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第1章
家族に
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洗礼式の事件後、ブランは成不を筆頭に神官たちから高度な治療を受けた。
今までブランを毛嫌いしていた者たちも、大宮司である成不がブランを気に入っていると知るや否や態度が急変。まるで普通の貴族のような扱いになり、ブランは人間の醜さを知った。
「——ではブラン様、これでひとまず退院となります。しかし身体に異常がある場合にはすぐに神宮へ来てください」
「……」
大体の傷が治り、日常生活に問題がないと判断されるまでに2週間。
父バルドロイの葬儀から10日が経ってから、ブランはようやくボナパルト侯爵邸へと足を運んだ。
本当は帰りたくなど無かった。
屋敷で待っているのは虐待する異母と双子達。守ってくれる父はもういない。帰ってすぐに追い出されるかもしれないし、最悪殺されるかもしれない。
しかし、入院中にアルフレッド執事長を始め、カールやメアリーが見舞いに来たことで、ブランはあの屋敷で一人ではないことを思い出した。
(お父様の帰ってこない屋敷で耐える必要なんてないけど、でも僕はボナパルト家の次男だから……)
心配してくれる彼らのために、ブランは侯爵邸の門をくぐる。
葬儀はとっくに終わったというのに、屋敷は主人を失った悲しみで薄暗く、花も俯いていた。
(きっと奥様や双子たちもお父様を亡くして悲しんでいるはず。……もしかしたら僕たちは同じ悲しみを共有できるかもしれない)
ブランは玄関の前に立ったが、やはり気が重く扉を開く気になれない。
手を伸ばしては脳裏によぎる辛い日々に足がすくんでしまうのだ。ブランは屋敷に入らず、窓からそっと中の様子を伺った。
どうやらリビングで誰かが言い争っているようだ。窓から見えるのはミランダ夫人と執事長アルフレッド。そして何人かの使用人たちだった。
「あまりにも横暴です!坊っちゃんは血の繋がりはなくとも侯爵家の一員ではありませんか。どうか亡き旦那様の御心を継いでくださいませ!」
「お黙り!!バルドロイの落とし子ならまだしも、何の血縁もない、褐色肌の子供なんて!」
どうやら、ブランの処遇について言い争っているらしい。
(今日、僕が退院するって聞いたんだ……。やっぱり奥様は僕がいるのが嫌なんだな)
「バルカ人はこの帝国において奴隷なの!除籍するのが当然の行動よ!敗戦国の卑しい者にこれ以上この屋敷を好きにはさせません!」
「ブランお坊ちゃんはこのお屋敷で自由だったことなど一度もありませんでした。奥様が小さな身体に鞭打っていたのですから!」
「なんと無礼な!」
ミランダの扇子がアルフレッドの頬を打った。
アルフレッドの眼鏡が床に落ち、額から血が垂れる。
「執事長……!」
「奥様、なんということを!」
「お黙り!使用人の分際で勝手に口を開くのではありません!バルドロイ亡き今、ボナパルト家当主は私の息子であるデレクであり、私はこの屋敷の女主人ですよ!」
ミランダの高圧的な態度に、使用人たちは眉をひそめた。何人かが反論しようと口を開くが、アルフレッドがそれを止める。
「奥様。私は生涯バルドロイ様にお仕えすると誓いました。貴族としての責務すら全うできないあなた方にこれ以上関わる気はありません。ここに集まった使用人一同、本日でお暇させていただきます」
「……なんですって?」
アルフレッドの言葉に使用人は「待ってました」と言わんばかりに動き出した。その場に集まった大体数が荷物をまとめて屋敷を出ようとする。おそらくバルドロイの葬式後からずっと準備していたのだろう。
もちろんミランダがそれを良しとするはずもなく、おもむろに扇子で自分に手を切りつけると近くにいた使用人を振り向かせてその頬を思い切り叩いた。
「いいえ、駄目よ——」
——そして命令する。
「“恋文(ラブレター)”。お前は生涯、この私に忠誠を誓い奴隷として働くのだ」
誰もが「何を馬鹿なことを」と言おうとした。しかし、打たれた使用人はぼーっとミランダを見つめて頷く。
「はい、ご主人様」
「お、おい、どうしたんだよ?」
先ほどまで荷物をまとめていたにも関わらず、跪いてミランダの足に口づけている。
その額にはミランダが好むバラの模様が浮かび上がっていた。
「彼に何をした!」
「知らなかった?——私の固有スキル“恋文(ラブレター)”は、私の血を飲んだ者を魅了状態にするのよ」
(血?いつのまに飲ませた……?さっき頬を打った時に?)
