婚約破棄された伯爵令嬢ですが、辺境で有能すぎて若き領主に求婚されました

おりあ

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 朝靄の残る王都で、セリナ・リーヴェルはいつものように石畳の廊下を歩いていた。金髪は淡い光を反射し、青い瞳は静かに決意を宿している。手には昨夜未明まで推敲した書簡が握られ、その重みが彼女の心を引き締めていた。今日は――いや、今日は違う。たとえどんな結果になろうとも、自らの言葉で殿下の心を確かめる。
 書簡を預けた書記官は、深々と頭を下げて封を託した。セリナは軽く頷き、書斎を後にした。空にはまだ雲の名残が漂い、風は冷たかったが、胸の中には熱い鼓動が響く。馬車に乗り込み、王城中央の大広間へ向かう道すがら、セリナの頭にはとうの昔に交わした約束の言葉が浮かんでいた。

『君と話がしたい』

 王太子レオニスのその一言は、まだ耳の奥で震えている。広間の扉を開いた瞬間、リーナ・エヴェレットの甘い声と、彼女への配慮のなさに胸を抉られたあの日から、この時を夢見てきた。あのときの痛みを乗り越え、自らの言葉で殿下に届くかどうかを確かめる。
 大広間に到着すると、石造りの柱が連なる空間の向こうに、集まった侍従や貴族たちの視線が一斉に向けられた。セリナは一礼し、まっすぐに進む。中央に据えられた玉座の前で、王太子は資料に目を落としていたが、やがて顔を上げた。冷たい威厳と、微かに戸惑いを含んだ瞳がセリナをとらえる。

「セリナ、こちらへ」

 その声は静かだが、確かな響きを帯びていた。セリナは足を止め、心の中で深く息を整える。周囲のざわめきが遠のき、二人の世界だけがゆるやかに回転するようだった。

「レオニス殿下」

 彼女は丁寧に頭を下げ、差し出された小さな机のそばに立った。机の上には、昨夜の書簡案が開かれている。封は既に解かれており、彼が自らの筆で書き加えた赤い文字が目に入った。

「――君の言葉は、確かに届いたよ」

 レオニスは静かに目を細め、掠れた微笑みを浮かべた。だが、その笑みはどこか遠く、届きそうで届かない場所にあるように感じられた。セリナは胸の奥が締めつけられる思いに包まれた。

「ありがとうございます。殿下のお声を直接伺えただけで、私は…」

 言葉を探しながらも、セリナは思い切って机の上の書簡を手に取った。そこには、彼女自身の言葉が丁寧に記されている。生涯に一度の覚悟を刻んだ文字が、そこにあった。

「だが、私には痛みもある。君の言葉に泣きそうになった。しかし、そのいっぽうで、リーナの姿が頭をよぎったんだ」

 レオニスは視線を逸らし、手元の書簡をそっと置いた。セリナはその言葉に、胸を痛めながらも目を逸らさなかった。

「リーナ様の笑顔を見ていると、私は安らいだ。君の静かさは美しいが、私が求めたのは、もっと直接的な温もりだったのかもしれない」

 それは、すれ違いの言い訳なのか、真実なのか。セリナの内心は渦巻いたが、声を上げる意志は揺るがない。

「殿下がお求めになった温もりとは、どのようなものか、私にはわかり兼ねます。リーナ様の笑顔に安心を感じられるのであれば、私はその役割を全うできなかったのかもしれません」

 セリナは一歩、机に近づき、静かに言葉を紡いだ。彼女の声には、悔恨と、最後まで諦めない強さが混ざっている。周囲のざわめきは完全に消え、玉座の前だけに時が止まったかのようだった。
 レオニスは瞳を大きく見開き、無言でその言葉を受け止めた。沈黙が続く中、彼は深く息を吐いた。

「――セリナ、君は……君は素晴らしい令嬢だ。だが、君のやり方は、私とは相いれないのかもしれない」

 言葉は痛みを伴って放たれ、セリナの胸に深い刻印を残した。歯を食いしばるようにして、セリナは震えた唇を微かに動かす。

「――承知いたしました。殿下の幸せを、私はただ願っております」

 その声は、かつての彼女なら出せなかったほど静かに、しかし確かに響いた。言葉を失ったレオニスは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。

「君の気持ちは、必ず心に留める。だが、この婚約はここで終わりにしよう」
「さようでございましたか……」

 短い言葉の真意は、あまりにも残酷だった。玉座の前、婚約破棄を正式に告げられたその場は、まるで凍りついたように静まり返っていた。
 レオニスは最後にもう一度、セリナを見つめた。そこには、かつての温もりはなく、ただ使命感だけが滲んでいた。

「これまで本当にありがとう、セリナ」

 そして、殿下は無言で頷き、近くの扉へと向かった。開かれた扉の向こうからは、再び社交界のざわめきが漏れ聞こえる。セリナはその扉が閉まる瞬間まで見届け、あっけなく終わった最期に膝を床につけた。

 ――私の──想いは、届かなかった。
 ――それでも、私は――

 胸の奥で灯った小さな炎を、セリナは消さなかった。未来がどう転ぼうとも、この痛みが彼女を新たな道へと導くことを、本能が知っていたからだ。
 広間を出ると、侍従長ヴァレンティン卿が静かに書簡を回収していた。セリナは揺れる視線をそらし、ゆっくりと立ち上がる。庭園を背にした石畳に、沸騰しそうな胸の鼓動を抑えながら、彼女は自分自身に誓った。

 ――私は、私自身の道を歩む。
 ――誰かの影ではなく、私の言葉と行動で、未来を切り開く。

 黄金色の秋風が、セリナの金髪と青い瞳をそっと揺らし、遠ざかる玉座の間へと導いた。婚約破棄の痛みを抱えながらも、彼女のその背は、これまで以上にしなやかで、強く光を宿していた。
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