最後の断罪者

広畝 K

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 【セントルイス教区街・黒曜教会】


 貴方は報告を終え、静かに、薄く長い息を吐き出した。
 淡々と語られた報告が終わるも、懺悔室は変わらぬ静謐に満たされている。
 その静謐は貴方にとって心地良いものだった筈だが、今はどことなく、息苦しく感じられてならない。

 司祭も、息苦しい緊張の雰囲気を感じていたのだろう。
 貴方と同様に長い吐息を響かせながら、部屋に満ちた静寂を霧散させる。

「……御苦労だったね」

 貴方からの報告を聞き終えた司祭は労いの言葉を述べると、改めて憂いを含んだ息を薄く長く、吐き出してゆく。

 そんな司祭の様子を見て、無理もない、と貴方は思う。
 黒曜教会の理念は、人間を怪物にさせないという一点に尽きるためだ。
 その一点のためだけに、黒曜教会は存在していると喧伝もしている。

 現に黒曜の神を信仰している人々で、怪物に変貌したなどという事例はない。
 黒曜の神より加護を授けられ、黒き血染めを受け入れることによって、怪物へと化す原因たる罪業の浄化が行われるためである。

 ゆえに、怪物と化すのは罪業を浄化する方法を持たない者たちだ。
 つまりは罪業を抱え込む異端の信仰者たちであり、無信仰者たちである。

 貴方の目の前にいる司祭は、そんな彼らに対しても慈悲の心を持っている。
 遍く人間は救いを得られるべきだという信仰が彼にはあるのだ。

「君たちには、いつも苦労をかけてばかりで……すまないな」

 貴方は首を横に振り、自身の力の無さを悔いる。
 自身の命を救ってくれた司祭に対して、その大き過ぎる恩に対して、報いることができないことを悔やむのだ。

 貴方の悔やみを見出した司祭は、微かに頬を緩ませ言った。

「君の真面目さには、いつも助けられている。そのように、気にすることはない」

 そこまで述べた司祭は、口元を手の平で押さえて薄く掠れた咳を二つほど鳴らすと、柔和な笑みを湛えて告げる。

「さて、開拓村に現れたその人狼についてだが、少々、気になる部分があってね。私の方で出処を調べてみた」

 司祭の言うことは尤もだと、貴方は黙して頷いた。

 野生に存在している怪物、というケースは前例に無い。
 いずれの怪物も人間が罪業の汚染によって異形と化したものであり、野生の動物が異形化するという事実は確認されていないからである。

 となれば、村に現れた者は何処かの人間が異形化し、流れ着いたことになる。

 セントルイスの周辺部は黒曜の神を信仰している者たちで完全に占められており、異形化する人間はいないと言って良い。
 ゆえに問題となるのは、人狼が何処から流れ着いてきたか、ということになる。

 司祭もまた頷き、幾枚かの紙束を取り出して貴方にそっと手渡した。

「その資料を見てもらえば分かるが、ここ近年、国内における無信仰者の数が増えている傾向にある」

 貴方が渡された紙の束には確かに司祭の言う通りの報告文と、報告の根拠となるのだろう数字と表が記されている。黒曜の神を信仰する者が減ってきているという現実を、その資料は示しているのだ。

「星辰教なる連中が、神の存在を否定している様だ。人間は神に頼らず、人間だけで自立して生きていけるという考えを盲信している異端者たちだ。現実が見えていないのか、そのような異端がここ数年の間、勢力を伸ばし続けているという」

 疲れたような声音の司祭に、貴方は短く端的に問う。
 その者たちが、今回の人狼に関わりがあるのか、と。
 司祭は、貴方の問いに頷いた。

「異端者の増加は即ち、異形化する人間の増加に繋がる。取り締まりを強めるべきだ。そう判断した教会上層部は、異端の者を積極的に狩り出し『ゴルゴタの監獄』に強制収監し始めている」

 それは人道に悖る行為ではないのか、と貴方は問いを発したかった。
 が、それを告げた司祭の声音がなんとも言えぬ苦痛と悔やみを含んでいたものであったがゆえに、問いの言葉を喉奥へ押し込み、なんとか抑え込んだ。

 信仰の自由を謳った黒曜教会も、随分と俗に染まってきたものだと貴方は思う。
 そんな貴方を咎めも諫めもしない司祭もまた、同様に思っているのだろう。
 貴方の表情から思いを汲み取り、音無き苦笑をもって応えとした。

「……まあ、君の思う通りだよ。人狼の件は、そうした非道から発したものだろう。現に、国内の彼方此方で黒曜教会に対する不満が噴き出し始めているから、上層部も幾らか自省しているようではあるがね。だがそれも、不満の捌け口を別途に用意できなかったことについて、という方向性だからな」

 救いようがないという言葉を暗に飲み下し、 此度の人狼についてだが、と司祭は静かに言葉を続ける。

「ゴルゴタの監獄から、数体の怪物が脱獄したという報告を幾つか受け取っている。恐らく、監獄から脱獄した内の一つが開拓村に向かったのだろう。わざと脱獄させた可能性もあるのではないか、と上層部は睨んでいる。ゴルゴタの獄長は否定しているが、上層部はその言を信じていない。そこで、だ」

 司祭は封筒を取り出し、貴方へと手渡した。
 封筒には精緻な造りの封蝋が押されており、その印璽は黒曜の神を象っている。
 貴方が封筒を開けるより前に、司祭は言った。

「上から、うちに指令が下った。内容は『監獄内部における管理体制の視察と報告』だ。監獄の方には異形と化した星辰教徒の断罪を執行する、という名目こそ伝えてはいるが、当然、獄長は信用しない筈だ。むしろ上層部に反発を強める可能性が高い。そこで君には監獄に赴いてもらい、獄長が反発心を持たない範疇において、尚且つ、上層部を納得させられる精度の、調査書の作成に着手してもらいたい。無論、監獄における断罪の執行も。……困難な任務だとは思うが、頼めないだろうか?」


 【ゴルゴタの監獄】


 ゴルゴタの監獄と称される施設は、セントルイスの南東三十キロ程の位置にある巨大な牢獄である。
 神によって建てられたと伝えられるその監獄は、天をも突かんとする程の巨大な鉄柱が丘全体を囲むように突き立てられ、更には継ぎ目のない無数の金属棒で柱群をぐるりと溶接しており、その形状はさながら鐘型の鳥籠であった。

 口さがない者たちからは『神の鳥籠』や『神の玩具箱』などと揶揄されており、いずれは自分たちもそこに収監されるのではないか、と密かに恐れられている場所である。

 監獄内部は煉瓦造りによる高層建築によって形成され、およそ数千にも及ぶ数の罪人たちが収監されているという話である。多くの囚人がその『鳥籠』の中で日々の飲食に飢え、怪物と化し、監獄に住む処刑人によってその生を断ち切られていると言われる。

