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第9話 森の水辺
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昨日まで降り続いた雨が埃を洗い流した様に、久し振りの晴れ間に照らされたスクリーヴズビーの風景は輝いて見えた。
チャールズは再び、森の中へ分け入ろうとしている。
あの屈辱の日以降も表面的には何も変わっていなかった。
午前中の稽古ではクリスティーナにまるで歯が立たず、相変わらず地面を舐めてばかりいる。
そして相変わらず、彼女はほとんど言葉を発することなく、表情や感情の動きも伺われない。
唯一変化したのはチャールズの内面である。
剣を叩き落されるたび、地を這わされるたび、彼女が無表情の仮面の下で彼をあざ笑っているように妄想されて仕方なくなる。
妄想と言えるのだから、単なる思い込みに過ぎないと、冷静に考えられる理性はまだ残っている。
だが、あの恥辱の記憶がある限り、彼にはその妄想を完全に消し去ることができないでいた。
今日、また森の中へと向かう彼女の姿を見たチャールズは、迷わずその後を追う。
ただし、今回は護身用の武器携帯を忘れずに、だ。
前回、帰路はあっけないくらい簡単に分かった。
いつも通る道から少し入っただけの場所だったのに、追い詰められた状態ではそれに気づくことができなかったのだ。
今日は太陽も昇っているので森の中でも方角を見失うことはない。
それでもできる限り慎重に、と自らに言い聞かせつつ、太い木の幹にその身を隠しながらクリスティーナの後を追って森へと分け入ってゆく。
決して気付かれぬよう、彼我の距離はかなり大きく空けていた。
時には見失うこともあったが、慌てることはなかった。
彼女は少なくとも、前回狼と出くわした辺りまでは行ったのだ。
だからたとえ見失ったとしても、あの辺りを目指してゆけばいい。
これだけでずいぶん心に余裕が持てた。
クリスティーナはしばらくの間、茂みを掻き分けつつ進み、森を貫いて流れる川の作る淵の縁に出たところで足を停めた。
彼女は周囲を見回しながら水際の大きな岩陰へ降りてゆく。
樹の幹に身を隠しながらその様子を窺うチャールズの気が逸った。
ここで、なのか? この場所で?
チャールズが彼女を追って森に入ったのは、もともと彼女が秘密の鍛錬を人目を避けて行っているのではないか? そう疑ったからだ。
気配を消して様子を窺っていたが、激しい動きを感じさせる物音は聞こえてこなかった。
意を決し、足音を立てないよう慎重に岩陰の方から距離を詰める。
「……?」
水の撥ねる音に重ねて、歌声が聞こえる。
まずい。
まだ若いチャールズでさえ、この状況がどういったものなのかは見当がついた。
すぐに立ち去るべきだ。
不道徳な汚名を着せられても平然としていられるには、彼は若過ぎた。
理性は即時の退去を命じていたのだが、体は緩く縛り付けられたように動こうとはしなかった。
彼を縛ったのは、踊るような歌声だった。
稽古では一言もしゃべらぬ寡黙な彼女が、表情も凍ったように変わらぬ彼女が、こんなにも明るく陽気なメロディーを口ずさむとは!
