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9.三角巾の刺繍
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「カレン、これはどう?」
「気持ちを込めるのは大事なことだけど、糸を強く引きすぎてしまっているわね。生地に皺が寄ってしまうからもう少し手加減するのがいいと思うわ」
「わかった、意識してみる」
かつて家庭教師に刺繍を教わった際に受けた助言をそのままソフィアに送ったことに気付き、カレンの胸に懐かしさと切なさが同時に込み上げる。
そんな気持ちを吹き飛ばすように軽く頭を振って、自らの指先を動かすことに集中した。
ソフィアは積極的に練習に臨み、時間が合えばカレンの部屋に訪れて教えを請うていく。その傍らでカレンは勤務中に使う三角巾に針を刺していた。
食堂職員は制服を支給されるのだが、髪を纏めるための帽子や三角巾は私物となっている。制服の水色に合わせて選んだ同系色の三角巾。これが今のカレンを象徴する一番のものだと思えた。
「水色の生地に青の刺繍糸ってしっくり来るのね」
カレンの手元を覗き込んでソフィアがぽつりと呟く。
三角巾の縁に蔦模様を刺し始めたときには「蔦なら緑色じゃないの?」と尋ねられた。刺繍は技術だけでなく、配色やモチーフの配置も重要な要素であることを説明した。見たままに囚われる必要はない、とも。
いざ青い糸が蔦模様を描き始めるとカレンの腕前を褒めると共に、配色の助言に関しても納得してくれた。
「覚えることがたくさんあって頭の中が大変だわ」
「一番は楽しむことよ」
友とおしゃべりしながら刺繍を楽しんでいたのは他でもないカレンだった。
◇◇◆◇◇
髪留めで纏めた黒髪の上から刺繍を施した三角巾を締める。
今日は早番のため、まだ食堂内には料理人たちしかいない。だから大衆の目に触れているというわけでもないのに、純粋に楽しんで刺した三角巾を身に着けるだけでカレンの心は高揚した。
早番は最初にホールを掃き掃除し、テーブルの天板を一台ずつ拭いて回る。それが済むとカウンター内に入り、料理人が使い終えた器具を片付け、トレーと食器の下準備をする。複数用意してある大きなピッチャーにお茶が仕込まれているか、確認することも忘れない。
そうして動き回っていると、まだ閉じられたままの出入り口の扉を神経質に叩く音が聞こえた。
「何かご用でしょうか?」
「配達を頼みたい」
手の空いていたカレンが扉から顔を覗かせると見たことのない男が立っていた。ふと目線を落とすと胸元に朱色の帯付きのバッジが輝いている。財政部門の文官だ、と瞬時に察した。
「お時間と配達先をお教えいただけますか?」
「第八執務室に。昼休憩中であればいつでも構わない」
「かしこまりました。必ずお届けに参ります」
笑顔で受け答えするカレンだったが、相手は何故か訝しげに眉を顰めた。
「君ではなく金髪の女性にお願いしたいのだが」
この国に金色の髪を持つ者は多くいる。現に目の前の文官も濃いめの金髪をしているし、厨房で動き回っている料理人の何人かは金髪だ。
しかし女性と指定されて当てはまるのは一名しかいなかった。
「申し訳ございません。ソフィア・ルベンのことを指していらっしゃるのでしたら、彼女は今日は非番で出勤しておりません」
本来、名指しでの配達依頼は下心を含む可能性を考慮して全面的に断りを入れることになっている。男女間の諍いのみならず、収賄や間諜に繋がることを防ぐための守るべき決まりごとだ。配達を行った際には速やかに食堂へ戻るよう、職員は指導されている。
ソフィアが非番であることは事実なので、下手に食い下がられないように正直に伝えることにしたのだが。
「では、日を改める。時間を取らせた」
首を小さく動かすだけの礼をして文官は食堂を後にする。
彼の置き土産を頭の中で反芻した。
(日を改めるということはまた来るということ? あぁ、名指しでの依頼は受けていないとはっきりお断りするべきだったかしら)
文官に直接依頼をされたらソフィアは受けてしまうのではないだろうか。
本人に頼むのであれば名指しする必要はない。純粋な配達依頼を装えば、下心は隠し通せるのではないだろうか。
(ソフィアに忠告しておく?)