 その実態は監獄というよりも、隔離を主目的とした終身施設であっただろう。

   ***

「黒曜の理念、そして人道に悖るのではないか……そう考えるのもわかる」

 発つより前に司祭と交わした言の葉が、貴方の脳裏を過ぎってゆく。

 だが星辰教の者たち――『星詠み』は、我らと根本より異なる思想・信仰の道に至った咎人でもある。
 彼らは黒曜の神による祝福を受け入れぬからこそ、黒き血染めを受け入れぬからこそ、異形の怪物となる。それも、そこらの無信心者などよりも余程に強力な怪物にね。

 恐らくは、黒曜とは相容れぬ体系の教えを信仰しているがゆえに、神を否定する信仰であるがゆえに、より重く深い罪業を抱え込むのだろう……と言われている。とりわけ、強い怪物と成り果てる事例が認められることは確かだ。

 彼らが同胞に仇為す怪物となる前に、その罪業を断ち切らなくてはならない。

 異端の教えから黒曜の教えに鞍替えするのであれば一考の余地も生まれるだろうが、しかし、彼らは決して黒曜の神の慈悲に縋ることはないだろう。
 ならば、同じ人間としては、せめて人間である内に、その生命を終わらせることが我らにできる善行なのではないか。

 もし彼らが理知無き怪物と成り果てたとしても、その背負われし罪業を断ち切ることこそが、我らの果たすべき役割なのだろうからね。

 断罪とは、すなわち人間としての道を称賛し、怪物の道から救済することだ。
 罪業をその心身より浄化し、人間としての生を全うさせることこそ、我らの辿る道だ。人としての道を生涯歩み続けることこそ、人間の誇りである筈なのだから。

 人間は黒曜の神が御業により、黒き血の加護に依ってのみ、心身に背負いし罪業を浄化され、人間としての生を歩むことができ、そして終えることができる。

 と、私は……そう思っている。
 ゆえに、君も、心に留めておき給え。

 断罪者たる我々は人間のために、そのためだけに、刃を振るうことが許されるのだということを。

   ***

 白き月が仄かな明かりをもって照らし出す監獄の姿は、さながら彷徨える霊魂を鎮めんがために用意された巨大な釣り鐘のようにも見える。
 もしその鐘が心安らぐ音色を夜ごとに響かせてくれるのならば、現世に縛された多くの魂魄たちは白き月の明光に導かれ、解き放たれることだろうに。

 尤も、収監されている異端の者たちが貴方と同じ感傷を持つかは分からないが。

 貴方は感傷を打ち切ると、走らせていた馬を抑えて歩かせ、近寄り過ぎないうちから音を静めて馬から降りる。
 視線の先には外界の全てを遮断せんと欲するかの如くに、漆黒の大正門が聳えている。
 古に伝えられる巨人族ですら越えられぬだろう巨大な正門の右手脇には監視用の小屋が建ち、石組みの矢倉が築かれている。
 そこには、監獄の周囲を巡回する刑務官が常駐しているだろう。

 現に見終わって間もなく、門へと歩み寄る貴方の姿を認めたらしい。
 矢倉から一人の刑務官が高さを気にもせず飛び降りて着地し、貴方の元へと駆け寄ってくる。

 彼が着ているものは一見、単なる布地の制服だが、中には編み込んだ鉄鎖辺りを仕込んでいるようで、服のたわみが一般のそれとは異なっている。

 まず間違いなく、かなり鍛えられている刑務官だと貴方は判じた。

 そして彼も、貴方をただの訪問者でないと見抜いたのだろう。
 ただならぬ用向きがあるとも見抜いたに違いない。

 貴方の前で背筋を伸ばして敬礼を行った刑務官は、恭しくも慇懃な態度でもって貴方を出迎えた。

「聖職者の方ですね? 失礼であることは重々承知していますが、こちらとしても職務ですのでご了承下さい。このような場所に来られた理由を、その御用向きを、お話し頂きたいのですが」

 刑務官は緊張を僅かに滲ませながら、貴方の挙動を注視する。
 貴方としては別段、警戒される重要性を持たないと自認している。

 ゆえに、貴方は懐からゆっくりと、司祭から手渡された封筒を取り出した。
 封筒に捺された封蝋の印章を刑務官に見せ、表向きの用件を話して聞かせる。

 貴方の説明を聞いて、刑務官は得心したらしい。
 安堵の表情を浮かべて頷いた。

「ありがとうございます。その件につきましては、確かに上から伺っております。このような辺境の地にようこそおいで下さいました。よろしくお願い致します」

 刑務官が深々と頭を貴方に下げる内に、正面に聳える大正門が開いてゆく。

 金属質の高音が地面を引っ掻く音に紛れて、重厚な鐘の音が空高く響く。
 それはさながら、この世ならざる異界の門が開かれたかの如き圧倒的な光景で、非現実的な幻想色を多分に含んだものである。現実から地獄へと引き擦り込まれるかのような異質の感覚が、平常とは異なる緊張の重圧を貴方へと与えた。

 刑務官に馬を預け、貴方は大正門をゆっくりと通り抜ける。
 抜けた先には、セントルイスとは似ても似つかぬ無機質な文化が聳えていた。

 黒い石で円柱状に組み上げた、見上げるほどに高い塔が建っている。
 その外壁に軽く触れてみれば、硬質でありながら滑らかでもあり、柔らかさすら感じさせる妙な質感だ。階の上層には外の景色を映すためか、複数の箇所において薄く透明な硝子まで張られている。

 それが一基と言わず、数十基に及んでいるのだから、恐れ入らざるを得ない。

 どれだけの石を切り出し、運び出し、組み上げて、磨き上げたのか。どれほどの月日を掛けて仕上げたのか。幾ら想像を働かせても及ばぬほどに、歪みの見られぬ均整のとれた塔の群が区画によって整理され、規則正しく並んでいる。

 これら全てが罪人を収監するためだけを目的に建てられた施設だというのであるから、およそ、人の築き上げてきた技術体系や論理的思考に連なっているものとは認め難い。

 地上にいる全ての者共をこの豊かな監獄に収めんとし、神々によって建てられたのだという伝説も、あながち馬鹿にはできない、と貴方などは思うのだ。

 ここに建てられている全ての収監塔が現在の建築技術では再現不可能と言われているのも無理はないと、貴方の思考を散じさせ、四方八方に霧散させる。

 寸分も違わぬ尺度での建築物、そしてそれらが空中にて無数に交叉している回廊で繋がり、行き来できるという事実。頭上を見ればなるほど、回廊は支えも無しに塔と塔の間を繋ぐように行き交い、淡い暖色の温かな灯りをふわりと浮かせるように幾つも散らし、見事と言わざるを得ない景観を獲得しているのが分かる。

 広く厚い黒鉄で覆われた監獄内では青空を仰ぐことも叶わない。が、然れども、そのような文句を黙らせるだけの幻想的な光景が、収監者の心を休ませるように、反抗を忘れさせるように、監獄内と思えぬ玄妙と安息を齎しているのだ。

