日刊幼女みさきちゃん!

下城米雪

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第二章 仕事と子育て

SS:戸崎結衣(後)

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 結衣は女の子を警察に届けた。
 その僅か三日後、結衣は女の子が捨て子だったという報告を受けた。

 ゆいと名乗った女の子は、施設に入る事になった。女の子の両親が何者で、どうして娘を捨てたのかという事情は結衣に伝えられなかったが、特に考える気にはならなかった。気分が悪くなるだけに決まっているからだ。

 結衣は捨て子の第一発見者として、何度か警察に事情を聞かれた。その度、女の子と顔を合わせた。

 自分と同じ色をして、自分と同じ名前で、自分と同じひとりぼっちの女の子。
 結衣は、その子が他人には思えなかった。

 特別養子縁組という制度がある。
 とある審査を受けて、しかるべき機関で手続きをして、いくらかの監視期間を経た末に、六歳未満の子供と法的に親族関係を持てる制度だ。通常の養子縁組では子供の戸籍が「養子・養女」となるのに対して、特別養子縁組では子供の戸籍が「長男・長女」となる。要は、家族になる制度だ。

 二十三歳独身で天蓋孤独。そんな結衣が審査を通過したのは、単に彼女の特別な力があったからであろう。

 こうして、結衣は女の子の親になった。

「……」
「……」

 最初の一ヶ月、会話は皆無だった。
 結衣が仕事で家を留守にしている間、女の子は広い家の中でじっと虚空を見ている。

「ただいま」

 午後八時になると、帰宅した結衣が小さな声で挨拶をする。
 しかし返事は無い。それについて結衣が何か言うことも、思う事も無い。彼女が挨拶をするのは、幼い頃からの習慣が抜けないだけで、返事を求めてのことではない。

 結衣は軽く身形を整えると、淡々と食事の用意をして、自分では何もできない女の子にご飯を食べさせる。それからお風呂に入れて、歯も磨いてあげた後でベッドに寝かせて布団をかける。

 そこに愛情は無い。家族らしい感情は何一つ存在しない。
 結衣が女の子に向けているのは、惨めったらしい同情心だけだった。



 変化があったのは、ある日の朝の事だ。結衣がいつものように会社へ向かおうとすると、女の子が玄関に先回りして結衣の靴の上に座った。

 とても低い位置から結衣を見上げる女の子に表情は無い。しかし、結衣には色が見えた。それだけで、女の子の考えている事が全て結衣に伝わる。

 一日前、結衣は家に帰らなかった。それは仕事が長引いたからで、結果的に女の子は独りで夜を過ごすことになった。もう帰ってこないかもしれない。そんな予感が、女の子を酷く不安にさせた。だから、また結衣が何処かに行ってしまうことを防ごうと考えたのだ。

 結衣は膝を折って目を合わせると、ただ一言だけ呟くようにして言った。

「大丈夫だよ」

 じーっと、女の子は結衣の目を見る。やがてコクリと頷いて、結衣に靴を手渡した。



「ただいま」

 半日経って結衣が帰宅した時、女の子はドアの前に居た。顔を上げた女の子は、結衣の姿を認めると、無表情のまま色を変えた。その色を見た時、どうしてか結衣の身体が軽くなった。

 その日から、女の子は結衣に色を見せるようになった。相変わらず言葉を話さなかったけれど、結衣にはそれで十分だった。

 きっと、この関係を親子と呼ぶのは難しい。だけど女の子にとって、結衣は何も言わなくても気持ちが伝わる最高の母親だった。結衣にとっても、女の子は特別な存在になりつつあった。



 ある日、結衣は本を読んだ。
 それは、とある夫婦のもとに生まれた女の子の話だ。夫婦はずっと仕事をしていて、家でもほとんど会話をしない。そのせいか、女の子もいつまでも言葉を話さなかった。子供は自然に言葉を話すようになるものだと思っていた両親は、四歳になっても言葉を話さない娘を前にして、ようやくおかしいと思い始めた。それが、とある記者や研究者に伝わり本になった。