しかし業務中のことであれば無下に断れないこともわかっている。せいぜい配達先では気を付けて、と促すのが関の山だ。
もっと上手く切り返せたのではないだろうかと臍を噛む。こんなとき、人付き合いの経験の少なさを思い知らされてしまう。
気を揉むカレンの心に、追い打ちをかけるように暗い影を落とすものがあった。
『君ではなく』
ソフィアが求められたのだから他意はないとわかっていても。
自分が二の次であることを日頃からうっすらと感じ取っているせいか、イノール家で受けた言葉や扱いが記憶の奥底から顔を覗かせてくる。
(こんなことを考えている場合じゃないでしょう)
ぎゅっと強く目を瞑る。
今は仕事中。これからのカレンの生活を支えていく大事な職務の只中だ。三角巾が与えてくれた高揚感が萎んでしまっても、仕事の手を止めるわけにはいかない。
余計なことを考えないよう、殊更忙しなく身体を動かしていれば昼休憩の時間はすぐにやってくる。昼出勤の同僚にカウンターを任せて、カレンはホールでの作業に没頭していた。
レグデンバーに声を掛けられるまでは。
「こんにちは、カレンさん」
乱れた椅子を並べ直している最中のことだった。
気を取り直したつもりでいたけれど、どうやら思い過ごしだったらしい。彼が次に発する言葉が予想出来たため、また気が重くなる。
だから先手を打つことにした。
「ソフィアなら今日は非番ですよ」
顔を合わせないのは失礼だと思い、平常心を装って頭を上げれば面食らった表情を浮かべたレグデンバーがカレンを見下ろしていた。
一瞬置かれた間の後、「そのようですね」と同意が返ってくる。
(真っ先に私の元へ来るわけもないわね)
すでに確認済みでの声掛けだったのか、と勇み足を恥じると同時に自虐めいた思いが浮かんでしまい、また気分が下降する。
気持ちを奮い立たせるために頭部の三角巾にそっと触れると、その動きをレグデンバーの視線が追ってきた。
「美しい刺繍ですね。カレンさんの作品ですか?」
「ありがとうございます。作品なんて大袈裟で、手すさび程度のものですが」
「いえ、見事な仕事だと思います。手に取って眺めたいくらいに」
領地の屋敷にいた頃、家庭教師に形式上の褒め言葉をもらったことはあるが、実の母には見向きすらされなかった。彼女にはカレンの刺繍の腕が上がろうが、語学力が上がろうが、黒い髪の前では何の価値もなかったのだろう。
そのせいか、ソフィアやレグデンバーの称賛が自分の腕に見合ったものなのかを理解しかねる。家庭教師から合格をもらっているのだから問題はないはずだが。
『せめて人前で使っても恥ずかしくないくらいに上達出来るといいんだけど……』
親友の声が蘇る。
こういうことか、と今更理解した。
「申し訳ありません。あまりご覧にならないで下さい」
「え?」
消え入るような拒絶の言葉にはレグデンバーも声を上げて驚きを表した。そんな彼を差し置いて刺繍の入った三角巾を彼から遠ざけるように頭を下げる。
「仕事に戻りますので失礼いたします」
そう言い残して、逃げた。
◇◆◇
その夜、カレンはソフィアの部屋を訪れた。
ソフィア名指しの配達依頼があったことを伝え、気を付けて欲しいと訴えると同時に上手く断れなかったことを詫びる。
「カレンが謝ることじゃないのに。お相手はどんな人だったの?」
「文官のバッジを付けてらしたわ。財政部門の方だと思う」
深刻な面持ちで答えるカレンとは裏腹にソフィアはからりと笑ってみせる。
「平気よ、きっと。それより時間はある? 刺繍を見てもらってもいい?」
「もちろんよ」
つられて笑んだカレンだったが、はたと思い出す。
「ねぇ、ソフィア。私の刺繍は人様に見ていただいても大丈夫なものかしら?」
今度はソフィアがぴたりと動きを止めた。澄んだ空色の瞳がまじまじとカレンを刺す。
「カレン、それは初心者の私に嫌味で言ってるの?」
「ごめんなさい、そういうつもりじゃ」
「冗談よ、冗談」
肝を冷やすカレンをからかうようにソフィアがくすくすと笑い声を上げる。
「私はとっても素敵で綺麗だと思ってるわ。今の私の目標だもの」
「そう……嬉しいわ」
じんわりとこみ上げてくる温かな感情は間違いなく喜びだった。あのまま家族と呼ばれる人たちと暮らしていても得られることのなかった感情に違いない。
