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第1章
洗礼式
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陽が昇り侯爵邸に朝がやってきた。
ブランは眠れない夜を過ごしたが気分はすっきりしていた。今日の緊張のせいなのか、それとも六日間も眠っていたからなのか。
バルドロイよりも先にベッドを抜けてブランは顔を洗った。
さっぱりした頃、アルフレッドが扉をノックした。
「旦那様、坊ちゃん。おはようございます。朝のご準備に参りました」
アルフレッドの声でバルドロイが覚醒し始める。
ブランは洗面所から出て扉を開けた。
「おはようございます、アルフレッドさん」
「おや、坊ちゃん。お早いですね。お身体はもう大丈夫ですか?」
「はい!たっぷり眠ったので元気いっぱいです」
「それは良かった」
ブランはアルフレッドと共にベッドまで行くとバルドロイを起こした。
「お父様、起きて!朝ですよ!」
「うぅ~ん……そぅ、か」
「お~き~て~!」
「う~ん」と言いながらバルドロイはブランに手を引かれて起きた。
「おはようございます!」
「おはようございます、旦那様」
「うむ……おはよう、ブラン、アル」
アルフレッドに続いてメイドたちが数人入ってくる。
軽食と早朝のお茶を運んできたようだ。
ブランは部屋に広がった紅茶の香りに鼻をひくつかせた。
「今日はダージリンですね」
「流石です」
ブランがまだ使用人たちと寝起きを共にしていたころ、茶葉の匂いを覚えたことがある。アルフレッドは貴族の教養の一つだからと良く飲ませてくれた。
「さて。本日は坊ちゃんの洗礼式ですからね。軽食を召しあがった後はすぐに身支度に取り掛かりますよ」
そういうとテーブルにバルドロイとブランを移動させて軽食を差し出した。
今朝はワッフルとバタービスケット、ベーコンと目玉焼きだ。
「美味しそうです……!」
「存分に召し上がってください。本日はゆっくり朝食を召し上がる時間がありませんから今の内にお腹を膨らませてくださいね」
どうやら洗礼式は長時間行われるようで朝早くから割り当てられた神宮へ向かわなければいけないらしい。
中央神宮には帝都に住まう貴族の子息・令嬢が数百と集まる。その一人ひとりが祭壇に上がって魔力量・属性を測定する儀式があり、それが一番長いのだ。
その間、不正がないよう神宮の出入り口は封鎖される。
「緊張するな……」
「大丈夫だ、ブラン。みんな同じだから」
バルドロイは食べながらようやく起きたようだった。
軽食を食べ終え、ブランとバルドロイは着替えた。
バルドロイは相変わらず軍服に似た赤いジャケットを着ている。腰に拳銃を差し白いコートを羽織っている。
ブランはシャツ、ズボン、ケープまですべて真っ白な服を着た。良く見ればシャツの襟やケーブの端にボナパルト家の紋章が刺繍されている。
「さて。出発だ」
「はい」
バルドロイが差し出した手を取り、ブランは馬車に乗った。
中央神宮へは馬車で1時間かかる。今日は洗礼式を迎える15歳の貴族たちが集まるため、道も混んでいた。
ようやく神宮に到着するとブランはその大きさに言葉を失った。
「すごい……」
「神宮。名の通り“神の宮殿”に相応しい荘厳さだろう?」
10mはあろうかという外壁に囲まれ、正門をくぐった先に見えてきたのは巨大な城だった。おそらく地上にある帝国のどの建物よりも広いに違いない。
天皇宮との違いと言えば、城の形式が違うことだ。天皇宮は広大な敷地に高い塔が連なるような巨大な城だったが、神宮は高いところで三階建て、四方に大きく広がっているのだ。
「奥が見えないです……」
「私たちが入れるのは手前の広場と真ん中の儀式の間だけだ。奥の区画には神宮に仕える神官たちの住居があり、さらにその奥には中央神宮の長である大宮司氷雨様の屋敷がある。中央神宮だけで一つの町ほどあるんだ」
「そんなに……!」
ブランが巨大な宮に口を開けて呆けていると、横から嫌な笑い声が聞こえてきた。
「お母様、見てください。あの奴隷のだらしない顔」
「あらルビーちゃん、そんなもの見ちゃいけませんわ。気味が悪い」
「どうやら、この神聖な場所が奴隷には不相応だって気づいたみたいですよ」
「全く、頭の弱い子ですわ。どれだけ身なりを良くしようと、立ち振る舞い、顔立ちから卑しさが滲み出ていますねぇ。やはり生まれつき帝国貴族である我々とでは比べ物になりませんわ」
聞こえてきた声にバルドロイとブランは眉間に皺を寄せた。
その方向に視線を向けてみると、やはり腹立たしい顔をした少年と夫人がいる。
パーティー会場での違いはその横にジュエルペット侯爵がいたことだろう。
(なるほど……。待合室でお父様に食って掛かってきたジュエルペット侯爵とあの夫人、子供は親子なんだな)
——どうりでいけ好かない。
ブランは小さくため息をついて興味もなさそうに目を逸らした。
バルドロイも怒りのあまりブランの手を強く握りしめたが睨みつけるだけで言葉にはしなかった。
おそらく神殿で騒ぎを起こすのはバルドロイの思うところではないのだろう。
集まった貴族たちは浅葱色の袴を着た神官たちに案内され広場に集まった。
浅葱色の神官たちから紫色の袴を着た神官へと案内が引き継がれた。
「皆さま、本日の洗礼式にお集まりいただきありがとうございます。これより、序列順に儀式の間へとご案内させていただきます」
紫袴の神官は名簿を拡げて読み上げ始めた。
「序列1位、楊大公爵宗家のご令嬢、楊紅花様。お連れ様とご入場ください」
その名前を聞いた時、広場に集まった貴族たちは騒めいた。
「今楊家と仰いました?」
「それも大公爵家宗家ですと……。つまりは滄波の御息女ということではないか?」
「ご息女がいらっしゃったんですか?」
「確かに昔、お生まれになったと聞いたが、今の今まで社交界にいらっしゃらなかったからてっきりお亡くなりになったのかと……」
「しかもお連れの方は宗家の方ではなく分家の方では?」
コツコツと控えめな足音を響かせて扉へ向かったのは、赤い髪を綺麗に切りそろえた美しい少女だった。長い前髪で右目が隠されているが、うつむいた左目はバラのように真っ赤な色をしている。
(あ、あの人と同じ目だ)
ブランはパーティーで出会った楊皓月を思い出した。彼も真っ赤な瞳をしていた。彼女の顔の角度から周囲の者に瞳の色は見えないのだろう。
ブランは彼女の付近に知っている顔がないか確認した。しかし彼女に付き添っているのは会場では見かけなかった侍女のような冴えない人だった。
「みて。あの方が公女様のようよ」
「……鮮やかな髪色ね。楊家のご子息たちは紺色と金髪でなくって?」
「そうだ。滄波様の髪色か、大公爵夫人の金髪を受け継いでいらっしゃるから」
「ではあの赤髪は……?」
群衆はひそひそと話していくうち、彼女を見る目が徐々に剣呑なものに変わっていった。
誰かが言った。
「あの子は滄波様の実子じゃないのでは?」
その言葉をきっかけに騒ぎは大きくなった。もう少女の耳にも届く音量だ。
「しかし現に今、宗家としてお名前を呼ばれていますよ?きっと認知されているのでしょう……」
「でもお披露目会も社交界デビューもなかったじゃありませんか。ご子息方は盛大に行ったというのに」
「それに楊家でご令嬢が生まれたならば盛大に祝われて当然では?あの家系ですよ、女性の方が強い能力です」
「いやしかし、あの美しさは楊家の血を感じますが……」
「楊家の方々は皆美しい顔立ちをされていらっしゃいますからね。分家の誰が親でもそうでしょう」
「きっとそうですよ。それにあの滄波様が父親ならば佇んでいるだけで威厳が溢れるものですわ。公女様は名前を呼ばれるまで注目を集めていらっしゃらなかったじゃない」
「その程度の美しさということですの?」
「……つまり、彼女は楊家の分家から召し上げられたと?」
周囲の声に彼女は一瞬唇を嚙みしめたが、何も言い返すこともなく静かに儀式の間へと入っていった。
(可哀そうに。言い返しも睨みつけることもしない。優しい人なんだな……)
ゴシップに目がない貴族たちはその場で暫く騒めいた。
それから十数組の貴族が入場した後、ブランとバルドロイの順番が回ってきた。
位の高い順から入場するため、これ以降はボナパルト家よりも序列が低い者たちしかいない。しかしバルドロイと共にいるブランを見て鼻で嘲笑う者たちが殆どだ。
公女が去ってから話題に飽きた貴族たちはブランへと標的を変えた。
「序列26位ボナパルト侯爵家ご子息、ブラン・ボナパルト様、お連れ様とご入場ください」
名簿を見た紫袴の神官は言葉遣いは他と変えずとも、その目は道端に落ちている蝉の死骸を見るようなものだった。
「ほらみて、あの子。パーティーの日いつの間にか消えていたわよねぇ」
「そりゃ、皇宮はあんなモノがいていい場所じゃありませんから」
「でも来儀様と一緒にいるところを見たわ。どんな関係かしら……」
「見世物として物珍しかったんだろう」
「そのあと、滄波様が気分を悪くされて帰ったって」
「楊家の反感を買ったんじゃない?当り前よ」
バルドロイはわざと聞こえるように話す貴族を睨みつけてブランの手を握った。
「お父様……」
「気にするな。所詮口元を隠してしか言葉を発せないような弱者どもだ」
バルドロイの言葉に何人かが怒りに顔を歪めたが、バルドロイは気にせず歩いた。
ブランも意識を切り替える。
(そうだ。——僕が堂々としていなくちゃ、お父様がバカにされる)
ブランは一呼吸置くとたちまち貴族の表情をした。
水色の目は鋭さを含んでいて隙のない表情、自然な体運びで胸を張って歩く。
脳内で声がする。
——臭い。不味そう。要らない。
(……神官のこと?)