(——それより固有スキル!奥様も持っていたんだ……!)
「精神攻撃の固有スキル……!まさかバルドロイ様にも使ったのではないだろうな!」
アルフレッドは驚愕した。数十年仕えてきたがまさかミランダが固有スキルを持っているとは思ってもみなかったのだろう。正直、ミランダにそこまでの魔力量はなかったからだ。
「残念だけど、バルドは私よりも強かった。軍人だものね。だから私のスキルは効かなかったわ。——でも、お前たちのような下等貴族には十分」
「……!それなら力づくで出ていくまで!」
使用人たちが魔法を使おうと手を掲げるも、ミランダはそれを嘲笑って指を鳴らす。
パチンッ!
それと同時に全員の額に紋様が浮かんだ。
「なっ、いつの間に……!」
「この数十年で私の血を飲ませる機会はいくらでもあった。最初からお前たちに逃げ場はないのよ」
アルフレッドが悔しそうに奥歯を噛みしめるも、紋様が完成する頃には目から光が消え、膝をついていた。
使用人たちがいくら魔法適性があろうと、元伯爵令嬢だったミランダを前に精神攻撃で抗えることはない。
(自分の意志を奪われてしまった……!)
一部始終を見たブランは声を殺して隠れた。
(どうしよう……もう屋敷にいてもアルフレッドさん達は助けてくれない……!僕だけでは逃がしてあげることもできない)
(そもそも、奥様はお父様が亡くなったことに何も感じてないの?どうしてあんなに派手な格好ができるんだ。まるでパーティーみたいに……!)
ブランは恐ろしいと思う反面、今までになかった怒りが身を焦がすように湧いてくるのを感じた。一緒に悲しんでくれる人はもうこの屋敷にはいない。
ミランダが使用人を蹴りながら言う。
「魔法が使える者は全員外で見張りをしていなさい。使えぬ者は屋敷の掃除を。あの小僧が我が家の敷居を跨いだら、すぐに殺して森に捨ててくるように」
パチン、と扇子を閉じる音がする。それを合図に足音が玄関に近づく。
(まずい!早く逃げなきゃ。二度とここに戻って来ちゃダメだ……!)
ブランは走る。
長らく手入れした庭も、毎朝掃除をした正門も、もう二度と来ることはないだろう。
あの屋敷で頑張れたのは数少ない味方がいたからだ。だが、もう彼らは味方じゃない。戻れば彼らに殺される。
(どうして……!どうして……ッ!僕から大切な人を奪わないで、神様!)
ブランは生まれて初めて全力で走った。
病み上がりの虚弱な身体では屋敷から数ブロック離れた広場に来るだけで息を切らしてしまう。
広場には洗礼式で亡くなった貴族を追悼する石碑が設立されていた。
名前のそばに溢れんばかりの献花がされている。
ブランはその中から一つの名前を見つけた。
【バルドロイ・シリウス・ボナパルト】
しっかりと刻まれた名前を指でなぞりながら何度も口に出す。
抱きしめてくれた温もりも、包み込んでくれた手の大きさも、はっきりと思い出せた。
「お父様……お父様ッ!」
そんなブランの小さな背中を、人々は嫌悪の目で見ていた。
「……見て、ほらアレ」
「あぁ、噂の?」
「そうそう、侯爵家の寄生虫でしょう」
この広場は王宮からも近く、貴族の出入りが多いため、特にブランのような異質な者は目立つ。
ブランはいつもの視線に肩身を縮こまらせた。視線と言葉が怖い。見ないでほしい、放っておいてほしいのに、誰もそれを許してくれない。
「……でも聞いた?特級の方々が容認しつつあるって噂よ」
「でも反対派もいるって聞いたわ。侯爵がバルカ人だって申告せずに養子縁組したって」
「侯爵も物好きよねぇ。……もしかしてそういう人種をコレクションするのが好きなのかしら?」
「さぁ。先日の洗礼式の事故で亡くなってしまったから、もう真実はわからないけど」
どんどんと大きくなる雑音に、ブランは耳を塞いで蹲った。
(うるさい、うるさい!もうやめて!お父様を好き勝手に言わないで!)
