追放文官、幸せなキスで旅に出る

二ッ木ヨウカ

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馬車賃

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 真っ白の紙は、朝からほとんど書かれた文字が増えていなかった。春告鳥の歌声にハッと気づいたコーディエが手を動かすと、乾ききったペン先が紙の上を引っ搔いた。

「……はぁ」

 小さくため息をつき、コーディエはペンを置いた。インクの蓋も閉め、膝の上に手を置く。全く進んでいないのは今手掛けている部分に問題があるのではなく、単純にコーディエに集中力がなくなってしまっているからだ。
 頭を振ると、軽く開けた窓から木の割れる乾いた音が聞こえてくる。コーディエの集中力を奪っている原因であるところのダイモンは、家の外で「魔剣士になるための修練」に励んでいるようだ。

(「一緒に旅に行こう」か……)

 コーディエの心の中では、何度もあの夜の言葉が繰り返されていた。その度に、断ってしまったことへの後悔と、これでいいのだ、という安心感、両方の気持ちがコーディエの中で戦いはじめる。
 仕事がある、というのは建前だった。ダイモンの言う通りペンと紙さえあればいい――わけではないが、コーディエだって魔法使いである。転移魔法を使えばいつでも一瞬で家に帰ってこれるし、仕事で必要になる本や道具をすべて圧縮して持ち運ぶことだってできる。ペースさえ落とせば、ダイモンの旅と仕事を両立させるのは、おそらく無理ではない。

 それなのにあの時断ってしまったのは、単純に怖かったからだ。

 そもそも、ダイモンがコーディエのことをなぜ旅に誘ったのか、その理由からコーディエは計りかねていた。
 コーディエに対して、誰よりも幸せになって欲しい、と言ってくれたことは嬉しい。だが、それをどういう意味で捉えればいいのか分からない。単なる親愛の情なのか、それともそれ以上のものなのか。

 グノシオンと同じ、という言葉を好意的に受け止めるなら、彼もまたコーディエのことを想ってくれているのかもしれない。だがそうだとしても、いつかダイモンもコーディエのことを裏切るのではないかという疑念も拭えなかった。
 思い起こせば目を覚ました瞬間に「夜の相手をしてやる」などと言い出したような輩だ、旅先で様々な相手と一夜の関係を持つことを何とも思っていない可能性だってある。

「ううん……」

 頭を抱え、コーディエは唸った。ここしばらく、首都から帰ってきてから同じことばかりが頭の中でぐるぐると回っている。袋小路に入ってしまったようだった。
 ダイモンのことだから、コーディエが考えるほど重い意味で誘ったのではなく、「次の目的地に着くまで一緒に行こうぜ」くらいの暇つぶし感覚の可能性だってある。

(大体、普通……会って数カ月の、しかも前科のある人間と一緒に旅に出たいと思うか?)

 そう考えてみると、すべてが怪しく見えてきてしまう。何かコーディエには分からない企みがあるのではないだろうか。あるいはただからかっているだけとか。
 遠くの国から来たということ、今まで旅してきたという話……本人の話でしかコーディエはダイモンのことを知らないし、その真偽を確かめる方法もない。そのことが余計に疑念を募らせていた。

(いや、私は……ずっと、一人で生きようと決めたんじゃなかったのか)

 嘘や裏切りでどうせ傷つくのだから、もう誰かと深くかかわるのはやめよう。そう決めて、この山の中に住み着いたのだ。
 ダイモンがいなくなれば、自分がずっと大切にしていた平穏な生活に戻れる。そこに何の問題があるだろうか。静かに暮らす、それが一番のはずだ。

(それなのに、なんでこんなにすっきりしない気持ちなんだ)

 ダイモンが去っていくことを考えるだけで、どうにも息が苦しくなってくる。胸を押さえたコーディエが机に伏せると、表からガラガラと馬車の音が近づいてきた。

「あ」

 もうそんな時間か。コーディエが緩慢な動きで立ちあがると、玄関からダイモンが入ってきた。状差しの中にあった手紙を取り、外へとまた出る。
 すぐに戻ってきたダイモンは、木箱と手紙の束を抱えていた。

「聞いてくれよコーディー、あの御者酷いんだぜ! 俺さ、馬車に乗る時ちゃんと下の村までの運賃払ったのにさあ、『また乗車賃を頂きます』だってよ!」
「……何の話だ」

 不満があることは分かるが、言いたいことから始まるからコーディエには何のことやらさっぱり分からない。手紙を受け取ってダイモンに聞き返すと、「だから、馬車だよ」とダイモンは木箱を開けた。

「俺、去年ソリに乗った時、当然下の村までの代金払ってたわけよ。でも雪崩に遭っちまって、結局途中までしか運んでもらえなかっただろ? だから、普通に考えて残りの道のり分は当然タダだと思ったわけ。でもあの御者に聞いたら『それなら証明として乗車券を出してください』とか言うわけよ。畜生! あるわけねえだろそんなの! 今頃雪解け水に流されて海にでも行ってらあ!」
「なるほど……でもそれは仕方ないんじゃないか? あの御者にはそれが本当かどうか分からないわけだし」

 むしろ証明さえあれば運賃がタダでいいというあたりにコーディエは温情を感じるのだが、ダイモンはそうではないらしい。

「あー腹立つ!」

 分かりやすく苛立ちを表明したダイモンは、そのままの勢いで木箱の中の野菜をストッカーへと放り込んでいく。ぼこぼこと人参やジャガイモがぶつかり合って悲鳴を上げているようだ。

「……行くのか、ダイモン」

 野菜を威嚇するように肩をいからせた筋肉質の背中に、コーディエは声を掛けた。下の村までの運賃を聞いたということは、そういうことだ。

「ああ、来週な」

 じゃがいもが転がり落ちてこないことを確認し、鼻を鳴らしたダイモンが振り向く。

「そうか……」

 絞り出すような声でコーディエは呟いた。ついに、来週の馬車でダイモンは旅立つつもりなのだ。
 コーディエを置いて。一人で。

「まあ、思ってたよりも冬が長かったせいで随分長く逗留しちまったからな。もういい頃合いだろう」

 ふわりとした笑みを浮かべ、ダイモンは窓の外を見た。そこには、もう雪はまだらにしか残っていない。

「お前といるのは楽しかったよ、コーディー。……ありがとな」
「それは……私もだ」

 感謝やこれからの道のりへの祝福を述べたかったが、喉が詰まってしまったようになって言葉が出てこない。窓から差し込む明るい光に小麦色の肌が照らされ、黒褐色の長い髪が輝くのをただ見つめる。
 先に視線を外したのは、ダイモンの方だった。

「まあ、言ってもまだ一週間あるからな。とりあえず外片付けてきたら昼飯にしようぜ」

 そう言ってまた玄関の外へ出て行くダイモンを見つめ、コーディエは軽く手を打ち合わせた。
 底本がぱたんと閉じ、本棚へ向かう。その後を追うようにひらひらと紙や辞書が舞い、ペンたちも飛んでいく。

 すべてが、元あった場所へ。整然と。
 だが、自分の心まで同じように片付けてしまっていいものなのか、コーディエはまだ分からずにいた。
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