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45.同じ気持ち
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かつてレグデンバーに連れられて歩いた中庭に再び足を踏み入れる。伸びる石畳を進むといくつかの四阿が美しい意匠の屋根を覗かせている。
人影を避けて奥の四阿まで歩いた二人は隣り合ってベンチに腰掛けた。
「遠征、お疲れ様でした。まさか今日お会い出来るとは思っていなくて、先程は動転してご挨拶もろくに出来なくて……」
「私も時間的に無理だと諦めていたので驚きました。団長がご無理を言ってしまったようですみません」
「いえ、元気そうなお姿が見られて安心しました」
レグデンバーがカレンの瞳を見つめ、カレンの言葉に頬を緩める。その事実にじわじわと身体が暖かくなる。
「突然兄に引き合わされることにもなって驚いたでしょう? ユヴェンとゼーラさんの縁談はまだ進み始めたばかりで正式な婚約には至っていないというのに、本当にカッツェは何を考えているのだか」
カレンにもカッツェの思考は理解し難い。今この状況を得られているのは紛れもなくカッツェのお陰だと思っているので感謝したいところだが、結果に至るまでの強引さを考えるとレグデンバーのように愚痴りたい気持ちもあった。
「あの、実は縁談のことは存じていました」
「何故、カレンさんが?」
「城内でレグデンバー侯爵をお見掛けしたときにお話しされていたんです。同行されている方が騎士団のご子息とも仰っていました」
「父が……身内のことをペラペラと迂闊ですね」
呆れたようにそう言って肩を竦めている。
カレンが侯爵を迂闊だなどと評するのは恐れ多い。しかし、あの瞬間に漏れ聞こえた話が誤解を大いに孕んでいることは身を以て知っている。
「そのとき、私はお兄様が騎士でいらっしゃるとは知らなくて……まとまりそうな縁談がレグデンバー副団長のものだと思ってしまったんです」
「それはいつのことです?」
「遠征の話を聞いた日のことでしたから、出立の数日前です」
「そんなに前から……」
見開いた藍色の瞳が驚愕を物語っている。見送りの際にも触れずにいたので驚くのも無理はない。
優しく吹き抜ける風に周囲の草花がそよぐ音を聞きながら、カレンは膝上で組んだ手をぎゅっと握り締めた。ここから先は上手く言葉に出来るか自信がない。徐々に脈打つ鼓動が大きくなっている気がする。
「それで、あの……先程ゼーラさんとお会いして、とても嫌な予感がしてしまいました。お二人が名前で呼び合うほど親しげで、公私に渡ってお付き合いもあると知って……動揺してみっともない態度を取ってしまったと反省しています」
「そんなことはありませんが……」
彼にしては珍しく呟くような声音だった。
上体をゆっくり倒したレグデンバーは腿に肘を突いて考え込む姿勢を見せた。肩マントのさらりとした衣擦れの音すら拾えるほどの静寂が訪れる。
「私の言葉は信じられませんでしたか?」
前を向いたままにそう言われて、カレンの心が一瞬で後悔に染まる。
「信じていました……いえ、信じていたつもりでした」
不安を払拭出来ずにいたのならば信じていたとは言い切れず、言い直す。
「でも、個人の意思が黙殺されることは貴族の婚姻には珍しくないのではないかと、特に高位の貴族家では家同士の繋がりを重要視されるのではないかと思ってしまって……申し訳ございません」
「あぁ、責めているわけではないのです。そうですね、カレンさんにはそう考えてしまうだけの事情がありましたね」
レグデンバーもデメリ伯爵のことを思い出したのだろうか、こちらに向けられた笑みは眉尻を下げた優しいものだった。こんなにも細やかに気遣ってくれる人を傷付けたのかと思うと益々申し訳なさが募る。
