最後の断罪者

広畝 K

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 【黒曜の聖地】


 黒曜の聖地と呼ばれるその山は、星詠みの地下聖堂街より東方に位置した禁足地にある。そこは黒曜教会による厳重な管理体制が敷かれており、監視の人員が常に置かれて、無断で入山する者が無いように見回り、そして見張っていた。

 そう、過去形である。

 貴方が聖地の麓へと着いたときには、常駐していた筈の監視員の死体が転がり、監視員の休息する山小屋には火が放たれていた。周囲の木々に火が延焼していないことからも、その火は山に配慮して放火されたものなのだろうと推測できる。

 しかし貴方が目をつけたのは放火ではなく、監視員たちの死体である。
 死体はいずれも人間でなく、異形の怪物と化したものであった。そうであるにも関わらず、それらは綺麗に割断されたかの如き綺麗な断面を晒して細切れにされており、黒き血液を辺りに溜めさせ、灰へと還りつつある。
 重要視すべきは、致命傷の要因となった傷の痕跡である。その断面は鋭く滑らかであり、恐らくは大型の刃物によって一気に割断されたと推測される点だ。

 貴方はその痕跡に覚えがある。複数体の怪物を相手にしながら、それほど見事な切断痕を残せる実力を有した人物を、たった一人だけ知っているのだ。

 緊張から大きく息を吐き出した貴方は、細い木々に囲まれた白く細い山道を粛々と進んでゆく。白い小さな丸石が集まって並び敷かれた山道は、神の元に参上するための参道である。

 空より白き月の光が涼やかに道を照らしており、参道の脇にては篝火が音も無く焚かれている。山道であるにも関わらず昼のように明るさを保ち、そして山に生息している動物たちの気配が一切感じられぬ程に、不気味な静謐が保たれている。

 この聖地とされる山には野生動物が棲息していないという話を、貴方は司祭から聞いた覚えがある。が、どうやらそれは事実であったらしい。不意に思い出された妙な感慨が、貴方の胸の内に生じている。

 篝火と月光に見守られ、歩みの疲れも覚えぬ間に、貴方は山の頂きに着いた。
 そこは一面に白き花の咲き誇る、広大な花畑だ。

 その花畑の先、一本の大樹が聳える傍らに、一人の男の姿がある。
 貴方の直属の上司であり、そして師でもある、サンソン司祭であった。彼は黒き断罪装束に身を包み、両の目を瞑って気配も微かに佇んでいたが、貴方が視線を遣ると同時に、その目をゆっくりと開いて言った。

「……遂に、ここまで来てしまったか」

 妙に響いたその声音は寂し気で、彼は困ったような笑みを湛えている。首を軽く左右に振ると、サンソンは貴方に向かって歩みを進めた。

「君は自らの意思で此処に来たと思っているかも知れないが、それは違う。此処に君が来てしまったのは、神の意志による導きがあったからだ……」

 貴方の師たるサンソンは懺悔室での談話のように、穏やかに語りかけてくる。

「君は監獄で断罪を為した後、勅使の命に従い、星詠みたちを断罪したらしいな。そのためかどうかは分からないが……君は、神たる黒曜の目に留まったらしい」

 やがてサンソンは貴方の前方十歩ほどの位置に立ち止まり、されど静かな声音で言葉を紡ぎ続けた。

「神は君を寵愛を与えるに相応しい存在だと判断したがゆえに、この聖地に招いたのだ。君自身、どうしてこの聖地に訪れようと思ったのか、明確な理由を思い出すことができないだろう?」

 言われてみれば、貴方はゴルゴタの監獄に赴いてより後の経緯を、監獄を脱して以降における自身の意思を明確には思い出せないでいた。正確には、それらの思考や感情が、本当に自身の意思が主軸にあったのか、他者による誘導で流されてきたのか、自信を持てないのだ。

 場の状況に流れ流され、或いは司祭の言う通りに、神の意志とでも称されるべきものに導かれて、ここまで来てしまったのではないか、と漠然とした不安を覚えるのである。

 その不安に共感し、理解するかのように、サンソンは貴方に頷きかける。静かで深みのある声音を、辺りに響かせ浸透させる。

「黒曜の加護を、寵愛を受けるとはそういうことだ。その心身に抱える罪業の重さに耐え、沈まないと判じられた断罪者は、この聖地において、黒曜の神によって直々に罪業の浄化が執り行われる。そして神たる黒曜の使徒となり、人々を導いてゆくことになる」

