まおうさまの勇者育成計画

okamiyu

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第十章:夜明けを告げるのは誰か――第二回神魔大戦、明星は再び輝く

第188話:千年後の波紋、蝶の羽ばたきが天界を動かすーー明けの明星封印計画

「バタフライ効果」という言葉をご存知だろうか。
森の中での一匹の蝶の羽ばたきが、遠くの町で竜巻を引き起こす——。
荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、どんな些細な出来事も、やがては大きな波紋を広げるのだ。
それはセリナたちの——千年前に遡る地獄での一か月の旅も、もちろん例外ではない。
モリアは懸命に調整を重ね、可能な限り正史に沿うよう努めた。

だが、それはあくまでも現世と地獄だけの話。
彼女の全知の力をもってしても、天界までは調整が及ばなかったのだ。
千年——人間にとっては想像を絶する長さでも、天界と地獄の者たちにとっては、
昼寝を終えたばかりほどの感覚に過ぎない。しかし、その「ほんのひととき」が、
後に起こる出来事の引き金となるには、十分すぎるほどだった。

「おはようございます!今日も神の加護いっぱいの、素敵な一日ですね!」
天界の喧騒の中、人波が自然と割れていく——そんな不思議な気配がした。視線を上げると、そこに彼は立っていた。
陽の光を浴びて輝く金色の髪。短く切り揃えられたそれは、まるでスポーツ選手のような爽やかさで、風に遊ばれて軽やかに揺れている。そしてその髪型に負けないくらい、彼の纏う空気そのものが明るかった。
何より驚くのはその体格だ。周りの群衆がまるで子供のように見える。ゆうに2メートルを超えるだろう長身は、しかし周囲を威圧するようなものではなかった。彼は屈託のない笑顔を、通りすがりの老婦人に向けていた。まるで旧友に再会したかのような——。その笑顔は、まさに太陽そのもの。見ているだけで心の中にぽっと温かい灯りが燈るような、そんな力があった。
顔立ちは彫刻のように整っているが、近寄りがたい美しさではない。ふと目が合うと、彼は「やあ!」と言わんばかりに、人懐っこい笑顔を返してきた。その笑顔に、思わず誰もが足を止め、釣られて笑みを返してしまう。彼の名を知らなくても、その姿を見た者は皆、今日は特別にいい日になるような気がした。
「おっ!」
天使たちの中に、明らかに周囲とは異なる凛とした空気が流れ込んできた。ウリエルはそれを見逃さなかった。後ろからその天使の肩を軽く叩き、陽気に挨拶する。
「ミカエル先輩じゃないですか。オッス!今日も硬いっすね!」
そこに立っていたのは、まさに軍人の鑑とも言うべき男だった。背筋は完璧に伸び、180センチの均整の取れた体躯は無駄のない筋肉で覆われている。彼が纏うのは純白を基調としながらも、金糸で複雑な紋様が刺繍された天界の軍服。肩には厳めしい金の肩章が輝き、胸には数多の戦いを経てきたことを示す勲章が静かに並んでいた。
金色の髪はウリエルよりもわずかに長く、後ろで一つに束ねられている。整えられたそれは、彼の厳しい表情の中にあって、唯一の柔和さを醸し出しているかのようだ。しかし、その目は違った。澄み切った青い瞳は、一切の揺らぎもなく正面を見据え、そこには天界の秩序を守る者としての絶対的な自負が宿っている。
腰には一振りの剣——『天軍の剣』。鞘からわずかに覗く刃は、彼の手に触れることを待ちわびているかのように、かすかな光を放っていた。彼の一歩一歩は、まるで軍律そのものを体現しているかのように正確で、無駄がない。周囲の空気が彼の存在によって引き締まり、思わず誰もが背筋を伸ばした。
彼が口を開く。その声は低く、よく通った。
「ウリエル……その軽いノリはやめろと、あれほど言ったはずだ。貴様も熾天使として、天使たちの上に立つ者。その品格を落とさないようにしろ」
「いいじゃないですか、堅苦しいのは嫌なんですよ。同じ神に創られた者同士、仲良くしましょうよ」
ウリエルは腕をミカエルの首に回し、まるで兄弟のようにスキンシップを図る。ミカエルは明らかに嫌がっているが、いつものことすぎて半分諦めているようだった。
そう、バタフライ効果で新な熾天使が生まれた。
