そばにいる人、いたい人

にっきょ

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 淳哉と服を買いに行ってから二日後である火曜日。ついに樹は須野原と二人きりで食事に来ていた。
 須野原の細く長い指が小さなガラス製のドレッシング入れを手に持ち、サラダの上に回しかける。とろりとした白い液体に精液を連想した樹は、熱くなってきた頬をコーヒー色のカーディガンの袖で隠した。

 あれから淳哉は、良くも悪くも何事もなかったかのような顔をしていた。だから、樹もそれに合わせていつも通りの顔をしていた。二晩経った今では、あれは夢ではないかと思うまでになっていたが——どうしても、ふとした拍子に思い出してしまう。

(何考えてるんだ、中学生じゃあるまいし)

「どうしたの? あ、取ろっか」
「あ、ああああの、それは僕がやりますんで」
「いいよー、遠慮しないで」

 ふわりと笑った須野原が樹の手元にあった取り皿を持っていく。はい、と白いドレッシングのかかったサラダを差し出す手元だけを見て、樹は帰ってきた皿を受け取った。とてもではないが顔を直視できない。

「緊張してる?」
「は、はい……こういうおしゃれなお店って、あんまり来たことなくてですね」

 小さく頷きながら、店内をちらりと見回す。コンクリート打ちっぱなしの壁に、電球が吊り下げられているだけの照明。ともすれば貧相になりそうなのだが、テーブルやソファのおかげでそれがかえってシンプルな美しさとなっている洋風居酒屋——というか、バル? という奴だろうか。うるさいわけではない、かといって喋るのがはばかられるほど静かなわけではない、という絶妙な雰囲気だ。

 樹には食事を一緒にするような友人は淳哉くらいしかいない。そしてその淳哉は奨学金と自身のバイト代で生活する苦学生なので、二人で飲むときはたいてい家飲みか、出かけても激安居酒屋だ。
 しかも今目の前にいるのは、顔の造作だけでなくすべての動作が洗練されていて美しい須野原である。緊張しないわけがない。

「そうなの? リラックスして楽しみなよー。あ、俺に敬語とか使わなくていいよ」
「わ、わかりま……わかった」
「僕も樹って呼ぶから。ね、樹」

 向かいの席から伸びてきた須野原の指先が、樹の頬をつついた。思わず皿を取り落としそうになると、ふふ、と楽しそうな笑い声が聞こえた。

「ねえ樹、樹は普段休みの日どんなことしてるの?」
「普段、は……何だろう、家で映画とか見てたり……数学の本読んだり、とか」
「いや数学は趣味じゃないでしょ。映画の他は? バイトとかサークルとかはしてるの?」
「ほか? えっと……特には。バイトとかもしてないし」
「へえ?」

 不思議なものを見るような目で須野原は樹を眺めまわした。

「えー、大学生のうちに遊んでおかないとダメじゃない?」
「そ、そうかな」
「そうだよー。モラトリアム楽しまなきゃじゃん。もっといろいろ体験しておかないと、社会人になって後悔するよ。就活でも苦労するし。てかそれ以前に暇じゃないの?」
「え……」

 つまらない毎日を送っているな、と言われた気がして、樹はいたたまれなくなった。学生の本分は勉強なんだから、と親に言われて何となくそれに従っていたが、これも間違っていたのだろうか。
 目頭が痛くなり、樹は手に持ったサラダに感心しているような顔をしながら箸をつけた。須野原にきっと他意はないのだろう。ただ樹に良かれと思ってアドバイスをくれているだけで。
 むしろこれはありがたいことなのだ、と噛みしめたレタスは予想よりつんと酸っぱい。

「樹もしかして小食? いらないならこれ貰っていいかな」
「えっ、あ」

 机の上にあったアヒージョが鉄皿ごと須野原の方へ移動していく。冷めるまで置いておこうと思ったんだけど、と言い出せず樹はその動きを追った。

「うん、おいしい! これを食べないなんてもったいないよ、樹。あ、すいません、ワインおかわりお願いしていい?」

 大ぶりのエビをぱくりと口に入れた須野原は大げさなほどの笑顔になった。

(まあ……須野原先輩が喜んでくれたならいいか)

 淳哉ならそんなことしないのに。一瞬もやりとしたものの、幸せそうな須野原の顔が見れたことに心が弾んだ。通りがかったウエイターに樹もワインの追加を注文する。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 須野原が伝票を手に持ったのはそれから数十分後、おかわりのワインが空になった時だった。

「えっ、あ……はい」

 机の上を名残惜しげに眺めてから樹も立ちあがる。いくつも皿があるが、その多くは冷めるのを待っているうちに須野原に食べつくされてしまっていて、樹が食べられたのはサラダと生ハム、自分で頼んだくせに「俺、ナス嫌いなんだよね」と須野原が手を付けなかったラタトゥイユくらいだった。ほろ酔いではあったが、まだ少し物足りなさがある。

「ノートも貸してもらっちゃったし、今日は俺に払わせてよ」
「いや、そんな」
「先輩には甘えてくれた方が嬉しいな~」

 ひらひらと伝票を振る須野原には大人の余裕があるようで、樹は胸がときめいた。あまり固辞するのもいけないのだろうか、と少し迷い、それじゃあ、ともそもそと頷く。

「素直でいいね」

 そう言って羽織ったコートの左ポケットに手を入れた須野原は、「あれ」と小さく声を上げた。右ポケットも探り、内ポケットとジーンズの尻ポケットを叩く。

「……あの、お財布……?」
「忘れてきちゃったみたい。ごめん樹、立て替えてくれないかな」
「あ、は、はい! 大丈夫です!」

 照れたように小さく舌を出す須野原から伝票を受け取り、代わりに支払う。店の扉を開けると、すっかり夜の帳が降りた中、ひゅうと冷たい風がコートの裾をはためかせた。

「いやー……カッコ悪い所見せちゃったね。お恥ずかしい」
「いえ! 財布ってよくあるんで、忘れちゃうこと。それに料理もおいしかったし!」
「ごめんね、でもそう言ってもらえると嬉しいな」

 完璧なように思えていた須野原の人間臭いミスに、むしろ樹は好感を覚えていた。手の届かないところにいた須野原が、途端に身近になったようで、なんというか——かわいい、と甘酸っぱい気持ちになったのだ。
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