 サンソンは腰に佩いていた剣をゆっくりと引き抜いた。
 騎士団でも使用されている型の、一般的な直剣である。ただし一般的なそれよりも、柄も刃も長大であり、扱うには熟練の腕を必要とするだろう。
 得物を右手に提げながら、サンソンは貴方に安心感を抱かせるように、柔らかな調子の声音で諭した。

「そのためには、君の体内を巡っている異端の血を再び黒き血に染め上げなければならない。いや、咎めはできないとも。それは君自身の意思によるものではなく、不可抗力だったのだろうからね。さあ、その血を差し出し、神から新たなる使命を受け取ると良い……」

 頷きかけたものの、しかし貴方は無言で首を横に振り、その命令を拒絶した。
 貴方の征くべき道は黒曜にて敷かれるものではなく、己自身が見出して敷くべきものであると心の奥底にて浮かび上がったがゆえに。それこそが自身の見出した、確かな望みだと思い出したがゆえに。

 教会の非道を許容するやり方を、そして教会の非道を是とする黒曜のやり方を、貴方は否定した。そしてそのような貴方の決断を、サンソンは否定しなかった。
 彼は静かに頷き、感慨深げに言葉を紡ぐ。

「そうか……君は、君の見出した道を征くか。反逆者の助言によるものか、或いは知らずとも良いことを知ったがゆえのことか。どちらにせよ、残念なことだ……」

 サンソンは背負いの鞘から曲剣を外し取り、直剣と合わせて機構を作動させる。規則的な金属質の硬音が幾度も響き、巨大な鎌の柄が彼の両手に握り込まれる。

「人類は皆、等しく神の慈悲に縋らねば生きられないのだよ。罪業を抱えたまま、生きることなどできないのだ。その心身に限りなく積み重なっていく罪業の重さに耐えきれず、いずれは溺れてしまう。君でも、いつかは罪業に溺れて理知を喪い、哀れなる怪物に成り果てる人の罪業を見るだろう。私は異形の獣と成り果てた人の群れを、異端の者たちを、同胞たる断罪者を、永きに渡ってずっと見続けてきた。そして、その度に断罪を、救済を執り行ってきた。黒曜に見出された使徒として、神の命ずるままに、な……」

 貴方は腰の後ろから鋸鉈を引き抜くと、機構を動かし分解させた。
 両手に二本、鉈と鋸剣を持ち、待ちの構えをもって相手への返答とする。
 サンソンは貴方の覚悟を良しとしたのだろう。
 頷き、巨大鎌を構えつつ、貴方に聞こえる程度の呟きを漏らした。

「君が抱え込んでいる罪業の重さに押し潰されてしまう前に、溺れてしまう前に、その罪業を断ち切ってやらねばなるまい。せめて、師であるこの私が、その罪業を解放しなければなるまいよ。それだけが、君を断罪者などという使命に巻き込んでしまった私にできる唯一の……責任の取り方だ」

 ここにて貴方の立ち向かうは、貴方の人生における偉大な師匠である。人生の導き手であり続けた、親愛なるサンソン司祭である。

 胸に去来する感傷と感情に固く蓋をし、決意を抱いて貴方は征く。


 【原初の断罪者――サンソン】


 貴方の構えを目にすると同時、サンソンは戦闘行動を開始した。
 踏み込みすら見せることなく、一気に間合いを詰めたのである。上体はブレず、それでいて瞬間移動したかの如き瞬息の一歩であった。

 それゆえに貴方は敵の初動が確りと目に映っているにも関わらず、違和を受けてどうしても一瞬、僅かに対応が遅れてしまう。そしてその一瞬の間隙を抜き、風と空気を切り裂く鎌の刃が、貴方の首を刈り取らんとして迫りくる。それも前方からではなく、側面を通過した後方からの奇襲である。