その歌声は優しく、同時に力強い生命力に満ちて魅力的であった。
歌っているのは毎年の収穫の祭りに来る旅の楽団が演奏する曲で、彼女の歌声がとてもよく似合っている。
あまりにも意外な彼女の姿に、好奇心は跳ね踊る仔馬の様だ。
チャールズは立ち去ることもできず、ずっと聞き惚れているだけだった。
結局、彼はしばらくして彼女が淵から上がる気配がするまで身動きもせずにいた。
彼女の姿が見えなくなるまで岩陰の反対側の窪みに隠れて息を殺しやり過ごしたものの、完全に一人になってからもなかなか動きだすことができなかった。
それからも、クリスティーナが森へ分け入るたびにチャールズはその後を追った。
一応、人目を気にして周囲を見回しつつではあったが、その程度では意識して注意を向けている視線から逃れることはできなかった。
その視線の主がたとえ二歳下の弟であったとしても。
「……?」
チャールズの弟ルイスは、クリスティーナを追って森へと分け入ってゆく兄の後ろ姿を、屋敷の二階の窓から眺めながら思案顔を見せる。
「ん、まぁいいや」
稽古が終わって小腹がすいたのだ。台所で何かねだってみよう。ルイスにはそちらの方が重要なことだった。
自分自身、いったい何をしているのか、と思う。
だが、チャールズは毎度この場所で彼女の歌に耳を傾けることを止められずにいた。それは見つかれば言い逃れの出来ない行動だと分かっていても。
けっして、飛び抜けて素晴らしい歌唱という訳ではない。
ただ、普段は感情のない人形の様な彼女の、別人のような面が強く彼の興味を引いたのだった。
「おう、そこで何をやってんだぁ~? って、みりゃあ分かるか。へへっ」
チャールズの隠れた岩陰と反対の岸辺から、野太い男の声が響いた。
声の主はチャールズもよく知った相手、森番のトマスだ。
「おめぇ、あのイカれたジジイの娘だな? ここはダイモーク家の森だぞ。森番の俺としちゃあな、勝手に入り込んで悪さをする奴ぁとっ捕まえてお仕置きしなきゃなぁ? おっと、勝手に動くんじゃねぇぞ!」
通常の状態で彼女の実力をもってすれば、いかに大柄な成人男性で荒事に慣れた森番が相手だとしても遅れをとることはあるまい。
だが今、彼女は恐らく丸腰(どころか衣服すら)であり、手の届くところに剣があるかも怪しい。
それにトマスは森番の勤め上、弓矢を携行している。
「へっ、色気のねぇガキだが、なんとか役に立ちそうだなぁ? お仕置きついでにいろいろと世の中のことを教えてやろうじゃねぇか。特に男と女のことを、な」
トマスの声音が野卑た淫猥なものになった。
チャールズの脳裏を様々な思いと計算がない交ぜに荒れ狂う。
どうする! どうすれば、いい?
チャールズは再び、森の中へ分け入ろうとしている。
あの屈辱の日以降も表面的には何も変わっていなかった。
午前中の稽古ではクリスティーナにまるで歯が立たず、相変わらず地面を舐めてばかりいる。
そして相変わらず、彼女はほとんど言葉を発することなく、表情や感情の動きも伺われない。
唯一変化したのはチャールズの内面である。
剣を叩き落されるたび、地を這わされるたび、彼女が無表情の仮面の下で彼をあざ笑っているように妄想されて仕方なくなる。
妄想と言えるのだから、単なる思い込みに過ぎないと、冷静に考えられる理性はまだ残っている。
だが、あの恥辱の記憶がある限り、彼にはその妄想を完全に消し去ることができないでいた。
今日、また森の中へと向かう彼女の姿を見たチャールズは、迷わずその後を追う。
ただし、今回は護身用の武器携帯を忘れずに、だ。
前回、帰路はあっけないくらい簡単に分かった。
いつも通る道から少し入っただけの場所だったのに、追い詰められた状態ではそれに気づくことができなかったのだ。
今日は太陽も昇っているので森の中でも方角を見失うことはない。
それでもできる限り慎重に、と自らに言い聞かせつつ、太い木の幹にその身を隠しながらクリスティーナの後を追って森へと分け入ってゆく。
決して気付かれぬよう、彼我の距離はかなり大きく空けていた。
時には見失うこともあったが、慌てることはなかった。
彼女は少なくとも、前回狼と出くわした辺りまでは行ったのだ。
だからたとえ見失ったとしても、あの辺りを目指してゆけばいい。
これだけでずいぶん心に余裕が持てた。
クリスティーナはしばらくの間、茂みを掻き分けつつ進み、森を貫いて流れる川の作る淵の縁に出たところで足を停めた。
彼女は周囲を見回しながら水際の大きな岩陰へ降りてゆく。
樹の幹に身を隠しながらその様子を窺うチャールズの気が逸った。
ここで、なのか? この場所で?