「言うまでもなく今回の縁談はユヴェンに対するもので、私にはそのような話は一切ありませんから、どうかご安心下さい」
「はい」
しゅんとしたカレンが殊勝に頷く一方で、レグデンバーはふっと息を吐くように笑った。
「『ご安心下さい』だなんて、おこがましい話ですね。でもカレンさんが私のことを考えて下さったようで嬉しいです」
姿勢を正したレグデンバーが徐に胸ポケットへと手を差し入れる。そうして取り出したのは見覚えのある濃藍のハンカチ。銀と真白の糸が鮮明に刺繍模様を浮き上がらせている。
「遠征中、ずっと胸ポケットに仕舞っていました。大切なお守りです」
長い指が愛おしそうに布地の上を滑る。
彼の言葉と仕草がカレンそのものを大事だと語っているようだ。
「私も素敵なカードを送っていただいて、ありがとうございました。美麗な風景画で何度も封筒から出して拝見しています」
「無事に届いていましたか。アレアノイアでの滞在が短く慌ただしかったもので、情緒のない文面だったでしょう?」
そんなことはない、という意味で首を横に振った。その慌ただしい時間の中でもカレンのことを思い出してくれる事実が嬉しいのだから。
「出立された後、考えていたことがあるんです」
「どのような?」
「レグデンバー副団長のことを」
花の香りを乗せた風が吹いて二人の髪をさらっていく。頬に掛かる髪を耳に掛けて視界を確保するとレグデンバーの双眸がカレンを刺していた。浅くなる呼吸を自覚しながら、勇気を出して言葉を続けた。
「発端は縁談かもしれませんが、そこまで大袈裟な話に限ったことではなくて……例えば先程のゼーラさんの場合でもそうなのですが」
伝えるつもりはあっても、どう伝えるかを想定していなかった。あらかじめ用意していた言葉ではなく、今の感情を声で紡いでいる。
カレンの辿々しい語り口にレグデンバーは黙って耳を傾けていた。
「レグデンバー副団長の隣に誰か……私ではない別の『誰か』がいることを嫌だと思ってしまいました。レグデンバー副団長が私に下さったような言葉を他の誰かに向けて欲しくない、と。それを指摘されたんです、嫉妬ではないかって」
「ソフィアさんに?」
「えぇ、お見通しですね」
顔を見合わせて和やかに笑い合う。植物にぐるりと囲まれた人気のない四阿にいるせいか、流れている空気も穏やかで、レグデンバーの隣にいるのが自分自身なのだと強く感じられる。
「私、こんな感情を抱くのは生まれて初めてです。お礼のつもりで刺した刺繍なのに、縁談をお受けになるかもしれないのに、出立の前に会ってお渡ししたいと思いました。任務でお忙しい中、私のことを思い出してカードを送って下さったことを嬉しく思いました。ソフィアと話している最中にレグデンバー副団長と出掛けた日のことを思い出して笑ってしまいました」
伝えたいことが次から次へと湧いて出てくる。思いつくままに言い切って、こくりと息を呑み込んだ。
カレンを見つめる藍色は深い時間の夜空のようでとても優しい。
その瞳に映るのがずっと自分であって欲しい。
震えそうな足に力を込めて立ち上がり、レグデンバーの正面へと回り込む。普段はなかなか見ることの出来ない上目遣いの彼としっかり視線を交差させた。
「レグデンバー副団長のことが好きです。いつから、とは明確に言えないのですけれど、これからはずっと同じ気持ちでいさせて下さい」
眩しそうにカレンを見上げるレグデンバーの両手がカレンの強張った指先をそっと包み込む。ほんのり暖かい。
「ずっと?」
「はい、ずっと」
「では、目一杯長生きしなくてはいけませんね」
これ以上ない程に笑み崩れたレグデンバーが踵をカツンと鳴らして立ち上がる。
途端に逆転する二人の頭の位置だったが、カレンは彼の顔を見ることが出来なかった。その代わりに視界を一面の深緑が埋め尽くす。
背中に重たい力を感じて、抱き締められているのだと気付いた。
「ありがとうございます。あなたの心を繋ぎ止められるように努めます」