 貴方は視界に広がる幻想に飲まれかけた己を叱咤し、目的の場所に向かう。
 司祭から聞いた話が確かなら、ゴルゴタの監獄における最高責任者である獄長は、監獄の中央に建っている最終処刑塔に住み込んでいるとのことである。

 塔と塔の間を渡る大通りを、貴方は無心で歩みゆく。
 大通りは幅を広く取っており、面も平らに均され、歩きやすいことこの上ない。
 通りの両脇には青々とした葉を茂らせた立派な樹々が並んでおり、ところどころに、椅子とテーブルが設置された休息スペースが置かれている。

 何よりも貴方の心を大きく騒がせるのは、貴方が落ち着くように努めている理由として挙げられるのは、通りを何事もなく歩行している、収監者と思われる人々の存在である。

 なにしろ、大通りを歩くその人々は監獄の外で暮らしている人々と変わらぬ笑みを浮かべているのだ。隣人と笑いながら歩き、休息スペースで軽食を取って和やかに過ごし、ここでの生活を満喫しているように見えるからである。

 しかし、決して外で暮らす人々と同じでないことを示すように、その首には確りと枷が嵌められている。その枷は黒一色で染められており、尋常でないほどの神秘が込められているように思われる。

 恐らくは黒曜の神による、加護の一種なのだろう。

 監獄内部であれば自由な生活を保障されているように見えることから考慮するに、異形と化するのを抑える効果か、遅らせるための効果などが枷から付与されているのだと思われた。

 ――ともあれ、人が人らしく在れるようで良かった。

 たとえ異端の信仰・思想を持つ者であろうと、価値観の異なる道を歩む者たちであろうとも、貴方は相手が人間としての生を歩めているように見え、安堵の気持ちを抱くのだ。

 監獄内で過ごさねばならぬという境遇に関しては、一切、見て見ぬ振りをして。
 それらが欺瞞に過ぎないことをも、少しも気付かぬ振りをして。


 【ゴルゴタの監獄・最終処刑塔】


 監獄の中央広場に建つその処刑塔は、他の塔とは明らかに異なり、さながら貴族の館の如き外観を擁していた。

 その館の前庭で、首に枷を嵌められた老人と子どもが作業着を確りと身に纏い、薄闇色の花弁を持つ植物たちの手入れを丁寧に行っている。その手入れは見るからに手慣れている様子で、彼らが優秀な庭師であることを窺わせる。

 貴方が足を止めて感心しているうちに、子どもは貴方の視線に気付いたらしい。老人に声を掛けた後、作業を止めて館の裏に走り去ってゆく。
 老人も僅かに遅れて手を止め、貴方の方に向き直り、その頭を深く下げた。

 貴方は老人に会釈を返し、そのままその場で静観の態度を取る。
 処刑塔であろう館に向かわないのは、黙って待っていれば案内の者が来るだろうと見越しての判断だ。

 子どもは貴方の到来を上に知らせるべく館に走り去ったのだろうし、老人も時間を稼ぐために、貴方に頭を下げ続けているのだろう。

 少し面倒な展開になりそうだ、と貴方が思っている間に、館の扉が開かれた。
 先ほどの子どもが扉を開けて現れ、老人の元へ駆けてゆく間にもう一人、仮面を被った人物が姿を現す。

 やや細身の、黒いスーツを身に纏った者である。
 骨格の形から判断するに、女性のようではあるが、けれども顔を隠している漆黒の能面があまりに強い印象を貴方に残し、人物としての特徴を推測させない。
 その女性は子どもと老人が頭を下げる横を通ると、音を立てることなく、貴方の元へと訪れた。

「このような地に、よくぞおいで下さいました、断罪者様。私はこの監獄の管理を任されている者です。今宵の断罪を執り行われること、誠に嬉しく思います」

 詳しい話は塔内にて、と言いつつ、獄長は貴方を館の内へと招いた。
 貴方は何も言わぬまま、何をも思わぬまま、彼女の後へとついてゆく。

 館の中は監獄とは別空間であるかの如く一転して、酷い静寂に満たされていた。
 音一つなく、光源の一つもない。
 玄関ホールを見渡すも、何の調度も置かれていない。
 くぐもった湿り気が纏わりつくように立ち込めており、見れば窓には全て板金が打ち付けられ、外の光を完全に遮っている。

 先を見通し得ぬ完全な暗闇が、館の中に満ちていた。
 さながら、月無き夜闇を体現しているかのように。

 しかし貴方という優れた断罪者には、常人の眼にも映らぬほどの微小な光の粒子を確かに捉え、闇の中を見渡せる。
 獄長もまた、常人の範疇に収まる人物ではないのだろう。惑う様子も見せることなく、歩幅も変えずに進んでゆく。

「上層部にも困ったものです。ゴルゴタからの脱獄など有り得ぬのに……」

 目鼻の形も分からぬ漆黒の能面を被った獄長は、しかしその妙な風体に似合わぬ様子で、きびきびとよく歩いた。黒色の手袋を隙間なく嵌め込み、手に持つ鉄杖で床をかつかつと鳴らし、歩く幅と速度にも規則があるかのように、きっちりと歩みを進めていく。

 貴方は玄関ホールから繋がる真正面の部屋に入ると、部屋の隅から地下への階段を降りる。獄長の語りに耳を傾けながら、眼下に広がる格子の並びに目を向ける。
 地下深くへと続く吹き抜けの螺旋階段、その壁際に並列する鉄格子は全て収監者が詰め込まれた牢であった。

 否、収監者だった者の牢、と正確には呼ぶべきか。

 視認できるだけで数百にも及ぶそれらの牢には、今や人間としての原型を留めている者など一人もおらず、見るも無残な異形の怪物と化している。
 されどいずれも凶暴性を見せることなく、力なく格子を掴んでいるのみであり、貴方たちのことを感情も見せずに眺めている。

「ああ、それは黒曜の神による枷の効果ですよ。見覚えがあるでしょう?」

 なるほど、言われて見ればそれは確かに監獄内で見た人々に嵌められていた枷と同種の物だ。漆黒に塗られたそれは異形の首に、そして手足の首に、嵌め込まれている。

「収監者どもは全員、それをつけることによって監獄内を歩き回る権利を得られるのです。たとえ異形と化したとて、枷に込められた神の加護が即座に手足の自由を抑え込んでくれますからね」

 淡々とした声音の言葉を発していた獄長だったが、しかし螺旋の階段を降りきるや否や一転して、奈落の底へと通ずるような、極めて悍ましく、昏く、低い声音の呟きを発した。

「しかしまあ、この監獄に居るような腐れた輩は、どいつもこいつも、知恵の無い愚かな獣に過ぎません……。黒き血の加護を受け入れず、それどころか、受け入れようともしない……不敬で、傲慢で、身の程も知らずに増上している、唾棄すべき肉袋ですよ……!」

