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76【親友⑪】
しおりを挟む最初は、工場の一角を仕切って作られている事務所で、順調に打ち合わせをしていたのだそうだ。
美加ちゃんは、大木社長と事務所の応接セットのソファーに向かい合って座り、別段何の問題もなく今まで通りに、図面上での注意点などを説明していた。
いつもと違うのは、時間帯。
時計の針はもう、午後八時半。
工場はとっくに終業時間を過ぎて、唯一の社員で社長の弟でもある職人さんも家に帰っている。それに、常に社長の隣りにある奥さんの姿が、今日はなかった。
「女房が実家に行ってて、お茶も出せないですまないね」と、大木社長は、冷蔵庫から缶コーヒーを出してくれたりして、和やかに打ち合わせは進み三十分ほど経った頃。
概ね説明をし終えた美加ちゃんは、『それでは、宜しくお願いします』と頭を下げて、帰ろうと立ち上がった。異変が起きたのは、その後だ。
「ねえ、佐藤さん。私は、柔道の有段者なんだよ。とっても強いから、この辺では敵う人はいないんだ」
ソファーから腰を上げた社長が突然、ニコニコ笑顔でそう言い出した。
いきなり脈絡のない話題を振られて訝しく思ったものの、自慢話でもしたいのかな? くらいに思って、「そうなんですか? 凄いんですねぇ」と、ニコニコと応対したのが間違いだったと、美加ちゃんは悔しそうに呟いた。
「そう、色々と凄いんだよ……」
笑いを含んだ低い声と浮かんだ表情を目にした瞬間、美加ちゃんの脳裏に嫌な予感が走った。
ニヤリ――と上がった口の端と、下がった目じり。今までと変わらない人の良い笑顔の中で、その部分だけが違っていた。
――『目』だ。
笑っているはずの目は穏やかさの欠片もなく、ギラギラとした、『欲望』と言う名の醜悪な光が揺れていた。
小学生の頃から、他の子よりも体の発育が良かった美加ちゃんは、今までの人生の中でこの目と同じものを、嫌と言うくらいの数見てきた。
色欲を発散するような血走ったいやらしい光を放つその眼は、学生時代の通学電車の中や通学路で、今まで何度となく、見知らぬ異性から自分に向けられたものと同質のもの。
中には、視姦だけでは飽き足らず手を伸ばして来る変態もいた。
ま、まさか、この人が――。
ただの勘違い。
そうよ、思い過ごしよ。
そう必死に自分に言い聞かせても、本能が危険だと告げている。
確かに、ペラペラと自分の強さを並べたてながら、じりじりと距離を詰めてくる目の前の人物は、いつも自分が見知っている、物静かな大木社長とは明らかに違う。
信じられない思いに混乱する中、美加ちゃんはどうにか理性で自分を保ち、「それでは、宜しくお願いいたします」と言い置き、一刻も早くそこを立ち去ろうと踵を返した、その時。
「佐藤さんっ!」
不意に、左手首を強い力で掴まれて身を強張らせた。
いつの間にか、すぐ側まで近付いてきた社長のガッチリとした大きな手に自分の手首が掴まれていることを理解した美加ちゃんは、ハッとして抗った。
「ちょっ……、何するんですかっ!?」
捕らわれた手は、どんなに引っ張ってもびくともせず。
「きゃっ!?」
更に強い力で腕を引かれた美加ちゃんはバランスを崩し、ソファーに崩れるように倒れ込んでしまった。めくれ上がったスカートの下の太腿があらわになり、慌てて裾を整えるも尚も腕は掴まれたままで。
「……放して、くれませんか?」
どうにか虚勢を張り、のしかかるような体制で落とされる社長の見開かれた目を、美加ちゃんは力を込めて睨み付けた。
いつもニコニコと愛想が良い美加ちゃんの強気の反応が予想外だったのか、社長の顔に浮かんだのは、無様なほどの動揺の色。でも――。
「な、何を言っているんだい? 私は、何も……」
そう言い繕い体を起こしながらも、しっかりと掴んだ手は放そうとしない。
こうなれば、最後の手段しかない。
「放して下さい。じゃないと、ここから警察を呼びますよ?」
そう、抑揚のない低い声で言い放ち、胸ポケットから愛用のスマートフォンを取り出し通話ボタンを押した美加ちゃんのその行動は、皮肉なことに逆効果で、悪い方に作用してしまった。
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