耳の後ろからくぐもった声が聞こえる。
頬に触れる深緑の制服からは深い香木の香りが漂い、現実感を薄れさせていく。
頭がぼうっと熱い。突然の抱擁による鼓動の高鳴りだけではなく、衣服越しにレグデンバーの体温が直接伝わっていると理解したときには更に熱が跳ね上がった気がした。
「わ、私も努力いたします」
掠れそうな声で何とか言葉にすると、身体の振動で小さく笑っているのが伝わってきた。
「すみません。馬を長時間走らせてきた格好のままではカレンさんの服を汚してしまいますね」
「い、いえ」
家族から抱き締められた経験がなくエスコートで手を握られるだけでも精一杯のカレンには、この身体的接触の前では衣服の汚れなど瑣末事に過ぎない。
背中に回されていた腕がするりと滑って離れていく。しかし片方の手が掬い上げるようにカレンの小さな掌を捕まえた。
「カレンさん、今度は私のためにお時間をいただいても構いませんか?」
「はい、それはもちろん」
そう答えると繋がった手に導くような力が込められた。
「では行きましょう」
「あの、どちらへ?」
「執務室に戻ります」
「今はまだカッツェ団長がユヴェンさんやゼーラさんとお話し合いをされているのではありませんか?」
至って普通の見解を述べたつもりだったのに、半歩踏み出していた足を止めたレグデンバーはいささか硬い表情でカレンを振り返る。
「カレンさん。兄のユヴェンが名で呼ばれているのに私が家名で呼ばれ続けているのはおかしいと思いませんか?」
「え?」
レグデンバーの懸念点は別のところにあったらしい。
「それは確かにそう……です、ね?」
「でしょう。公の場で無理強いするつもりはありませんが、二人でいるときにはいつかのようにドノヴァと」
にこりと微笑んだレグデンバーにカレンの見解はあっさりと流されて、結局元来た道を戻る。
(二人きりでいることも増えるのかしら……?)
観劇の日には半ば義務のように呼ぶことを決定付けられた。
これからは彼にそう呼ぶことを許された、いや願われた者としてドノヴァの名を口にすることになる。
(……慣れる気がしないわ)
二人きりになることも、名で呼ぶことも。
いつか当たり前となるのかもしれないけれど、今のカレンにはまだまだ高い壁の如き試練だった。
◇◆◇
第十二執務室の扉前で警護に当たっている騎士は再び現れた二人の姿、特に固く結ばれた二人の手を見て目を丸くさせた。しかし任務中とあってか無駄口を叩くことはなく、扉をノックしてカッツェの応答を聞くと機敏に扉を開いてくれる。
カッツェとユヴェン、ゼーラはカレンが配膳したテーブルを囲んで話し合いを行っていたようだ。
「どうした、忘れ物か?」
「すみません。重要なご報告がひとつ」
ちらりとこちらを流し見たカッツェに対してレグデンバーはもったいつけた前口上でそんなことを言う。
「俺たちは退室した方が良いか?」
「いえ、ユヴェンもゼーラさんもお聞き下さい」
名指しされた二人は何事かと顔を見合わせている。何より肝心のカレンもレグデンバーの意図が読めずにいた。
そのとき、今まで繋いでいた手が解けた。掌に冷たい空気が触れたかと思えば、次の瞬間にはぐいとレグデンバーの方へ身体が引き寄せられる。彼と接していない方の肩に彼の掌の重みを感じた。
「カレンさんと婚姻の約束を取り付けましたので、そのご報告を」
大袈裟に眉を持ち上げたカッツェが「へぇ、そうか」と笑う。驚いた様子はない。
「待て、ドニ。いきなりどうしてそんな話になった」
「いきなりではありません。あなたと違って日々の積み重ねの結果ですよ、ユヴェン」
兄弟が言い合う中、ゼーラは興味深そうにカレンを見つめている。
もしユヴェンとゼーラの縁談が上手く運べば彼女との付き合いも増えていくのだろうか。そんな将来を思い描いたときに先程ゼーラに掛けられた言葉を思い出した。
(長いお付き合いになるって、そういう意味?)