——是。アレは駄目だァ。神聖力も濁って腐っている。脆い、弱い、不味い。
(そんなこともわかるの?)
——アレだけじゃない。他にも腐った匂いがする。
声がブランの視界を操って周囲を見させる。
ブランが見た人々は面識のない者たちばかりだった。
(……あの人たちが何?)
——腐ってる。
皇宮で見た気もするが、関わった覚えはない。向こうもブランに対して何かをしようとしているようには見えなかった。
数人を見比べているとブランはある“共通点”に気が付く。
声が示した貴族には首元や手首と言った服で見えにくい場所に模様があるのだ。稲妻のような割れた線。
(みんな、同じ模様の入れ墨が……)
——アレはもう駄目だな。
声はひどく残念そうですぐに興味を失ったようだ。ブランも貴族たちの観察をやめ儀式の間へ向かって歩く。
神官とすれ違う際、ブランは横目に見ながら小さく「ハ」と笑った。
(この人、声が喰う価値もないって言ってる。僕を馬鹿にしてるけど、それだけの人間)
「!」
神官はブランの背後に何を見たのか、ゾッと背筋を凍らせて息をのんで固まった。
バルドロイがそれに気づいた様子はない。
ブランとバルドロイはそのまま足を進め儀式をする間へ進む。
何本もの石柱が立ち並び、奥に行くにつれ太く大きくなっていく。やがて階段を下り大きな扉の前に立った。
「ここが洗礼の間だよ」
「……大きい」
この神宮は外からみると高さがないが、中に入ってみれば底が深いことが分かる。巨人用と言われたほうが納得するほど大きな扉。その前には紫袴の神官が立っている。先ほど広場にいた神官と違うところと言えば、見えにくいが袴に紫紋が入っていることだ。
「お父様、袴に紋が入ると位が上がるんですか?」
「あぁ、良く気付いたな。紫袴は3種類。位が低い者から無紋、紫紋、白紋と上がっていく」
「神宮では紫袴に白紋が一番偉いんですか?」
「いいや。白袴に白紋が最も上位だよ。大宮司である氷雨様のみ着用できるんだ」
二人が扉の前に立つと神官たちは深々とお辞儀をした。
先ほどの無紋とは違い、誰に対しても一定の礼儀を重んじているように感じる。
「儀式の間に入場なさる前に、いくつかの注意点を確認していただきます」
「はい」
紫紋の神官たちは穏やかに話した。
「一つ、儀式の間へは武器をお持ち込みできません」
「一つ、儀式の間では魔法を使用してはいけません」
「一つ、儀式の最中は指示が無い限り席を立ってはいけません」
「一つ、この中央神宮において氷雨様の言葉を遮ってはいけません」
バルドロイは事前に武器を馬車に置いてきている。
紫紋の神官はブランやバルドロイが頷くのを見ると扉を開いた。
「それでは、いってらっしゃいませ」
扉は手を添えるだけで自動的に開いたように見えた。
おそらく神官しか知らない魔法がかけられているのだろう。
開かれた扉の先は円を描くように配置された座席、中央に向かって下る階段。
360度囲まれた舞台のようだった。
大理石の壇上には祭壇のようなものがあり、その上に水の入った大きな器が置いてある。
既に前の席には序列上位の貴族たちが着席している。
余りに巨大な舞台にブランは茫然と見下ろした。
「ボナパルト侯爵家の方々ですね。席へご案内いたします」
話しかけてきたのは紫袴に白紋の神官だった。細い身体に白い髭、皺だらけの手にはいくつもの古傷が見て取れ、人生で多くの困難を乗り越えてきたのだろうと予測できる。
バルドロイはその男性を見て深々とお辞儀をした。
「これは、クルーガー卿。あなた様に案内していただけるとは光栄ですな」
「ほっほっほ。儀式の間に立ち入ることができる神官も少ないものでしてね。とはいえ、高貴な方々やクロユリ戦争の英雄とこうして顔を合わせられるのですから役得です」
ブランはバルドロイが敬意を表していると知り小さくお辞儀をした。
(……紫袴の中では上位の神官だ。大宮司様の次に偉いのかな)
クルーガーと呼ばれたこの男。ブランを連れたバルドロイにも至極丁寧な対応だが、身分が下なのではない。この袴を着用できているということは少なくとも一級、もしくは上一級と場合によっては公爵の地位を賜るほど実力が有る者を表す。
バルドロイが敬意を表したのも、それが分かっているからだ。
「お二人は東側、三列目の席をご使用ください」
「ご案内感謝いたします」
「また時間があればゆっくりお話ししたいですね。ご子息もぜひ一緒に」
クルーガー卿はブランにも優しく笑いかけた。
ブランも笑顔で「はい」と頷く。
(よかった。クルーガー卿は他の馬鹿な貴族たちとは違って優しい方だ)
彼は二人が着席したのを見届けると次の貴族を迎えに扉まで戻っていった。
二人は待つ間あたりを見渡した。
既に序列上位の者たちは前方から順に着席しており、儀式が始まるのを静かに待っている。
最初に案内された公女は北側の最前列に腰かけており、椅子に凭れることなく背筋を伸ばして凛としていた。
(綺麗な人だな……。同い年とは思えないほど大人びてる)
ブランが赤髪の公女を見つめていると、それに気づいたバルドロイが小さく笑った。
「俺は身分違いの恋だと笑わないぞ」
「え!?」
ブランが勢いをつけてバルドロイを見る。
「な、な、なんでそうなるんですか?」
「隠さなくともいいんだぞ。確かにあの子は美しいもんなぁ。見惚れるのもわかるよ」
「ちがっ!いや違わないけど、ちがいます!」
ブランは顔を真っ赤にして首を振った。
ニヤニヤを口元を緩めるバルドロイの腕をポコポコと叩く。
「僕が見ていたのは公女様の姿勢です!貴族の振舞い方を学んでいたんですよ」
「んん?そうであったか」
バルドロイの笑みが消えることはなく、ブランは頬を膨れさせた。
そんな会話をしているうちに後方には続々と参列者が入場していた。最後の貴族が入場したのを確認して神官が扉を閉める。扉はまた何か知らの魔法によって封鎖されたようで神官以外が開くことはできないだろう。
「そろそろだな」
「お父様、洗礼の儀というのはどうやって行われるんですか?」
ブランの問いかけにバルドロイはそっと舞台中央を指さした。
「あそこに水が入った器があるだろう?」
「はい」
「あれの中身は聖水でな。神官たちが毎晩祈りを捧げて清めた水だ。聖水自体は神宮では珍しいものじゃないが、儀式に必要なのはあの器」
バルドロイが指した器は透明でクリスタルのようだった。
「あれは魔力石といって魔力に応じて色を変える特性を持つものだ。巨大な石を器として加工して、ああやって魔力測定の儀に使用しているんだ」
「あの器に触れて魔力を測るんですか?」
「聖水に手を入れて魔力を注ぐんだ。聖水に手を浸しながら魔力を放出することで訓練前の不安定な子供でも正確に測定できるんだよ」
ブランは「なるほど」と頷いた。
「ちなみに階級の色は?」
「六級が最下級に分類され、一級が測定できる最上級とされている。下から順に、六級が黄色、五級が緑、四級が青、三級が紫、二級が赤、一級が白だ」
「特級の方々の色は何色なんですか?」
「ふむ。そうか、そこの認識からだな」
「?」
バルドロイはブランが分かりやすいよう言葉を選びながら口を開いた。
「特級という位は承認されないと就けない階級なんだ。一級の中でも卓越したスキルを持っている者を特級が次期特級として育て、任命する。詳しいことは知らないが皇帝や特級がその者を特級と認めることで魔力が倍増するんだ。そうして特級は代々受け継がれる」
ブランは「へぇ」と驚いて目を見開いた。
「じゃあ現在特級の方々も、先代の特級の方々に弟子入りして、任命されたの?」
「そういうことになるな」
「特級の方々も子供のころはこうして、今の僕みたいに洗礼を心待ちにしていたのかな……」
「そうかもしれないね」
ブランはワクワクと高鳴る鼓動を両手で感じた。
あの器に触れて、光る色は何色だろうか。ガッカリするだろうか、嬉しいだろうか。
ブランは緊張に少しだけ吐き気を覚えながらも期待していた。
「特級の方々も昔は一級だったんでしょう?じゃあ今測定したら白く光るんですか?どうやって区別を?」
ブランの問いにバルドロイは首を横に振った。
「いや、特級に任命されたその時から一級の格を超える。特級になった後に測定すると彼らの魔力に耐えきれない石は黒く変色するんだ」
「黒く、変色する?」
「そうだ。その石はもう二度と透明に戻ることはなく、魔力石としての能力もなくなる。高価な代物だから特級の方々はあまり魔力測定をしないね。意味がないし」
「高価な石を無駄にするだけってことですもんね」
「でも噂ではその黒く変色してしまった石は高値で取引されるらしい」
ブランは首を傾げた。
「なぜですか?もう使えないんですよね」
「魔力測定としては使えないらしいんだが、特級の方々が触れたものだから、普通の魔力石よりも希少価値が高いんじゃないかってことになってね。まぁ一種のコレクションみたいな感じなのかもしれんな」
「へぇ……」
ブランにはコレクションという概念が無かったため、その心情を理解することができなかった。
ただ、確かに特級が魔力を込めた石には何かがあってもおかしくないな、と薄っすら脳裏をよぎった。
ブランがある程度納得した頃、神官が壇上に上がった。先ほど席まで案内してくれたクルーガー卿だった。
聖水と器の前に立ち、周囲の人へ一度お辞儀をすると話し出す。
「皆さま、本日は良き日に冬の洗礼式を迎えられたことを心よりお祝い申し上げます。この日より成人を迎えられますご子息ご令嬢が、立派な紳士淑女となり、貴族として帝国に尽くしてくださることを切にお祈りいたします」
クルーガー卿の言葉に保護者は皆静かに頷いている。
「また、今回の冬の洗礼式では儀式の後、大宮司である氷雨様より御祝いのお言葉を賜る予定です」
クルーガー卿の言葉に会場の貴族が騒がしくなった。すぐに収まるが、みな喜んでいるようだ。
それはブランも同じである。
「お父様、氷雨様に会えるんだって!」
「……驚いたな、滅多に人前に現れないことで有名だが」
「討伐任務の時にしか現れないんでしょう?パーティーにもいなかったですし」
「あぁ……」
洗礼式に現れることは異例らしい。
(氷雨様、一体どんな人なんだろう……!)