 結衣は思う。あの子は確か、四月で三歳になる。この本には四歳で言葉を話さないのはおかしいと書いてあったが、三歳はどうなのだろう。

 果たして、結衣が女の子との会話を決意するのに、そう時間はかからなかった。

「ただいま」
「……」

 じーっと、女の子の顔を見る結衣。
 そして思う。小さな女の子との会話って、どうすればいいのだろう。

 結衣は「話をしたい」という理由で他人と会話した経験がほとんど無い。それこそ何年も前に彼と会話したのが最後と言っても過言ではないくらいだ。

 両親としていた会話は、喜ばせることが目的だった。
 仕事でしている会話は、言うまでも無く仕事の為の事務的なものだ。

 魔法のような話術で驚異的な営業成績を上げてきた結衣は、しかし頭が真っ白になった。

 何を話せばいいのだろう。そもそも話すってなんでしたっけ。

 自問自答。その間、女の子はじーっと結衣のことを不思議そうな顔で見ている。
 やがて結衣は覚悟を決めて、女の子にこう言った。

「ただいまという挨拶を聞いたら、おかえりと返事をしましょう」
「……」
 
 伝わっていない。
 結衣は冷や汗で背中がベタベタするのを感じながら、努めて冷静に声を出した。

「おかえり、です。言ってみてください。お、か、え、り」
「……お、か、え、り?」
「はいっ、良く出来ました!」

 思わず、結衣は子供みたいな声を出した。
 直ぐにハッとして、コホンと咳払いをする。

「はい、ただいま帰りました。今からご飯を作りますね」
「……」

 この人、今日は様子がおかしい。
 パチパチと瞬きを繰り返す女の子は、密かにそんなことを思った。

「むっ、何やら良くないことを考えていますね。ダメですよ」

 もちろん、結衣に隠し事は通じない。

 ――こうして、結衣とゆいの歪な親子関係は少しずつ変わり始めた。

「ご飯を食べる前には、頂きます、です。い、た、だ、き、ま、す」
「……い、た、だ、き、ま、す?」
「はいっ、良く出来ました。ではもう一度、手を合わせましょう」
「……い、た、だ、き、ま、す?」
「惜しいですっ、まずは手を合わせて、合わせましたと言ってみましょう」
「……あわ、わ?」
「あ、わ、せ、ま、し、た」
「……あ、わ、せ、ま、し、た?」
「はいっ、良く出来ました!」

 結衣に出来るのは、常識を教えることくらいだ。ゆいは素直に従うだけで、自分から何かを要求することは無い。だから結衣がどれだけ頑張っても、会話が弾むことは無かった。

 しかし結衣は根気強く会話を試みた。

 ゆいはどんな話をすれば喜ぶのだろう。
 絵本を読み聞かせるのはどうだろうか?
 本以外にもピアノくらいなら弾いて聴かせることが出来る。
 いやいや、どちらも自分が頑張るだけで、ゆいとの会話には繋がりそうにない……。

 何か無いだろうか。
 悩み続ける結衣の目に、一枚のポスターが映った。

 夏祭り。

 これだ、結衣は直感した。
 仕事の予定を調整して、なんとか夏祭りの初日に有休を取得することに成功した。

 そうして訪れた夏祭り、しかし結衣はノープランだった。もっと言えば、何かのイベントに参加すれば嫌でも会話が弾むだろうという浅はかな考えしか無かった。

 しかし現実は――
 見るだけでうんざりするほどの人の数、耳を塞ぎたくなるような騒音。
 
 結衣は早々に後悔した。だけど今更引き返すことは出来ない。結衣はゆいの小さな手を取って、人混みに飛び込んだ。

「大丈夫ですか?」

 何度も振り向きながら、ひとつずつ屋台を巡る。

「ほら見てください、お面ですよ。じゃーん、キツネさんになってしまいました。どうですか、似合ってますか?」
「……」
「……はい、よく分かりました。次に行きましょう」

 目的は、この祭りを通じてゆいと仲良く会話できるようになること。
 しかし、それが達成される未来はまるで見えてこない。
 だからといって諦めるという選択は有り得ない。
 とにかく結衣は必死だった。

「見てください、これはわたあめです」
「……」
「わ、た、あ、め!」
「……わ、た、あ、め?」
「はい! いいですか? これを顎にくっつけると……じゃーん、おひげになりました!」
「……」
「……そろそろ辛くなってきました。失笑でもいいのでリアクションをください」

