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第1章 人生最悪の一日の終わりに、おいしいマフィンを
02 逃れられない現実①
しおりを挟む昨夜は、ぜんぜん眠れなかった。何処でもいつでも寝られる『快眠な人』な私も、さすがに眠ることが出来ないまま、夜が明けてしまった。
――はぁっ、と、何度目だか分からないため息が、口を突いて出る。
私は、二階の自室のベットの上で、カーテンの隙間からこぼれてくる朝日をぼんやりと見詰めた。
昨日の、見ていられないくらい気落ちした父の姿や、四年前に病気で他界した母のこと。それに、これからの生活の心配や大学のこと。脈絡もなく色々なことが心の中を駆けめぐり、とても寝られる状態じゃなかった。
カタン、カタン――。
階下から新聞配達の音が聞こえてきて私は半ば反射的に、のろのろと寝不足で重い体をベットから引き起こした。たとえ会社が倒産しようが睡眠不足だろうが、世界は回っている。時間は当たり前に過ぎていくのだ。
「新聞……取りにいかなきゃ」
たぶん、地元のニュース欄に父の会社の倒産のことが出ているはずだ。
――見たくない。でも見ずにはいられない。
父の会社の倒産。これは夢ではなく、紛れもなく悲しい現実。
ポストの新聞を抜き取ると私は、玄関先で新聞を開いた。
『篠原運送、ついに倒産!!』と案の定、新聞にはその見出しが踊っている。それも地方版ではなくご丁寧に、全国版にかなり大きく掲載されていた。
『ああやっぱりこれは、悪い夢なんかじゃない』
苦い思いが胸を過ぎる。私は、はやる気持ちを抑えながら、ドキドキと記事を目で追った。
『運送業界でも大手の篠原運送(株)が、四月二十六日、二度目の不渡り手形を出して、事実上倒産した。昨年暮れに同会社のトラックが起こした人身事故から……』
そこまで、目を通したところで、家の中から聞こえてきた父の声に、思わずびくりと飛び上がる。
「茉莉? 起きているのか?」
疲れきったような、父の声。
たぶん、父も眠れなかったのだろうと思うと、胸が痛んだ。
「あ、うん、新聞を取りにきたとこ!」
「そうか……」
「今、コーヒー入れるね!」
新聞をたたみ小脇に抱えて、ダイニングキッチンへ小走りに向かった。
いつもよりも、丁寧にコーヒーをおとす。ダイニングキッチンに、コーヒーのいい匂いが立ちこめる。私は、トースターに食パンを二切れ差し込み、スイッチを入れて、二人分のコーヒーをマグカップに注いだ。
おとしたてのコーヒーに、ティースプーン半分のシュガー。これが父のお好み。私はいつもなら、スプーン一杯。でも今日は、なんだか甘いものが飲みたくて、スプーン二杯にする。
四人がけのテーブルに父の徳太郎と二人。この状態にもだいぶ慣れた。四年前までは、ここに、母、佳代の笑顔があったのだ。
「はい、お父さんコーヒー」
「ああ……ありがとう」
父は、愛用のクマさん柄のマグカップを大きなごつい両手で包むように受け取ると、『コクン』と一口口に含んだ。私は、立ったまま、システムキッチンに寄りかかってコーヒーをすする。
――うわ、苦っ。
甘いはずのコーヒーはひどく苦く感じて、思わず顔をしかめる。
寝不足のせいかもしれない。
「なあ、茉莉……」
と、父がそこまで言って言葉を濁した。
いつもなら、物事は白黒はっきりしないと気が済まないタイプの父が、こんなに言いにくそうにしている。私には、父の言いたいことが何となく想像が付いた。たぶん――。
「これからのことなんだが、この家は、借金の抵当に入っていて、手放さなきゃいかん……」
――やっぱり。
「うん……」
私は、コクリと頷く。
「それと、大学のことなんだが……」
前期の学費は支払い済みだが、10月の後期の学費がおそらく払えなくなるだろうと、父は声を詰まらせた。
私が通っている美大は私立で、学費は年間180万ほど。これを四月の前期と十月の後期の二回に分けて約90万ずつ支払う。五か月後に90万円の支払いができなければ、大学には通い続けることはできない。
今までは、あまり深く考えなかったその金額が、とてつもなく大きく感じる。
「すまん……」
これは、昨日の父の様子から、そうなるんじゃないかと想像はしていたこと。
その言葉に、私はただコクリと頷いた。
それしか出来なかった。
『残務整理が終わるまでは、少し忙しくなる。帰宅も遅くなるから、先に休みなさい』
父は、そう言い残して、戦場だろう会社に向かった。
食卓には、ほとんど口が付けられなかったコーヒーと、全然口が付けられなかった朝食のトーストとハムエッグが残された。それを眺めつつ、特大のため息を一つはき出す。
はぁ……。
朝は必ず完食! な人の私も、さすがに今朝は箸が進まなかった。
大学のこと。家のこと。考えなきゃいけないことも、やらなきゃいけないことも山とあるのだ。食欲なんか、わくはずがない。だけど。
「こんなときこそ、食べなきゃ! だよね。亀子さん」
壁際のサイドボードの上に設置された九十センチ水槽の中で、訳知り顔の大きなミドリガメが、私の掛けた声に反応して『にょーん』と、首を伸ばした。
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