ブランは先ほどとは違った意味で高鳴る鼓動に思わず笑みをこぼした。
ある程度貴族たちが冷静になってきたことを確認するとクルーガー卿が口を開く。
「さて、それでは洗礼の儀を執り行います。序列上位の方から御呼びいたします。名前を呼ばれたご子息、ご令嬢の方々は壇上に上がり、神官の指示に従って魔力測定を行ってください」
その言葉に数名の紫袴の神官が壇上に上がった。
タオルや記録表、名簿をそれぞれ持っている。
紫紋の神官が呼ぶ。
「序列1位、楊大公爵宗家のご令嬢、楊紅花様。壇上へお上がりください」
「……はい」
小さく震えた声がした。
楊紅花だ。彼女は公女でありながらまるで自信がないように視線を下に落としたまま壇上に上がった。
ブランはその姿がかつて屋敷で暮らしていた自分にそっくりだと思った。
(……怯えている?)
「それでは楊紅花様。聖水に手を沈め、ゆっくりと魔力を注いでください」
「……はい」
ブランは離れていても彼女の手が震えているのが見えた。
それは目の前にいるクルーガー卿ならばもっとはっきり見えただろう。
楊紅花は両手を静かに水に沈め、何度か深呼吸を繰り返して魔力を注ぎ込んだ。
やがて聖水が揺れ、器が光を持ち始める。
周りの貴族たちはヒソヒソと不躾にも陰口を叩いていた。
光が色を持ち始める。
「楊紅花様の階級は——」
「……ッは」
クルーガー卿が判定すると同時に、彼女の口からは嘲笑の吐息が漏れた。
「紫、“三級”です」
(三級か……。お父様が上二級だって言ってたから、僕と同い年なのに軍士官ぐらいの魔力量があるのか、すごいなぁ)
ブランはその美しい紫色を見て純粋に凄い、と感じた。
それと同時に喉が渇くほど興奮しているようだ。
バルドロイは少し眉を下げて心配そうに彼女を見ている。
「お父様?」
「どうしてそんな表情を」と聞く前に周囲の貴族が口々に言いあった。
「三級ですって!見まして?紫色ですわ」
「楊宗家で三級はないだろう……」
「やはり滄波様の実の子ではないのよ」
「楊宗家の方々は皆、一級だと聞くわ。悪くても二級だって話よ?」
「う~~ん、やはり養子という説が一番濃厚ではないだろうか」
ブランは耳を疑った。
(どうして、あの子は避難されるんだろう。三級もあれば伯爵の位を授与されるくらいすごいのに)
バルドロイが表情を曇らせていた理由はこれだった。
楊宗家を名乗る上で三級という魔力階級は“弱すぎる”。帝国で最も序列の高い楊滄波の血を引くのならば、その程度では認めてもらえないのだ。
神官から促されて席に戻る少女はひどく震えていた。
(可哀そうに……)
少女が着席した後も貴族たちは言いたい放題だったが、誰かが咳ばらいをしたことでその声は少しだけ弱くなった。
その間に神官が次の名前を読み上げる。
序列順で呼ばれていくため、最初の方は二級の赤色が多かった。しかし序列が下がってくるにつれ、紫、青と色も変わってくる。
ブランの番にまでなるとなかなか三級も珍しくなってきた。
「続いて、序列26位。ブラン・ボナパルト侯爵子息」
「はい」
ブランは震える足を一度叩いて立ち上がった。
階段を下りて中央の舞台へと歩く。
舞台では先ほど案内してくれたクルーガー卿が微笑んで待っていてくれている。
「侯爵子息殿、落ち着いて。ゆっくりと聖水に手を沈めてください」
「は、はい」
「できる限り穏やかに魔力を注いでください。しかし自分の出せるところまで一気に」
ブランは頷いて手を聖水に着けた。
クルーガー卿は笑みを絶やさない。異色のブランにとってはそれだけでありがたいことだった。
ブランが手のひらから魔力を注ぎ始めると水面が揺れ始めた。やがて沸騰しているかのような小さな泡がふつふつと沸き上がり、こぷこぷと音を鳴らせる。
やがて魔法石が薄っすらと輝き始めた。
最初は黄色、そして緑、やがて青に変わり、そこから紫へと色が濃くなっていく。
(紫!)
ブランはまだ魔力を注ぎ切っていないが色は既に三級を示していた。
(このまま限界まで魔力を注いだらどうなるんだろう)
ブランは嬉しくなって注ぐ魔力の量を増やした。
「おぉ……これは」
真正面で見ていたクルーガー卿が目を見張る。
ブランの手が触れている魔法石は、赤い色を示し始めた。緊張と喜びとでブランの手に力が入る。その時、魔法石は真っ白に輝いた。
「白!」
「……一級?」
「そんなまさか。……何かの間違いでは?」
先ほどまでブランを奴隷だと見下していた貴族たちが顔色を変えた。
ブランは早くこの喜びを父親に伝えたくて手を放そうとした。
その時——、
「よかったよ、君が見つかって」
「?」
クルーガー卿は嬉しそうに笑った。
ブランが何のことかと首をかしげる前に、クルーガー卿の口から黒い液体が零れ始めた。
「ク、クルーガー卿?」
手から聖水がしたたり落ち大理石の床を濡らした。まだ神官の異変に気付いているのはブランだけだ。
頭の中で声が響く。
——腐っている。コイツもアイツも、全員。
「よ”がったァ″~!!」
クルーガー卿が叫ぶ。
ブランは突如クルーガー卿から放たれた悪臭に後ずさった。
クルーガー卿はゴポゴポと喉から音を出しながら黒い液体を吐いている。まるでタールのように粘り気を持っていて、まるで火事のような何かが焼ける匂いがする。
クルーガー卿の体がボキボキと音を鳴らして変形し始める。
さすがにその匂いと異変に周囲が気づき始めた。
「ブラン!」
遠くの席からバルドロイが呼ぶ。
ブランは父親を視界に捉えると走り出そうとした。
何が起こっているのか分からないが、とにかく変だ。
(お父様のところにいかなきゃ……!)
しかし、ブランの足は動かなかった。舞台の階段を降りることができない。
背後ではクルーガー卿の体が二つに裂けようとしていた。口から黒い何かがあふれ出し、口の端からぎちぎちと裂けて出てくる。
ブランは自分の足元を見た。
黒い液体がブランの足首にまとわりついている。それはまるで亡者の手のようだった。
「お、お父様!」
「今行く!!」
ブランが悲鳴を上げると、バルドロイは床を蹴って走り出した。
クルーガー卿の体が原型を留めなくなった時、“ソレ”は姿を現した。
ぐちゃぐちゃでもうどこが何だったかもわからない。肉片が大理石を転がる。
黒い影が床に足を着けてゆっくりと立ち上がった。
「ヒッ」
誰が叫んだか。わからないが、一人の悲鳴によって参列者たちは逃げまどい始めた。
「キャアアアアアア!」
「な、なんだアレはァ!」
——ぐちゃ
それと同時にその中から同じように黒い液体を吐いて体を裂け始める者がいる。
会場のいたるところで黒い液体が噴出した。
「キャアアアア!あ、あなた!!」
参列者からも黒い液体が吹き出し、身体がボコボコと粟立つ。
悲鳴が大きくなる。
会場内は参列者が我さきに避難しようと出口まで押し合っている。
バルドロイもその人並みにのまれてしまった。
扉は開かない。儀式中は外部からの侵入を防ぐために結界が張られていたのだ。
ブランは目の前の黒い影から目が離せなった。
“ソレ”は2メートルはあろうかという男だった。
黒い液体がゆっくりと床に滑り落ち、男の雪のような肌が見え始める。
真っ黒な影だったものから、姿がはっきりしてきた。
ブランは自分の足に絡みついているのも忘れてその男を見た。
「だ、だれ……?」
「ンン?……あァ、おはよう」
男が一歩、また一歩と進むごとに液体は綺麗に落ちていく。
男は水色の鮮やかな髪色をしていた。それは海の波のように緩やかで長く、ブランを見つめるその目は雷のような黄金色をしていた。
脳内で声が叫ぶ。
——獣!獣だ!極上の獣!
「成人おめでとう、おやすみ」
男は優しい笑みを浮かべながらブランに近づくといつの間にか手にしていた剣をブランに振り下ろした。まるでお辞儀をするように流れるような動作で、ブランは瞬きすらできなかった。
「は」
息をのむ。ブランは剣に反射する光を見ていた。
「うおぉぉぉ!」
怒鳴る声、ブランの肩を抱き寄せる衝撃。
剣はブランの頸に届く前に弾かれた。
「俺の息子に触るなァ!」
「……お、とうさま」
ブランの目の前にはバルドロイの背中がある。
この会場は武器の持ち込みが禁止されているため、バルドロイは素手だった。
(じゃあ何で弾き返したの……?)