(レグデンバー副団長には失礼なことをしてしまったわ)
もっと素直に彼の言葉を受け止めて、真摯に礼を伝えるべきだった。
次に会ったときに非礼を詫びることを胸に誓い、ソフィアの練習に付き合った。
「気持ちを込めるのは大事なことだけど、糸を強く引きすぎてしまっているわね。生地に皺が寄ってしまうからもう少し手加減するのがいいと思うわ」
「わかった、意識してみる」
かつて家庭教師に刺繍を教わった際に受けた助言をそのままソフィアに送ったことに気付き、カレンの胸に懐かしさと切なさが同時に込み上げる。
そんな気持ちを吹き飛ばすように軽く頭を振って、自らの指先を動かすことに集中した。
ソフィアは積極的に練習に臨み、時間が合えばカレンの部屋に訪れて教えを請うていく。その傍らでカレンは勤務中に使う三角巾に針を刺していた。
食堂職員は制服を支給されるのだが、髪を纏めるための帽子や三角巾は私物となっている。制服の水色に合わせて選んだ同系色の三角巾。これが今のカレンを象徴する一番のものだと思えた。
「水色の生地に青の刺繍糸ってしっくり来るのね」
カレンの手元を覗き込んでソフィアがぽつりと呟く。
三角巾の縁に蔦模様を刺し始めたときには「蔦なら緑色じゃないの?」と尋ねられた。刺繍は技術だけでなく、配色やモチーフの配置も重要な要素であることを説明した。見たままに囚われる必要はない、とも。
いざ青い糸が蔦模様を描き始めるとカレンの腕前を褒めると共に、配色の助言に関しても納得してくれた。
「覚えることがたくさんあって頭の中が大変だわ」
「一番は楽しむことよ」
友とおしゃべりしながら刺繍を楽しんでいたのは他でもないカレンだった。
◇◇◆◇◇
髪留めで纏めた黒髪の上から刺繍を施した三角巾を締める。
今日は早番のため、まだ食堂内には料理人たちしかいない。だから大衆の目に触れているというわけでもないのに、純粋に楽しんで刺した三角巾を身に着けるだけでカレンの心は高揚した。
早番は最初にホールを掃き掃除し、テーブルの天板を一台ずつ拭いて回る。それが済むとカウンター内に入り、料理人が使い終えた器具を片付け、トレーと食器の下準備をする。複数用意してある大きなピッチャーにお茶が仕込まれているか、確認することも忘れない。
そうして動き回っていると、まだ閉じられたままの出入り口の扉を神経質に叩く音が聞こえた。
「何かご用でしょうか?」
「配達を頼みたい」
手の空いていたカレンが扉から顔を覗かせると見たことのない男が立っていた。ふと目線を落とすと胸元に朱色の帯付きのバッジが輝いている。財政部門の文官だ、と瞬時に察した。
「お時間と配達先をお教えいただけますか?」
「第八執務室に。昼休憩中であればいつでも構わない」
「かしこまりました。必ずお届けに参ります」
笑顔で受け答えするカレンだったが、相手は何故か訝しげに眉を顰めた。
「君ではなく金髪の女性にお願いしたいのだが」
この国に金色の髪を持つ者は多くいる。現に目の前の文官も濃いめの金髪をしているし、厨房で動き回っている料理人の何人かは金髪だ。
しかし女性と指定されて当てはまるのは一名しかいなかった。
「申し訳ございません。ソフィア・ルベンのことを指していらっしゃるのでしたら、彼女は今日は非番で出勤しておりません」
本来、名指しでの配達依頼は下心を含む可能性を考慮して全面的に断りを入れることになっている。男女間の諍いのみならず、収賄や間諜に繋がることを防ぐための守るべき決まりごとだ。配達を行った際には速やかに食堂へ戻るよう、職員は指導されている。
ソフィアが非番であることは事実なので、下手に食い下がられないように正直に伝えることにしたのだが。
「では、日を改める。時間を取らせた」
首を小さく動かすだけの礼をして文官は食堂を後にする。
彼の置き土産を頭の中で反芻した。
(日を改めるということはまた来るということ? あぁ、名指しでの依頼は受けていないとはっきりお断りするべきだったかしら)
文官に直接依頼をされたらソフィアは受けてしまうのではないだろうか。
本人に頼むのであれば名指しする必要はない。純粋な配達依頼を装えば、下心は隠し通せるのではないだろうか。
(ソフィアに忠告しておく?)