ヒュッ、コン。
ブランの頭に痛みが走る。
——石だ。額を生ぬるいものが滑り落ちる感覚に、石が飛んできた方向を見た。
「うわ!見ろよ、本当に汚ぇ肌の色~!」
「髪も真っ黒だぜ?悪魔みたいで気味悪ぃ」
「おい目の色も見てみろよ!本当にばあちゃんが言った通りだ!」
両手に石を持ってこちらを見るのは、おそらく平民の子供だった。しばらく神宮で入院していたとはいえ、ブランが着ている服は決してみすぼらしいものではない。白く、清潔で質のいい服だ。それだけで貴族だとわかるはず。
それなのに、平民でさえブランを格下だと思っている。
「アレは鎖をつけて飼うんだろ?なんで飼い主が近くにいないんだ?」
「首都でアレを飼ってる奴なんていないだろ、汚ぇもん。あいつどっかから逃げてきたんじゃねぇ?」
「花でも食べようってのか?気持ち悪ぃ~」
「おら、出てけよ!この街から!」
ヒュッ、ヒュッ。
ゴッ、ゴツ。
石が投げられる。ブランは何も言わずただ縮こまった。
この暴力も飽きたら終わる。あの子たちが飽きるまで何も言わず、動かず、反撃しない。
それまでの間、ブランは頭の中で繰り返した。
(お父様、アルフレッドさん、メアリーさん、カールさん……!)
大切な人を指折り数える。
(もう我儘言わないから。服も家も何も望まないから……!だからもう僕を一人にしないで。僕も一緒に連れて逝ってよ!)
ぽつぽつと雨が降り始める。
「——あら」
「雨だわ……!」
分厚い雲に覆われた空が、死者を追悼するように泣き始めた。
雨は数秒で土砂降りに変わり、街行く人たちは急いで店に駆け込んだり、家へ走ったりしている。
「うわぁ!すごい雨だ。家に帰ろう!」
「はやく中に入らなきゃ、びしょびしょになっちゃう!」
石を投げていた子供たちもブランのことなど忘れてしまったかのように急いで路地裏へと走っていった。
先ほどまでの賑わいが嘘のように、雨の音だけが広場を支配する。
(……ようやく、静かになった)
自分の心臓の音すらも聞こえないほど、大きな雨の音。人がいなくなってようやく、強張った体を緩めた。
(この雨は、お父様のいる天国からきたのかな)
額の血が雨に流されて慰霊碑に落ちる。
元からブランの片手で埋まるだけしかいなかった大切な人は、今や殆どいなくなってしまった。
——ただ一人を残して。
「——こんなところでどうしたんだい、ブラン君」
頭上から影が差し、肌に当たる雨が止む。ブランはその暖かい声に強く手を握りしめた。
片手に残る、最後の一人だ。
ゆっくりと振り返れば、そこには傘を指しブランを覗き込む成不がいた。
「……成不さんッ!」
「最近は君の涙ばかり見る気がするね」
「会いたかったです……っ!」
洗礼式の事件後、とにかく治療と調査とで忙しくしていた成不とは、1週間ぶりほどになるだろうか。
彼が帝国最強の氷雨であることが分かってから、彼は白の袴を着るようになった。どうやら彼の正体を知らなかったのはブランだけでなく、殆どの人に隠していたらしい。
(雪のように真っ白な髪、グレーの優しい眼。新聞でみたままの姿だ……。本当に氷雨様なんだな)
ブランは真っ白な袴が見慣れず、抱き着きたい衝動を堪えて控えめに袴の裾を握る。
成不は困ったように笑みを浮かべた。
「私に会いたかったんだろう?じゃあ遠慮しないで」
「……!」
「退院おめでとう。もう少し安静が必要だけど、ある程度なら遊んでも平気だよ」
成不は白い衣装が血で汚れることも気にせずブランを抱きしめた。神官服から漂う冬の香りと、涼しい治癒魔法の感覚。ブランはその温もりを力いっぱい抱きしめた。
「成不さん……!僕、もう頑張れないッ!お父様がいない世界で生きる意味がないんです!なんで僕、あの時一緒に死ななかったんだろう……!」
「……侯爵のことは、心からお悔やみするよ」
成不は小さなブランを抱きかかえると歩き始めた。