ブランは声をかけようとしたが、顔に温い液体が掛かったことで言葉をのんだ。
顔を拭う。手にはべったりと真っ赤な血が付いていた。
「お父様?」
「……ハァ、ハァ」
ブランは上下するバルドロイの肩を見る。
視線をゆっくり下におろしていき、喉がひきつった。
「お父様ァ!!」
バルドロイの左肘から先が見当たらないのだ。
彼は息子に降りかかる剣を、自分の腕で弾き返した。少し離れた場所には結婚指輪の嵌まった腕が落ちている。
「どうしよう、ど、どうしよう!だ、誰かァ!お父様の腕を!!怪我が!」
ブランは叫んだ。しかし周囲を見渡してみると、出入り口で人々が詰まっていて騒ぎになっている。声は届いていないだろう。それに、この目の前の男だけでなく、会場内にも複数人、黒い液体から出てきた“ナニか”がいるようだった。
「ブラン、落ち着いて。まずは逃げることに専念しなさい」
「でもお父様のけがを止血しないと……!」
剣を振るった男は刃こぼれを気にしているようだった。
念入りに見て、指で撫でてから満足そうに頷く。
「良かった。急なことで驚いたけど、綺麗に斬れたみたい」
「……そうかい。ところでお前は何者だ?挨拶もできねぇなんて紳士の風上にも置けないな」
「おや、それは失礼」
水色の髪の男はまるでここがボールルームかのように優雅にお辞儀をしてみせた。
「初めまして、私はイヴァン。さようなら」
“イヴァン”と名乗った男は顔を上げると同時に剣を突き出した。
それは容赦なくバルドロイの脇腹に突き刺さる。
バルドロイは刃を掴んで急所をそらしたようだったが、安心できるものではなかった。
「ぐぅ!」
「お父様ァ!」
バルドロイが手を銃のように構えると、魔力を貯めて放った。
「“バレット”!」
——ドンッ!ドンドンッ!
小石ほどの火球がイヴァンへ向かって飛んでいく。
何発か連続で撃つと、イヴァンは剣を抜いて数歩下がった。
至近距離で撃ったにもかかわらず一発も掠めていない。
バルドロイはそれだけでイヴァンが自分より格上であることを察した。
「ブランッ!逃げなさい!」
「でもお父様、一緒に!」
「いいから行きなさい!!」
バルドロイの怒鳴り声にブランの足がすくむ。
ブランは悩むほど足が動かない。
イヴァンが剣を握りなおす。すると銀色の刃は電気を纏い始めた。バチバチと空気を弾く青い光。
(いや、あれは……雷?)
雷魔法は双子から散々受けてきたが、目の前のソレはまるで別物。圧倒的に精度が高いことが素人の目にも分かる。
かなり圧縮された魔力で近くの空気が張り詰めたようになるのだ。間違いなく、あの雷が落ちればこの会場もただでは済まない。
茫然と魅入るブランに向けて、その剣は振り下ろされた。
「ブラン!!」
「あっ」
バルドロイがブランを抱きしめて転がる。間一髪で避けた斬撃は、そのまま会場を一刀両断にした。まるで雷が地面を走ったような焼け焦げた匂い、深く割れた大理石。
ブランが周囲を見渡すと、今の一撃で出口付近に集まっていた参列者が数名死んだようだった。
(嘘。こんなにあっけなく人間って死ぬの?)
母親の腕を握りしめて泣く子供、血まみれの夫を見て叫ぶ妻、切り裂かれた子供を抱きしめて名前を呼ぶ親。
小さな地獄がそこにはあった。
——旨そうだなァ、いいなァ。
「ブラン!すぐに神官が来る!それまで生き延びるんだ!」
「と、お父様」
「私の後ろに隠れて、あまり離れるな……!周囲の黒い者たちは“ジン”だ!」
ジン。
古い言葉で悪霊を意味する言葉。魔力制御が効かず、暴走して人の形を留めなくなった貴族の成れの果て。
その場には4体のジンが闊歩していた。
(あれが、ジン……!)
周囲の貴族たちも、魔法を用いて応戦しているようだ。
弱い者は後ろへさがり、上流階級の貴族たちがなんとかジンを抑えている。
しかし、これだけ子供がいる場で、統率の取れない烏合の衆では3分が限界だろう。
「俺は大帝国陸軍准将、バルドロイ・シリウス・ボナパルト!帝国に仇なす者を放ってはおけぬ!」
バルドロイが叫ぶ。練り上げられた魔力が無数の弾丸となって現れた。
上空に広がる夥しい数の弾丸はイヴァン、それから会場に散らばるジンへと向いている。
「お父様の、固有スキル……!」
「“バレット・パレード”!!」
弾丸の数は1万をゆうに超える。それぞれが炎を纏って降り注いだ。あたり一面に煙がまかれる。
貴族達もその圧倒的な光景に思わず息を飲んだ。
「これが、かの“クロユリ戦争の英雄”……!」
「陸軍准将だ!ありがたい!」
「よし、殆どのジンが致命傷だ!このまま各個撃破するぞ!」
「結界師は子供たちを守れ!戦えない者は扉を開けることに専念するんだ!」
「なんとか持ちこたえろ!」
煙が晴れた時、弾丸の雨に打たれて殆どのジンが瀕死になった。
しかし、それはバルドロイも同じだ。彼のスキルは魔力を大量に消費する。こんな狭い場所で1万以上の弾丸を参列者に当てぬよう細かな調整をした。それだけでバルドロイの全魔力を溶かすには十分であった。
「お父様っ!」
「ぜぇ!っはぁ、はぁ!」
「どうしよう、血が止まらない……!お父様、どうにか頑張って!」
やがて中央の最も多く弾丸が降り注いだ場所、祭壇の煙が晴れた。
イヴァンは相も変わらずほほ笑んでいる。
「……チクショウ!不死身か何かなのか!?」
もう一度スキルを使うことは無理だ。
あるだけの魔力を使って弾丸を降らせた。相手の服には埃一つ付いていない。これが実力の差だ。
バルドロイは奥歯を噛みしめた。
「(こいつが何者か知らんが、“特級”に相当する実力者だ……!)」
イヴァンはまるで死に掛けの虫を見るようにブランとバルドロイを見下ろした。片手に持った剣で手遊びをしながらゆっくりと近づく。
「もう終わりなのか? “戦争の英雄”。お前はもっと強いのかと思っていたよ。“あの”バルカ王族を皆殺しにしたと聞いたからな」
「お、お父様に近づくな!」
「ブラン!やめなさい!」
ブランが前に飛び出す。
その小さな体、黒い肌、青い瞳にイヴァンはますます笑みを濃くする。
「哀れな少年。お前の国を滅ぼした男を父と慕っているのか?お前の本当の家族を殺したのはこの男、この帝国だぞ」
「違う……!僕の家族はお父様だけだ!僕を本当に家族にしてくれたのは、バルドロイ・シリウス・ボナパルト侯爵だけだ!」
「ブラン!いいから逃げなさい!」
「……。少年、それは妄想だよ」
イヴァンの黄金の瞳がゆっくり細められる。もう笑みは浮かべていなかった。
右手に掲げられた剣。雷を纏い、あたり一面に電気が迸った。
「(先ほどよりもずっと大きい……!ブランを逃がさなくては!)」
「お前は私と同じ痛みを知っているはずだ」
剣が振り下ろされると同時に、落雷の音が響いた。耳を劈き骨を震わす轟音。身体のあちこちに鋭い痛みが走る。
ブランは思わず耳を塞いで縮こまった。自分に覆いかぶさるように、バルドロイの匂いがする。
爆風が過ぎ去った後、ブランは激痛に震えながらゆっくりと目を開いた。
「お、父様……?」
ごぽっ。
ブランの顔に血が滴った。バルドロイの血だ。
まるでガラスのプールに飛び込んだかのように、体中に迸る裂傷。夥しい血がブランの回りに広がった。
「……ブラン、に……げろっ!」
「ぁぁあああ!!お父様!」
その攻撃はバルドロイだけでなく、参列者にも届いていた。
多くの親がバルドロイと同じように子供を庇い、死んでいる。
轟音で籠っていた鼓膜が、ゆっくりと音を拾い始めたとき、あたり一面から子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。
親を呼び、助けを呼び、痛いと叫んでいる。
(……こわい)
その叫び声はやがて助けを求めるようになった。
「誰か助けて!」
「英雄様!」
「氷雨様!助けて!痛いよ」
「英雄様!氷雨様!」
ブランの脳裏に氷雨の新聞記事が浮かんだ。帝国の危機に現れる英雄。80億人の国民が称えるヒーロー。
ブランの腕の中でズシリと重くなるバルドロイの温度に、ブランは泣き叫んで助けを乞う。
「誰か!誰かお父様を助けて!誰かぁ!」
スッ、と白い手がブランへ向けられる。
いつのまにか、イヴァンはブランに手を差し伸べていた。
「私とおいで。こんな地獄を捨てて私と行こう」
「な、にを言って……」
「君と私は同じ痛みを知っているはずだ。理解しあえる。だが、大帝国の人間には不可能だ。奪った側の人間だろう?」
ブランはイヴァンが何を言っているのかわからなかった。先ほどまでの殺意は本物だった。しかし今、目の前で優しく手を差し伸べている目も本物だ。
(奪った?理解しあえる?――今、僕のお父様は死にかけているのに!こいつのせいで!!)
パシッ。
ブランは思い切りイヴァンの手を振り払った。ボロボロと涙がこぼれてくる。
悔しい、憎い、恐ろしい。
「僕はお父様の息子だ!お父様を傷つけておいて、お前なんかに付いていくわけないだろう!僕は奴隷じゃないんだ!」
ブランがバルドロイの身体を抱きしめる。もう虫の息だ。
おそらくもう指一本動かすのも自由にできない。
イヴァンは悲し気に目を閉じると払われた手で剣を握りなおした。
ざく。
何の躊躇もなくブランの足に剣が突き立てられる。
魔法は纏っていない。ただただ、剣がブランの細い足を貫いた。
「あぁああッ!」
「愚かな……。ここまで洗脳されているとは、大帝国は恐ろしいものだ」
(痛い、怖い!お父様、死なないで!怖い!助けて!助けて!!)
