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「……っ、はあ、はあ」
アパートの自室に辿り着いた時には、日付が変わりかけていた。部屋に入った樹は玄関に鍵をかけ、よろよろと壁に寄りかかった。
(きもちわるい……)
飲みすぎたのか、喉の奥に不快感がわだかまっている。洗面所で口をゆすぐと、いくらかマシになった。洗面台にコップを置くと、鏡の中から情けない顔で見つめてくる自分がいた。
「あ……」
ぼさぼさになり、こめかみに張り付いた猫っ毛。汗でどろどろの顔。乱れたシャツはボタンがちぐはぐになっている。
樹はそっとシャツのボタンを外した。襟を大きく広げ、半分脱いだ状態で鏡に背を向ける。振り向くと、確かに首の付け根あたりに薄く跡がついている。汚れでは、と半信半疑のまま鏡越しにこすってみるが取れる気配はない。
確かに痣だった。普段見ることなんてない場所だから、きっと須野原に指摘されなければ気づかないまま消えていただろう。
淳哉はなぜこんなことをしたのだろうか。勝手に、しかも樹が気づかないような場所にキスマークをつけるなんて。
脱ぎかけのままワンルームのベッドに向かう。どさりとベッドに倒れ込み、ポケットからスマホを取り出すと須野原からいくつものメッセージが来ていた。電話もかけてきていたようだ。
「あ……」
再び口の中に湧いてきた、酸っぱいものを飲み下す。
樹は自分でもあの時、どうして須野原を突き飛ばしてまで帰ってきてしまったのか自分でもよく分からなかった。須野原に触られて、ドキドキして——どうしてか、同時に「怖い」「気持ち悪い」と思ってしまったのだ。
通知欄に並ぶポップアップからは、突然家を出て行ってしまった樹を須野原が心配している様子が伺えた。須野原に連絡して、謝らなくては。そうは思ったが、自分でもよく分からない感情を須野原に説明できる気がしなかった。
どうしよう。しばらくメッセージの通知だけを見つめた後、樹はそれをすべて消した。既読はつけていないから、まだ見ていないことにできるはずだ。
それからアプリを開いて、淳哉に電話を掛けた。こんな深夜に、と思ったが、なんだか無性に淳哉の声を聴きたかったのだ。
『どうした、イツキ』
「あ、ごめんね、夜遅くに」
『いや、別にいいけど。今日は須野原先輩と食事に行ったんじゃなかったのか』
数回の呼び出し音の後に、低く滑らかな淳哉の声が聞こえてきて樹は安心した。須野原と一緒にいて強張った体がほぐれたかのように、同時にどっと疲労感も押し寄せてくる。
「うん。そう。それでね、今帰ってきたとこ」
目を閉じて、布団の中に潜り込む。体を洗うのは明日の朝でいいだろう。
『そうか、お帰り。どこ行ったの?』
「えっと……ほおのき通りの……ちょっと行ったとこで、洋風のなんとかバルってお店」
『何もわからん』
「んんん……ビルの二階にあって、なんかおしゃれだった」
なんだそりゃ、と笑う淳哉の包み込むような声が何だか面白くて、樹も一緒になって笑い声をあげた。
『ご機嫌だな』
「うん。結構ね……酔ってると思う」
そうだ。酔ってるんだ。だから須野原のことは明日考えたほうがいいに決まってる。そう思いながら、淳哉との会話を続ける。
「ああ、そうだ。今日須野原先輩に指摘されて気づいたんだけど、ジュンさ、僕に、その、き、キスマーク……つけたでしょ」
『……ん、ああ、まあ』
スマホの向こうの淳哉が答えるまで、なぜか少し間があった。
「なんでそんなことしたのさ、淳哉のせいで先輩に遊び人だと勘違いされたんだけど」
『……』
樹からのクレームに、淳哉は答えなかった。
「ちょっと、ジュン?」
『……あのさ、イツキ。なんで先輩がそれ見つけてんだ?』
ややあってから聞こえてきた淳哉の声は、押し殺したように低く響いた。
「何でもいいでしょそれは!」
『あれ、服脱がなきゃ見えないだろ。あいつの前で脱いだのか⁉』
「ぬ、脱いだっていうか……ちょっと、こう、見える感じになっちゃっただけっていうか、それ以上何かしたわけじゃないし」
『はあ? 要は脱いでんだろが!』
「自分で脱いだわけじゃないし! っていうか、僕が誰の前で、そのっ、見える感じになっても……僕の勝手でしょ!」