そう、バタフライ効果によって、新たな熾天使が生まれたのだ。
本来の正史では、熾天使は四人しかいない。
——ルキエル、ガブリエル、ミカエル、ラファエル。
彼らは神の分身として天界を管理していた。だが千年前、
セリナたちの活躍によって、毛玉は白色矮星で地獄を潰さず、モリアにプロポーズすることでハッピーエンドを迎えた。そしてその出来事が、ウリエルの誕生に繋がったのだ。
本来ならば、神は魔王の誕生に気を取られ、途中までしか創れなかったウリエルを一旦置き、そのまま忘れてしまうはずだった。しかし、毛玉が魔王になったことに気づかなかったため、神はウリエルを最後まで仕上げることができた。
ウリエル——その名は『神の炎』を意味する。神が彼を創った目的は、現世に裁きを下すためである。
これまではルキエルがその役割を担っていた。しかしルキエルには手加減というものがわからない。必要以上な罰と破壊を繰り広げ、神もそれに頭を抱えていた。
適切な罪には適切な罰を——そうでなければ、罰はただの暴力に成り下がる。
だがルキエルにはそれが理解できない。神以外のあらゆるものを見下した彼に、そんな心はない。神魔大戦では大いに活躍したが、平和になった今、その役割を他の者に任せてもいいのではないか。神はそう思った。
こうして創られたのがウリエルだ。神はこれまでの経験を踏まえ、初めて「自分の分身ではない熾天使」を創り上げた。予想通り、彼はルキエルよりも正確に神の使命を全うする。性格も気さくで、周囲のどんな天使ともすぐに仲良くなれる。
——ルキエルとは違って。
ここまでは良かった。問題は、ウリエルがこれまで誰もが言いたくても言えなかったことを口にしたことだ。
「ルキエルは危険です。あんな暴走しやすい存在を野放しにするべきではありません。今や責務もほとんどないルキエルは、不安要素にしかならない。天界が管理すべきです」
それは正しい意見だった。ウリエルはルキエルを個人的に嫌っているからそう言ったわけではない。彼は「裁きを司る者」として、ルキエルが今の世界にとって有害だと判断しただけだ。
しかし、傲慢極まりないルキエルに「おとなしくしなさい」が通じるはずもない。
例え今は神の命令を聞いたとしても、そんな長い時間閉じ込められれば、その忠誠心がいつまで保たれるかわからない。ならばいっそ、まだ神の言葉を聞くうちに休眠させ、封印してしまった方がいい。
——それが、ウリエルがこの千年の間、密かに進めてきたことだった。
『明けの明星封印計画』。

そして今日も、ルキエルの処遇に関する会議が始まった。
参加者はいつものメンバー——正史に名高い四大天使、ミカエル、ガブリエル、ラファエル。
さらに、ウリエルによって智天使や座天使の中から選抜された「新しい活力」たち。
「今日も集まってくださり、ありがとうございます。本日の議題も、ルキエルの処遇についてです。今回こそ結論を出したい。先延ばしにするほど、状況は悪化する一方ですから。ルキエル本人は……」
白亜の円卓に設けられた空席を見つめ、ウリエルは小さくため息をついた。
彼は何度もルキエルを招待していた。被告の言い分を聞くのも、裁きを行う者として公平であるべきだからだ。
しかし傲慢なルキエルは、一度もその誘いに応じたことがなかった。今日もまた、そのようだ。
「何度やっても同じ結果だ。私は今回もパスさせてもらう。賛成しても反対しても、後でロクなことにならないからな。というか、私はあいつ……ルキエル様には、関わりたくないんだ」
最初に意見を述べたのはガブリエルだった。彼は毎回、棄権票を入れている。それはかつて、帝国での一件以来、ルキエルから植え付けられたトラウマによるものだ。プロトタイプの頃に彼がルキエルに嘘をついた際、「ロンギヌスを千本飲ます」と定められたルールは、今もなお有効なのである。
「ルキエル様だぁ?がははは!情けねえなぁ、それでも男かよ。あんなの、ただのガキじゃねえか。ビビりすぎだっての!」
耳をつんざくような明るい声とともに、何かが飛び込んできた。
炎のように真っ赤なツインテール。肩甲骨まで伸びた髪は、彼女が跳ねるたびに元気よく揺れる。そしてその下にあるのは――幼い少女の顔だった。年齢はせいぜい十歳前後。大きな瞳は好奇心にきらきらと輝き、小麦色に焼けた健康的な肌は、太陽の下で遊び回る子供そのものだ。
しかし、その手に携えられているものが、すべてを台無しにしていた。
斧――彼女の全身の倍はあろうかという、巨大な両刃斧。鋼の塊が鈍く光り、その重量感は見る者に圧倒的な威圧感を与える。天界の武器庫でも指折りの代物だと、一目でわかった。
服装は軽装の極みだった。動きやすさだけを追求したそれは、一言で言えば「スク水」のようなシンプルなもの。天界の軍服や正装とは無縁の、実に実用的な格好だ。幼い肢体にぴったりと沿ったその姿は、しかし彼女の纏う戦士としての空気と不思議と調和していた。
「貴様はあの天災の恐ろしさを知らぬから、今のように威張っていられるのだ。このガブリエルが教えてやろう。貴様は明けの明星の前で失禁し、今の暴言を後悔する日が来る。これだから戦後生まれは呑気で結構だ」
カマエルはくるりと一回転してみせた。赤いツインテールが弧を描き、軽やかな布地がひらりと舞う。巨大な斧が凄まじいつむじ風を巻き起こす。
「上等じゃねえか!最強かなんだか知らねえけど、あたいの方が強いって証明してやる!」
「喧嘩はよくありません。め~ですよ、め~」
隣にいた彼女が、カマエルを座らせ、子供を叱るように軽くその頭を叩いた。
淡い月の光のような髪。銀とも白ともつかぬ、しかし確かに月の光を閉じ込めたかのような幻想的な色合いの長い髪が、腰のあたりまでまっすぐに伸びている。彼女の微かな動きに合わせて、それは静かに、しかし確かに、光の川のように揺れた。
人形のように美しい――そう形容するのが、いかに適切かを思い知らせる。完璧に整った造作。吸い込まれそうなほど深く澄んだ瞳。陶器のように白く、しかし血の気の失せた不健康さとは無縁な、ほのかに桜色を帯びた肌。長いまつ毛が、瞳に影を落とす。それは人の手による芸術作品ではなく、天が自らの美の極致を結晶させたかのような、神々しいまでの美貌だった。
背丈はまだ高くない。十三、四歳といったところか。華奢な肩、細い腕――まだ大人になりきれぬ少女特有のあどけなさを残す肢体。白いドレスに包まれたその姿は、見る者に庇護欲を抱かせる。
(モリア?!)
と思ったが、その胸元だけが、すべての均衡を破っていた。
ドレスの布地が、彼女の歩みに合わせて微かに揺れる。その揺れが、そこにある豊かな膨らみの存在を否応なく主張していた。少女の体には不釣り合いなほど、確かに、しっかりと。彼女の細い体躯に対して、それは自己主張を緩めない。まるで彼女の内に秘められた何かが、そこだけ形を変えて溢れ出ているかのように。
しかし彼女自身は、それを意識している様子はない。
「私は反対です。ルキエルさんは私たちの仲間です。神魔大戦の功績者である彼を封印するなんて、あんまりです。これではまるで『飛鳥尽きて良弓蔵し、狡兎死して走狗烹らる』ではありませんか」
彼女はザドキエル。モリアが『もし女性として生まれていたら』という可能性から創られた存在だ。
モリアとは違って極めて清らかな性格で、慈愛に溢れている。故に、ルキエルが彼女に良い態度を取ったことが一度もなくとも、彼女はずっとこの計画に反対し続けていた。
だからこそ、何度会議を重ねても結論が出ず、長々と引き延ばされていたのである。
「おっしゃることはもっともですが――『必要な悪』というものも、この世には欠かせない存在です。しかしお気の毒ながら、今の時代、明けの明星の存在そのものが害でしかありません。神魔大戦における彼は確かに有能でした。けれど彼の役目はもう終わった。異世界においても、です。戦後には、余計な武装は廃棄するでしょう。それが過去にどれだけの功績をあげようとも」
ザドキエルに反論したのは、ウリエルと同じ思想を持つラジエルだ。
黒い長髪。背中の中ほどまでまっすぐに伸びたそれは、漆黒の絹糸のように艶やかで、しかし一切の動きを見せない。彼自身が微動だにしないからだ。まるで時間が止まったかのような静謐――いや、静止。
完璧なプロポーションの顔立ち。彫りの深さと東洋的ななめらかさが融合した、奇妙なまでの調和。しかしその美しさに、見る者は惹かれるよりも先に、たじろいでしまう。
彼は銀縁の眼鏡をかけている。そのレンズの向こう側にある瞳は、会議室の光を反射して、何を考えているのか一切読ませない。
彼の腕の中には、一冊の書物がある。
『ラジエルの書』