剣が抜かれ、振り上げられる。
「ここで死ね、呪われた子よ」
「あぁあ!助けて!氷雨様!!」
轟音と共に剣が振り下ろされる。ブランが死を覚悟した時、剣と剣がぶつかる音を聞いた。
ブランとイヴァンの間に、成不が立っている。
手には細く白い刀を持ち、イヴァンの剣をまるで花を持つかのように容易く受け止めている。いつもの瓶底メガネはつけていなかった。
ブランは眠れない夜を過ごしたが気分はすっきりしていた。今日の緊張のせいなのか、それとも六日間も眠っていたからなのか。
バルドロイよりも先にベッドを抜けてブランは顔を洗った。
さっぱりした頃、アルフレッドが扉をノックした。
「旦那様、坊ちゃん。おはようございます。朝のご準備に参りました」
アルフレッドの声でバルドロイが覚醒し始める。
ブランは洗面所から出て扉を開けた。
「おはようございます、アルフレッドさん」
「おや、坊ちゃん。お早いですね。お身体はもう大丈夫ですか?」
「はい!たっぷり眠ったので元気いっぱいです」
「それは良かった」
ブランはアルフレッドと共にベッドまで行くとバルドロイを起こした。
「お父様、起きて!朝ですよ!」
「うぅ~ん……そぅ、か」
「お~き~て~!」
「う~ん」と言いながらバルドロイはブランに手を引かれて起きた。
「おはようございます!」
「おはようございます、旦那様」
「うむ……おはよう、ブラン、アル」
アルフレッドに続いてメイドたちが数人入ってくる。
軽食と早朝のお茶を運んできたようだ。
ブランは部屋に広がった紅茶の香りに鼻をひくつかせた。
「今日はダージリンですね」
「流石です」
ブランがまだ使用人たちと寝起きを共にしていたころ、茶葉の匂いを覚えたことがある。アルフレッドは貴族の教養の一つだからと良く飲ませてくれた。
「さて。本日は坊ちゃんの洗礼式ですからね。軽食を召しあがった後はすぐに身支度に取り掛かりますよ」
そういうとテーブルにバルドロイとブランを移動させて軽食を差し出した。
今朝はワッフルとバタービスケット、ベーコンと目玉焼きだ。
「美味しそうです……!」
「存分に召し上がってください。本日はゆっくり朝食を召し上がる時間がありませんから今の内にお腹を膨らませてくださいね」
どうやら洗礼式は長時間行われるようで朝早くから割り当てられた神宮へ向かわなければいけないらしい。
中央神宮には帝都に住まう貴族の子息・令嬢が数百と集まる。その一人ひとりが祭壇に上がって魔力量・属性を測定する儀式があり、それが一番長いのだ。
その間、不正がないよう神宮の出入り口は封鎖される。
「緊張するな……」
「大丈夫だ、ブラン。みんな同じだから」
バルドロイは食べながらようやく起きたようだった。
軽食を食べ終え、ブランとバルドロイは着替えた。
バルドロイは相変わらず軍服に似た赤いジャケットを着ている。腰に拳銃を差し白いコートを羽織っている。
ブランはシャツ、ズボン、ケープまですべて真っ白な服を着た。良く見ればシャツの襟やケーブの端にボナパルト家の紋章が刺繍されている。
「さて。出発だ」
「はい」
バルドロイが差し出した手を取り、ブランは馬車に乗った。
中央神宮へは馬車で1時間かかる。今日は洗礼式を迎える15歳の貴族たちが集まるため、道も混んでいた。
ようやく神宮に到着するとブランはその大きさに言葉を失った。
「すごい……」
「神宮。名の通り“神の宮殿”に相応しい荘厳さだろう?」
10mはあろうかという外壁に囲まれ、正門をくぐった先に見えてきたのは巨大な城だった。おそらく地上にある帝国のどの建物よりも広いに違いない。
天皇宮との違いと言えば、城の形式が違うことだ。天皇宮は広大な敷地に高い塔が連なるような巨大な城だったが、神宮は高いところで三階建て、四方に大きく広がっているのだ。
「奥が見えないです……」
「私たちが入れるのは手前の広場と真ん中の儀式の間だけだ。奥の区画には神宮に仕える神官たちの住居があり、さらにその奥には中央神宮の長である大宮司氷雨様の屋敷がある。中央神宮だけで一つの町ほどあるんだ」
「そんなに……!」
ブランが巨大な宮に口を開けて呆けていると、横から嫌な笑い声が聞こえてきた。
「お母様、見てください。あの奴隷のだらしない顔」
「あらルビーちゃん、そんなもの見ちゃいけませんわ。気味が悪い」
「どうやら、この神聖な場所が奴隷には不相応だって気づいたみたいですよ」
「全く、頭の弱い子ですわ。どれだけ身なりを良くしようと、立ち振る舞い、顔立ちから卑しさが滲み出ていますねぇ。やはり生まれつき帝国貴族である我々とでは比べ物になりませんわ」
聞こえてきた声にバルドロイとブランは眉間に皺を寄せた。
その方向に視線を向けてみると、やはり腹立たしい顔をした少年と夫人がいる。
パーティー会場での違いはその横にジュエルペット侯爵がいたことだろう。
(なるほど……。待合室でお父様に食って掛かってきたジュエルペット侯爵とあの夫人、子供は親子なんだな)
——どうりでいけ好かない。
ブランは小さくため息をついて興味もなさそうに目を逸らした。
バルドロイも怒りのあまりブランの手を強く握りしめたが睨みつけるだけで言葉にはしなかった。
おそらく神殿で騒ぎを起こすのはバルドロイの思うところではないのだろう。
集まった貴族たちは浅葱色の袴を着た神官たちに案内され広場に集まった。
浅葱色の神官たちから紫色の袴を着た神官へと案内が引き継がれた。
「皆さま、本日の洗礼式にお集まりいただきありがとうございます。これより、序列順に儀式の間へとご案内させていただきます」
紫袴の神官は名簿を拡げて読み上げ始めた。
「序列1位、楊大公爵宗家のご令嬢、楊紅花様。お連れ様とご入場ください」
その名前を聞いた時、広場に集まった貴族たちは騒めいた。
「今楊家と仰いました?」
「それも大公爵家宗家ですと……。つまりは滄波の御息女ということではないか?」
「ご息女がいらっしゃったんですか?」
「確かに昔、お生まれになったと聞いたが、今の今まで社交界にいらっしゃらなかったからてっきりお亡くなりになったのかと……」
「しかもお連れの方は宗家の方ではなく分家の方では?」
コツコツと控えめな足音を響かせて扉へ向かったのは、赤い髪を綺麗に切りそろえた美しい少女だった。長い前髪で右目が隠されているが、うつむいた左目はバラのように真っ赤な色をしている。
(あ、あの人と同じ目だ)
ブランはパーティーで出会った楊皓月を思い出した。彼も真っ赤な瞳をしていた。彼女の顔の角度から周囲の者に瞳の色は見えないのだろう。
ブランは彼女の付近に知っている顔がないか確認した。しかし彼女に付き添っているのは会場では見かけなかった侍女のような冴えない人だった。
「みて。あの方が公女様のようよ」
「……鮮やかな髪色ね。楊家のご子息たちは紺色と金髪でなくって?」
「そうだ。滄波様の髪色か、大公爵夫人の金髪を受け継いでいらっしゃるから」
「ではあの赤髪は……?」
群衆はひそひそと話していくうち、彼女を見る目が徐々に剣呑なものに変わっていった。
誰かが言った。
「あの子は滄波様の実子じゃないのでは?」
その言葉をきっかけに騒ぎは大きくなった。もう少女の耳にも届く音量だ。
「しかし現に今、宗家としてお名前を呼ばれていますよ?きっと認知されているのでしょう……」
「でもお披露目会も社交界デビューもなかったじゃありませんか。ご子息方は盛大に行ったというのに」
「それに楊家でご令嬢が生まれたならば盛大に祝われて当然では?あの家系ですよ、女性の方が強い能力です」
「いやしかし、あの美しさは楊家の血を感じますが……」
「楊家の方々は皆美しい顔立ちをされていらっしゃいますからね。分家の誰が親でもそうでしょう」
「きっとそうですよ。それにあの滄波様が父親ならば佇んでいるだけで威厳が溢れるものですわ。公女様は名前を呼ばれるまで注目を集めていらっしゃらなかったじゃない」
「その程度の美しさということですの?」
「……つまり、彼女は楊家の分家から召し上げられたと?」
周囲の声に彼女は一瞬唇を嚙みしめたが、何も言い返すこともなく静かに儀式の間へと入っていった。
(可哀そうに。言い返しも睨みつけることもしない。優しい人なんだな……)
ゴシップに目がない貴族たちはその場で暫く騒めいた。
それから十数組の貴族が入場した後、ブランとバルドロイの順番が回ってきた。
位の高い順から入場するため、これ以降はボナパルト家よりも序列が低い者たちしかいない。しかしバルドロイと共にいるブランを見て鼻で嘲笑う者たちが殆どだ。
公女が去ってから話題に飽きた貴族たちはブランへと標的を変えた。
「序列26位ボナパルト侯爵家ご子息、ブラン・ボナパルト様、お連れ様とご入場ください」
名簿を見た紫袴の神官は言葉遣いは他と変えずとも、その目は道端に落ちている蝉の死骸を見るようなものだった。
「ほらみて、あの子。パーティーの日いつの間にか消えていたわよねぇ」
「そりゃ、皇宮はあんなモノがいていい場所じゃありませんから」
「でも来儀様と一緒にいるところを見たわ。どんな関係かしら……」
「見世物として物珍しかったんだろう」
「そのあと、滄波様が気分を悪くされて帰ったって」
「楊家の反感を買ったんじゃない?当り前よ」
バルドロイはわざと聞こえるように話す貴族を睨みつけてブランの手を握った。
「お父様……」
「気にするな。所詮口元を隠してしか言葉を発せないような弱者どもだ」
バルドロイの言葉に何人かが怒りに顔を歪めたが、バルドロイは気にせず歩いた。
ブランも意識を切り替える。
(そうだ。——僕が堂々としていなくちゃ、お父様がバカにされる)
ブランは一呼吸置くとたちまち貴族の表情をした。
水色の目は鋭さを含んでいて隙のない表情、自然な体運びで胸を張って歩く。
脳内で声がする。
——臭い。不味そう。要らない。
(……神官のこと?)