彼女がカレンとレグデンバーの関係を察して、そう言ってくれたのだとしたら。
面映ゆい気持ちで何とか笑顔を作る。答えるかのようにゼーラの若草色の瞳が細められて、心がほっと暖かくなる。新しい人間関係が構築出来るのだと思うと純粋に嬉しかった。
「せっかく人が早く帰してやったのに、わざわざ戻ってくるとはな」
「一纏めに済ませた方が良い、と言ったのは団長でしょう」
「その理由が公私混同ときたもんだ」
「あなたには指摘されたくないですね」
一方で上司と部下は声に出してチクチクと刺し合っている。
仕事の邪魔をしている自覚があるカレンは肩身を狭くしてその様子を見守っていた。
「まぁとにかく良かったな、カレン。これでドノヴァも一層仕事に励むだろうから俺も助かる」
「あ、ありがとうございます」
口ぶりからして祝福されているようだ。
思い返せば遠征の出立日に見送りに行けたのもカッツェのお陰だし、あのときの話の運び方からしてもレグデンバーのカレンに対する気持ちを理解していたように思える。
いつもいやらしい笑い方をしているので素直に感謝し辛くはあるが。
肩に置かれた手に一層力が込められた。
「団長より将来を約束した私の方がよそよそしく接するのはおかしな話ですね」
カレンを見下ろす笑顔に不穏なものを感じた。これだけ接近していてよそよそしいも何もないのでは、と疑問に思わなくはない。しかし慣れない接触とユヴェンたちの手前、声に出すことは叶わなかった。
「行きましょう、カレン。今度こそお送りします」
肩に感じていた重みから解放され、再度指先を捕らえられる。
そのまま退室するだろう気配を感じ取り、慌てて頭を下げた。
「お話し合いの最中に失礼いたしました」
「正式な届け出はまた後日提出します。それでは」
その後、真っ直ぐ職員寮まで送られたカレンは行き交う職員たちの前で「おやすみなさい、カレン」と甘い挨拶を受け、混乱に満ちた一日の終わりをようやく掴み取った。
人影を避けて奥の四阿まで歩いた二人は隣り合ってベンチに腰掛けた。
「遠征、お疲れ様でした。まさか今日お会い出来るとは思っていなくて、先程は動転してご挨拶もろくに出来なくて……」
「私も時間的に無理だと諦めていたので驚きました。団長がご無理を言ってしまったようですみません」
「いえ、元気そうなお姿が見られて安心しました」
レグデンバーがカレンの瞳を見つめ、カレンの言葉に頬を緩める。その事実にじわじわと身体が暖かくなる。
「突然兄に引き合わされることにもなって驚いたでしょう? ユヴェンとゼーラさんの縁談はまだ進み始めたばかりで正式な婚約には至っていないというのに、本当にカッツェは何を考えているのだか」
カレンにもカッツェの思考は理解し難い。今この状況を得られているのは紛れもなくカッツェのお陰だと思っているので感謝したいところだが、結果に至るまでの強引さを考えるとレグデンバーのように愚痴りたい気持ちもあった。
「あの、実は縁談のことは存じていました」
「何故、カレンさんが?」
「城内でレグデンバー侯爵をお見掛けしたときにお話しされていたんです。同行されている方が騎士団のご子息とも仰っていました」
「父が……身内のことをペラペラと迂闊ですね」
呆れたようにそう言って肩を竦めている。
カレンが侯爵を迂闊だなどと評するのは恐れ多い。しかし、あの瞬間に漏れ聞こえた話が誤解を大いに孕んでいることは身を以て知っている。
「そのとき、私はお兄様が騎士でいらっしゃるとは知らなくて……まとまりそうな縁談がレグデンバー副団長のものだと思ってしまったんです」
「それはいつのことです?」
「遠征の話を聞いた日のことでしたから、出立の数日前です」
「そんなに前から……」