チャールズが彼女を追って森に入ったのは、もともと彼女が秘密の鍛錬を人目を避けて行っているのではないか? そう疑ったからだ。
気配を消して様子を窺っていたが、激しい動きを感じさせる物音は聞こえてこなかった。
意を決し、足音を立てないよう慎重に岩陰の方から距離を詰める。
「……?」
水の撥ねる音に重ねて、歌声が聞こえる。
まずい。
まだ若いチャールズでさえ、この状況がどういったものなのかは見当がついた。
すぐに立ち去るべきだ。
不道徳な汚名を着せられても平然としていられるには、彼は若過ぎた。
理性は即時の退去を命じていたのだが、体は緩く縛り付けられたように動こうとはしなかった。
彼を縛ったのは、踊るような歌声だった。
稽古では一言もしゃべらぬ寡黙な彼女が、表情も凍ったように変わらぬ彼女が、こんなにも明るく陽気なメロディーを口ずさむとは!
その歌声は優しく、同時に力強い生命力に満ちて魅力的であった。
歌っているのは毎年の収穫の祭りに来る旅の楽団が演奏する曲で、彼女の歌声がとてもよく似合っている。
あまりにも意外な彼女の姿に、好奇心は跳ね踊る仔馬の様だ。
チャールズは立ち去ることもできず、ずっと聞き惚れているだけだった。
結局、彼はしばらくして彼女が淵から上がる気配がするまで身動きもせずにいた。
彼女の姿が見えなくなるまで岩陰の反対側の窪みに隠れて息を殺しやり過ごしたものの、完全に一人になってからもなかなか動きだすことができなかった。
それからも、クリスティーナが森へ分け入るたびにチャールズはその後を追った。
一応、人目を気にして周囲を見回しつつではあったが、その程度では意識して注意を向けている視線から逃れることはできなかった。
その視線の主がたとえ二歳下の弟であったとしても。
「……?」
チャールズの弟ルイスは、クリスティーナを追って森へと分け入ってゆく兄の後ろ姿を、屋敷の二階の窓から眺めながら思案顔を見せる。
「ん、まぁいいや」
稽古が終わって小腹がすいたのだ。台所で何かねだってみよう。ルイスにはそちらの方が重要なことだった。
自分自身、いったい何をしているのか、と思う。
だが、チャールズは毎度この場所で彼女の歌に耳を傾けることを止められずにいた。それは見つかれば言い逃れの出来ない行動だと分かっていても。
けっして、飛び抜けて素晴らしい歌唱という訳ではない。
ただ、普段は感情のない人形の様な彼女の、別人のような面が強く彼の興味を引いたのだった。
「おう、そこで何をやってんだぁ~? って、みりゃあ分かるか。へへっ」
チャールズの隠れた岩陰と反対の岸辺から、野太い男の声が響いた。
声の主はチャールズもよく知った相手、森番のトマスだ。
「おめぇ、あのイカれたジジイの娘だな? ここはダイモーク家の森だぞ。森番の俺としちゃあな、勝手に入り込んで悪さをする奴ぁとっ捕まえてお仕置きしなきゃなぁ? おっと、勝手に動くんじゃねぇぞ!」
通常の状態で彼女の実力をもってすれば、いかに大柄な成人男性で荒事に慣れた森番が相手だとしても遅れをとることはあるまい。
だが今、彼女は恐らく丸腰(どころか衣服すら)であり、手の届くところに剣があるかも怪しい。
それにトマスは森番の勤め上、弓矢を携行している。
「へっ、色気のねぇガキだが、なんとか役に立ちそうだなぁ? お仕置きついでにいろいろと世の中のことを教えてやろうじゃねぇか。特に男と女のことを、な」
トマスの声音が野卑た淫猥なものになった。
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