革装の表紙は、無数の年月を経てきたことを示す深い色合い。金具で留められたそれは、分厚く、重そうだ。世界の全ての知識がこの一冊に収められているという。天界の誰もがその存在を知り、誰もがその一片を覗くことを夢見る。しかしそれを開くことを許されているのは、彼だけだ。
「ルキエルさんは武器じゃありません。私たちと同じ天界の仲間です」
「いいえ、彼は兵器です。それも自分ではコントロールできない、最悪のタイプの。お言葉ですが、あなたは彼を『仲間』とおっしゃる。ですが果たして彼は、同じように思っていますかね?私は『ない』と断言できます。ならば、彼が敵になる前に手を打つのが得策というものです」
ラジエル――知識そのもの。感情を超越した天界のデータベース。彼の判断は感情からよるものではなく、彼が持つ知識がそう言わせているのだ。
「でも――え?」
天井の一部が開かれている。もしかしたら会議室の天井には元々、大きな開口部があったのかもしれない。普段は誰も気にしない、単なる建築的意匠。しかし今、そこから彼女は会議室を覗き込んでいた。
カシエル。
彼女の大きさは、優に五十メートルを超える。会議室そのものが、彼女にとっては小さな箱のようなものだ。天井の開口部から覗く彼女の顔だけで、室内の半分以上が影に覆われてしまう。
灰色の髪が、長く流れるように彼女の巨大な頭部を覆っている。その一筋一筋は、人間の体ほどの太さがあるのだろう。
そして――マスク。
彼女の顔の下半分を覆う、大きなマスク。鼻から下が完全に隠されている。素材は何なのか。金属にも見えるが、有機的な質感も併せ持つ。彼女が決して口を開かないのは、このマスクのせいなのか、それとも彼女の意思なのか。誰も知らない。
見えるのは、その瞳だけだ。
巨大な、しかしどこまでも優しい瞳。
彼女は慰めるかのように、指でザドキエルを撫でた。あんなに大きな手なのに、ザドキエルを苦しめないように、丁寧に。それが彼女なりの優しさなのだろう。
「あああ!ザドちゃんばっかりずるい!あたいにも、姉御!」
カマエルがふと上を見上げた。カシエルの妹として、まだまだ姉に甘えたいお年頃らしい。
カシエルの瞳が、わずかに細められた。
笑ったのだ。
口元は見えなくとも、その目が確かに妹に向かって微笑んでいる。言葉はなくとも、それで十分だった。彼女はもう片方の手を、カマエルに添えた。
「レディにはもう少し紳士的なところを見せたらどうかしら?あなたの『ラジエルの書』には、それが書かれていないの?」
会議室の一席に、明らかに不自然な光が輝いていた。
金色の、まばゆいばかりの光。それは照明ではない。自ら発光する存在がそこにいる――そうとしか考えられない、圧倒的な輝きだった。
「女性に優しい=紳士、ではない。私の書はそう記しています。フェミニズムは結構ですが、性別で正しさが変わるわけがありません。それに私は紳士より、賢者を目指しています。お気に障ったなら、それはあなたが間違ったことを言ったからですよ、ハニエル」
「まるで自分がいつも正しいというその言い方、気になりませんわね」
金色の長いウェーブヘアーのハニエルは、まるで異世界の神話に登場するヴィーナスのように美しく優雅な女性だった。完璧なプロポーション、均整の取れた肢体。一歩一歩がまるで舞を踊るかのようにエレガントで、無駄がない。彼女が通った後には、黄金の軌跡が残るかのようだ。
大きな瞳は自身の輝きを映してキラキラと瞬き、長いまつ毛が影を落とす。形の良い鼻、そして薔薇の花びらのような唇は、わずかに上がっている。
彼女は、自分の美しさを知っている。
そしてそれを当然のこととして受け入れている。毎日手鏡を持ち歩き、その中の自分の姿を眺めるのが彼女の日課だ。
「ミカエルさんはどう思われますか?同じ兄弟の契りを持って、彼を見殺しにはしませんよね」
ザドキエルはミカエルに希望を寄せた。天軍の軍団長として、彼の意見はこの場の流れを左右するほど重要なものだ。
しかしそんなミカエルもまた――
「俺は神の命令に従うだけだ。神がルキエルを生かすというなら、俺は何もしない。その逆なら、この命を尽くして戦うまでだ」
ミカエルの本質は軍人。命令に従うことが、彼にとって何より大事なこと。自分の意志はない。神の僕として、神の意志が彼のすべて。それがミカエルだった。
「そんな……」
皆がまとまらない。その時、ウリエルが自分の席から立ち上がった。
深く深呼吸し、思い切り円卓を叩いた。その強烈な音が、場を一瞬で静まり返らせる。
それから彼は、ゆっくりと、しかし固い決意を込めて語り始めた。
「俺はルキエルを憎んでいない。むしろ彼とは友達になりたいと思っている。だけど俺は、同じくらいこの世界を愛している。この世界は脆い。ルキエルの気分次第で、跡形もなく消されてしまうほど脆弱にできている。だから俺は、この世界を守るためなら、ルキエルを犠牲にしても、彼をこの世界から切り離さなければならない。それを『正しいこと』とは言いたくない。ですが、『必要なこと』だ。彼に恨まれようとも、俺は彼を封印すべきだと主張する。あなたはどうお考えですか――神様」
ウリエルの視線は、ラファエルに向けられた。勿論ラファエルは神ではない。あくまでも神の化身の一つに過ぎない。しかし今日だけは、その雰囲気がいつもと違っていた。
胸のあたりまで伸びた白い髪と髭が、彼の口元を優しく覆い、まるで彼の言葉を待っているかのようだ。彼の装いは旅人そのものだった。くたびれた旅装束、何度も補修を重ねたであろう外套。そして手にした一本の杖。それは特別に装飾されたものではなく、ただ長い道のりを共にしてきた相棒のような杖だった。
その顔は皺に覆われている。しかしそれは老いの醜さではない。長い年月が刻んだ、知恵と優しさの軌跡だ。彼の瞳はいつも半分ほど閉じられている。まるで常にうたた寝をしているかのように。
しかしそのラファエルが、目を開けた。
その瞳は、さっきまでのぼんやりとした優しい老人のものではなかった。
深い――底知れぬほど深い。その瞳の中には、宇宙のすべてが収まっているかのようだ。時間も、空間も、生も死も、すべてがその瞳の中に飲み込まれている。
そこにいるのは、ただ一つ――「絶対」だった。
威厳。
誰も、動けなかった。
誰も、言葉を発せなかった。
彼の口が、開いた。
声が、発せられた。
「わしはルーに会いたい。ここへ連れてまいれ」
その声はラファエルのものだった。しかし違う。ラファエルの掠れた老人の声の奥から、別の声が響いている。重なるように、二重に。
それは命令ではなかった。願いでもなかった。ただ、言葉がそこに「在った」。
神に肉体はない――意志だけの存在。
しかしどうしても肉体が必要な時はある。
故に神は、自分の姿を象徴する四つの化身を作った。
少年、青年、中年、老年――
それがルキエル、ガブリエル、ミカエル、ラファエルだ。
そして今、神はラファエルを化身として、姿を現したのである。
誰もがその言葉に従うしかない。しかしウリエルは神の前に跪き、懇願した。
「無礼をお許しください。無礼を承知の上で申し上げます。ルキエルは封印すべきです。少なくとも、その膨大な力を奪うべきです」
「ウリエル!神の御前だぞ、自分が何をしているか自覚しているのか!」
ミカエルは天軍の剣を抜き、今にもウリエルに斬りかかろうとした。しかし神に憑依されているラファエルが手を上げ、ミカエルに制止を指示した。
怒髪天を衝く思いのミカエルだったが、即座に剣を収め、自然とその右後ろに控えた。
「すまぬのう……」
神の声が、重く響く。
「わしはあの子を創った。初めての息子じゃったから、なにもかもあげたくてな。結果、今の状況を創ってしまった。わしが悪いのじゃ。だけど、与えたものは戻せぬ。ルーは完成された以上、もうただの天使には戻れん。わしはずっと、そのことに目を背けていた……」
大きなため息。それから長い沈黙。
ルキエルは神が最も愛する存在。本当の息子のようにいつも可愛がってきた。
ルキエルの体を化身として使ったことは、一度もなかった。
それだけルキエルは、神にとって『特別』だったのだ。
しかし神は、決断しなければならない。
『全能』の力はルキエルに与えた。
『全知』の力はモリアに与えた。
もう『全知全能』ではない神は、童話の『幸福な王子』のように、自分の力不足を痛感していた。
そして悩み抜いた末に、神もまた断腸の思いで命令を下した。
「ルーを……封印しよう」
「神の御心のままに!」
その場にいる天使全員が、そう答えた。
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