見開いた藍色の瞳が驚愕を物語っている。見送りの際にも触れずにいたので驚くのも無理はない。
優しく吹き抜ける風に周囲の草花がそよぐ音を聞きながら、カレンは膝上で組んだ手をぎゅっと握り締めた。ここから先は上手く言葉に出来るか自信がない。徐々に脈打つ鼓動が大きくなっている気がする。
「それで、あの……先程ゼーラさんとお会いして、とても嫌な予感がしてしまいました。お二人が名前で呼び合うほど親しげで、公私に渡ってお付き合いもあると知って……動揺してみっともない態度を取ってしまったと反省しています」
「そんなことはありませんが……」
彼にしては珍しく呟くような声音だった。
上体をゆっくり倒したレグデンバーは腿に肘を突いて考え込む姿勢を見せた。肩マントのさらりとした衣擦れの音すら拾えるほどの静寂が訪れる。
「私の言葉は信じられませんでしたか?」
前を向いたままにそう言われて、カレンの心が一瞬で後悔に染まる。
「信じていました……いえ、信じていたつもりでした」
不安を払拭出来ずにいたのならば信じていたとは言い切れず、言い直す。
「でも、個人の意思が黙殺されることは貴族の婚姻には珍しくないのではないかと、特に高位の貴族家では家同士の繋がりを重要視されるのではないかと思ってしまって……申し訳ございません」
「あぁ、責めているわけではないのです。そうですね、カレンさんにはそう考えてしまうだけの事情がありましたね」
レグデンバーもデメリ伯爵のことを思い出したのだろうか、こちらに向けられた笑みは眉尻を下げた優しいものだった。こんなにも細やかに気遣ってくれる人を傷付けたのかと思うと益々申し訳なさが募る。
「言うまでもなく今回の縁談はユヴェンに対するもので、私にはそのような話は一切ありませんから、どうかご安心下さい」
「はい」
しゅんとしたカレンが殊勝に頷く一方で、レグデンバーはふっと息を吐くように笑った。
「『ご安心下さい』だなんて、おこがましい話ですね。でもカレンさんが私のことを考えて下さったようで嬉しいです」
姿勢を正したレグデンバーが徐に胸ポケットへと手を差し入れる。そうして取り出したのは見覚えのある濃藍のハンカチ。銀と真白の糸が鮮明に刺繍模様を浮き上がらせている。
「遠征中、ずっと胸ポケットに仕舞っていました。大切なお守りです」
長い指が愛おしそうに布地の上を滑る。
彼の言葉と仕草がカレンそのものを大事だと語っているようだ。
「私も素敵なカードを送っていただいて、ありがとうございました。美麗な風景画で何度も封筒から出して拝見しています」
「無事に届いていましたか。アレアノイアでの滞在が短く慌ただしかったもので、情緒のない文面だったでしょう?」
そんなことはない、という意味で首を横に振った。その慌ただしい時間の中でもカレンのことを思い出してくれる事実が嬉しいのだから。
「出立された後、考えていたことがあるんです」
「どのような?」
「レグデンバー副団長のことを」
花の香りを乗せた風が吹いて二人の髪をさらっていく。頬に掛かる髪を耳に掛けて視界を確保するとレグデンバーの双眸がカレンを刺していた。浅くなる呼吸を自覚しながら、勇気を出して言葉を続けた。
「発端は縁談かもしれませんが、そこまで大袈裟な話に限ったことではなくて……例えば先程のゼーラさんの場合でもそうなのですが」
伝えるつもりはあっても、どう伝えるかを想定していなかった。あらかじめ用意していた言葉ではなく、今の感情を声で紡いでいる。
カレンの辿々しい語り口にレグデンバーは黙って耳を傾けていた。
「レグデンバー副団長の隣に誰か……私ではない別の『誰か』がいることを嫌だと思ってしまいました。レグデンバー副団長が私に下さったような言葉を他の誰かに向けて欲しくない、と。それを指摘されたんです、嫉妬ではないかって」