「君に話があるんだ。……暖かいお茶でも飲みながら話そう」
ブランは小さく頷いた。
落ちないように回した手に白く美しい髪が触れる。ブランの褐色の肌と相まって、まるでシルクのように見えた。着物の裾から見える肌も、服も瞳も、すべて。彼を構成するすべてが白く美しい。
(僕とは正反対だ……)
――――「成不の屋敷」
てっきり神宮へ行くのかと思っていたが、成不は郊外にある小さな家へ案内した。白い石づくりの控えめな家だ。
「成不さん、ここは?」
「私の家だよ」
ブランは耳を疑った。
「成不さんの?……でも、成不さんはあの“氷雨”様なんでしょう?もっと大きなお屋敷に住んでるのかと思ってました」
「ははは!確かに特級でこんなに小さい家に住んでる人は私以外にいないね」
外観も同じく、内装も質素だ。
「……以前、成不さんは教えてくれましたよね。着飾ることも貴族の務めだって。でも成不さんは氷雨様なのに見習いのふりをしてましたし、お屋敷にもお金を掛けていません。どうしてですか?」
「神宮か皇宮に行くことが多くてこの家にはあまり帰ってこないから、お金をかけるところが無くてね。見習いの格好をしていたのは、……そうだな。——特級ほどになるとね、自由に外を歩けないし、誰かと仲良くすることも気を付けなきゃいけなくなるんだ。上級貴族は基本的にそうだけど。特級は彼らよりもずっと政治に近い。……今は理解が難しいと思うけど、私が見習いの格好をしていなかったら君を治療することは出来なかったんだよ」
成不はリビングを通り過ぎて、ブランを抱えたまま浴室へと向かった。
雨と血で濡れているためだろう。
「氷雨の姿では、こんな土砂降りに隠れてでしか君を助けてあげることができない。……無力だね」
浴室へブランを下ろすと、成不も上着を脱いだ。白い服の所々にブランの血が付いている。
「あ、血が……。ごめんなさい」
「ん?あぁ、いいんだよ。何着も持ってるから。討伐任務の時にも汚してるし、これぐらい気にしないで」
成不は汚れてしまった羽織を適当な籠に入れると、ブランの前にしゃがみ込んだ。
「ほら、お風呂に入ろう。身体が冷えてしまっているから温めないと」
「……成不さんも一緒にはいるんですか?」
「そうだよ。病み上がりだし、君お風呂の使い方わからないでしょ」
成不が手早くブランの服を脱がし始めた。
「……確かに、お風呂にはあんまり入ったことがありません」
「今まではどうしていたんだい?」
「今日みたいな雨の日は浴びるだけで楽でした。晴れてる日は井戸の水とか、近くの湖とかで水を浴びていました」
「冬はさぞかし辛かっただろう」
「冷たいけど、傷は洗わないと悪化しますから」
「……そうだね」
成不は自分も脱ぐと、ブランを連れて湯舟へ向かった。
(——あ、お風呂の形が違う?)
広い浴室には大きな木製の湯舟があるだけ。床も大理石ではなく、金属も見当たらない。しかしその空間は質素のように見えて何故か重厚感があった。
「じゃあ、龍安風の風呂を見るのは初めてだね」
成不はお湯の温度を見ながらブランへ言った。
「はい。バスタブがすごく大きいんですね」
「仲間や家族と入るために大きく作られているんだ」
「みんなで?お風呂は一人で入るものじゃないんですか?」
「龍安では信頼を確認しあうための習慣みたいなものかも。ほら、湯あみは武器が持ち込めず、最も無防備になる瞬間だろう?だから、一緒に風呂に入るということは相手のことを心から信用しているという意味になるんだ。身分も立場も着飾ったものをすべて取り払って、一人の人間として何もかもを曝け出す。“裸の付き合い”ってやつだね」
「……つまり、成不さんは僕を信用してくれているんですか?」
「もちろんだとも。……まぁ、私の能力だと逆に水場の方が強いんだけどね」
成不を見上げようとしたところで、お湯を頭から掛けられる。