——是。アレは駄目だァ。神聖力も濁って腐っている。脆い、弱い、不味い。
(そんなこともわかるの?)
——アレだけじゃない。他にも腐った匂いがする。
声がブランの視界を操って周囲を見させる。
ブランが見た人々は面識のない者たちばかりだった。
(……あの人たちが何?)
——腐ってる。
皇宮で見た気もするが、関わった覚えはない。向こうもブランに対して何かをしようとしているようには見えなかった。
数人を見比べているとブランはある“共通点”に気が付く。
声が示した貴族には首元や手首と言った服で見えにくい場所に模様があるのだ。稲妻のような割れた線。
(みんな、同じ模様の入れ墨が……)
——アレはもう駄目だな。
声はひどく残念そうですぐに興味を失ったようだ。ブランも貴族たちの観察をやめ儀式の間へ向かって歩く。
神官とすれ違う際、ブランは横目に見ながら小さく「ハ」と笑った。
(この人、声が喰う価値もないって言ってる。僕を馬鹿にしてるけど、それだけの人間)
「!」
神官はブランの背後に何を見たのか、ゾッと背筋を凍らせて息をのんで固まった。
バルドロイがそれに気づいた様子はない。
ブランとバルドロイはそのまま足を進め儀式をする間へ進む。
何本もの石柱が立ち並び、奥に行くにつれ太く大きくなっていく。やがて階段を下り大きな扉の前に立った。
「ここが洗礼の間だよ」
「……大きい」
この神宮は外からみると高さがないが、中に入ってみれば底が深いことが分かる。巨人用と言われたほうが納得するほど大きな扉。その前には紫袴の神官が立っている。先ほど広場にいた神官と違うところと言えば、見えにくいが袴に紫紋が入っていることだ。
「お父様、袴に紋が入ると位が上がるんですか?」
「あぁ、良く気付いたな。紫袴は3種類。位が低い者から無紋、紫紋、白紋と上がっていく」
「神宮では紫袴に白紋が一番偉いんですか?」
「いいや。白袴に白紋が最も上位だよ。大宮司である氷雨様のみ着用できるんだ」
二人が扉の前に立つと神官たちは深々とお辞儀をした。
先ほどの無紋とは違い、誰に対しても一定の礼儀を重んじているように感じる。
「儀式の間に入場なさる前に、いくつかの注意点を確認していただきます」
「はい」
紫紋の神官たちは穏やかに話した。
「一つ、儀式の間へは武器をお持ち込みできません」
「一つ、儀式の間では魔法を使用してはいけません」
「一つ、儀式の最中は指示が無い限り席を立ってはいけません」
「一つ、この中央神宮において氷雨様の言葉を遮ってはいけません」
バルドロイは事前に武器を馬車に置いてきている。
紫紋の神官はブランやバルドロイが頷くのを見ると扉を開いた。
「それでは、いってらっしゃいませ」
扉は手を添えるだけで自動的に開いたように見えた。
おそらく神官しか知らない魔法がかけられているのだろう。
開かれた扉の先は円を描くように配置された座席、中央に向かって下る階段。
360度囲まれた舞台のようだった。
大理石の壇上には祭壇のようなものがあり、その上に水の入った大きな器が置いてある。
既に前の席には序列上位の貴族たちが着席している。
余りに巨大な舞台にブランは茫然と見下ろした。
「ボナパルト侯爵家の方々ですね。席へご案内いたします」
話しかけてきたのは紫袴に白紋の神官だった。細い身体に白い髭、皺だらけの手にはいくつもの古傷が見て取れ、人生で多くの困難を乗り越えてきたのだろうと予測できる。
バルドロイはその男性を見て深々とお辞儀をした。
「これは、クルーガー卿。あなた様に案内していただけるとは光栄ですな」
「ほっほっほ。儀式の間に立ち入ることができる神官も少ないものでしてね。とはいえ、高貴な方々やクロユリ戦争の英雄とこうして顔を合わせられるのですから役得です」
ブランはバルドロイが敬意を表していると知り小さくお辞儀をした。
(……紫袴の中では上位の神官だ。大宮司様の次に偉いのかな)
クルーガーと呼ばれたこの男。ブランを連れたバルドロイにも至極丁寧な対応だが、身分が下なのではない。この袴を着用できているということは少なくとも一級、もしくは上一級と場合によっては公爵の地位を賜るほど実力が有る者を表す。
バルドロイが敬意を表したのも、それが分かっているからだ。
「お二人は東側、三列目の席をご使用ください」
「ご案内感謝いたします」
「また時間があればゆっくりお話ししたいですね。ご子息もぜひ一緒に」
クルーガー卿はブランにも優しく笑いかけた。
ブランも笑顔で「はい」と頷く。
(よかった。クルーガー卿は他の馬鹿な貴族たちとは違って優しい方だ)
彼は二人が着席したのを見届けると次の貴族を迎えに扉まで戻っていった。
二人は待つ間あたりを見渡した。
既に序列上位の者たちは前方から順に着席しており、儀式が始まるのを静かに待っている。
最初に案内された公女は北側の最前列に腰かけており、椅子に凭れることなく背筋を伸ばして凛としていた。
(綺麗な人だな……。同い年とは思えないほど大人びてる)
ブランが赤髪の公女を見つめていると、それに気づいたバルドロイが小さく笑った。
「俺は身分違いの恋だと笑わないぞ」
「え!?」
ブランが勢いをつけてバルドロイを見る。
「な、な、なんでそうなるんですか?」
「隠さなくともいいんだぞ。確かにあの子は美しいもんなぁ。見惚れるのもわかるよ」
「ちがっ!いや違わないけど、ちがいます!」
ブランは顔を真っ赤にして首を振った。
ニヤニヤを口元を緩めるバルドロイの腕をポコポコと叩く。
「僕が見ていたのは公女様の姿勢です!貴族の振舞い方を学んでいたんですよ」
「んん?そうであったか」
バルドロイの笑みが消えることはなく、ブランは頬を膨れさせた。
そんな会話をしているうちに後方には続々と参列者が入場していた。最後の貴族が入場したのを確認して神官が扉を閉める。扉はまた何か知らの魔法によって封鎖されたようで神官以外が開くことはできないだろう。
「そろそろだな」
「お父様、洗礼の儀というのはどうやって行われるんですか?」
ブランの問いかけにバルドロイはそっと舞台中央を指さした。
「あそこに水が入った器があるだろう?」
「はい」
「あれの中身は聖水でな。神官たちが毎晩祈りを捧げて清めた水だ。聖水自体は神宮では珍しいものじゃないが、儀式に必要なのはあの器」
バルドロイが指した器は透明でクリスタルのようだった。
「あれは魔力石といって魔力に応じて色を変える特性を持つものだ。巨大な石を器として加工して、ああやって魔力測定の儀に使用しているんだ」
「あの器に触れて魔力を測るんですか?」
「聖水に手を入れて魔力を注ぐんだ。聖水に手を浸しながら魔力を放出することで訓練前の不安定な子供でも正確に測定できるんだよ」
ブランは「なるほど」と頷いた。
「ちなみに階級の色は?」
「六級が最下級に分類され、一級が測定できる最上級とされている。下から順に、六級が黄色、五級が緑、四級が青、三級が紫、二級が赤、一級が白だ」
「特級の方々の色は何色なんですか?」
「ふむ。そうか、そこの認識からだな」
「?」
バルドロイはブランが分かりやすいよう言葉を選びながら口を開いた。
「特級という位は承認されないと就けない階級なんだ。一級の中でも卓越したスキルを持っている者を特級が次期特級として育て、任命する。詳しいことは知らないが皇帝や特級がその者を特級と認めることで魔力が倍増するんだ。そうして特級は代々受け継がれる」
ブランは「へぇ」と驚いて目を見開いた。
「じゃあ現在特級の方々も、先代の特級の方々に弟子入りして、任命されたの?」
「そういうことになるな」
「特級の方々も子供のころはこうして、今の僕みたいに洗礼を心待ちにしていたのかな……」
「そうかもしれないね」
ブランはワクワクと高鳴る鼓動を両手で感じた。
あの器に触れて、光る色は何色だろうか。ガッカリするだろうか、嬉しいだろうか。
ブランは緊張に少しだけ吐き気を覚えながらも期待していた。
「特級の方々も昔は一級だったんでしょう?じゃあ今測定したら白く光るんですか?どうやって区別を?」
ブランの問いにバルドロイは首を横に振った。
「いや、特級に任命されたその時から一級の格を超える。特級になった後に測定すると彼らの魔力に耐えきれない石は黒く変色するんだ」
「黒く、変色する?」
「そうだ。その石はもう二度と透明に戻ることはなく、魔力石としての能力もなくなる。高価な代物だから特級の方々はあまり魔力測定をしないね。意味がないし」
「高価な石を無駄にするだけってことですもんね」
「でも噂ではその黒く変色してしまった石は高値で取引されるらしい」
ブランは首を傾げた。
「なぜですか?もう使えないんですよね」
「魔力測定としては使えないらしいんだが、特級の方々が触れたものだから、普通の魔力石よりも希少価値が高いんじゃないかってことになってね。まぁ一種のコレクションみたいな感じなのかもしれんな」
「へぇ……」
ブランにはコレクションという概念が無かったため、その心情を理解することができなかった。
ただ、確かに特級が魔力を込めた石には何かがあってもおかしくないな、と薄っすら脳裏をよぎった。
ブランがある程度納得した頃、神官が壇上に上がった。先ほど席まで案内してくれたクルーガー卿だった。
聖水と器の前に立ち、周囲の人へ一度お辞儀をすると話し出す。
「皆さま、本日は良き日に冬の洗礼式を迎えられたことを心よりお祝い申し上げます。この日より成人を迎えられますご子息ご令嬢が、立派な紳士淑女となり、貴族として帝国に尽くしてくださることを切にお祈りいたします」
クルーガー卿の言葉に保護者は皆静かに頷いている。
「また、今回の冬の洗礼式では儀式の後、大宮司である氷雨様より御祝いのお言葉を賜る予定です」
クルーガー卿の言葉に会場の貴族が騒がしくなった。すぐに収まるが、みな喜んでいるようだ。
それはブランも同じである。
「お父様、氷雨様に会えるんだって!」
「……驚いたな、滅多に人前に現れないことで有名だが」
「討伐任務の時にしか現れないんでしょう?パーティーにもいなかったですし」
「あぁ……」
洗礼式に現れることは異例らしい。
(氷雨様、一体どんな人なんだろう……!)
