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「うー…さむ…」
帰りがけに買った肉まんから、夜空に向かってふわふわと白い湯気が上っている。
時刻は23時前。おととい新年になったばかりの街中はまだ多くの店が正月休みの看板を下げていて、しかもこの時間帯となると年中無休のコンビニぐらいしか明かりがついていない。
三が日をガン無視しているうちの会社は今日から仕事始めで、山のように溜まっている事務作業とひたすら格闘していたらこんなに遅くなってしまった。
何を買って帰ろうかずいぶん店の中で悩んだけど、結局決めあぐねていつもの味を選んでしまった。ホットスナックは割高だが、家にまだ袋麺が残ってたはずだし、それとこの肉まんを今日の夕飯ってことにすればまぁ、悪い選択ではないだろう。
…今年は実家に帰るのも面倒だったし、誰かとどこかに行く予定もなかったからずっと家でテレビ見てるだけで正月が終わったな。
でもまぁ、少し前に越してきたクソうるさい大学生は年末から旅行にでも出掛けたみたいで、ビックリするほど静かに過ごせたのは良かった。
今のアパートは家賃安いし、駅からもそこまで遠くないから引っ越すつもりはないんだけど…あの隣人だけはどうにかなんないかな。
友達を連れ込んで深夜遅くまで騒いで、近所迷惑とか何一つ考えてなさそうな学生なんだよな…彼の音に困ってるのは俺だけじゃないだろうし、一回大家さんに相談してみてもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、いつの間にかアパートの前まで来ていた。
カンカンと音を立てて非常階段を三階まで上る。
肉まんの最後の一欠片を口に放り込み、生地を飲み込んでふと顔を上げた時、変な光景が目に飛び込んできた。
俺の玄関の前に、誰かいる。
そいつはふらふら左右に揺れながら、カチャ、カチャ、と何度も俺の部屋の玄関ドアに鍵を差し込もうとしている。
廊下の灯りに照らされ、うつむいた顔は影になってよく見えない。
その異常な様子に一気に血の気が引いたが、よく見ればあの派手な金髪には見覚えがあった。
あれは、隣に住んでる…勝小野?さんの頭の色だ。丁度さっきまで頭の中で思い描いていた、柄の悪い金髪の学生本人だった。
ひとまず完全な不審者ではなかったことにほっと息をつく。まさかこんな夜遅くに旅行から帰って来るとは。
…にしても、あのフラつきようは相当酔っ払ってるな。玄関間違えてるし。
勝小野さんはまだ俺の存在に気付いていないのか、相変わらずカチャカチャ音を立てながら差せるはずの無い鍵を差し込もうと試みている。余程家に帰りたいのか、俺がまじまじと観察していてもこちらを振り返る様子はない。
…なんでこんなに酔っ払ってるのか知らないが、正直、極力話しかけたくない。廊下で挨拶しても舌打ちで返されるし、玄関前に好き勝手に物を置いて共用廊下を汚すし、目に痛い程の明るい金髪にピアスやらネックレスやらをじゃらじゃら身に着けて、おおよそ気軽に話しかけられるような見た目をしてないし。
シラフでも話しかけたくない存在に近寄りたくもなかったが、このままでは俺が家に入れない。
勇気を振り絞り、大きく口を開いた。
「…あっあの~勝小野さん?そっち僕の玄関ですよ、君間違えて……え…」
ある程度近づいて分かった光景に、言葉が詰まった。
彼の髪から、ポタポタと水滴が垂れている。
頭だけではなく、まるでついさっきまで水中に潜っていたかのように彼の全身がぐっしょり濡れていた。
高そうなコートも水を吸ってひどく変色していて、足元には影に隠れて黒い水溜まりが広がっている。
彼がカチャカチャ鍵を動かす度に、辺りに細かい水滴が飛び散ってコンクリートに染みを作った。
この真冬に、なんで、こいつはこんなびしょ濡れなんだ?