 心の底から憎悪していると言わんばかりに、獄長は強い言葉を吐き捨てた。
 獄長たる彼女は恐らく、収監者たちが人間としてあったことなど、そもそも同じ人間であることすら、決して認めてはいないのであろう。

 しかし貴方はそんな彼女の歪んだ心を、獄長として理想的なものだと羨望する。
 監獄を管理する責任者として、収監者たちに情けをかける甘さを持つのは自殺に等しい行為であると理解しているためだ。

 収監者たちに甘い情けを持つ者は、やがて収監者たちの境遇に同情して心を惑い狂わせ、次第に心身を蝕まれ、遂には異端の虜囚へと成り果てるであろうから。

 自身が相手を覗くときには、相手もまた自身を覗くものだと伝え聞く。

 それは相手と同じ位置に、立場に、思考を合わせるということである。
 つまりは、自らの品位と人間性を相手に捧げることに繋がるのである。

 ゆえに、監獄の総責任を負うような権威ある者たちは変異を齎しかねない好奇に対し、常に注意を払い続けなければならない。

 貴方は獄長の心構えを、僅かでも良い、自身も持つべきだと戒める。
 元は人間であろうとも、異形化し、怪物となってしまえば、終わりなのだ。
 怪物には最早、人間としての生は望み得ない。理性も知性も圧し潰され、欲望と暴虐の限りを尽くす獣としての生を有するのみであるのだから。

 そんな怪物に同情を覚えることなく、むしろ情け容赦なく断罪することによってこそ、異形と化する前に歩んでいた人としての生を、誇りある道として示せるのであろう。

 鉄格子に阻まれた牢内の異形を睥睨しながら降りてゆく獄長の背中を見下ろし、貴方は自身の甘さを戒める。
 しかしそれでも貴方の心は、獄長のような昏き境地には決して至りはしないのであるけれども。

 監獄内での貴方の取るべき行動は、規定の収監者を断罪することのみだろう。

 ゴルゴタの監獄における管理体制の調査など、現段階において不可能だと貴方は判断したからだ。それと同時に、追加の調査をしなくとも十分な成果を得ていると貴方は判断を下す。

 獄長の言うこと全てが正しいとは思わないが、収監者の首と手足に嵌め込まれている枷は確かに、一定の効力を発揮しているためだ。そして異形の怪物と化せば、牢屋にすぐさま収容できる体制が整っている。

 というのが貴方の言い分である。
 しかし実のところ、獄長に真意を悟られぬように管理体制の把握を試みることが極めて困難だったからに他ならない。

 無論、獄長に会見する前に各塔の中を視ること自体は可能ではあっただろうが、それをしていれば各所に待機している刑務官によって、獄長に報告がなされていたことだろう。つまり、それは貴方に下された任務の傾向が獄長に漏れただろうことを意味している。

 そして実際に獄長と会話を取り交わした貴方の所感として、彼女が貴方の任務を半ば推測していたことを認めないわけにはいかなかったのである。獄長はやはり、この時期に訪問した貴方という存在を疑っている。そしてその任務内容に如何なる目的が秘されているかを、貴方との会話で見定めようとしていたのだから。

 ゆえに貴方は、自身の慎重な行動が功を奏していたことに安堵した。
 もし性急に事を運ぼうとしていたならば、あの獄長は黒曜教会に対して今以上に疑心と反感を抱いたに違いない。
 そうなれば最悪の場合、監獄内の者たちが、収容されている怪物や異端の者たちが、国中に解き放たれて暴威を振るった可能性も考えられた。
 異端の者たちがその思想を振り撒き、教会の信用を大いに失墜させる可能性をも十分に有り得たのだ。

 それほどの危険性を、武力を、獄長は監獄内に確保している。加えて、それらを完全に制御しているのだから恐ろしい。そうした監獄内における権力構造の実態が分かっただけでも上層部に対する調査報告としては十分であろう、と貴方は調査を打ち切ったのだ。

 貴方に残された任務は獄長の指定する収監者を断罪し、獄長の貴方に対する疑いを深めさせることなく、無事にセントルイスへと帰投することだけである。

 やがて螺旋階段を下りきった貴方は、視界の内にそれを映した。
 見慣れぬそれは、釣鐘型の鉄格子を吊るした、さらなる地下への昇降機である。
 格子には光の灯ったカンテラが幾つか吊り下げられ、釣鐘の頭には幾重に渡って撚られた金属製の縄が結ばれている。
 縄は壁から突き出している滑車を通り、床を構成している大型の歯車による機構に繋がり、自動的で安全な昇降の運用を可能にしているとのことだ。

 獄長が言うところ、その昇降機は地下深くに位置する処刑場への移動手段であるという。貴方にはその昇降機に乗ってもらい、処刑場内に収監されている怪物どもを、残らず処刑してもらいたいとのことである。

 お願いの体ではあるが、貴方に拒否権など与えられてはいない。
 獄長の視線には貴方に対する疑いの色が薄まっているものの、しかしそれは薄くなっているだけであり、完全に払拭されてはいないのだ。

 加えて、いつからそこに待機していたのか、複数人の刑務官が姿を現していた。
 気配を殺し、呼吸音をも殺し、貴方を囲むように立っている。それでいて貴方に対して視線を向けず、意識のみを向けてきている。
 その意識に含まれている色は、獄長よりも濃い嫌疑の感情だ。

 ここで貴方が拒否したのなら、すぐにでも捕縛してくるだろう。
 その場に漂う雰囲気と刑務官たちの態度が何よりも、貴方に対する獄長の意向を伝えている。

 ゆえに貴方は獄長の言う通りに昇降機へと歩を進め、頑丈な檻の内へと入った。
 と同時に、歯車の噛み合う硬質の重奏が辺りの空気を震わせる。金属縄が僅かに軋みの声を上げ、昇降機の重みを結びの一点にて享受する。
 揺れは少なく、耳に聞くよりもずっと丈夫で、頑丈そうな機構だ。
 貴方が昇降機に興味を向けて佇んでいると、獄長が恐縮を装って貴方に告げた。

「私が同行できるのは、ここまででございます。断罪者様、どうか……あの罪深き畜生どもに断罪を……! 永劫の苦痛をお刻み下さいませ……!」

 膝を地につき、頭までをも地につけて、感極まったのか、嗚咽すら洩らし始める獄長の声音を耳にしながら、貴方は静かに降りゆく昇降機に運ばれていく。


 【ゴルゴタの監獄・地下処刑場】


 昇降機に乗ってから、どれほどの深みへと潜ったろうか。
 大型歯車の駆動音はとうの昔に聞こえなくなっている。地層は石の層を抜けて、粘土の層をも抜けて、現在は貴方がこれまでに見たこともない艶やかな岩盤の層へと至っている。