ブランは先ほどとは違った意味で高鳴る鼓動に思わず笑みをこぼした。
ある程度貴族たちが冷静になってきたことを確認するとクルーガー卿が口を開く。
「さて、それでは洗礼の儀を執り行います。序列上位の方から御呼びいたします。名前を呼ばれたご子息、ご令嬢の方々は壇上に上がり、神官の指示に従って魔力測定を行ってください」
その言葉に数名の紫袴の神官が壇上に上がった。
タオルや記録表、名簿をそれぞれ持っている。
紫紋の神官が呼ぶ。
「序列1位、楊大公爵宗家のご令嬢、楊紅花様。壇上へお上がりください」
「……はい」
小さく震えた声がした。
楊紅花だ。彼女は公女でありながらまるで自信がないように視線を下に落としたまま壇上に上がった。
ブランはその姿がかつて屋敷で暮らしていた自分にそっくりだと思った。
(……怯えている?)
「それでは楊紅花様。聖水に手を沈め、ゆっくりと魔力を注いでください」
「……はい」
ブランは離れていても彼女の手が震えているのが見えた。
それは目の前にいるクルーガー卿ならばもっとはっきり見えただろう。
楊紅花は両手を静かに水に沈め、何度か深呼吸を繰り返して魔力を注ぎ込んだ。
やがて聖水が揺れ、器が光を持ち始める。
周りの貴族たちはヒソヒソと不躾にも陰口を叩いていた。
光が色を持ち始める。
「楊紅花様の階級は——」
「……ッは」
クルーガー卿が判定すると同時に、彼女の口からは嘲笑の吐息が漏れた。
「紫、“三級”です」
(三級か……。お父様が上二級だって言ってたから、僕と同い年なのに軍士官ぐらいの魔力量があるのか、すごいなぁ)
ブランはその美しい紫色を見て純粋に凄い、と感じた。
それと同時に喉が渇くほど興奮しているようだ。
バルドロイは少し眉を下げて心配そうに彼女を見ている。
「お父様?」
「どうしてそんな表情を」と聞く前に周囲の貴族が口々に言いあった。
「三級ですって!見まして?紫色ですわ」
「楊宗家で三級はないだろう……」
「やはり滄波様の実の子ではないのよ」
「楊宗家の方々は皆、一級だと聞くわ。悪くても二級だって話よ?」
「う~~ん、やはり養子という説が一番濃厚ではないだろうか」
ブランは耳を疑った。
(どうして、あの子は避難されるんだろう。三級もあれば伯爵の位を授与されるくらいすごいのに)
バルドロイが表情を曇らせていた理由はこれだった。
楊宗家を名乗る上で三級という魔力階級は“弱すぎる”。帝国で最も序列の高い楊滄波の血を引くのならば、その程度では認めてもらえないのだ。
神官から促されて席に戻る少女はひどく震えていた。
(可哀そうに……)
少女が着席した後も貴族たちは言いたい放題だったが、誰かが咳ばらいをしたことでその声は少しだけ弱くなった。
その間に神官が次の名前を読み上げる。
序列順で呼ばれていくため、最初の方は二級の赤色が多かった。しかし序列が下がってくるにつれ、紫、青と色も変わってくる。
ブランの番にまでなるとなかなか三級も珍しくなってきた。
「続いて、序列26位。ブラン・ボナパルト侯爵子息」
「はい」
ブランは震える足を一度叩いて立ち上がった。
階段を下りて中央の舞台へと歩く。
舞台では先ほど案内してくれたクルーガー卿が微笑んで待っていてくれている。
「侯爵子息殿、落ち着いて。ゆっくりと聖水に手を沈めてください」
「は、はい」
「できる限り穏やかに魔力を注いでください。しかし自分の出せるところまで一気に」
ブランは頷いて手を聖水に着けた。
クルーガー卿は笑みを絶やさない。異色のブランにとってはそれだけでありがたいことだった。
ブランが手のひらから魔力を注ぎ始めると水面が揺れ始めた。やがて沸騰しているかのような小さな泡がふつふつと沸き上がり、こぷこぷと音を鳴らせる。
やがて魔法石が薄っすらと輝き始めた。
最初は黄色、そして緑、やがて青に変わり、そこから紫へと色が濃くなっていく。
(紫!)
ブランはまだ魔力を注ぎ切っていないが色は既に三級を示していた。
(このまま限界まで魔力を注いだらどうなるんだろう)
ブランは嬉しくなって注ぐ魔力の量を増やした。
「おぉ……これは」
真正面で見ていたクルーガー卿が目を見張る。
ブランの手が触れている魔法石は、赤い色を示し始めた。緊張と喜びとでブランの手に力が入る。その時、魔法石は真っ白に輝いた。
「白!」
「……一級?」
「そんなまさか。……何かの間違いでは?」
先ほどまでブランを奴隷だと見下していた貴族たちが顔色を変えた。
ブランは早くこの喜びを父親に伝えたくて手を放そうとした。
その時——、
「よかったよ、君が見つかって」
「?」
クルーガー卿は嬉しそうに笑った。
ブランが何のことかと首をかしげる前に、クルーガー卿の口から黒い液体が零れ始めた。
「ク、クルーガー卿?」
手から聖水がしたたり落ち大理石の床を濡らした。まだ神官の異変に気付いているのはブランだけだ。
頭の中で声が響く。
——腐っている。コイツもアイツも、全員。
「よ”がったァ″~!!」
クルーガー卿が叫ぶ。
ブランは突如クルーガー卿から放たれた悪臭に後ずさった。
クルーガー卿はゴポゴポと喉から音を出しながら黒い液体を吐いている。まるでタールのように粘り気を持っていて、まるで火事のような何かが焼ける匂いがする。
クルーガー卿の体がボキボキと音を鳴らして変形し始める。
さすがにその匂いと異変に周囲が気づき始めた。
「ブラン!」
遠くの席からバルドロイが呼ぶ。
ブランは父親を視界に捉えると走り出そうとした。
何が起こっているのか分からないが、とにかく変だ。
(お父様のところにいかなきゃ……!)
しかし、ブランの足は動かなかった。舞台の階段を降りることができない。
背後ではクルーガー卿の体が二つに裂けようとしていた。口から黒い何かがあふれ出し、口の端からぎちぎちと裂けて出てくる。
ブランは自分の足元を見た。
黒い液体がブランの足首にまとわりついている。それはまるで亡者の手のようだった。
「お、お父様!」
「今行く!!」
ブランが悲鳴を上げると、バルドロイは床を蹴って走り出した。
クルーガー卿の体が原型を留めなくなった時、“ソレ”は姿を現した。
ぐちゃぐちゃでもうどこが何だったかもわからない。肉片が大理石を転がる。
黒い影が床に足を着けてゆっくりと立ち上がった。
「ヒッ」
誰が叫んだか。わからないが、一人の悲鳴によって参列者たちは逃げまどい始めた。
「キャアアアアアア!」
「な、なんだアレはァ!」
——ぐちゃ
それと同時にその中から同じように黒い液体を吐いて体を裂け始める者がいる。
会場のいたるところで黒い液体が噴出した。
「キャアアアア!あ、あなた!!」
参列者からも黒い液体が吹き出し、身体がボコボコと粟立つ。
悲鳴が大きくなる。
会場内は参列者が我さきに避難しようと出口まで押し合っている。
バルドロイもその人並みにのまれてしまった。
扉は開かない。儀式中は外部からの侵入を防ぐために結界が張られていたのだ。
ブランは目の前の黒い影から目が離せなった。
“ソレ”は2メートルはあろうかという男だった。
黒い液体がゆっくりと床に滑り落ち、男の雪のような肌が見え始める。
真っ黒な影だったものから、姿がはっきりしてきた。
ブランは自分の足に絡みついているのも忘れてその男を見た。
「だ、だれ……?」
「ンン?……あァ、おはよう」
男が一歩、また一歩と進むごとに液体は綺麗に落ちていく。
男は水色の鮮やかな髪色をしていた。それは海の波のように緩やかで長く、ブランを見つめるその目は雷のような黄金色をしていた。
脳内で声が叫ぶ。
——獣!獣だ!極上の獣!
「成人おめでとう、おやすみ」
男は優しい笑みを浮かべながらブランに近づくといつの間にか手にしていた剣をブランに振り下ろした。まるでお辞儀をするように流れるような動作で、ブランは瞬きすらできなかった。
「は」
息をのむ。ブランは剣に反射する光を見ていた。
「うおぉぉぉ!」
怒鳴る声、ブランの肩を抱き寄せる衝撃。
剣はブランの頸に届く前に弾かれた。
「俺の息子に触るなァ!」
「……お、とうさま」
ブランの目の前にはバルドロイの背中がある。
この会場は武器の持ち込みが禁止されているため、バルドロイは素手だった。
(じゃあ何で弾き返したの……?)