脱いだ脱いだと連呼され、恥ずかしくなった樹は叫んだ。それじゃあまるで自分から須野原先輩に裸を見せに行ったみたいじゃないか。いや、そりゃ、確かに将来的にはそういうことも視野に入れたほうがいいのかもしれないけど今回は違う。大体問題はそこじゃない。なぜ淳哉がキスマークを付けたかだ。
『ふざけんなよ、イツキお前……ほぼ初対面の相手に何考えてんだよ!』
聞こえてきた淳哉の大声に、樹は思わず端末から耳を離した。怒らせてしまった、と気づいて指先から体が冷え、酔いが一気にさめていく。
「な、何って」
『まだどんな相手かもわからないのに、そんな……どうかしてるだろ!』
「で、でも先輩そんな悪い人じゃ……」
『一回食事しただけで判断できるわけねえだろが!』
樹の言葉は、ぴしゃりと切りつけるように遮られた。淳哉が言うのならそうなのかもしれないが、須野原のことを悪く言われるのは我慢ができなかった。少なくとも樹は、淳哉より自分の方が須野原のことをよく知っている自信がある。
「……そんなの、一般論だろ。先輩は違う」
小さく樹は呟いた。
「先輩のこと、何も知らないくせに。なんでそう決めつけるんだよ」
『知らないって……だからそれはイツキも一緒だろ』
「なんだよ、もういいよ!」
『イツキ!』
淳哉だけは分かってくれると思ったのに。応援してる、って言ってくれたのに。なんで信じてくれないんだ。苛立ちを言語化できずに樹は小さく叫んだ。昂った感情のせいで涙声になる。
「……遅くにごめんね。じゃ」
『ちょ』
一方的に淳哉との通話を切り、樹は枕の上にスマホを叩きつけた。ぼふりと手ごたえのない、柔らかく沈む感触に、なんだか枕にまで馬鹿にされている気がした。
「……なんだよ」
小さくつぶやいた声は先ほどより震えていた。淳哉と話している間は気にならなかった頭痛と気持ち悪さが再度樹を襲ってくる。須野原とのことも、淳哉とのことも、とりあえず今は考えたくなかった。もう嫌だ、と思いながら部屋の電気を消した樹は、再度布団に潜り込んで目を閉じた。
アパートの自室に辿り着いた時には、日付が変わりかけていた。部屋に入った樹は玄関に鍵をかけ、よろよろと壁に寄りかかった。
(きもちわるい……)
飲みすぎたのか、喉の奥に不快感がわだかまっている。洗面所で口をゆすぐと、いくらかマシになった。洗面台にコップを置くと、鏡の中から情けない顔で見つめてくる自分がいた。
「あ……」
ぼさぼさになり、こめかみに張り付いた猫っ毛。汗でどろどろの顔。乱れたシャツはボタンがちぐはぐになっている。
樹はそっとシャツのボタンを外した。襟を大きく広げ、半分脱いだ状態で鏡に背を向ける。振り向くと、確かに首の付け根あたりに薄く跡がついている。汚れでは、と半信半疑のまま鏡越しにこすってみるが取れる気配はない。
確かに痣だった。普段見ることなんてない場所だから、きっと須野原に指摘されなければ気づかないまま消えていただろう。
淳哉はなぜこんなことをしたのだろうか。勝手に、しかも樹が気づかないような場所にキスマークをつけるなんて。
脱ぎかけのままワンルームのベッドに向かう。どさりとベッドに倒れ込み、ポケットからスマホを取り出すと須野原からいくつものメッセージが来ていた。電話もかけてきていたようだ。
「あ……」
再び口の中に湧いてきた、酸っぱいものを飲み下す。
樹は自分でもあの時、どうして須野原を突き飛ばしてまで帰ってきてしまったのか自分でもよく分からなかった。須野原に触られて、ドキドキして——どうしてか、同時に「怖い」「気持ち悪い」と思ってしまったのだ。
通知欄に並ぶポップアップからは、突然家を出て行ってしまった樹を須野原が心配している様子が伺えた。須野原に連絡して、謝らなくては。そうは思ったが、自分でもよく分からない感情を須野原に説明できる気がしなかった。
どうしよう。しばらくメッセージの通知だけを見つめた後、樹はそれをすべて消した。既読はつけていないから、まだ見ていないことにできるはずだ。
それからアプリを開いて、淳哉に電話を掛けた。こんな深夜に、と思ったが、なんだか無性に淳哉の声を聴きたかったのだ。