 貴方は即座に横へと跳び退り、そして頬に一筋の切り傷を刻まれる。
 鎌による切り裂きから生じた、風の刃によるものだ。
 広範囲に渡る高速の重撃、それによって生じる風の薄刃、それがサンソンによる断罪の手法である。理知無き怪物には手も足も出ぬ不可視の攻撃は、しかし回避と見極めを重視している断罪者相手に、それほど相性の良い戦術ではない。

 以前から貴方はそのように考えていたが、誤りであったと自省する。
 単純明快な圧撃ではあるが、その技量がサンソンほどの域に達すると、手も足も出せぬ程の脅威となるのだ。単純であるからこそ、これほどやり難いこともないとつくづく貴方は思い知らされる。

 なにしろ、反撃に移れる機会が無い。サンソンの武器は両手で振るう巨大鎌で、柄の長さだけで三メートルにも及んでいる。湾曲した刃渡りだけでも一メートルを優に超える、対大型怪物用の武装としても使える重量型の大刃物だ。
 それをサンソンは重さなどまるで感じていないかのように、高速で駆けて彼我の間合いを調整し、的確に首を刈らんと振るってくる。鎌によって奏でられる怨嗟の如き風切り音は幾つもの空気の刃を生じて飛ばし、攻撃範囲から逃れた獲物の身を撫でるように切り刻み、出血を促してくる。

 つまるところ、と貴方は胸中で唾を吐く。

 ――逃げてばかりでは勝ち目が無い。

 軽々と振るわれる巨大鎌を受け止めるか、或いは攻撃のリズムを打ち崩す必要があると、貴方は覚悟を決めざるを得なかった。

 仮に巨大鎌による重撃を受け止めると考えるなら、片手で扱える鉈と鋸剣とでは武器自体の耐久が持たないだろうと貴方は判ずる。

 貴方は一度サンソンから大きく距離を取って二振りの刃物を重ね合わせて機構を動かし、一振りの長大な鉈へと武装を変形させ、腰を落として巨大鎌による来襲に備えた。

 それを見たサンソンは柔和な笑みを微かに浮かべ、貴方を称えた。

「……良い覚悟だ」

 言い終わると同時に、サンソンは貴方の視界から掻き消える。
 目にも映らぬ超高速で、一息に駆けたのだ。
 白い花弁が宙に舞い、僅かな一瞬、貴方の視界に幻想的な風景を見せる。
 視界に映る何もかもが明瞭に、緩やかに見えるその中に、貴方は確かにサンソンの駆ける軌跡を、直感的に把握した。

 長鉈を、貴方は自身の側面に立てるように構え、訪れるだろう衝撃に備える。
 構えた瞬間、貴方の全身が軋みを上げ、身体が押されて地が抉れた。
 貴方の全身を襲った強い衝撃は、低姿勢のサンソンから繰り出された渾身の振り抜きだ。柄と刃渡りの長さを活かし、遠心力と速度、そして武器の重量を乗せて、両手で大きく薙ぎ払ったのである。

 大岩すら割断するであろう、致死の一撃であった。
 されどそれを貴方は防ぎ、サンソンは微かに目を見開く。
 ここに一つ、貴方の勝機が生じた。
 少なくとも、反撃の機会が訪れたのだと貴方は信じ、即座に行動する。
 衝撃の重さが抜けぬその身を動かし、長鉈を腕のみではなく、身体全体をもって振るう。全身による武器の振るいは体重が乗り、速度も乗る。重量武器であれば、なおさらだ。

 風の唸りすら圧し潰して振るわれた長鉈の一撃は、しかし虚しく空を切り、サンソンを後方に素早く跳び退かせた。が、彼はその場で膝をつくと、大鎌を支えとし、腹部に手を当てる。

 彼の腹には、どのように裂かれたのか、深い裂傷が刻まれていた。

 空気の歪みによって生じた、真空の刃による裂傷であった。
 サンソンが傷口に手を当てると、それに反応したかのように僅かに遅れて、傷口から黒い血の大粒が膨れるように浮き上がる。血泡が弾けて間もなく、血液は勢いを増して噴き出し、彼の装束を濡らしてゆく。

 決して浅い傷ではない。だが、致命傷と呼ぶ程には深い傷でもない。その程度の傷であれば、断罪者はすぐにでも戦線に復帰することができる。
 実際、サンソンが膝をついたのはほんの僅かな瞬間であり、今は怪我など負っている素振りも見せずに立ち上がり、二剣を持って構えを見せる。