理解できない出で立ちに呆然と彼を見ていると、それまで散々鍵を差し込もうと動いていた彼の手がぴたりと止まった。ぎぎ、と首だけが動いて目が合う。
真っ黒な瞳に凝視されて、全身に鳥肌が走った。
「ひっ…!」
喉から情けない声が漏れて、思わず後ずさると、俺の動きに合わせて、ず…と彼も動いた。
水を吸って重たそうな服を引き摺りながら、そのままこちらに向かって無言で歩みを進めてくる。
頭の中がパニックになって、訳がわからなくてとにかくここから逃げようとしたら、バランスを崩して激しく転んでしまった。
「あ、ひっ、ひ、ひゅ…!」
「…。」
体制を立て直して起き上がる前に、全身が黒い影に覆われた。
恐る恐る顔を上げると、こちらを見下ろしている彼と再度目があう。相変わらずその瞳は真っ黒で、何の感情も見てとれなかった。
ひゅっひゅっと浅い息しか出来ずにいると、急に強い潮の匂いがして、思わず顔をしかめた。なんだ、これ?なんで今、海みたいな…
勝小野さんは歪んだ俺の顔を凝視したまま、かぱっと口を開けた。
「だれ?」
「…え…」
それだけ言われて、思考がフリーズする。
「だれ?」
もう一度同じことを繰り返される。
訳が分からないが、震える喉を必死に動かして答えた。
「…と、隣に住んでる、高角と申します…」
「…そうですか。」
そう言うと、彼はこちらにスッと手を伸ばしてきた。
意味が分からず伸ばされた手をただ見ていると、その手は俺の腕を掴んでぐっと上に引っ張りあげた。
強い力で引き上げられて何とか立ち上がると、勝小野さんはいきなりにこっと笑顔を見せた。
「高角さん、こんばんは。」
「……こ、こんばんは…?」
それだけ言うと、彼はまた俺の玄関の前に立って、カチャカチャと刺さらない鍵を差し込もうとし始めた。
しばらく放心状態でそれを見ていたが、我に帰って慌てて声をかけた。
「あ、あの!そっち、俺の玄関です!」
「…ああ。そうですか。」
勝小野さんは何の感情も感じられない声でそう言うと俺の玄関前からあっさり退いて、自分の玄関に鍵を差し込んだ。
当然のごとくドアは開いて、彼はずぶ濡れのまま中に入っていった。
「では高角さん、また。」
「………ま、た…?」
ガチャンとドアが閉められ、後には俺とびっしょり濡れた床だけが残された。
…こ、怖かった…勝小野さんって、酔っ払うとあんな風になるのか?誰って、何回か廊下ですれ違ったことあったのに忘れられてる?てか、なんであんなにずぶ濡れだったんだ…匂いからして海水だと思うけど、この時期に、海ぃ…???
恐怖と疑問の嵐にめまいがして思わず廊下の手すりに手を置くと、その手すりまでが冷たく濡れていた。
ぞっとして手を離すと、ねちょ、と粘液じみたものが糸を引いた。
き、気持ち悪っ…!なんで手すりにこんな変な液体が…あまりにも理解できない粘つきに、吐き気すら催しそうになってきた。
もう今日はこれ以上何も考えたくない。手をブンブンと空中に振り回してから、足早に玄関に入った。
帰りがけに買った肉まんから、夜空に向かってふわふわと白い湯気が上っている。
時刻は23時前。おととい新年になったばかりの街中はまだ多くの店が正月休みの看板を下げていて、しかもこの時間帯となると年中無休のコンビニぐらいしか明かりがついていない。
三が日をガン無視しているうちの会社は今日から仕事始めで、山のように溜まっている事務作業とひたすら格闘していたらこんなに遅くなってしまった。
何を買って帰ろうかずいぶん店の中で悩んだけど、結局決めあぐねていつもの味を選んでしまった。ホットスナックは割高だが、家にまだ袋麺が残ってたはずだし、それとこの肉まんを今日の夕飯ってことにすればまぁ、悪い選択ではないだろう。
…今年は実家に帰るのも面倒だったし、誰かとどこかに行く予定もなかったからずっと家でテレビ見てるだけで正月が終わったな。
でもまぁ、少し前に越してきたクソうるさい大学生は年末から旅行にでも出掛けたみたいで、ビックリするほど静かに過ごせたのは良かった。
今のアパートは家賃安いし、駅からもそこまで遠くないから引っ越すつもりはないんだけど…あの隣人だけはどうにかなんないかな。
友達を連れ込んで深夜遅くまで騒いで、近所迷惑とか何一つ考えてなさそうな学生なんだよな…彼の音に困ってるのは俺だけじゃないだろうし、一回大家さんに相談してみてもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、いつの間にかアパートの前まで来ていた。
カンカンと音を立てて非常階段を三階まで上る。
肉まんの最後の一欠片を口に放り込み、生地を飲み込んでふと顔を上げた時、変な光景が目に飛び込んできた。
俺の玄関の前に、誰かいる。
そいつはふらふら左右に揺れながら、カチャ、カチャ、と何度も俺の部屋の玄関ドアに鍵を差し込もうとしている。
廊下の灯りに照らされ、うつむいた顔は影になってよく見えない。