 地上に位置する処刑塔と貴方の乗る昇降機とを繋ぐものは、数本から撚られて成っている、丈夫な金属質の縄のみである。

 しかし、余程に深く潜っているのだろう。
 昇降機を支える縄は硬質で甲高い悲鳴の声音を、貴方の頭上からしきりに上げている。とはいえ、断裂を思わせる致命の音色を少しも響かせていない辺り、相当に丈夫な素材で出来ていることを窺わせる。

 獄長の言葉を借りるのであれば、これもまた、地上に並び立っている監獄の塔と同様、神々がこの世界に顕現していたとされるほどの旧き時代より遺された、遺失技術《オーバーテクノロジー)》の賜物なのだそうであるが。

 地上にはゴルゴタの監獄と同様、神々の残した遺失技術が幾つも発掘されているという。東大陸の半分を分断するように建てられている長城、神の一人を模したとされる女神像、現存する兵器では掠り傷一つ与えられぬ広大な地下空間、海上にて不沈を誇っている古代遺跡など、いずれも現代の技術では再現不能であり、神々の過ごした旧き時代は相当の隆盛を誇っていたのだろうと推察されている。

 しかし同時に、そうした技術の多くは失われてしまっている。
 教会の抱える研究者たちは上記に関し、今も頭を悩ませているという。

 貴方が悠久なる古代に喪われた叡智に思いを馳せていると、足元が不意に衝撃を受けて揺れ、肉体に掛かっていた浮遊感が落ち着いた。
 カンテラの光はぼんやりとした色を漂わせつつも、広がった空間に手を伸ばし、昇降機の周りのみではあるが、明るく照らし出している。

 そこは黒き艶やかな岩盤が広がる、天然の地下空間であるようだ。

 無数の石柱が広大極まる床面と天井とを繋いで支え、歴史ある寺院の如き荘厳と厳粛を空間に漂わせ、貴方の心身に慣れぬ緊張を強いてくる。

 ブーツの裏で足元の黒岩をこつこつと鳴らしつつ、貴方は昇降機から一歩を踏み出した。カンテラを一つ昇降機から取り外して手に持ち、周囲の状況を確認する。
 黒曜の加護によって強化されている視力は、カンテラほどに大きな光源があるのなら、昼にも劣らぬ視界の確保が可能である。

 それゆえに貴方は降り立った広大な地下空間が獄長の言うとおりに処刑場であることを、確かにその目で視認する。

 昇降機より少し離れた位置に、空間を構成している岩盤と同質の素材で造られたのであろう処刑台が設置されているのが視える。
 頭部と手足を嵌め込むためだろう機構は、さながら新品のような艶やかな光沢をもってカンテラの光を照り返している。
 処刑用であろう石剣もまた、処刑台横の台座に突き立てられながらもその刃身を曇らすことなく煌めかせ、現代においてもなお、命脈の断ち切りが可能であることを高らかに主張している。

 旧き時代にも、処刑が必要とされる罪深き者たちがあったのだろう。
 或いは、神々によって罪業が深いと断じられた者たちが。

 貴方は心なしか気持ちが落ち込むような錯覚に陥ったが、しかしその落ち込みは即座に払拭される。貴方の肉体は感傷と意識を無視して機敏に動き、断罪者としての態度を発揮し、辺りを鋭く観察していた。

 ほんの微かなものではあるが、怪物の特有する人と獣の混ざった臭いが、貴方の鼻孔を掠めたからだ。その臭気は長き時を経ているものでなく、極めて近い時期に発せられたものであると、貴方に知覚させている。

 よくよく耳を澄ませてみると、身を潜めるような意思の波動が、揺らめくような呼吸の音が、暗闇の奥から漣のように小さく響いてきている。
 貴方は処刑台の奥にある暗闇へと目を凝らしつつ、その足をゆっくりと進める。
 歩を進めてゆく内に視界に入ってくるのは、悍ましくも壮観な、牢獄で築かれた大壁である。

 中央処刑塔地下へと続いていた螺旋階段と同様の構成が、光景が、地下処刑場においても存在したのだ。尤も、その規模は螺旋階段の空間とは比べ物にならぬほど広範であり、収監されている怪物どもの数も、その比すべくもない程に多い。

 貴方は奥へと続く牢獄の壁面を見て、その内から低く鈍く響いてくる唸りの音を聞き、胸中にある空気を薄く長く吐き出してゆく。

 貴方が断罪するのは、この奈落の如き地下牢獄に囚われている怪物どもである。

 助けてくれ、死にたくない、などといった命乞いの言葉は皆無だ。
 人間の持ち得る感情を消失してから、かなりの時間を経ているのだろう。些かの情緒もそれらからは感じられない。
 貴方の耳朶を響かせるのは、縫い針で硝子を掻いたかの如き鋭く細い、無機質で硬質な音響の類であり、深淵の奥底より轟いてくるような悍ましくも静かな鳴動の気配である。

 目を細めて注視してみれば、檻から出ようと足掻いている怪物どもも少なからず存在する。

 檻の格子を掴んで引き千切ろうとしている者、鈍い音を響かせながら格子に肩を打ち付け続けている者、格子に噛み付き続けている者など、いずれの怪物どもも、敵意と殺意に任せて牢獄を破らんと欲している。
 加護の枷も手足の首に締まるように嵌められ、力の大部分を殺がれているだろうにも関わらず、である。底すら知れぬ執念が彼等を突き動かしているに違いない。或いは、枷に掛けられている加護が効力を減じているか、上手く浸透していないということも考えられる。

 いずれにせよ、怪物が暴威を発揮していることは事実である。
 だからこそ、並の処刑人には手に負えぬと判断された可能性が高い。歴戦を誇る断罪者の貴方が送られることになった経緯を考慮するに、相応の事情があることに相違は無いだろう。

 貴方はカンテラの明かりを頼りに辺りをぐるりと見渡し、艶やかな岩盤から切り出されたと思わしき檻への足場を視認する。
 最も近くから聞こえる反抗的な響きに目星をつけた貴方は、足場に向けて一息に跳躍し、檻の前へと移動した。

 鳴き声の主は貴方の照らすカンテラの強い光に当てられ、照らされる貴方の影を視認し、慌てて檻の奥へと逃げ込んだ。弱々しい呻きの音を上げつつ、それでも、奥へ奥へと逃げようとする。
 その怯えに染まった挙動はなるほど、獄長が吐き捨てた通りの愚かな獣と言うに相応しい、惨めで無様なものであるのだろう。
 とてもではないが、高潔な意志と誇りを抱く人間であるとは見做し難い。

 貴方はカンテラを左手に持ったまま、格子の扉に掛けられている閂を丁寧に取り除いてゆく。一本、二本、そして三本の全てを外し、ゆっくりと扉を開け放つ。

 黒石による格子の扉を開いたその瞬間、檻の奥へと逃げ込んでいた怪物は不意に態度を豹変させた。目の色と表情を狂気と獰猛に染め、牙と爪を剥き出し、貴方に襲い掛かってきた。