 しょんぼりする結衣。だけどそれも一瞬、この程度で結衣の心は折れない。

「次です! 次に行きましょう!」

 と言って、結衣はゆいの手を引っ張る。
 いったいどちらが子供なのか。

「これは金魚すくいです! 一緒にやりましょう!」
「……」

 ゆいはポイを受け取ると、微かに頷いた。

「はい、それではお手本を見せます。見ていてくださいね、今ママが見事に金魚をすくって見せますからね……えいっ、あぁぁ破れました! 不良品ですコレ! 不良品ですよ!」

 わーわー騒ぐ結衣の姿を見て、ゆいは楽しそうだなと思った。
 そして、結衣のマネをして金魚にポイを忍ばせる。

「……あ」

 呟いたゆいの視線の先、ポイの上で金魚が跳ねていた。

「おおぉすごい! すごいですゆい! 次はえっと、ここ、ここに入れてください。ゆっくりですよ? そうですゆっくり――はいっ、良く出来ました!」
「……はい、よくできました」

 一瞬、結衣の時間が止まった。
 はい、よくできました。それは結衣がいつも言っている言葉だ。

 驚いて、嬉しくて、結衣はポカンと口を開けたまま、わなわな手を動かした。
 だけど何をするわけでも無い結衣のことを、ゆいは相変わらず無表情に――少しだけ楽しそうに見ていた。

 果たして、二人は一匹の金魚を獲得した。
 この時の金魚は、今でも二人が住む部屋の水槽に飼われている。

 それから残りの屋台も遊び尽くして、結衣は花火が見える場所へ向かった。そこは祭り会場から少し離れた場所にある丘の上で、地元の人は勿論、遠方からも人が訪れるくらいに有名な場所らしい。

 道のりは険しかった。大人でも息が乱れる山道を幼いゆいが一気に登り切れるわけがない。かといって、結衣にも子供一人を抱えて登れる程の体力は無い。

 結局、二人が頂上に着く前に花火が始まってしまった。

「……ごめんなさい、間に合いませんでした」

 結衣達が居る場所からでも、少しなら花火が見える。だけど最高の場所でゆいに花火を見せたかった結衣は、ガックリと肩を落とした。

 くい、と結衣の手を引くゆい。

「どうしましたか?」
「……はい、よくできました」

 気にしないで、とか。頑張ったね、とか。きっとそういう意味の事を言いたかったのだろう。その気持ちは、十分過ぎるくらい結衣に伝わった。同時に、それは結衣が何よりも欲しかった言葉だった。

「来年は、頂上まで登りましょう」

 結衣は自分の指を掴む小さな手を、少しだけ強く握り返した。
 それから花火の音が聞こえなくなるまで、二人はずっと手を繋いでいた。
 花火の音が聞こえなくなった後も、二人は手を離さなかった。

 きっとこの時、二人は家族になった。



 次の日の朝、結衣はいつもよりも体が軽いと自覚した。

「おはようございます」
「……おはよう、ござい、ます」
「はいっ、良く出来ました!」
「よくできました」

 何時の間にか出来るようになっていた朝の挨拶。

「手を合わせましょう」
「あわせ、ました」
「頂きます」
「いただき、ます」

 ご飯の前の挨拶も出来るようになっていた。
 そして結衣は、ゆいの成長を見て頬が緩むのを隠せなくなっていた。
 ゆいもまた、そんな結衣を見て少しだけ口角を上げるようになった。

 少しずつ、少しずつ変わっていく。

 結衣は、灰色だった時間が色付き始めたのを感じていた。何をしていても、ゆいと出会う前より楽しい。何をしていても、ゆいの事を考えてしまう。そしてゆいの事を考えていると、ちょっぴり気持ちが軽くなる。

 またある日のこと。
 結衣がいつものように仕事へ向かおうとすると、ゆいは結衣を引き留めた。

「……やだ」

 行かないで、目がそう言っている。

「……」

 思わず、結衣は頷きそうになった。だけどそれは出来ない。だって、ゆいの為にもお金は必要だ。その為には働かなくてはならない。

 お金が無い事は、とても残酷なことだから。

「いいですか。ママはゆいの為に、お仕事をしてきます」
「……どうして?」
「そうしないと、大変なことになるからです」
「……たいへん?」
「はい、とっても困ります。だから、そうならないように、ママは頑張ります」
「……」
「ゆいが応援してくれたら、ママはとっても嬉しいです」
「……おうえん、する」
「はいっ、ありがとうございます」

