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第一章 新婚初夜には不寝番がつくそうです
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婚礼の夜。
上空には、月齢九日の丸みを帯びた月が、春の芽吹きを内に秘めた広大な日本庭園に、煌煌とした青い光を投げかけていた。
庭園の中央にそびえ立つのは、昔ながらの武家屋敷を彷彿とさせる堅牢な日本家屋。
その外周をぐるりと囲むように作られている長い外廊下を、3つの影がゆっくりと歩を進めている。
しんと静まり返った長い廊下を歩いているのは、総檜ひのき造りの内風呂で湯浴ゆあみをすませ身を清めた花嫁こと、水森結衣。
純白の巫女装束を模したナイトドレスを身に纏つた彼女の顔は、奇妙な文様が描かれた布面がかけられ、額から下を覆われているため表情は見えない。
一見しずしずと歩いているように見える結衣の内心は、かなりおっかなびっくりだ。
ただでさえ、布面で額から下を覆われているため、結衣には足元しか見えない。
そのうえ足元を照らすのは、侍女が携えているレトロな手持ち提灯をかたどった電灯の淡い明かりだけ。
さらに着なれない巫女装束もどきのナイトドレスの裾さばきのまずさも相まって、気を緩めると転んでしまいそうだ。
大広間で行われていた先刻の披露宴の賑わいが嘘のように、静まり返る廊下に三人の歩く微かな足音と、衣擦れの音だけが頼りなく響く。
(ああ、どうしよう。とうとう、この時が来てしまった……)
避けられない大イベント到来目前の緊張感。
否、絶望感で、結衣は下唇をきゅっとかみしめる。
行く先はもちろん、今宵契りを交わし、夫となる男の待つ寝所、閨だ。
まるで時代劇の大奥を思わせる立派な日本家屋は夫となる男の実家で、これからの七日間、結衣はここで新婚の夜、世間で言うところのハネムーンを過ごすことになっている。
それがその昔、水神の祭祀をしていたという地元の名士、由緒正しき西園寺家の『しきたり』なのだ。
屋敷の最奥。
夫婦の寝所がある廊下の突き当りの襖の前で、左側の侍女が頭を垂れて室内へと声をかける。
襖には、見事な筆致で西園寺家の家紋である天翔ける龍が左右対称に描かれていた。
生業にしているゲームのイラストレーターとしてならば、かぶりつきで鑑賞したい迫力満点の本物の水墨画だが、残念なことに布面で視界を遮られた結衣は気づかない。
もっとも、見えていたとしても、緊張の極致でそれどころではないだろうが。
「旦那様。若奥様をお連れいたしました」
数瞬の間の後、笑いを含んだ低音の声が応えた。
「ああ、待ちかねたよ……」
低く響く柔らかな声に、びくりと小柄な結衣の華奢な肩が跳ね上がる。
よく聞きなれているはずの声は、発せられるシチュエーションが違うせいか、まるで別人のように聞こえた。
「こちらも準備は整っている。部屋に入ってくれ」
跪いた二人の侍女がうやうやしく、左右の襖をそれぞれ音もなく開ける気配を、結衣は息をつめて布面越しに感じた。
――ゴクリ、と思わず結衣の喉が大きく上下して、急激に鼓動が早鐘を打ち始める。
(に、逃げたい。このまま、この邪魔くさい布面をはぎ取って、巫女さんコスプレもどきのナイトドレスの裾をまくり上げて、一目散に逃げ出したい……)
しかし、それはできない相談だった。もしもそれをしてしまったら、すべてが水の泡。
なけなしの理性が、結衣の逃走本能の暴走をかろうじて封じ込める。
上空には、月齢九日の丸みを帯びた月が、春の芽吹きを内に秘めた広大な日本庭園に、煌煌とした青い光を投げかけていた。
庭園の中央にそびえ立つのは、昔ながらの武家屋敷を彷彿とさせる堅牢な日本家屋。
その外周をぐるりと囲むように作られている長い外廊下を、3つの影がゆっくりと歩を進めている。
しんと静まり返った長い廊下を歩いているのは、総檜ひのき造りの内風呂で湯浴ゆあみをすませ身を清めた花嫁こと、水森結衣。
純白の巫女装束を模したナイトドレスを身に纏つた彼女の顔は、奇妙な文様が描かれた布面がかけられ、額から下を覆われているため表情は見えない。
一見しずしずと歩いているように見える結衣の内心は、かなりおっかなびっくりだ。
ただでさえ、布面で額から下を覆われているため、結衣には足元しか見えない。
そのうえ足元を照らすのは、侍女が携えているレトロな手持ち提灯をかたどった電灯の淡い明かりだけ。
さらに着なれない巫女装束もどきのナイトドレスの裾さばきのまずさも相まって、気を緩めると転んでしまいそうだ。
大広間で行われていた先刻の披露宴の賑わいが嘘のように、静まり返る廊下に三人の歩く微かな足音と、衣擦れの音だけが頼りなく響く。
(ああ、どうしよう。とうとう、この時が来てしまった……)
避けられない大イベント到来目前の緊張感。
否、絶望感で、結衣は下唇をきゅっとかみしめる。
行く先はもちろん、今宵契りを交わし、夫となる男の待つ寝所、閨だ。
まるで時代劇の大奥を思わせる立派な日本家屋は夫となる男の実家で、これからの七日間、結衣はここで新婚の夜、世間で言うところのハネムーンを過ごすことになっている。
それがその昔、水神の祭祀をしていたという地元の名士、由緒正しき西園寺家の『しきたり』なのだ。
屋敷の最奥。
夫婦の寝所がある廊下の突き当りの襖の前で、左側の侍女が頭を垂れて室内へと声をかける。
襖には、見事な筆致で西園寺家の家紋である天翔ける龍が左右対称に描かれていた。
生業にしているゲームのイラストレーターとしてならば、かぶりつきで鑑賞したい迫力満点の本物の水墨画だが、残念なことに布面で視界を遮られた結衣は気づかない。
もっとも、見えていたとしても、緊張の極致でそれどころではないだろうが。
「旦那様。若奥様をお連れいたしました」
数瞬の間の後、笑いを含んだ低音の声が応えた。
「ああ、待ちかねたよ……」
低く響く柔らかな声に、びくりと小柄な結衣の華奢な肩が跳ね上がる。
よく聞きなれているはずの声は、発せられるシチュエーションが違うせいか、まるで別人のように聞こえた。
「こちらも準備は整っている。部屋に入ってくれ」
跪いた二人の侍女がうやうやしく、左右の襖をそれぞれ音もなく開ける気配を、結衣は息をつめて布面越しに感じた。
――ゴクリ、と思わず結衣の喉が大きく上下して、急激に鼓動が早鐘を打ち始める。
(に、逃げたい。このまま、この邪魔くさい布面をはぎ取って、巫女さんコスプレもどきのナイトドレスの裾をまくり上げて、一目散に逃げ出したい……)
しかし、それはできない相談だった。もしもそれをしてしまったら、すべてが水の泡。
なけなしの理性が、結衣の逃走本能の暴走をかろうじて封じ込める。
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