湯舟から漉くって、また掛ける。
熱いくらいのお湯が今はちょうどよかった。
「さ、入るよ。熱いから気を付けて」
「……はい」
成不に抱きかかえられ、湯舟に下ろされる。
木でできた風呂はお湯から木と花の香りが漂ってきて心を穏やかにさせた。
雨の匂いとは違う、優しい香り。
「ジャスミンのいい香りだろう」
成不はブランが口を開くまで何も聞き出すことはなかった。ただお風呂を楽しんでいるように見える。
ブランは深く湯舟に座りながら聞いた。
「ねぇ成不さん……」
「ん~?」
「……成不さんはいつも僕を助けてくれますよね。お父様がいない間も、洗礼式の時も。どうして僕にここまでしてくれるんですか?」
「理由は沢山ある。——君はどうしてだと思う?」
「わかりません。僕は無知なので……」
「そんなに難しく考えなくていい。結局は生きてほしいからさ」
「——ただ、それだけ?」
「これが一番重要なんだよ。もっと意味を込めて言うと“君には生きていてもらわなければ困る”。理由は沢山あると言ったろ?」
「その沢山ある理由は、何ですか?」
「長くなるし難しい話だよ。しっかり理解してもらいたいから、君が歴史と政治を学んでから少しずつ教えていくことにしよう」
「……少しずつ、ですか」
「やっぱり理由を全部聞いてからじゃないと、私を信用できないかい?」
困ったような表情で笑う成不にブランはすぐさま首を横に振った。
「そんなまさか!!心から頼りにしてます」
「ふふっ、ありがとう。でも君が気になるのは至って当然の反応だよ。警戒するに越したことはない。……でも私は君を決して傷つけたりしないと約束するから、生きることを検討してもらえないだろうか」
ブランは首を傾げた。まるでこちらに主導権があるかの物言いだ。
ブランは生まれてこの方、自分で何かを決めたことがなかったので成不の言っている意味がわからなかった。
「君、さっき言ったろ?“もう頑張れない。お父様がいない世界で生きる意味がない”って」
成不はお湯に落ちた長い髪を高く結いながら言った。
「まだ死にたいかい?」
その言葉に先ほどまで胸を占めていた暗い気持ちが戻ってくる。
(そっか。もうお父様も侯爵邸のみんなも……)
「……生きたいとか、死にたいとか、わかりません。成不さんが傍にいてくれるのは嬉しいけど、今までの生活は全部お父様のためだった。でも今はみんな居なくなっちゃったから」
「“みんな”? ……屋敷でなにか見たのかい」
「……はい。実は——」
ブランは自分が屋敷で起こったことを包み隠さずに話した。
成不は終わるまで黙って聞き、時折こめかみを抑えた。
「——それで、もうアルフレッドさん達は……」
「……なるほど。思いのほか傷が深い」
一通りの話を聞くと、成不はブランの手を引いて湯から上がった。
「ではもう侯爵家に戻ることはないね」
「……はい」
身体をタオルで軽く拭いた後、ブランの肌に香油を塗って柔らかい生地の服を着せる。
成不も龍安領の着物を羽織り、ブランの手を引いてリビングへと向かった。
「そこで君に提案なんだが、——このまま私の家に住まないか?」
コト、と目の前にティーカップが置かれる。薄い黄緑色が美しいお茶だ。
「僕が、成不さんの家に?」
「実はね、君は最初から侯爵邸に戻ることはできなかったんだよ。本当は退院と合わせて私が迎えに行くはずだったんだけど、仕事で遅れて入れ違いになってしまった」
「……どういうことですか?」
「侯爵が亡くなった後、臨時当主の座に就いたボナパルト夫人は、葬儀の手配よりも先に君を除籍した。つまり、君はボナパルトの姓をはく奪されたということだ。家主から許可を貰わない限り、侯爵邸の敷居を跨ぐことは法的に許されなくなった」
ブランは衝動的に机を叩いた。大声を出しそうになるのを抑え、必死に唇を噛む。
(血の繋がらない僕とお父様の、唯一の絆だったのに……!)