 右手に直剣の一振りを持ち、左手に曲剣の一振りを持って佇んでいることから、待ちの態勢と窺える。巨大鎌を分解して二振りにした意図としては、速度の優位を活かして翻弄し、貴方を確実に仕留めるといったところだろう。

 それは奇しくも、貴方が先に戦ったガウスと同様の、速度に頼った戦法である。
 貴方もまたサンソンが武装の変更を行ったと同時に再び長鉈を分解し、鉈と鋸剣の二振りを両手に持って構えていた。

 サンソンほどの速度を有する相手に対して、重量武器の選択は毛ほどの優位性も齎さない。ただ徒に戦闘を困難にするだけだと、貴方は判断したのだ。

 現在の状況としては、貴方の方が僅かに優勢である。
 サンソンの先制に対応し、軽くない傷を与えることに成功している。それでいて自身は擦り傷程度の軽傷で済ませられているという事実は、大きい。

 しかしこれから先は、そう易々とはいかないと貴方は視る。
 師たるサンソンの有する曲剣は防ぐに困難で、容易に深い裂傷を刻み込んでくるだろう。さらには直剣をも振るうという、両手持ちの構えである。
 貴方はこれまでにも特訓としてサンソンと稽古を行ったことがあったが、現在の状況のように、互いが武器を両手に持った戦闘を行ったことはないのだ。

 それでも貴方が恐怖に震えず、師匠を相手に立ち向かっていけるのは、これまでに積み重ねてきた断罪者の経験が、死線を乗り越えた経験が、そうさせているものと思われる。

 貴方とサンソンは暫く無言で睨み合い、互いに攻め手を探りながらも立ち位置を調整し、機を見極め、戦闘を再開した。

 先に打って出たのは、貴方である。
 サンソンの背後へ回り込むように駆け出し、隙を見つけて攻撃を仕掛ける心算であった。何の策も持たずに正面から攻撃を仕掛ければ、十中八九、サンソンが勝利するに違いないと判断したからである。

 また、サンソンが先手を取って貴方に攻撃を仕掛けても、貴方の勝機は薄かっただろう。師たるサンソンと弟子たる貴方の間にはそれほどまでに経験と技量の差があり、速度の差があったのだ。先の長鉈による一撃は本当に、運が貴方に味方したに過ぎない。

 腹部に負傷を刻んで動きを僅かにでも鈍らせていることで、ようやくサンソンと互角に渡り合えるようになっているのだと貴方は視ている。それゆえ、依然として貴方に予断と油断は許されていない。緊張と死を近くに感じながら、自身の方から攻め込んでいかざるを得ない。

 サンソンの隙を誘導すべく、周囲を駆ける貴方は攻めを維持し続けている。が、だからこそ容易に攻撃を仕掛けられないでもいる。その場から動かず待ちに徹し、静かに佇んでいるサンソンに死角が見られないのだ。

 目に見える死角が、死角として緩んでいない。打ち込んでも容易く攻撃の軌道を逸らされ、反撃を受けることになる未来しか視えない。反撃は即ち、致死の一撃に他ならない。

 しかし、ゆえに貴方はサンソンからの反撃を受ける覚悟を決めるより他の方法を取れないでいる。戦闘時の判断は刹那だ。敢えて、真正面から攻撃を仕掛けに行くしかないと決断し、即座に実行を試みる。

 鉈による高速の切り払いを以て正面から仕掛けた貴方だったが、しかしサンソンは攻撃に合わせて片足を下げ、半身で容易に回避する。連動して、空いた手による攻撃を繰り出してくる。避ける間すら無く、貴方の胸部に刃物が突き入り、骨にも当たらず静かに通されてゆく。