 その動きは極めて俊敏で、人間の出せる速度と瞬発を超越している。並の人間がそれを受ければ、何もできずに押し倒されるに違いない。そして叫びを上げる間もなく無残に食い散らされるだろう。

 されど、貴方は並の人間ではない。超常たる異形の怪物を討伐する断罪者だ。
 突如の超速度に相対することは常であるため、それに対する躊躇は微塵もない。
 飛び掛かってきた怪物の手指が、爪が、貴方の首に届くよりも早く、貴方は己の右拳を握りしめ、相手の顔面を撃ち抜くように、鋭く重い一撃を打ち込んでいた。

 怪物の顔面は鈍い叩音を立てて陥没し、骨が砕けて血肉が弾け、黒い岩盤に白き血液を散らして濡らす。怪物は悲鳴の漏れ出す顔を押さえて貴方の足元に蹲るが、涙液と血液によって襤褸襤褸になった顔を怒りに染め――その一瞬の隙を突かれて貴方に激しく蹴り飛ばされた。

 鋼鉄を仕込んだブーツの底は硬く、何より頑丈だ。
 そんなブーツによる蹴りを拳に次いで真面に受けた怪物は、悲鳴も出せぬままに宙を滑り、檻の格子へと勢いよく叩きつけられた。
 顔面のみならず身体の骨も幾らか折れたらしい。即座に幾つも音を立てて肉体の修復が進んでゆくといえども、反骨の雰囲気をその身に強く纏いながらも、しかしそれでも怪物は、貴方に対して再び襲い掛かろうとする様子を見せなかった。

 どうやら目の前の怪物は、自身と貴方の実力差を今の攻防で理解したらしい。

 並の怪物よりも知恵はある様だ、と貴方はどこか不思議に思う。
 開拓村における人狼を始め、貴方が退治してきた怪物はいずれも彼我の実力差を理解することはなかったのだから。或いは理解しても尚、それでも襲い続けてきたのであるから。

 然れども、その程度は気にするほどのことでもない、と貴方の思考は停止する。

 なにしろ目の前にある物は凶悪極まりない異形の怪物だ。
 存在として最早、この世界にあってはならぬものだ。
 速やかに断罪を執行し、消滅させなくてはならない。

 でなければ怪物は暴威を振るい、悪意を広げ、世界を蹂躙し続ける。
 人としての生を受けたにも関わらず、理知無き異形と化すことなど、人を襲って生きることなど、彼らも望んでいなかった筈だ。

 その暴虐を見逃すことは、彼らの歩んできた生を冒涜するに等しい。

 その思いがあるからこそ貴方は罪業を断ち切る刃を振るってきた。
 断罪者としての義務を請け負い、怪物を討伐してきたのだ。

 これからも、討伐してゆくことになるのだ。

 それらはひとえに、人としての生を尊重するがゆえの行動である。
 貴方が黒曜教会に籍を置いているのも、自身の行動が善良なる人々の役に立っているためだと信じられるからである。

 ゆえに、目の前の怪物に対して貴方が容赦することはない。
 容赦も情けも見せずに断罪することこそが、怪物と化した人間に対する唯一つの救いであると信じているためだ。

 怪物には、人間としての名残は無い。
 目の前にいる怪物においてもまた、人間としての面影は欠片も残っていない。

 カンテラの光に照らされたそれは、異形の化物と称するより他にないのだ。
 のっぺりとした平坦な顔の中心には眼球が一つあるのみで、鼻も口も耳も無い。
 頭部は完全に禿げ上がっていて、黒灰色の皮膚が満遍なく行き渡っている。
 手も足も肉体も細く棒きれのようではあるが、先ほど殴った際に受けた重みから判断するに、それらは筋肉の繊維がぎっしりと編み込まれた強度の高い全身凶器に他ならない。

 華奢な身体をしているが、同質量を有する人間とは比較にならぬ重量がある。
 その分、膂力も相当に有していることが考えられるため、それに対する脅威度を貴方は高く見積もっている。

 今はなにやら頭を下げ、低い呻きを連々と呟いている様ではあるが、しかし理も知も喪失した怪物の言葉など、その内にあるのかも分からぬ感情など、人間である貴方には理解し得ない。それに付き合う義理も無い。

 貴方は右手を腰の後ろに回して、断罪器具を手に取った。
 柄の部分にある絡繰り機構を作動させ、鋸鉈を大振りの鉈へと変化させる。
 鋸の刃身で首を引き落とすことを、貴方は良しとしなかった。大鉈の持つ重量と鋭き刃でもって、一瞬にして確実に、その頭部を断ち切ってやるのを良しとした。

 それは無意識が貴方に命じた、怪物に対する慈悲である。

 貴方の持つ得物が纏う鈍色の光に、怪物はただならぬ威圧を感じたのだろうか。
 泣くような呻きを収めて顔を上げ、けれど視線は得物の刃に注いだまま、全身を細かく震わせて止まない。

 それは紛れもない、怯えと恐怖の挙動であった。

 そう、怪物は貴方の得物が宿す凶兆の闇から、過去に幾度となく断罪されてきた怪物の姿を、その血塗られた生と死の終焉を鈍色の輝きから想起したのだ。
 そして己もその中に、無情の錆びに成り果てるのだろうと悟ったのである。

 怪物はもはや呻きすら上げず、乱れた呼吸を繰り返し、カンテラが微かに照らす器具の鈍色に魅入られていた。己の命を終わらせるだろう断罪の刃を、その目に、脳髄に、刻みつけるかのように。

 ここは地下深くに存在している牢獄である。
 人々から忘れられている旧き処刑の儀式場でもある。

 白き月の優しき光明も、安らかなる鎮魂の鐘の音も、深き闇に満ちる屠殺場などには、決して届くことはない。

   ***

 貴方は地下処刑場にて、断罪とは名ばかりの屠殺を執り行い続けた。
 暴れられぬように手を落とし、逃げられぬように足を落とし、叫べぬように首を落とした。

 それでも怪物という存在は完全に死にきれず、しばらく生命活動を維持していたのであるから、大した生命力である。完全に肉体が蒸発し、欠片も残さず消滅するまで、貴方は少しの気を抜くことも許されなかった。

 初めの例に倣い、武器を使わぬ鉄拳の制裁によって彼我の実力差を分からせるという手法を取ろうとした貴方であったが、すぐにその甘えた考えを捨てた。悠長に事を進められるほど、ここでの断罪は生易しいものではなかったためだ。

 相手に人間の残滓が少しでもあったなら、鉄拳によっておとなしくさせることは有効であっただろう。実際、最初に断罪した怪物には効果があったのだから。

 しかし、それ以降の怪物はその残滓すらなかった。
 知恵の片鱗すら見せることなく、完全に人間性を喪失していた。
 理知どころか獣としての危機感すらをも失い、徹底的に貴方という強者に対して考えなしの攻撃性と反抗を示したのである。