その異常な様子に一気に血の気が引いたが、よく見ればあの派手な金髪には見覚えがあった。
あれは、隣に住んでる…勝小野?さんの頭の色だ。丁度さっきまで頭の中で思い描いていた、柄の悪い金髪の学生本人だった。
ひとまず完全な不審者ではなかったことにほっと息をつく。まさかこんな夜遅くに旅行から帰って来るとは。
…にしても、あのフラつきようは相当酔っ払ってるな。玄関間違えてるし。
勝小野さんはまだ俺の存在に気付いていないのか、相変わらずカチャカチャ音を立てながら差せるはずの無い鍵を差し込もうと試みている。余程家に帰りたいのか、俺がまじまじと観察していてもこちらを振り返る様子はない。
…なんでこんなに酔っ払ってるのか知らないが、正直、極力話しかけたくない。廊下で挨拶しても舌打ちで返されるし、玄関前に好き勝手に物を置いて共用廊下を汚すし、目に痛い程の明るい金髪にピアスやらネックレスやらをじゃらじゃら身に着けて、おおよそ気軽に話しかけられるような見た目をしてないし。
シラフでも話しかけたくない存在に近寄りたくもなかったが、このままでは俺が家に入れない。
勇気を振り絞り、大きく口を開いた。
「…あっあの~勝小野さん?そっち僕の玄関ですよ、君間違えて……え…」
ある程度近づいて分かった光景に、言葉が詰まった。
彼の髪から、ポタポタと水滴が垂れている。
頭だけではなく、まるでついさっきまで水中に潜っていたかのように彼の全身がぐっしょり濡れていた。
高そうなコートも水を吸ってひどく変色していて、足元には影に隠れて黒い水溜まりが広がっている。
彼がカチャカチャ鍵を動かす度に、辺りに細かい水滴が飛び散ってコンクリートに染みを作った。
この真冬に、なんで、こいつはこんなびしょ濡れなんだ?
理解できない出で立ちに呆然と彼を見ていると、それまで散々鍵を差し込もうと動いていた彼の手がぴたりと止まった。ぎぎ、と首だけが動いて目が合う。
真っ黒な瞳に凝視されて、全身に鳥肌が走った。
「ひっ…!」
喉から情けない声が漏れて、思わず後ずさると、俺の動きに合わせて、ず…と彼も動いた。
水を吸って重たそうな服を引き摺りながら、そのままこちらに向かって無言で歩みを進めてくる。
頭の中がパニックになって、訳がわからなくてとにかくここから逃げようとしたら、バランスを崩して激しく転んでしまった。
「あ、ひっ、ひ、ひゅ…!」
「…。」
体制を立て直して起き上がる前に、全身が黒い影に覆われた。
恐る恐る顔を上げると、こちらを見下ろしている彼と再度目があう。相変わらずその瞳は真っ黒で、何の感情も見てとれなかった。
ひゅっひゅっと浅い息しか出来ずにいると、急に強い潮の匂いがして、思わず顔をしかめた。なんだ、これ?なんで今、海みたいな…
勝小野さんは歪んだ俺の顔を凝視したまま、かぱっと口を開けた。
「だれ?」
「…え…」
それだけ言われて、思考がフリーズする。
「だれ?」
もう一度同じことを繰り返される。
訳が分からないが、震える喉を必死に動かして答えた。
「…と、隣に住んでる、高角と申します…」
「…そうですか。」
そう言うと、彼はこちらにスッと手を伸ばしてきた。
意味が分からず伸ばされた手をただ見ていると、その手は俺の腕を掴んでぐっと上に引っ張りあげた。
強い力で引き上げられて何とか立ち上がると、勝小野さんはいきなりにこっと笑顔を見せた。
「高角さん、こんばんは。」
「……こ、こんばんは…?」
それだけ言うと、彼はまた俺の玄関の前に立って、カチャカチャと刺さらない鍵を差し込もうとし始めた。
しばらく放心状態でそれを見ていたが、我に帰って慌てて声をかけた。
「あ、あの!そっち、俺の玄関です!」
「…ああ。そうですか。」
勝小野さんは何の感情も感じられない声でそう言うと俺の玄関前からあっさり退いて、自分の玄関に鍵を差し込んだ。
当然のごとくドアは開いて、彼はずぶ濡れのまま中に入っていった。
「では高角さん、また。」
「………ま、た…?」
ガチャンとドアが閉められ、後には俺とびっしょり濡れた床だけが残された。
…こ、怖かった…勝小野さんって、酔っ払うとあんな風になるのか?誰って、何回か廊下ですれ違ったことあったのに忘れられてる?てか、なんであんなにずぶ濡れだったんだ…匂いからして海水だと思うけど、この時期に、海ぃ…???
恐怖と疑問の嵐にめまいがして思わず廊下の手すりに手を置くと、その手すりまでが冷たく濡れていた。
ぞっとして手を離すと、ねちょ、と粘液じみたものが糸を引いた。
き、気持ち悪っ…!なんで手すりにこんな変な液体が…あまりにも理解できない粘つきに、吐き気すら催しそうになってきた。
もう今日はこれ以上何も考えたくない。手をブンブンと空中に振り回してから、足早に玄関に入った。
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