 その鋭利な切れ味は、白き鋼の直剣だ。刃身全体が熱の塊で出来ているかのように、貴方の身体を傷口から灼いてゆく。継いで追い打ちをかけるべく、曲剣が貴方の首を捉えた。

 が、機構の駆動が激しい刃音を立て、貴方の左手に強く握り込まれた鋸剣が曲剣を軌道上で食い止める。と同時に、煌めくような火花を散らした。

「ほう――」

 互いの獲物に染み込んだ怪物の脂を打撃と擦過による火花で燃やし、サンソンを思わず飛び退かせる程の熱気を一時的に噴き上げさせ、火焔を舞い上げたのだ。

「――見事だ……強くなったものだ……」

 サンソンは口の端から黒い血液を垂らしながら、足に力が入らぬようで、ゆるりとその場に両膝をついた。見れば彼の胸部には貴方が無意識のうちに追撃していた鉈の刃身が半ばまで埋まっており、黒き血をその刃に止め処もなく滴らせている。

 サンソンは貴方に淡く微笑み、掠れた声で呟いた。

「君の征く道に、幸多からんことを……」

 彼は震える手で曲剣を持ち上げると、両手で構えて背筋を伸ばし、そして自らの首に当てて躊躇も見せずに掻き切った。
 漆黒たる血の飛沫が舞い――、


   ***


 ――鮮烈なる白の色が、幼き貴方の眼前を白く彩った。

 人間の、否、怪物の腕が跳ねるように飛んで地に墜ち、獣性の耳障りな叫び声が夜の森に木霊する。その叫びには人間としての複雑なる情緒は一切感じられない。なればこそ、その影は貴方に伸ばされた怪物の腕を容赦なく断ち切ったのだろう。

 貴方と怪物の間に現れ、貴方を救ったのは、影の如き漆黒の人間であった。
 一本の白羽根を差した黒帽子を目元まで被り、全身を黒のコートで纏っている。夜を人間の形へと落とし込んだのなら、こういう形に落ち着くだろうという幻想がそこにはあった。力みも緊張も不安もない、静謐を具現した人間の形だ。

 その手に持つは、怪物の白き血に塗れた巨大な鎌である。人間が用いるに不相応であろう大き過ぎるその刃物こそ、怪物を狩る者としての象徴なのだろう。それの所持者は貴方に情けをかけるでもなく、むしろ怪物の方へ静かに歩み寄ってゆく。

 手にするは巨大鎌、刃には怪物の怯えを映し、されどその影は自然体そのままに歩みを刻み、鎌をゆっくりと振りかぶる。貴方はこれから起きる惨劇を垣間見て、されど声も上げずに見届けた。

 その戦いは、一方的なものであった。
 もはや戦いなどではなく、それは狩りと呼ばれるものであったろう。
 あっさりと腕を絶たれた怪物に、もはや戦意と呼ばれる意気は無かった。

 それでも目の前に佇む死から懸命に抗おうとして、残された隻腕を振りかぶる。
 黒々とした、歪んだ爪を生やしたその手はしかし、視線を向けられることもなしに無造作の一閃によって切り飛ばされ、視界の届かぬ闇の奥へと消えてゆく。

 怪物も、その結果を承知の上だったのだろう。
 腕を飛ばされたことに構わず、怪物は迅速をもって影に蹴りを見舞ったのだ。
 怪物はいずれの個体も人間より数段上の身体能力を有するがゆえ、自然、単なる蹴りの速度も強度も、並の人間を粉々の肉塊に変えられるだけの威力を持つ。

 だが、影もまた人並みを外れた正確さで蹴りの軌道を見極め、蹴りが来るよりも前に鎌の刃を軌道上に置くようにして、待ち構えていたのである。
 音もなく、歪みもなく、怪物の足が闇の中へと消えていった。

 これで残るは、足を一本のみ残し、血溜まりの中に倒れ伏した怪物だけである。
 怪物を静かに見下ろしたままの影が鎌を振り抜くその直前に、貴方は影が何らかの言葉を呟いたような空気の動きを耳朶に感じたが、その空気が言葉としての像を結ぶより早く、影の鎌が無情にも振り下ろされた。

 怪物は頭部が完全に粉砕され、残る身体は肉を保てず、みるみるうちに白い灰の粒子となり、白き血溜まりもまた、白き灰へと化していった。

   ――断罪執行《HUNTED》――

 影は暫くその場に残された白い灰を消えてゆくまで見下ろしていたが、やがて、貴方の方に向き直り、その身に怪我や傷がないことを一目で確認する。無言の首肯を見せ、その場から立ち去るように即座に歩みを進め――、

