、憎しみも通り過ぎて、最後に残ったのは悲しみだけだった。
 本当は、自分が一番よく知っていたのだ。
 だからこそ、卑劣な手段で愛を奪おうとした。
 自分の価値を証明したくて、気に入らないものを傷つけてきた。

 けれど、そのたび自分の中で何かが削れた。
 心の奥の、まだ温かく柔らかい部分が。
 止められなかった。認めたくなかった。自分が彼にとって、ただの脇役であることを。
 そして気がつけば、彼女はこの恋物語の“悪役”に堕ちていた。



 乾いた音を立てて、扉がノックされる。
 ロザリアは慌てて涙を拭い、睨みつけるように声を返した。

「……何よ……」
「食事の時間だ」

 相変わらず無遠慮な男は、返事を待たず扉を開け、勝手に部屋へと踏み込んでくる。
 まるで彼女の心の奥にまで、土足で入り込んでくるようだった。

「料理はどこから運ばれてくるの?」

 渋々立ち上がったロザリアは、問いかけながらも、心のどこかで期待していた。
 せめて食事くらい、普通であって欲しい。
 そんな、小さな望みだった。

 しかし。

 不意に冷たいものが、手の甲に触れた。
 ひやりとしたその感触に、思わず視線を落とす。

「え……?」

 絡め取られた手は、氷のように冷たい。
 そして、決して逃れられない力を秘めていた。
 ロザリアは慌てて振りほどこうとするが、ルシフェルはびくともしない。

「食事をするのは、君じゃない」

 その声には、嗜虐の気配は見当たらなかった。
 あるのはただ、哀れみを滲ませた静けさだけ。

「やめて……っ、離して、気が狂ったの……?」
「狂ってる?それは君の方だろう。でなければ、こんな場所に送り込まれることもなかったはずだ」

 そのまま強引に身体を引き寄せられ、白い首筋が晒される。
 ロザリアの大きな瞳が、恐怖に見開かれる。

「い……嫌……っ!」
「心配するな。死にはしない」

 鋭い何かが、肌を掠めた。
 次の瞬間、ぷちん、と皮膚を貫く儚い音がして、胸の奥にまで震えが走る。

 熱い。甘い。痛い。怖い。
 何かが少しづつ抜き取られていく。
 痛かったのは最初だけで、後は頭がふわふわするような心地良さの中、思考がだんだんと緩慢になっていった。

 意識が揺らぎ、世界がぼやける。
 底知れぬ闇に沈んでいくような感覚。



 ――嗚呼、お母様。

 私、最期までいい子になれなくて、
 ごめんなさい。



 信じていたものはすべて偽物だった。
 愛も、未来も、そして自分自身も。

 吸われていく血の中に、奪われていくのは、命だけではなかった。
 それは、ひとりの少女が「幸福になれる」と信じていた、最後の希望と無垢な願いだった。
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