1 / 10
第1話『川沿いの祠と鳴る鈴』
しおりを挟むシーン1:川沿いの異変とバズる鈴
早朝、まだ薄闇が残る言埜市の川沿いを、森下は愛犬の散歩でいつものように歩いていた。
朝露に濡れた草の匂いが鼻をくすぐる。
普段ならジョギングをする者や、釣りの準備をする人がちらほらと見える時間帯だが、今日は誰一人いない。
いつもと変わらぬ景色のはずなのに、川の流れの音が妙に大きく、どこか寂しく響いていた。
橋を渡り終え、小さな祠が鎮座する場所まで来た時だった。
リードを引く犬が、突然立ち止まり、必死にリードを引きちぎろうとするほど暴れながら低い唸り声をあげた。
ぶるぶると震えが止まらず、前足で地面を引っ掻きながら、祠の奥、木々が生い茂る森の入り口を怯えたように見つめている。
普段は活発な犬が、ここまで腰を抜かしそうなほど震えるのは珍しい。森下は首を傾げた。
「どうした、ここなんかあるのか?」
そう呟いた瞬間、森下の吐く息が、妙に白く見えた。
五月の終わりにしては、空気がひんやりと肌を刺す。
その冷たさが、川面から上がってくるように感じられた。
祠に目を向けると、そこには背筋が凍るような光景が広がっていた。
黒ずんだ朽ちた木材で作られた小さな祠は、まるで血のような赤い染みが浮き、縄は腐り果てて垂れ下がっている。
風もないはずなのに、祠に吊るされた鈴が、チリン、チリン、と澄んだ音を立てて鳴り始めた——いや、よく聞くと、その音に時折、人の呻き声のような低い響きが混じっている。
鈴の隙間からは、うっすらと黒い煙が漏れ出し、森下の鼻を刺激する腐臭を放っていた。
彼の視線の先、祠の裏手にある木々の間に、得体の知れない黒い影がのたうち回っているのが見えた。
地面と一体化するように蠢くその塊は、時折、人の腕のようなものがもがいているのが見えた気がして——しかし瞬きをすると、ぬるりと森の奥へと消えていく。
視線を川面に戻すと、そこにはより一層の異変が起きていた。
朝日に照らされ、きらきらと輝くはずの川面は、不自然に光を吸い込み、鈍く黒光りしている。
まるで深い闇を湛えているかのようだ。水はぴくりとも波打たず、不気味に静まり返っていた——いや、鈴の音に合わせるように、川面がドクン、ドクン、と脈打つように不規則に揺れ、時折川底から気泡がぽつりと浮かび上がっては弾けている。
一瞬、水面に黒煙と水の蛇竜のような影が浮かんだ気がした。
この場所だけ、日常から切り離されたかのような違和感が、森下の背筋を冷やした。
シーン2:桝川・昼の情報収集
場所は変わり、昼の桝川。定食屋として賑わう店内には、香ばしい出汁の匂いと、
常連たちのざわめきが満ちていた。
店主のたかしは、焼き台の前で器用にうなぎを返しながら、独りごちた。
「また川沿いでズレやろか……」
その時、店の入り口の暖簾をくぐって、鷹津麗が入ってきた。
着崩れたシャツの第二ボタンはいつも通り開けっ放しだ。
彼女は店を見回し、空いているカウンター席にすらりと腰を下ろす。
「たかし。今日も繁盛してるわね」
「おう、麗。いらっしゃい。いつものか?」
たかしが軽口を叩きながら、鷹津の注文を聞く。
鷹津は落ち着いた表情で、少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そういえば、たかし。川沿いの祠の鈴、今ネットでちょっと騒がれてるの知ってる?
なんか呪われそうな雰囲気で伸びてる動画がね」
鷹津の言葉に、たかしはふ、と鼻で笑う。
「はいはい、またズレ製造機の登場? あんたも好きやねぇ、そういう変なゴシップ拾ってくるの」
たかしの砕けた毒舌に、鷹津は肩をすくめた。
彼らが扱う「ズレ」とは、この言埜市に現れる、日常を歪ませる不可解な現象のことだ。
鷹津は、そうした「ズレ案件」を嗅ぎつけては、桝川に持ち込む役割を担っていた。
彼女が言う「ズレ拾い屋」とは、まさにそのことを指す。
鷹津の口調は、どこか俗っぽく、それでいて、厄介事を面白がるような底意地の悪さを滲ませていた。
「バズってるって言うか、もう『呪い確定』ってコメント欄は荒れまくりよ。タグは#ズレ鈴ね。ほら」
鷹津がスマホをたかしに見せる。画面には、祠の鈴が風もないのに鳴り響き、川面が不自然に揺れる動画が映っていた。
再生回数は既に数十万回を超えている。
「へぇ、最近の若ぇ奴らは面白いもん見つけるなぁ」
たかしの問いに、鷹津はにやりと笑った。彼女はスマホを操作し、別の情報源を提示する。
「ねえ、たかし、この祠、調べてみたら言埜川の水害の伝承に繋がってるみたいよ。古文書にね、『黒き龍が川を荒らし、その瘴気を祠に封じ込んだ』って書いてあったの。これ、特ダネどころか、呪いの元凶じゃない!?」
鷹津の興奮した声に、たかしは腕を組んで唸った。
シーン3:モモカ登場
その時、店の奥から、ズルッと音がしてモモカが現れた。
寝起きのジャージ姿で、髪はボサボサ。見るからに機嫌が悪そうだ。
「うっわ、朝っぱらからズレ話すんなや、胃もたれするわ」
モモカは不満そうに顔を歪ませ、鷹津を睨みつける。
鷹津はそんなモモカの様子を見て、面白そうにニヤリと笑った。
「そう言わんといて。モモカ、あんた現場行ってきて。暴力担当でしょ?」
