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144【真実⑧】
しおりを挟むたぶん、こんなふうに課長と二人っきりになれるチャンスは、そうそうこないだろう。
いつか美加ちゃんが言ってた『チャンスの神様』が、今まさに私の前を通ろうとしている。ここでタイミングを逸してしまったら、もう二度と口にすることはないだろう言葉。
今なら、言える気がする。
風間さんの笑顔に背中を押され、パイプベットに預けていた背筋をピンと伸ばした私は、チャンスの神様の前髪をしっかり掴むために、静かに、口を開く。
「あの、谷田部課長――」
「うん?」
まっすぐ向けられる眼差しはひどく優しくて、なんだか、それだけで胸がいっぱいになってしまった。色々な感情が入り乱れ、涙腺がかなり怪しく熱を帯びる。
――がんばれ、梓。
言葉にしなくちゃ、何も伝わらないよ。
なけなしの勇気を総動員。私は、自分をせいいっぱい鼓舞して、もう一度口を開く。
「……東悟」
掠れる声でその名を呼べば、名前の持ち主は心底驚いたように目を見張った。そして浮かぶこの上もなく照れくさげな、特上の笑顔。
――は、反則だ。
その笑顔は、反則すぎるっ。
ますます熱を帯びた涙腺は、ついに、ポロリと決壊してしまった。
ポロポロ、ポロリ。
それを皮切りに、次々にあふれ出る涙の雫が頬を濡らし、強く握りこんだ手の甲に滴り落ちていく。
「どこか痛むのか!?」
慌てたように身を乗り出し顔を覗き込んでくる課長の瞳が、心配げに揺れている。
「ちがっ……」
私は、フルフルと頭を振った。
「――れしく……て」
「――え?」
あなたの名を呼べば、返ってくる笑顔。
だた、それだけのことなのに。
「なんだか、嬉しくて」
私の答えを聞いて、ホッとしたように、落とされる溜息。
続いたのは、私が、予想もしなかった言葉だった。
「ありがとう」
シンと静まり返った深夜の病室に、穏やかな声が優しく響く。
「……え?」
――お礼を、言われてしまった。
なんに対する礼の言葉なのか把握できない私は、疑問の眼で課長を見つめ返す。
「また、名前を呼んでもらえるなんて、思ってもいなかった」
伸びてきた大きな手のひらが、私の頬を優しくなぞる。
――温かい。
親指の腹で涙の後をそっと拭うと、手のひらは、静かに離れていく。
その温もりが名残り惜しくて、私は思わず身を乗り出し、両手で課長の手のひらを、はっしと掴んでしまった。引っ込めようとした手を鷲掴みされた課長は、驚いたように目を丸めている。
そりゃそうだ。いきなり泣き出したと思ったら、次はコレだ。課長の驚きは、もっともだ。一番、私自身が驚いている。
猫じゃらしに反射的に飛びつく猫のごとく。ほとんど本能的とも言える制御不能な自分の動きに、とっちらかった脳細胞は上手いフォローを入れてはくれない。
「え、あのっ、これは、その……課長の手が温かかったので、また、熱でもあるのかなぁと……」
しどろもどろに、口から飛び出したのは、一か月以上も前の出来事。
いくらなんでも、脈絡が、なさすぎだろう、私。
「そうか? 別に、自覚は無いけど?」
「そうですか。そうですよね。それならよかったです」
あははは、と、盛大に引きつった笑いを浮かべつつ、両手で掴んでいた課長の手をそっと放そうとしたら、今度は逆に掴まれてしまった。
そのまま大きな両手で握りこまれ、全身ピキリと固まった。
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