「ソフィアさんに?」
「えぇ、お見通しですね」
顔を見合わせて和やかに笑い合う。植物にぐるりと囲まれた人気のない四阿にいるせいか、流れている空気も穏やかで、レグデンバーの隣にいるのが自分自身なのだと強く感じられる。
「私、こんな感情を抱くのは生まれて初めてです。お礼のつもりで刺した刺繍なのに、縁談をお受けになるかもしれないのに、出立の前に会ってお渡ししたいと思いました。任務でお忙しい中、私のことを思い出してカードを送って下さったことを嬉しく思いました。ソフィアと話している最中にレグデンバー副団長と出掛けた日のことを思い出して笑ってしまいました」
伝えたいことが次から次へと湧いて出てくる。思いつくままに言い切って、こくりと息を呑み込んだ。
カレンを見つめる藍色は深い時間の夜空のようでとても優しい。
その瞳に映るのがずっと自分であって欲しい。
震えそうな足に力を込めて立ち上がり、レグデンバーの正面へと回り込む。普段はなかなか見ることの出来ない上目遣いの彼としっかり視線を交差させた。
「レグデンバー副団長のことが好きです。いつから、とは明確に言えないのですけれど、これからはずっと同じ気持ちでいさせて下さい」
眩しそうにカレンを見上げるレグデンバーの両手がカレンの強張った指先をそっと包み込む。ほんのり暖かい。
「ずっと?」
「はい、ずっと」
「では、目一杯長生きしなくてはいけませんね」
これ以上ない程に笑み崩れたレグデンバーが踵をカツンと鳴らして立ち上がる。
途端に逆転する二人の頭の位置だったが、カレンは彼の顔を見ることが出来なかった。その代わりに視界を一面の深緑が埋め尽くす。
背中に重たい力を感じて、抱き締められているのだと気付いた。
「ありがとうございます。あなたの心を繋ぎ止められるように努めます」
耳の後ろからくぐもった声が聞こえる。
頬に触れる深緑の制服からは深い香木の香りが漂い、現実感を薄れさせていく。
頭がぼうっと熱い。突然の抱擁による鼓動の高鳴りだけではなく、衣服越しにレグデンバーの体温が直接伝わっていると理解したときには更に熱が跳ね上がった気がした。
「わ、私も努力いたします」
掠れそうな声で何とか言葉にすると、身体の振動で小さく笑っているのが伝わってきた。
「すみません。馬を長時間走らせてきた格好のままではカレンさんの服を汚してしまいますね」
「い、いえ」
家族から抱き締められた経験がなくエスコートで手を握られるだけでも精一杯のカレンには、この身体的接触の前では衣服の汚れなど瑣末事に過ぎない。
背中に回されていた腕がするりと滑って離れていく。しかし片方の手が掬い上げるようにカレンの小さな掌を捕まえた。
「カレンさん、今度は私のためにお時間をいただいても構いませんか?」
「はい、それはもちろん」
そう答えると繋がった手に導くような力が込められた。
「では行きましょう」
「あの、どちらへ?」
「執務室に戻ります」
「今はまだカッツェ団長がユヴェンさんやゼーラさんとお話し合いをされているのではありませんか?」
至って普通の見解を述べたつもりだったのに、半歩踏み出していた足を止めたレグデンバーはいささか硬い表情でカレンを振り返る。
「カレンさん。兄のユヴェンが名で呼ばれているのに私が家名で呼ばれ続けているのはおかしいと思いませんか?」
「え?」
レグデンバーの懸念点は別のところにあったらしい。
「それは確かにそう……です、ね?」
「でしょう。公の場で無理強いするつもりはありませんが、二人でいるときにはいつかのようにドノヴァと」
にこりと微笑んだレグデンバーにカレンの見解はあっさりと流されて、結局元来た道を戻る。
(二人きりでいることも増えるのかしら……?)