『どうした、イツキ』
「あ、ごめんね、夜遅くに」
『いや、別にいいけど。今日は須野原先輩と食事に行ったんじゃなかったのか』
数回の呼び出し音の後に、低く滑らかな淳哉の声が聞こえてきて樹は安心した。須野原と一緒にいて強張った体がほぐれたかのように、同時にどっと疲労感も押し寄せてくる。
「うん。そう。それでね、今帰ってきたとこ」
目を閉じて、布団の中に潜り込む。体を洗うのは明日の朝でいいだろう。
『そうか、お帰り。どこ行ったの?』
「えっと……ほおのき通りの……ちょっと行ったとこで、洋風のなんとかバルってお店」
『何もわからん』
「んんん……ビルの二階にあって、なんかおしゃれだった」
なんだそりゃ、と笑う淳哉の包み込むような声が何だか面白くて、樹も一緒になって笑い声をあげた。
『ご機嫌だな』
「うん。結構ね……酔ってると思う」
そうだ。酔ってるんだ。だから須野原のことは明日考えたほうがいいに決まってる。そう思いながら、淳哉との会話を続ける。
「ああ、そうだ。今日須野原先輩に指摘されて気づいたんだけど、ジュンさ、僕に、その、き、キスマーク……つけたでしょ」
『……ん、ああ、まあ』
スマホの向こうの淳哉が答えるまで、なぜか少し間があった。
「なんでそんなことしたのさ、淳哉のせいで先輩に遊び人だと勘違いされたんだけど」
『……』
樹からのクレームに、淳哉は答えなかった。
「ちょっと、ジュン?」
『……あのさ、イツキ。なんで先輩がそれ見つけてんだ?』
ややあってから聞こえてきた淳哉の声は、押し殺したように低く響いた。
「何でもいいでしょそれは!」
『あれ、服脱がなきゃ見えないだろ。あいつの前で脱いだのか⁉』
「ぬ、脱いだっていうか……ちょっと、こう、見える感じになっちゃっただけっていうか、それ以上何かしたわけじゃないし」
『はあ? 要は脱いでんだろが!』
「自分で脱いだわけじゃないし! っていうか、僕が誰の前で、そのっ、見える感じになっても……僕の勝手でしょ!」
脱いだ脱いだと連呼され、恥ずかしくなった樹は叫んだ。それじゃあまるで自分から須野原先輩に裸を見せに行ったみたいじゃないか。いや、そりゃ、確かに将来的にはそういうことも視野に入れたほうがいいのかもしれないけど今回は違う。大体問題はそこじゃない。なぜ淳哉がキスマークを付けたかだ。
『ふざけんなよ、イツキお前……ほぼ初対面の相手に何考えてんだよ!』
聞こえてきた淳哉の大声に、樹は思わず端末から耳を離した。怒らせてしまった、と気づいて指先から体が冷え、酔いが一気にさめていく。
「な、何って」
『まだどんな相手かもわからないのに、そんな……どうかしてるだろ!』
「で、でも先輩そんな悪い人じゃ……」
『一回食事しただけで判断できるわけねえだろが!』
樹の言葉は、ぴしゃりと切りつけるように遮られた。淳哉が言うのならそうなのかもしれないが、須野原のことを悪く言われるのは我慢ができなかった。少なくとも樹は、淳哉より自分の方が須野原のことをよく知っている自信がある。
「……そんなの、一般論だろ。先輩は違う」
小さく樹は呟いた。
「先輩のこと、何も知らないくせに。なんでそう決めつけるんだよ」
『知らないって……だからそれはイツキも一緒だろ』
「なんだよ、もういいよ!」
『イツキ!』
淳哉だけは分かってくれると思ったのに。応援してる、って言ってくれたのに。なんで信じてくれないんだ。苛立ちを言語化できずに樹は小さく叫んだ。昂った感情のせいで涙声になる。
「……遅くにごめんね。じゃ」
『ちょ』
一方的に淳哉との通話を切り、樹は枕の上にスマホを叩きつけた。ぼふりと手ごたえのない、柔らかく沈む感触に、なんだか枕にまで馬鹿にされている気がした。
「……なんだよ」
小さくつぶやいた声は先ほどより震えていた。淳哉と話している間は気にならなかった頭痛と気持ち悪さが再度樹を襲ってくる。須野原とのことも、淳哉とのことも、とりあえず今は考えたくなかった。もう嫌だ、と思いながら部屋の電気を消した樹は、再度布団に潜り込んで目を閉じた。
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