 となれば、貴方も割り切り、速やかなる断罪を行使するより他になかった。

 貴方は『断罪こそが人の道の救済である』という師の言を思い出し、脳と意識に刻みつけ、一切の躊躇と情けを棄て去り、極めて機械的に断罪の作業を執り行ったのである。

 自然、流される白き血液の量も増え、広大な筈の地下空洞は死と血の臭いで満たされるようになり、貴方の黒き断罪装束にはおびただしい量の返り血が染み込み、獣臭すらも纏うようになっていた。

 貴方が怪物の流した白き血の臭いに慣れ、血肉の臭いと色に酔いを覚え、怪物の断罪に対して愉悦と快感を見出し始めた頃のことだ。
 怪物の血液を無益に流してその臭いと悲鳴を愉しみ、快楽に変ずることを覚えた頃のことである。

 思考と嗜好が殺人狂のそれに澱み始め、目に視えぬ罪業を重ね続けた頃合いに、貴方はその怪物に出会った。

「今晩は、断罪者様。今宵も白き月が、遍く総てを照らしていますね」

 丁寧な人間の言葉を扱うその怪物は、これまでに貴方が断罪してきた幾多の物と比さずとも、矢張り奇怪な異形である。
 顔にはもはや人間だった頃の名残は無く、鼻は溶け落ち、両の耳は潰れ、全身の汗腺からは生臭い腐臭を漂わせ、ぬらぬらと光沢と粘性を帯びた無数の眼球を顔中に犇めかせている。
 四肢は貴方が落とす必要すらないほどに退化している様であり、さながら芋虫の如き異形である。体表面は波打つように絶えず緩やかな脈動を続け、気色悪いことこの上ない。

 されど、その声だけは優れた詩人のように滑らかで、美しくも清廉でさえあり、小鳥のような可愛らしさを有している。紡がれる美声による音の端々から、貴方はその怪物に理と知があることを否が応にも認めざるを得ない。

 そして、ゆえにこそ、貴方は極めて巨大な驚きをも禁じ得なかった。

 どうしてこうも醜い異形の生物が、理知も無き筈の怪物が、人間の言葉を解し、だけではなしに話すことができるのか、と。異形でありながらこの状況に、待遇に悲嘆せず、狂うこともなく、理知を有したまま、人間性を喪失せぬままにいられるのか、と。

 怪物の言葉が貴方の酔いと狂いを次第に覚まさせてゆく。
 脳裏より沸々と浮かんでくる疑問と惑いの泡が、貴方に平常時の冷静と落ち着きをゆっくりと取り戻させてゆく。

 されどそれでも貴方は驚きによって身を固めたままであり、断罪の処刑具を手にしたままであり、その場で案山子のように棒立ちのままであった。茫然と自失してしまうほどに、己が遭遇している現在の状況について、貴方は未だに理解が及んでいないためだ。

 理知ある怪物という存在など、黒曜教会の教義どころか、自身の経験にもあったことはない。想像すら、貴方はしたことがなかったのである。


 百を超える眼球を擁した異形は、己が信じられないような目で見られていることを理解していながら、しかし機嫌を損なう様子を見せない。馬鹿にするような態度も見せぬまま、近隣の住人に会ったように親しげに、貴方に静かに語りかける。

「私の姿を見て、言葉を聞いて、戸惑われているようですね。しかし、無理はないことかも知れません。断罪者様、信じて頂けないかもしれませんが、私はこれでも黒曜の神様を信仰しておりますのよ」

 そんな異形の言葉に対して、貴方は表面上では微かな動きも見せなかった。が、思考の内では酷く動揺し、狼狽していた。

 ――異形の怪物が、黒曜の神を信仰している……?

 しかしその言は、然れども、所詮は異形の怪物が言うことである。
 根拠は無く、一茶合切が嘘であり、まったくの出鱈目である可能性は高い。
 そのように自身を諌める貴方であったが、しかしそれでも、怪物の言葉が事実であるという可能性は否定できない。

 もし仮に、異形の言葉が事実であったとするなら、貴方が属している黒曜教会という組織は、貴方が盲目的に信じてきたものは、虚偽を有していたことになる。
 それも、黒曜の神を信ずる者は決して異形の怪物にはならないという、教会と人々にとって最も肝心な部分が、虚偽であったということになるのだ。

 その虚偽は人々の安心を根刮ぎ奪い、聖職者からの信用さえも失墜させ、鎮静のできぬ大規模な混乱と反乱を誘発させることだろう。ようやく安定をしつつあった秩序と安寧の生活を、完全に払底してしまうに違いない。

 そして今この場において異形の言葉を証明できる唯一の手段が存在していることを、証明の手段には自身の行動が必要であることを、貴方は既に理解している。

 そう、理解してしまっているのだ。
 しかし貴方はその場から一歩も動けないでいた。
 当然、動ける筈が無い。

 その事実を確認してしまえば、その事実を目にしてしまえば、これまでの常識が一気に覆ることに成り得るためだ。

 もしも事実であるのなら、だ。
 これまでに為してきた行いの全てが無駄になりかねない。
 これからの生き方に価値を見出だせなくなるかも知れない。
 と、貴方は直感しているのである。

 事実を確認しないままの方が、この先も安心はできる。
 されどそれは、断罪を執行しないという選択を取ることになる。

 断罪執行は教会において、そして自身の生き方において、宿命付けられた義務であって使命でもある。当然、執行しないという選択肢などは取り得ない。

 しかし、執行を決意しようとした瞬間に、全身が硬直して動かなくなるのだ。
 否――右手の指先がかろうじて動いてはいるのだが、それは自身の硬直に抗っているのか、それとも異形の断罪によって生じるだろう価値観の変革に恐怖しているのか、貴方には判断がつかない。

 そのような貴方の醜態は、異形の彼女にも映っているであろう。
 けれど彼女は気にしないで下さいとでも言うかのように、その身を緩々と揺らしながら、貴方に優しく語りかけてきた。

「断罪者様、そう悩まれることなどありません。貴方の目の前に転がっているのは、如何にも理知無き怪物にございます。黒曜の理念に則り、然るべき断罪を執り行い、その後は気に掛けることもなく打ち捨てるだけで良いのです」

 理屈としては、異形の言う通りにすれば何も問題は無い。

 黒曜が掲げた理念の表面上をなぞるだけなら、ここまで苦しむ必要も無い。
 されど理念に対して忠実に則ることを考えるなら、目の前の怪物を断罪することこそ、理念を破戒するに等しいと言えよう。

