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132【計略㉑】
しおりを挟む『世の中は、お金しだいですべてどうにでもなる』
そう、本気で考えているとしたら、とんだ勘違い野郎だ。
お金では、動かせないものだってある。
「そちらも、お断りします」
微笑み付きで答えれば、私の拒絶の言葉など耳に届かないかのように、彼は、ソファーの背面にかけてあった背広の胸ポケットから、何か白い紙片を取り出し、テーブルの上に放り投げた。
お札よりも縦長で、少し大きいサイズの見慣れない紙片に視線を落とすと、それは、小切手と言われるものだった。サイン済みのその小切手には、金額が書かれていない。
「これに、好きな金額を書きなさい」
「は……?」
「小切手だ。見たことがないのかね?」
しがない図面描きOLの私には、実生活では縁が無い代物だけど、知識としては知っている。
小切手を見たことがあるか、ないか。
問題は、そんなことじゃない。
――なんだ、これ?
これに、好きな金額を、書けって?
それを全部、アナタにあげますって?
「はあ……」
思わず、長ーーい、溜息がもれた。
だめだ、これは。
「百万でも、一千万でも、好きな金額を書いていいんだ」
いや、この溜息は、そういう理由ではないんですが。
「……」
いっそ、この空白のスペースにどれだけゼロが並べられるかチャレンジしてみようか?
図面描きの緻密なペンさばきを、なめるなよ?
うーーん。
うん、二十桁は、いける。
じっと、テーブルの上に放り投げられた紙片を睨みながら、そんな埒もない考えが頭をよぎった。が、さすがに実行には移さない。蛇を本気で怒らせては、こっちの身が危ない。
一つ、大きく深呼吸。
腹の底でわだかまる怒気を息と一緒に吐き出して、ソファーから腰を上げる。
「申し訳ありませんが、私では、お役に立てそうもありませんので……」
たぶん、二度と会うことはない。会いたくはないと、心でごちり。
「これで失礼させていただきます。お水、ごちそうさまでした」
別れの挨拶も完璧。
笑顔でペコリと会釈をして、さあとっとと、退散。
くるりと踵を返したところで、ガクンと体が斜め後ろに傾いだ。
――え……?
けつまずいたのなら、前に倒れるはずだけど、どうして後ろ?
と思う間もなく、バランスを崩した体は、重力にひかれてそのまま斜め後ろに倒れこむ。
――ええっ!?
フワリと、一瞬、宙に投げ出される感覚に全身が総毛だつ。
オフホワイトの大理石調の床は、とても硬そうだった。あれに、この勢いで後頭部から倒れこんだら大惨事間違いなしだ。
事故にあうときって、スローモーションに見えるって聞いたことがあるけど、これがそうか。なんて、考えている余裕はないはずなのに、妙にゆっくりと思考が回る。
「本当に、予想外な女だな、君は」
耳元に落とされた低いささやきで、はっと我に返った。
ふり仰げば、すぐ目の前には、さっきまで向かい側のソファーに座っていたはずの人物の、顔の、どアップ。鼻をつく、むせ返るようなオーデコロンとワインの混合臭に、うっと息がつまる。
「な……?」
パ二クる脳細胞を総動員して、現状把握を試みる。
どうやら、左手首を力任せに斜め後ろに引っ張られて、倒れこんだところを抱き留められた、
というよりは、抱きつかれた?
がっちりと捕まれた左手首に、鈍い痛みが走る。
腰は、左腕全体でしっかりと抱え込まれていて、ぴったりと寄せられた大柄な身体は、私の力では、びくりとも動かない。
「何……を、するんですか?」
自分のものとは思えない、低く掠れた声音が広い空間に虚ろに響く。
「何って、見ての通りだが?」
頭上から降ってくる含み笑うような声に、背筋にゾクリと悪寒が走る。
――まさか。
そんな、まさか。
『どんな人でも、谷田部課長の血縁者』
そんな、見込みの甘さが、確かにあった。
でも、まさか――
「情でも金でも動かない女を、思いのままに動かす方法はいくらでもある。それを、教えてあげようと思ってね」
二イッと、弓なりに上がる口角。
私は、この期に及んで初めて、自分の浅はかさを悟った――。
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