ブランは声をかけようとしたが、顔に温い液体が掛かったことで言葉をのんだ。
顔を拭う。手にはべったりと真っ赤な血が付いていた。
「お父様?」
「……ハァ、ハァ」
ブランは上下するバルドロイの肩を見る。
視線をゆっくり下におろしていき、喉がひきつった。
「お父様ァ!!」
バルドロイの左肘から先が見当たらないのだ。
彼は息子に降りかかる剣を、自分の腕で弾き返した。少し離れた場所には結婚指輪の嵌まった腕が落ちている。
「どうしよう、ど、どうしよう!だ、誰かァ!お父様の腕を!!怪我が!」
ブランは叫んだ。しかし周囲を見渡してみると、出入り口で人々が詰まっていて騒ぎになっている。声は届いていないだろう。それに、この目の前の男だけでなく、会場内にも複数人、黒い液体から出てきた“ナニか”がいるようだった。
「ブラン、落ち着いて。まずは逃げることに専念しなさい」
「でもお父様のけがを止血しないと……!」
剣を振るった男は刃こぼれを気にしているようだった。
念入りに見て、指で撫でてから満足そうに頷く。
「良かった。急なことで驚いたけど、綺麗に斬れたみたい」
「……そうかい。ところでお前は何者だ?挨拶もできねぇなんて紳士の風上にも置けないな」
「おや、それは失礼」
水色の髪の男はまるでここがボールルームかのように優雅にお辞儀をしてみせた。
「初めまして、私はイヴァン。さようなら」
“イヴァン”と名乗った男は顔を上げると同時に剣を突き出した。
それは容赦なくバルドロイの脇腹に突き刺さる。
バルドロイは刃を掴んで急所をそらしたようだったが、安心できるものではなかった。
「ぐぅ!」
「お父様ァ!」
バルドロイが手を銃のように構えると、魔力を貯めて放った。
「“バレット”!」
——ドンッ!ドンドンッ!
小石ほどの火球がイヴァンへ向かって飛んでいく。
何発か連続で撃つと、イヴァンは剣を抜いて数歩下がった。
至近距離で撃ったにもかかわらず一発も掠めていない。
バルドロイはそれだけでイヴァンが自分より格上であることを察した。
「ブランッ!逃げなさい!」
「でもお父様、一緒に!」
「いいから行きなさい!!」
バルドロイの怒鳴り声にブランの足がすくむ。
ブランは悩むほど足が動かない。
イヴァンが剣を握りなおす。すると銀色の刃は電気を纏い始めた。バチバチと空気を弾く青い光。
(いや、あれは……雷?)
雷魔法は双子から散々受けてきたが、目の前のソレはまるで別物。圧倒的に精度が高いことが素人の目にも分かる。
かなり圧縮された魔力で近くの空気が張り詰めたようになるのだ。間違いなく、あの雷が落ちればこの会場もただでは済まない。
茫然と魅入るブランに向けて、その剣は振り下ろされた。
「ブラン!!」
「あっ」
バルドロイがブランを抱きしめて転がる。間一髪で避けた斬撃は、そのまま会場を一刀両断にした。まるで雷が地面を走ったような焼け焦げた匂い、深く割れた大理石。
ブランが周囲を見渡すと、今の一撃で出口付近に集まっていた参列者が数名死んだようだった。
(嘘。こんなにあっけなく人間って死ぬの?)
母親の腕を握りしめて泣く子供、血まみれの夫を見て叫ぶ妻、切り裂かれた子供を抱きしめて名前を呼ぶ親。
小さな地獄がそこにはあった。
——旨そうだなァ、いいなァ。
「ブラン!すぐに神官が来る!それまで生き延びるんだ!」
「と、お父様」
「私の後ろに隠れて、あまり離れるな……!周囲の黒い者たちは“ジン”だ!」
ジン。
古い言葉で悪霊を意味する言葉。魔力制御が効かず、暴走して人の形を留めなくなった貴族の成れの果て。
その場には4体のジンが闊歩していた。
(あれが、ジン……!)
周囲の貴族たちも、魔法を用いて応戦しているようだ。
弱い者は後ろへさがり、上流階級の貴族たちがなんとかジンを抑えている。
しかし、これだけ子供がいる場で、統率の取れない烏合の衆では3分が限界だろう。
「俺は大帝国陸軍准将、バルドロイ・シリウス・ボナパルト!帝国に仇なす者を放ってはおけぬ!」
バルドロイが叫ぶ。練り上げられた魔力が無数の弾丸となって現れた。
上空に広がる夥しい数の弾丸はイヴァン、それから会場に散らばるジンへと向いている。
「お父様の、固有スキル……!」
「“バレット・パレード”!!」
弾丸の数は1万をゆうに超える。それぞれが炎を纏って降り注いだ。あたり一面に煙がまかれる。
貴族達もその圧倒的な光景に思わず息を飲んだ。
「これが、かの“クロユリ戦争の英雄”……!」
「陸軍准将だ!ありがたい!」
「よし、殆どのジンが致命傷だ!このまま各個撃破するぞ!」
「結界師は子供たちを守れ!戦えない者は扉を開けることに専念するんだ!」
「なんとか持ちこたえろ!」
煙が晴れた時、弾丸の雨に打たれて殆どのジンが瀕死になった。
しかし、それはバルドロイも同じだ。彼のスキルは魔力を大量に消費する。こんな狭い場所で1万以上の弾丸を参列者に当てぬよう細かな調整をした。それだけでバルドロイの全魔力を溶かすには十分であった。
「お父様っ!」
「ぜぇ!っはぁ、はぁ!」
「どうしよう、血が止まらない……!お父様、どうにか頑張って!」
やがて中央の最も多く弾丸が降り注いだ場所、祭壇の煙が晴れた。
イヴァンは相も変わらずほほ笑んでいる。
「……チクショウ!不死身か何かなのか!?」
もう一度スキルを使うことは無理だ。
あるだけの魔力を使って弾丸を降らせた。相手の服には埃一つ付いていない。これが実力の差だ。
バルドロイは奥歯を噛みしめた。
「(こいつが何者か知らんが、“特級”に相当する実力者だ……!)」
イヴァンはまるで死に掛けの虫を見るようにブランとバルドロイを見下ろした。片手に持った剣で手遊びをしながらゆっくりと近づく。
「もう終わりなのか? “戦争の英雄”。お前はもっと強いのかと思っていたよ。“あの”バルカ王族を皆殺しにしたと聞いたからな」
「お、お父様に近づくな!」
「ブラン!やめなさい!」
ブランが前に飛び出す。
その小さな体、黒い肌、青い瞳にイヴァンはますます笑みを濃くする。
「哀れな少年。お前の国を滅ぼした男を父と慕っているのか?お前の本当の家族を殺したのはこの男、この帝国だぞ」
「違う……!僕の家族はお父様だけだ!僕を本当に家族にしてくれたのは、バルドロイ・シリウス・ボナパルト侯爵だけだ!」
「ブラン!いいから逃げなさい!」
「……。少年、それは妄想だよ」
イヴァンの黄金の瞳がゆっくり細められる。もう笑みは浮かべていなかった。
右手に掲げられた剣。雷を纏い、あたり一面に電気が迸った。
「(先ほどよりもずっと大きい……!ブランを逃がさなくては!)」
「お前は私と同じ痛みを知っているはずだ」
剣が振り下ろされると同時に、落雷の音が響いた。耳を劈き骨を震わす轟音。身体のあちこちに鋭い痛みが走る。
ブランは思わず耳を塞いで縮こまった。自分に覆いかぶさるように、バルドロイの匂いがする。
爆風が過ぎ去った後、ブランは激痛に震えながらゆっくりと目を開いた。
「お、父様……?」
ごぽっ。
ブランの顔に血が滴った。バルドロイの血だ。
まるでガラスのプールに飛び込んだかのように、体中に迸る裂傷。夥しい血がブランの回りに広がった。
「……ブラン、に……げろっ!」
「ぁぁあああ!!お父様!」
その攻撃はバルドロイだけでなく、参列者にも届いていた。
多くの親がバルドロイと同じように子供を庇い、死んでいる。
轟音で籠っていた鼓膜が、ゆっくりと音を拾い始めたとき、あたり一面から子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。
親を呼び、助けを呼び、痛いと叫んでいる。
(……こわい)
その叫び声はやがて助けを求めるようになった。
「誰か助けて!」
「英雄様!」
「氷雨様!助けて!痛いよ」
「英雄様!氷雨様!」
ブランの脳裏に氷雨の新聞記事が浮かんだ。帝国の危機に現れる英雄。80億人の国民が称えるヒーロー。
ブランの腕の中でズシリと重くなるバルドロイの温度に、ブランは泣き叫んで助けを乞う。
「誰か!誰かお父様を助けて!誰かぁ!」
スッ、と白い手がブランへ向けられる。
いつのまにか、イヴァンはブランに手を差し伸べていた。
「私とおいで。こんな地獄を捨てて私と行こう」
「な、にを言って……」
「君と私は同じ痛みを知っているはずだ。理解しあえる。だが、大帝国の人間には不可能だ。奪った側の人間だろう?」
ブランはイヴァンが何を言っているのかわからなかった。先ほどまでの殺意は本物だった。しかし今、目の前で優しく手を差し伸べている目も本物だ。
(奪った?理解しあえる?――今、僕のお父様は死にかけているのに!こいつのせいで!!)
パシッ。
ブランは思い切りイヴァンの手を振り払った。ボロボロと涙がこぼれてくる。
悔しい、憎い、恐ろしい。
「僕はお父様の息子だ!お父様を傷つけておいて、お前なんかに付いていくわけないだろう!僕は奴隷じゃないんだ!」
ブランがバルドロイの身体を抱きしめる。もう虫の息だ。
おそらくもう指一本動かすのも自由にできない。
イヴァンは悲し気に目を閉じると払われた手で剣を握りなおした。
ざく。
何の躊躇もなくブランの足に剣が突き立てられる。
魔法は纏っていない。ただただ、剣がブランの細い足を貫いた。
「あぁああッ!」
「愚かな……。ここまで洗脳されているとは、大帝国は恐ろしいものだ」
(痛い、怖い!お父様、死なないで!怖い!助けて!助けて!!)
剣が抜かれ、振り上げられる。
「ここで死ね、呪われた子よ」
「あぁあ!助けて!氷雨様!!」
轟音と共に剣が振り下ろされる。ブランが死を覚悟した時、剣と剣がぶつかる音を聞いた。
ブランとイヴァンの間に、成不が立っている。
手には細く白い刀を持ち、イヴァンの剣をまるで花を持つかのように容易く受け止めている。いつもの瓶底メガネはつけていなかった。
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