「……待って下さい」

 ――幼き貴方の制止によって、その足を止めた。

 影が貴方に視線を向けたとき、貴方はその鋭い視線に臆しながらも、意思の強さを瞳の色に濃く宿し、影の寄越してくる零度の視線を見返した。

「私を、貴方の旅路にお伴させて下さい」

 貴方は声を震わせることなく、はっきりと影に言ったのだ。
 されど影は貴方の放ったその言葉に、やんわりと首を横に振り、貴方の願いを断った。
 彼曰く、自身は血塗られた道を敷く者であるがゆえに、貴方のような幼い子どもを連れ行くことなどできないのだ、と。面倒を見ることはできないのだ、とのことである。

「それに君には、ちゃんとした保護者がいる筈だ」

「いいえ」

 影の言葉は、間髪入れずに否定された。
 つい先ほど、影が殺した怪物こそがかつて貴方の父親だった存在であると貴方は言う。父親だけでなく母親も、近所の人も、住んでいた村の人々も、全員の挙動がおかしくなり、やがて異形の怪物となって、お互いにお互いを喰らい始めたのだ、と貴方は言った。

 こうして自身が生きていられるのは、目の前にいる影が怪物を倒してくれたからであり、さもなければ、この命は既に喪われていたと貴方は言ったのである。

「帰る場所など、ありません」

 貴方は淡々と、されど強い意志を込めて言葉を紡ぐ。
 欲しいのは同情などではなく、影との同道の許可である。
 影の敷いた血塗られた道に、人間として戦い続けて征くのであろう道に、貴方は自身の在るべき生き様を見出したのだ。

 されどそのような無謀を許すほど、影も人でなしではない。
 むしろ誰よりも人間としての生を大事に思っているからこそ貴方の同道を断り、そして他の道を示したのである。

「この先にある街に、養護施設がある。施設長は私の友人で、待遇も悪くはない。そこでなら、君も安心して生きていけるだろう」

「有り難いお話ですが、お断りします」

 貴方は両手にナイフを握り、自身の首筋へと当てつつ、言った。
 そのナイフは貴方が影の隙を見てそのベルトから引き抜き、盗み取ったものだ。

 敵を倒した直後とはいえ、影に盗む隙などほとんどなかった筈である。
 その事実を認めたとき、影は言葉を失った。
 か弱き子供に過ぎないと思って対応したことを、甘さであったと悟ったのだ。

 そんな影を前にして、貴方はなおも言葉を紡ぐ。
 村の人々が怪物になったことを、両親が怪物になったことを、それらが人としての振る舞いを忘れて襲い掛かってきたことを忘れて、安心して生きていくことなどできる筈がないのだと。

「もし、命を救ってくれた恩人の貴方が、私を連れて行かないと言うのなら……」

 ここで自死を選ばせて頂く、と続けるように、貴方は自身の首筋にナイフの刃を少しずつ押し込み、白き血が流れ出す痛みや気持ちの悪さにも構わず、影のことを強く見据えていた。

 緊迫で張り詰めた対峙の時が、どれほど続いたであろうか。
 少なくとも、貴方が失血死するよりもずっと早く決着はついた。影は呆れたようにため息をついて両手を上げ、降参の意を示したのである。

「分かった。君の同道を許そう。だが、少しでも泣き言を漏らしたら、そのときは施設に放り込むからな」

「……ありがとうございます」

 貴方は影の差し出す手にナイフを返さず、利き手も預けず、そのまま自身の首筋に白き刃を当てたまま、静かに感謝の言葉を紡いだ。
 影は警戒を解かぬ貴方を見ながら、ただし、と一言付け加える。

「私についてくるのなら、守ってもらわなければならないことが二つある」

「それは?」

 一つ、どんなことがあっても、決して己のやるべきことを諦めないこと。
 一つ、己だけではなく、相手の生きる道に敬意を払うこと。その道が、どれほど自身の認め難い生き方であっても、それを否定することだけは、やってはならない。

 影は有無を言わさぬ口調で、そう言ったのだ。

「この二つが守れなければ、君もまた、村の人たちのように、理も知も無き怪物に成り果てるだろう。ゆめゆめ、忘れ得ぬことだ」

 言葉を伝え終えた影は、おもむろに帽子を取って自身の胸に押し当てる。僅かに身体を傾け、貴方に対して丁寧な会釈を行った。

 その影は、皺の多く刻まれた、老齢の男である。
 蒼き瞳に宿る意志の力は、天に在る月よりも強く、静かに煌めいている。顔に刻まれている皺は、その身に刻まれた叡智と経験の深みを、安心を感じさせる。