 だから結衣は、ゆいの為に働く。
 ゆいの為に、お金を稼ぐ。



 またある日、結衣は独りで自分の帰りを待っているゆいのことを考えた。

「ゆい、お勉強をしましょう」
「どうして?」

 自分が話せることなんて勉強くらいしかなくて、勉強なら時間がいくらあってもいいし、ゆいの為にもなる……なんて、正直に理由を言うようなことはしない。

「それは、一人前のレディになる為です」

 子供が喜びそうな、かっこいい言葉を選んで言った。

「れでぃ?」
「はい! 一人前のレディとは、ママみたいな女性のことを言います。ゆいはママみたいになりたくないですか?」
「なりたい」
「……はいっ、ありがとうございます!」

 言ってみたものの、否定されたらどうしよう。
 不安だった結衣は、しかし無垢な瞳で返事をされて、照れ隠しにエッヘンと胸を張った。

 ところで、ゆいが保育園に通うようになるのは四月からで、この時よりも三ヶ月ほど後のことだ。



「ママ! かんじおぼえたよ!」
「流石です。どんな漢字を覚えましたか?」
「みてて!」

 孤軍奮闘、獅子奮迅、一日千秋。
 可愛らしい字で書かれた可愛くない漢字を見て、結衣は何とも言えない気持ちになった。

「きょうは、ママをいちにちせんしゅうのおもいでまちながら、こぐんふんとうして、ししふんじんでした!」

 用法があっているような間違っているような、とにかく百点!

「完璧です。その調子で続けましょう」
「はい! つづけます!」

 結衣は娘に甘かった。



「ママ! あたしピアノひきたい!」
「分かりました。最高のピアノ教室を探してきます」

 結衣はとにかく娘に甘かった。



 だけど結衣は決して仕事を休まないし、ゆいもそれを望まない。

 だって結衣は、ゆいの為に仕事をしているから。
 だってゆいは、ママが自分の為に頑張ってくれていると分かっているから。

 だからゆいは「ありがとう!」と感謝して「がんばって!」と応援する。
 だから結衣は「はい、ありがとうございます」と感謝して「はい、頑張ります」と頑張る。

 ――お金が無い事は、とても残酷なことだから。



 今日、結衣はタクシーの中で目を覚ました。
 記憶はハッキリしている。遠方での商談を終えて、家に帰る途中で仮眠を取ったのだ。

 今頃ゆいは何をしているだろうか。
 今晩はカレーにする予定だから、きっと喜んでくれる。

 頭に浮かぶのは、ゆいのことばかりだ。
 彼女のおかげで、結衣は幸せな日々を生きる事が出来る。

 だから結衣は、ゆいの幸せを誰よりも願っている。
 だから結衣は、誰よりも必死に働いて、お金を稼ぐ。

 お金が無い事は、とても残酷なことだから。この考えが変わる事は有り得ない。少し前まで、結衣はそれを疑問に思う事すら無かった。

 ふと、結衣は窓の外に目を向けた。
 ほんの一瞬、楽しそうに歩く親子の姿が目に入った。

 今日は世間では夏休みだ。道を歩く親子の姿も、普段より多く目に入る。

 ――それでも、一日くらい休めるだろ

 不意に頭の中に聞き覚えのある声が浮かび上がって、結衣は唇を噛んだ。他の人の言葉はまるで気にならないのに、どうしてかあの人の言葉には反応してしまう……腹が立つ。あんな人が娘の大切な友人の父親で、しかもあの人と似た色をしている。心底不愉快だ。

 結衣の意見は、あの日彼に言った通りだ。それは結衣が熟考に熟考を重ねて導き出した結論であり、考え得る限り最高の案なのだ。そう簡単に代案が見つかるのなら、とっくに見つけている。

 最優先するのは、ゆいの幸せだ。
 だけどそれは、目先のことだけではない。
 十年後、二十年後、あるいはそれ以上の時間、ゆいが幸せで生きられること。

 その為には、お金が必要だ。
 沢山のお金が必要だ。

 お金が無い事は、とても残酷な事だから。
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