しかし業務中のことであれば無下に断れないこともわかっている。せいぜい配達先では気を付けて、と促すのが関の山だ。
もっと上手く切り返せたのではないだろうかと臍を噛む。こんなとき、人付き合いの経験の少なさを思い知らされてしまう。
気を揉むカレンの心に、追い打ちをかけるように暗い影を落とすものがあった。
『君ではなく』
ソフィアが求められたのだから他意はないとわかっていても。
自分が二の次であることを日頃からうっすらと感じ取っているせいか、イノール家で受けた言葉や扱いが記憶の奥底から顔を覗かせてくる。
(こんなことを考えている場合じゃないでしょう)
ぎゅっと強く目を瞑る。
今は仕事中。これからのカレンの生活を支えていく大事な職務の只中だ。三角巾が与えてくれた高揚感が萎んでしまっても、仕事の手を止めるわけにはいかない。
余計なことを考えないよう、殊更忙しなく身体を動かしていれば昼休憩の時間はすぐにやってくる。昼出勤の同僚にカウンターを任せて、カレンはホールでの作業に没頭していた。
レグデンバーに声を掛けられるまでは。
「こんにちは、カレンさん」
乱れた椅子を並べ直している最中のことだった。
気を取り直したつもりでいたけれど、どうやら思い過ごしだったらしい。彼が次に発する言葉が予想出来たため、また気が重くなる。
だから先手を打つことにした。
「ソフィアなら今日は非番ですよ」
顔を合わせないのは失礼だと思い、平常心を装って頭を上げれば面食らった表情を浮かべたレグデンバーがカレンを見下ろしていた。
一瞬置かれた間の後、「そのようですね」と同意が返ってくる。
(真っ先に私の元へ来るわけもないわね)
すでに確認済みでの声掛けだったのか、と勇み足を恥じると同時に自虐めいた思いが浮かんでしまい、また気分が下降する。
気持ちを奮い立たせるために頭部の三角巾にそっと触れると、その動きをレグデンバーの視線が追ってきた。
「美しい刺繍ですね。カレンさんの作品ですか?」
「ありがとうございます。作品なんて大袈裟で、手すさび程度のものですが」
「いえ、見事な仕事だと思います。手に取って眺めたいくらいに」
領地の屋敷にいた頃、家庭教師に形式上の褒め言葉をもらったことはあるが、実の母には見向きすらされなかった。彼女にはカレンの刺繍の腕が上がろうが、語学力が上がろうが、黒い髪の前では何の価値もなかったのだろう。
そのせいか、ソフィアやレグデンバーの称賛が自分の腕に見合ったものなのかを理解しかねる。家庭教師から合格をもらっているのだから問題はないはずだが。
『せめて人前で使っても恥ずかしくないくらいに上達出来るといいんだけど……』
親友の声が蘇る。
こういうことか、と今更理解した。
「申し訳ありません。あまりご覧にならないで下さい」
「え?」
消え入るような拒絶の言葉にはレグデンバーも声を上げて驚きを表した。そんな彼を差し置いて刺繍の入った三角巾を彼から遠ざけるように頭を下げる。
「仕事に戻りますので失礼いたします」
そう言い残して、逃げた。
◇◆◇
その夜、カレンはソフィアの部屋を訪れた。
ソフィア名指しの配達依頼があったことを伝え、気を付けて欲しいと訴えると同時に上手く断れなかったことを詫びる。
「カレンが謝ることじゃないのに。お相手はどんな人だったの?」
「文官のバッジを付けてらしたわ。財政部門の方だと思う」
深刻な面持ちで答えるカレンとは裏腹にソフィアはからりと笑ってみせる。
「平気よ、きっと。それより時間はある? 刺繍を見てもらってもいい?」
「もちろんよ」
つられて笑んだカレンだったが、はたと思い出す。
「ねぇ、ソフィア。私の刺繍は人様に見ていただいても大丈夫なものかしら?」
今度はソフィアがぴたりと動きを止めた。澄んだ空色の瞳がまじまじとカレンを刺す。
「カレン、それは初心者の私に嫌味で言ってるの?」
「ごめんなさい、そういうつもりじゃ」
「冗談よ、冗談」
肝を冷やすカレンをからかうようにソフィアがくすくすと笑い声を上げる。
「私はとっても素敵で綺麗だと思ってるわ。今の私の目標だもの」
「そう……嬉しいわ」
じんわりとこみ上げてくる温かな感情は間違いなく喜びだった。あのまま家族と呼ばれる人たちと暮らしていても得られることのなかった感情に違いない。
(レグデンバー副団長には失礼なことをしてしまったわ)
もっと素直に彼の言葉を受け止めて、真摯に礼を伝えるべきだった。
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