「名乗りが遅れたな。私はサンソン。君の師として、道の導き手となる者だ」

「……よろしくお願いします、師匠。私の名は――」

 幼き貴方が自身の名を述べるのを、現在の貴方はそのすぐ後ろで眺めていた。

 ――これは、夢だ。

 と、貴方は不意に理解する。
 その暗くも眩い光景は、現在よりも遥かに遠い過去のことである。断罪者として生きる道を、戦い続ける道を選んだときの、始まりの記憶である。

 自分自身の選択に後悔などは無いが、師たるサンソンはどうだったのだろうかと貴方は思う。不出来な幼子を弟子として、後悔したのではないだろうか。

 そのように貴方が思ったことを見越したのか、幼子の名前を聞いていたサンソンは顔を上げて貴方に微笑み、その手に持っていた帽子を貴方に被せた。

「君は、私には不相応に出来た弟子だったよ……。そして感謝している。言葉では到底、表せぬほどに」

 貴方は帽子を被り直し、この場から去りゆく老人と幼子の背を見遣る。
 脳裏に響くは、サンソンからの願いの祈りだ。

 ――君は先達として、迷える人々を導いてあげてほしい。

 眩い光の中に去ってゆくサンソンを、後を追いかける幼き自身を見送りながら、貴方は静かに首肯した。

 光が徐々に光量を落としていき、森の風景が崩れて解ける。
 辺りは白き花香る高原の、黒曜の聖地へと戻っていた。

 サンソンは既に息の根が止まっていた。黒き血を流し尽くして倒れ伏しており、貴方の見ているその前で黒き灰へと化してゆく。流された黒き血もまた灰の粒子と化し、その肉体もろとも、風に吹かれて聖地から消えてゆく。

 彼の使っていた直剣と曲剣も急速に錆びつきが進行して崩れゆき、粒子となり、灰と共にどことも知れぬ世界へと運ばれていった。

 サンソンという存在を示すものは、もう貴方を残して他に無い。
 老司祭は貴方に後世を託してこの世を去ったのだ。
 貴方は師の遺志を心に刻み、その場で静かに黙祷を捧げる。

   ――救済完了《SALVATIONED》――


 『断罪者』

 断罪者とは、神たる黒曜の理念に共感した敬虔なる信仰者だ。
 理念の本質は、罪業を断つことのみにあると彼らは信じた。
 生れは皆等しく理知無き獣であり、その心身は罪業に塗れている。
 ゆえに黒曜を信仰し、罪業を浄化され、理知ある者として生きると定めたのだ。
 黒き血をその身に流し、罪業の道から解放されるべきであると。
 異端の咎人どもは悉く罪業に塗れており、それゆえに断ち切らねばならない。
 罪業を断ち切るからこその、断罪者だ。
 断罪者は、この世の如何なる罪業をも赦しはしない。
 たとえ、神が赦そうとも。
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「お前は動くとロクな事をしない、だからお前は悪役令嬢なのだ」 婚約者である第二王子リカルド殿下にそう言われた私は決意した。 ならば私は願い通りに動くのをやめよう。 学園に登校した朝九時から下校の夕方五時まで 昼休憩の一時間を除いて私は椅子から動く事を一切禁止した。 さあ望むとおりにして差し上げました。あとは王子の自由です。 どうぞ自らがヒロインだと名乗る彼女たちと仲良くして下さい。 卒業パーティーもご自身でおっしゃった通りに、彼女たちから選ぶといいですよ? なのにどうして私を部屋から出そうとするんですか? 嫌です、私は初めて自分のためだけの自由の時間を手に入れたんです。 今まで通り、全てあなたの願い通りなのに何が不満なのか私は知りません。 冷めた伯爵令嬢と逆襲された王子の話。 ☆別サイトにも掲載しています。 ※感想より続編リクエストがありましたので、突貫工事並みですが、留学編を追加しました。 これにて完結です。沢山の皆さまに感謝致します。

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