 黒曜の理念は本来、司祭が平素から口にするような、狭義的な教えではない。

 星詠みなどの異端信仰者や黒曜の信心無き咎人に対し、更に異形と化した怪物に対しては尚更に、断罪の刃が振るわれるべきであると司祭は説いている。

 そしてこの教義は、一般に広まっている狭義的な理念でしかないのだ。

 旧くからの理念、即ち、研究者によって解釈された黒曜の理念においては、黒き血の加護を受けない者たちは全て殺さなければならないと掲げられているらしい。そして同時に、黒き血の加護を受けている者は殺めてはならないとも、解釈としては読み解けるとのことである。

 加えて教会も、罪無き黒曜の信仰者を、庇護すべき弱者を、殺めてはならないと謳っている。殺めることを考えてすらならないとも、謳っているのだ。

 そこには、信仰者が怪物であってはならないなどという条項は記されていない。

 それはつまり、黒曜を信仰して、黒き血をその身に流してさえいれば赦されるということになる。たとえその身が異形の怪物であろうとも黒き血をその身に流していれば、人間としての理知と誇りを有しているのなら、赦されることを意味する。
 そのように、貴方は解釈を深めてゆく。

 貴方の目の前にいるのは、見るも悍ましき異形の怪物ではある。
 けれどもそれは、理知を有し、慈愛を有し、その身に黒き加護の血を流しているであろう、人間性と信仰心を有した存在なのだ。紛れもなく、黒曜を今も信仰している信仰者なのだ。

 しかし決して、そして如何しようもなく、それは人間ではないのである。

 ――殺すべきでは、ないのではないか。

 ここに至って初めて、貴方は明確に自覚する。
 貴方は目の前の怪物から、豊かな人間性を感じ取っていることを。
 見た目こそ異形であり、人間そのものではないものの、その根底に流れる精神は間違いなく、人間として誇りある生の道を歩んでいると貴方は判じている。

 或いは、これまで見てきたどの人間よりも、優れた人間性を有していると認めてしまっているのだ。

 そのような者を、どうして断罪することができるだろうか。

 人間としての生は、身体に流れる血の色によってのみ示されるものではない。
 信仰する神によってのみ決まるものでもない。
 その身が人間であろうと、怪物であろうと、関係が無いのだ。
 精神の気高さこそが、人間として最も重要ではないのか。

 貴方は急速に思考が拓けてゆく脳の処理に追われながら、不思議に思う。
 黒曜の掲げる理念と、自身の有する価値観が噛み合っていたことを。
 自身がこれまで教会の指令に対し、無思考も同然の如く追従してきたことも。

 今の貴方は目の前にいる怪物を、惰性的に断罪することができないでいる。
 それほどに貴方の価値観は混乱しており、思考と意識が研ぎ澄まされて錯綜し、心の奥底に存在する旧き記憶に回帰している。

 誇りを持って生きる者を殺したくないという一点、それが再び見出されたのだ。

 そしてそれは同時に、禁忌に触れ得る事柄でもある。
 人間と怪物の境界を取り払うことに繋がると、貴方は気づいているためだ。

 誇りを持って生きる者たちは人間だろうと怪物だろうと生かすべきである。
 黒き血の有無や信仰など関係ないと、黒曜の理念を真っ向から否定する価値観を貴方は見出してしまっているのである。

 しかしそうして得られた貴方の価値観を、非情な現実に抵抗する理想を、異形の怪物たる彼女は速やかに切って捨てたのだ。

「断罪者様、『断罪は救済』なのでございます。貴方様は、これまで私が見てきた断罪者様の何方よりも理性的であり、そして優しい御方です。けれども……残酷な御方でございます。人間とは見做されぬ異形の怪物など、その愚かな生命など断ち切られるべきなのです。貴方様はそんな哀れな化物を断罪と称し、救済と称して、徹底的に殺さなければなりません。それこそが断罪者としての、貴方様の誇りでもある筈です。しかし、黒曜様の理念に疑心を持ってしまわれた貴方様には、最早、私を断罪することすらも、苦しく思えることなのかも知れませんね……」

 異形は異様に大きい頭部を僅かに揺らして、嗚呼、と小さく呟いた。

「この処刑場のどこかに、以前、私が務めていた実験施設へと通じている隠し道がございます。その隠し道を見つけて実験施設に向かわれれば、断罪者様。貴方様の抱かれる理想も、幾らか現実に即したものとなりましょう。この世界は、社会は、小綺麗な事柄だけで動いているものではないということを、自ずと理解されることになりましょう」

 異形は目玉から濁った灰色の涙液を溢して流し、土を穢して、そして鳴く。

「私の命を絶って下さいませ、断罪者様。もう、このような姿で生の道を這いずることが苦痛なのでございます。何卒、お願い致します。人間のために振るう救済の刃も、怪物に振るう断罪の刃も、何一つ変わらぬ慈悲の刃でございます。貴方様が躊躇われる理由などは、何処にもございません」

 貴方は右手に提げた得物の重みが、以前よりも遥かに増したように感じられたが、しかし、彼女の言うことは尤もであると頷いた。

 頷かざるを得なかった。

 彼がこの地下処刑場に訪れたのは、送り込まれた理由は、ここに収監されている怪物どもを、残らず断罪するためである。

 異形の怪物を断罪することは、人間を救済することに他ならない。
 その内に残されし人間性を、誇りある精神性を、怪物としての生に蝕まれるよりも早く、解放させることに他ならないのだ。

 ゆえにこそ怪物の断罪は、人間性の救済だと解釈できるのである。 

 貴方が覚悟を決めたのを見て取ると、彼女は安堵と感謝の声音をもって高らかに謳った。

「ありがとうございます、断罪者様。これで私も、罪業を清めることができます」

 手にした刃を振り下ろす直前であったか、それとも直後であったか、その瞬間は判然とはしなかったが、しかし、貴方は確かに聞いた。

「嗚呼、でも、我儘が許されたなら……私は、人間として死にたかったものです。そのことだけが、少しばかり、心残りで御座いましたね……」

 貴方は物言わぬ死体を見下ろし、すぐにその場から立ち去った。

 これにて、今宵の断罪は無事に完了した。
 残るは先ほどの昇降機によって地上へと戻り、獄長に執行の終了を言い渡して、セントルイスの教会に戻るだけである。

 けれども貴方は昇降機の方に戻らず、そのまま地下処刑場を丹念に探索する。

 貴方自身の目的は、まだ此処に残っている。
 彼女の言い遺した実験施設への隠し道を発見した後に、その先に秘匿されているだろう疑惑の根を、自身が納得できる理由を見出すことだ。


 『理知を有する異形の怪物』

 ゴルゴタの地下処刑場にて、貴方が断罪した最後の収監者。
 彼女の謳った声の音は、貴方の苦悩を和らげた。
 彼女の流した黒き血は、貴方の心を責め苛む。
 現在も猶、貴方の心には彼女の存在が強く刻まれている。
 断罪した彼女は、紛れもなく異形の怪物であった。
 本人も、それを確かに認めていた。
 けれども、彼女を断罪すべきであったのか、未だに貴方は分からない。
 その答えは貴方より他に出せる者はいない。
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