観劇の日には半ば義務のように呼ぶことを決定付けられた。
これからは彼にそう呼ぶことを許された、いや願われた者としてドノヴァの名を口にすることになる。
(……慣れる気がしないわ)
二人きりになることも、名で呼ぶことも。
いつか当たり前となるのかもしれないけれど、今のカレンにはまだまだ高い壁の如き試練だった。
◇◆◇
第十二執務室の扉前で警護に当たっている騎士は再び現れた二人の姿、特に固く結ばれた二人の手を見て目を丸くさせた。しかし任務中とあってか無駄口を叩くことはなく、扉をノックしてカッツェの応答を聞くと機敏に扉を開いてくれる。
カッツェとユヴェン、ゼーラはカレンが配膳したテーブルを囲んで話し合いを行っていたようだ。
「どうした、忘れ物か?」
「すみません。重要なご報告がひとつ」
ちらりとこちらを流し見たカッツェに対してレグデンバーはもったいつけた前口上でそんなことを言う。
「俺たちは退室した方が良いか?」
「いえ、ユヴェンもゼーラさんもお聞き下さい」
名指しされた二人は何事かと顔を見合わせている。何より肝心のカレンもレグデンバーの意図が読めずにいた。
そのとき、今まで繋いでいた手が解けた。掌に冷たい空気が触れたかと思えば、次の瞬間にはぐいとレグデンバーの方へ身体が引き寄せられる。彼と接していない方の肩に彼の掌の重みを感じた。
「カレンさんと婚姻の約束を取り付けましたので、そのご報告を」
大袈裟に眉を持ち上げたカッツェが「へぇ、そうか」と笑う。驚いた様子はない。
「待て、ドニ。いきなりどうしてそんな話になった」
「いきなりではありません。あなたと違って日々の積み重ねの結果ですよ、ユヴェン」
兄弟が言い合う中、ゼーラは興味深そうにカレンを見つめている。
もしユヴェンとゼーラの縁談が上手く運べば彼女との付き合いも増えていくのだろうか。そんな将来を思い描いたときに先程ゼーラに掛けられた言葉を思い出した。
(長いお付き合いになるって、そういう意味?)
彼女がカレンとレグデンバーの関係を察して、そう言ってくれたのだとしたら。
面映ゆい気持ちで何とか笑顔を作る。答えるかのようにゼーラの若草色の瞳が細められて、心がほっと暖かくなる。新しい人間関係が構築出来るのだと思うと純粋に嬉しかった。
「せっかく人が早く帰してやったのに、わざわざ戻ってくるとはな」
「一纏めに済ませた方が良い、と言ったのは団長でしょう」
「その理由が公私混同ときたもんだ」
「あなたには指摘されたくないですね」
一方で上司と部下は声に出してチクチクと刺し合っている。
仕事の邪魔をしている自覚があるカレンは肩身を狭くしてその様子を見守っていた。
「まぁとにかく良かったな、カレン。これでドノヴァも一層仕事に励むだろうから俺も助かる」
「あ、ありがとうございます」
口ぶりからして祝福されているようだ。
思い返せば遠征の出立日に見送りに行けたのもカッツェのお陰だし、あのときの話の運び方からしてもレグデンバーのカレンに対する気持ちを理解していたように思える。
いつもいやらしい笑い方をしているので素直に感謝し辛くはあるが。
肩に置かれた手に一層力が込められた。
「団長より将来を約束した私の方がよそよそしく接するのはおかしな話ですね」
カレンを見下ろす笑顔に不穏なものを感じた。これだけ接近していてよそよそしいも何もないのでは、と疑問に思わなくはない。しかし慣れない接触とユヴェンたちの手前、声に出すことは叶わなかった。
「行きましょう、カレン。今度こそお送りします」
肩に感じていた重みから解放され、再度指先を捕らえられる。
そのまま退室するだろう気配を感じ取り、慌てて頭を下げた。
「お話し合いの最中に失礼いたしました」
「正式な届け出はまた後日提出します。それでは」
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