「はぁ? なんであたしが。また雑用回しでしょ、どうせ」
「ズレ鰻定食でも作ってやろうか?」とたかしがからかうように言うと、モモカは更に不機嫌そうに顔をしかめた。
文句を言いかけたモモカだったが、たかしが放った視線に気づき、口を噤んだ。
この店で働く彼らが、ただの定食屋の店員ではないことを、読者はここで初めて知る。
彼らは、この言埜市に現れる「ズレ」を「祓う」ことを生業とする「祓い屋」だった。
葛城モモカは、その中でも特に、力任せの「現場担当」であり、その口の悪さと雑な物言いは、この街の「ズレ」に対処する彼らの実情を物語っているようだった。
シーン4:現地確認
モモカは、渋々といった表情で桝川を出ると、川沿いの祠へと向かった。
彼女の足元には、猫のような姿をした使い魔、カラクサが静かに寄り添っている。
カラクサは、その小さな鼻をひくつかせ、周囲の空気の異常を敏感に探っていた。
祠の周囲の空気は、ねっとりと重く、モモカが近づくにつれて、鈴の音が不規則に、そして大きく鳴り始める。
キィン、というズレ特有の耳鳴りが、モモカの鼓膜を不快に震わせた。
鈴が鳴るたびに、モモカの耳の奥に、太く低い“男の声”が一瞬だけ混じる幻聴が聞こえた。
それは、どこかで聞いたような、しかし思い出せない、不快な響きだった。カラクサが鼻をひくつかせ、低い声で唸った。
「この瘴気、どこかで感じたことあるぞ。なんか、昔の禁忌術っぽい気配だ」
「……水がズレてるな」
モモカは、不自然に波打つ川面を見て呟いた。
祠の裏手に回ると、カラクサが低い唸り声をあげて、地面に体を擦り付けた。
その途端、カラクサの尻尾がぶわりと膨れ上がり、その小さな体が緊張で震える。
そこには、うっすらとだが、木々の陰を這う女の影が揺らめいている。
それは、明確な形を持たない、ズレと化した一般人の姿だった。
この場所で、小規模なズレが発生していることを、モモカは確信した。
シーン5:祓い
モモカは腰に下げた札棍(ふだこん)を取り出して構えた。
鉄製のシンプルな棒の先に、幾枚もの紙の札が巻き付けられている。
彼女がそれを振り上げると、札が燃えるような白い光を放ち始めた。
「この鈴、うるせえ! ぶっ壊してやる!」
モモカは札棍を振りかぶると、祠に吊るされた鈴めがけて思い切り叩きつけた。
ガシャアアン! とガラスが砕けるような音と共に、鈴が粉々に砕け散る。
その瞬間、川面から黒い瘴気が噴き出し、水面に蛇竜の影が一瞬だけ明確に映った。
カラクサが「この気配、ズレじゃねえ。もっとデカいぞ!」と唸った。
「カラクサ! 喰い散らしの舞や!」
モモカの号令に、カラクサが黒煙を纏い、巨大な黒豹のような姿に変貌した。
カラクサは素早く祠の周りを駆け回り、砕けた鈴から漏れ出す黒煙を、まるで喰い散らすように吸収していく。
その禍々しい動きは、祓いというよりは、文字通り「掻き回し、貪り食う」舞だった。
モモカは祠の裏手の影になった場所へ、懐から即席符を取り出した。
川の石にその符を貼り付けると、バチバチ、と青白い光が走り、小規模な爆発エフェクトと共に、這いずる女の影が吹き飛ばされる。
女の影は、まるで霧が晴れるようにあっという間に消え去り、小規模なズレは即座に収束した。
祠の裏手には、破れた紙片が地面に落ちていた。
モモカはそれを拾い上げる。それは、以前誰かが貼ったであろう、古びた札の残骸だった。
紙片からは薄く黒い燻りが上がり、妙な記号が薄っすらと見える。
「誰か撒いとるね。これ、あんまり良くない気配や」
モモカは顔をしかめた。
ズレを広げる目的で撒かれた、悪質なものだ。
祠の鈴は、浄化後もチリン、チリン、と微妙に鳴り続けていた。
完全に浄化できたわけではない。
この鈴の音が、この祠の持つ、拭い去れない不穏さを物語っているかのようだった。
「……なんか、まだ底がある気がするな」
モモカは独りごちた。
完全に祓いきれていない、根っこが残っているような不快感が残る。
シーン6:桝川・締め
桝川に戻ったモモカは、たかしと女子大生のバイト、静流が待つカウンターに報告に向かった。
静流は、すでにモモカの報告を待っていたかのように、ノートを広げ、淡々と記録を始めている。
「川沿い祠案件、今年3件目ですね。たぶん」
静流は無感情にそう告げた。
その言葉に、鷹津が口を挟む。彼女はスマホで何やら調べている。
「最近、こういうズレ撒く速度、早くない? 前より頻繁に動き出してる気がするのよ」
モモカは頷いた。
「ほんまや。祠レベルでこれやったら、街中もっとズレるんちゃうかな」
たかしは、静流が記したノートの記録に目を落とした後、深いため息をついた。
彼の視線は、店の窓から見える言埜の街の空をぼんやりと見つめている——その空が、不自然に黒ずんで見えたのは気のせいだろうか。
「……ズレ祓いの季節、始まったか……」
彼の呟きは、この街に再び訪れるであろう、異常な日々を示唆していた。
遠くから聞こえてくる鈴の音が、まるで川の奥へと吸い込まれていくように響いている。
桝川の明かりが、静かに夜の街を照らしている中、祓い屋の稼働が、今、始まったばかりなのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる

