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俺が最初に好きだったんだ

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 走って走って走って、赤い鳥居が目端を横切っていく。
 走る叶を阻む者は誰もいない。叶は来た道をひたすら戻る。それは数分にも何時間にも感じた。
 様々な出来事に混乱しながら只々足を進めた。どうする事も出来なかった無力さを噛み締めながら。
 その先に見えたのは平穏に風に揺れる元の森林だった。
 戻って来れた、と安堵する心の余裕はない。
 甘く絡みつく感触や体温、そしておぞましい光景を振り払うように叶は下山する。
 まるで現実感が無かった。ただ、逃げていた。

 太陽はもうすぐ真上に差し掛かろうとする所だ。
 とても天気が良い。無様な叶を嘲笑う様に。

 そうして夢中で進んで、進んで、…叶は見覚えのある道に戻ってこれた。肉体的にも心理的にも酷い疲労感で力が抜けていく。
 ふらふらと、それでもなんとか山の近くまで乗ってきた自家用車に乗り込み叶はやっと一息をついた。
 荒れる息を整えて、ふーっ…と大きく息を吐き出した。

 生きていた。輝は、生きていた。

 安堵感と一緒に真っ黒な絶望が心を染めていく。
 ヌルヌルと触手が輝を絡め取り、叶から輝を奪い取っていった。あんな生物がいるなど未だ信じる事が出来ない。巨大で醜悪なアレからどうすれば輝を取り戻す事が出来るのかまったく想像がつかなかった。

「……っ!…クソッ!!」

 収めようのない感情を叩きつける様にハンドルを叩く。クラクションが大きな音を立てた。驚いた鳥がバサバサ飛び立った。
 こんな事、あんなものを誰に訴えても信じてもらえないだろう。

 グラグラと煮えたぎる感情を押さえ込むと、叶は携帯を取り出した。そこに表示された数字は丸一日が経過している。あの空間では時間の経過が曖昧だった。
 そして数件のメッセージと着信が記録されていた。それは叶の現実だ。
 折り返しの電話をする気力はなく、憤りと心配の文字列を読み飛ばして一言『もう直ぐ帰る』とだけ送った。直ぐに通知音が鳴ったがそれ以上返信をする気にならず、目を通す事もしなかった。
 自身を心配をする家族の事など二の次で叶の脳裏を占めるのは幼馴染の事ばかりだった。
 
 
 

 
 何の準備も無く再び輝の救出に山へ入るのは不可能だと判断した叶は帰宅した。
 ここにきてやっと少しの気まずさを感じたが、それを抑えて玄関を開ける。鍵は掛かっていなかった。俯いた彼女が玄関で待っていた。
 叶は覚悟を決め中に入る。パタリと扉が閉まると同時に出迎えたのはこぶしだった。

「!?…ッ…」

 頬に鈍い痛みが残り口の中に血の味がジワリと広がる。人に殴られるのは久しぶりだ。
 鈍痛を堪え目線を彼女に戻す。息を荒げて目は真っ赤だ。薄っすらと隈が出来た目元から一睡もしていない事が伺えた。
 人など殴った事がないであろう彼女は痛そうに手を庇っている。その赤くなった華奢な指を見て、叶は贖罪の気持ちで受けた拳を避けてあげれば良かったと後悔した。
 
「すごく心配したんだから!っ…これは、ぶたれた分…」
「…すまなかった」
「…ううん。無事、帰って来てくれてよかった…。私も、言い過ぎたと思って謝り、た…か……」

 言葉を途中で止めた彼女は叶の姿をまじまじと見つめて、安堵に緩めていた表情を徐々に強張らせていった。
 その目が吊り上がり瞳孔が開く。ブルブルと怒りの感情で彼女の体が震えだした。
 そんな彼女の変化に叶は検討もつかず動揺した。

「……ねぇ、今まで何してたの…?」
「…輝を、…幼馴染を探しに山に、」
「嘘言わないでよッ!!!」

 怒りの声が鼓膜を震わせた。大声の余韻でキーン…と耳鳴りがする。その悲痛な声が届いたのか部屋の奥から子供の泣き声が聞こえてきた。

「…嘘って、なんだ…?嘘なんて…」
「キスマーク」
「………」
「ついてるよ」

 静かで冷たい声に、叶は思わず首を押さえた。ふっと脳裏に楽しそうに吸い付く輝の姿を思い出す。2人でおこなった行為も。衝撃的な出来事の連続で認識していなかった行為の意味を最悪の状況で自覚した。

「ち、違う…これは…」
「違わないでしょうっ!!…こんなに、香水の匂いもさせて…ッ!どこで何してたのよッ!!」
「………」

 甘い果物の、においだ。
 絡み合い全身に染み付いてしまったその強烈な香りにまったく叶は気がつけなかった。一つになったように馴染んで体臭に混じった。
 みずから進んで肉体を繋げた訳では無かったが、妻帯者でありながらも快楽を貪ったのは不貞行為に違いなかった。
 言い訳などしようが、無い。

「………これは……」
「………」
「………」

 長い沈黙が続いた。子供の泣き声だけが響く。
 空虚な声で彼女がポツリと問う。

「…帰りが遅かった日、…あったよね?」
「……ああ」

 輝から久しぶりに連絡があった日だ。嬉しくて、いてもたってもいられずに、駆けつけた。

「………その日に、…10万円も…何に使ったの…?」
「………それは…」
「答えられないよね?」
「………」
「……ねぇ…私、…疑っちゃダメだって思ってた。疑いたくなんてなかった!信じたかったッ!!」
「………」
「………」
「………」
「なにか……言ってよ……」

 感情が昂りやがて抑え込めなくなったのか彼女は床にぺたりと座り込んだ。
 崩れ落ちた彼女を見る。
 怒りと、それ以上の悲しみで泣いていた。可哀想なほど震える身体を自身で抱き締める彼女に対して、逃避のために利用した事を申し訳なく叶は思った。
 だが、それ以上の感情は…なかった。

「……悪かった」
「言い訳も…してくれないの…?」
「………」
「…………最初から、…本当はわかってた。あなたが私の事なんて愛して無いって…」
「………」
「それでも信じたかった!!家族に、なれば、どうにかなるってッ!子供が産まれたら……」
「………」
「私達の子は……愛してくれるって……」

 真っ当な彼女に縋って、自分はまともなのだと信じたかった。それは途中までは上手くいっていた。
 善き夫、善き人間として振る舞えた。
 周りも、彼女も、自分自身だって上手く騙せていた。
 
 でもたった一度だけ、我が子を腕に抱いた瞬間。
 わかってしまった。
 可愛いとか愛しいという感情は沸かなかった。
 ただ、恐怖した。
 小さな小さなこの生き物が怖くてしょうがなかった。

 世界と乖離していく。

 いつか自分は、これを殺してしまうのではないか。

 そんな考えに支配された叶は2度と我が子を腕に抱くことはなかった。

「ねぇ」
「………」

 静かに彼女が問う。下から見上げる彼女の顔から一切の表情が抜け、真っ暗な瞳が叶の姿を映した。





「あなたのお母さんが…人殺しって…本当?」

 
 
 

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