「……落ち込むのも無理はない。君が最も愛した人の名だ」
「もう……っ本当にどうしようもなく、腹が立つんです……!名前も服もご飯も全部、お父様から貰ったもので、最初から僕の物なんてこの身体しかないけど!それでも僕のことを想ってつけてくれた名前だったのに……!お父様の息子でいられる唯一の証明だったのに……!なんで僕が一番奪われたくないものばかり……ッ!!」
ブランの伸びた犬歯が下唇を切った。それに気づかず尚も唇を噛みしめる様子に、成不はお茶を勧める。
「ボナパルトという名は君にとって初めてもらった宝物だったんだね。とても残念なことだ。しかし、彼が最期に残した言葉を覚えているか?」
「……僕の、本当の名前ですか」
「あぁ。私が君を助ける理由の一つだ」
「……あんまり覚えてません。僕はお父様と同じ家名がいいので」
成不はブランの口から垂れる血を拭って言った。
「“覚えていない”?——彼が命を懸けて遺した言葉がそんなに軽いと思うか?」
「……」
「君の本名は“ブラン・ハンニバル・バルカ”。かつてバルカ王国を納めた王族の名だ。君は現存する貴族の中で最も貴重な血を引いている」
「……“敗戦国の血”でしょう」
「君は何もわかっていないな。——まぁ正しい教育を受けていないのだから仕方がないが」
「……僕が無知なことは、僕が誰よりも知っています」
「いや、自覚できていない。君は帝国人から言われるがままのバルカ人を信じて、何も知ろうとしていない。無知よりも愚かな行動だ」
成不の目は少しだけ鋭く、怒っているように見える。
ブランは愚かだと言われたことに少し胸を痛めた。成不はいつも優しかったから突き放されたと感じたのだ。
「……ごめんなさい。でも僕には何がそんなに大事なことなのかわからないんです」
「それを今から学んでいくんだ。私と共にね。——君の敬愛する父がなぜ最も重要なことを黙っていたのか、なぜ君を助けたのか、なぜ私に託したのか。君が知らなければいけないことは山のようにある」
ブランは改めて成不とその家を見た。
小さな部屋、質素な家具、窓を叩く雨の音。
薄い光を反射する成不の白い髪が、キラキラと光っていて綺麗だ。
(成不さんは帝国中が憧れる氷雨様なのに……)
「……本当に、僕なんかがここに住んでもいいんですか?成不さんと一緒に」
「もちろんだよ。むしろそうでなくては困る」
「侯爵家を除籍された捨て犬ですけど」
ブランが自嘲すると成不は笑った。
「夫人が君を除籍したのはむしろいい流れだよ」
「いい流れ、ですか?」
「侯爵は予め、自分の死後に後見人設定の書面が最高裁判所へ届けられるよう手配してあったんだ。だから夫人が進んで除籍してくれたおかげでスムーズに後見人手続きが進んだってわけだね。ちなみに後見人は私だよ」
「成不さんが僕の後見人?いつのまに……」
「君が入院している間に書類承認は終わって、昨日、正式な文書が私のところへ届いたよ」
成不はそう言って立ち上がると、宝箱のように厳重な箱から一枚の封筒を取り出して持ってきた。
「これが、その文書ですか?」
「そう。このたった1枚の紙きれが、私と君を家族にした」
「!」
ブランはバッと顔をあげて成不を見た。
「本当に成不さんが僕の家族になってくれるんですか?」
「あぁ、もちろんだとも。さっきからそう言ってるだろう。裁判所の許可は下りたし、お風呂も一緒に入って腹を割った。これで私と君は家族も同然。——あとは君が認めてくれればいいんだけど」
“家族”という言葉に水色の瞳が宝石のように輝く。
ブランは弾かれたように立ち上がり、勢いのまま成不へ抱き着いた。
ガチャン、と茶器が鳴る。
「おっと」
「うんッ、うん!なるよ、僕は成不さんの家族になる……!」
首に回された腕は古傷が多く目立ち、細く頼りない。
成不はふと昔を思い出してブランを強く抱きしめた。
「遅れたけど、成人おめでとう」
今までブランを毛嫌いしていた者たちも、大宮司である成不がブランを気に入っていると知るや否や態度が急変。まるで普通の貴族のような扱いになり、ブランは人間の醜さを知った。
「——ではブラン様、これでひとまず退院となります。しかし身体に異常がある場合にはすぐに神宮へ来てください」
「……」
大体の傷が治り、日常生活に問題がないと判断されるまでに2週間。
父バルドロイの葬儀から10日が経ってから、ブランはようやくボナパルト侯爵邸へと足を運んだ。
本当は帰りたくなど無かった。
屋敷で待っているのは虐待する異母と双子達。守ってくれる父はもういない。帰ってすぐに追い出されるかもしれないし、最悪殺されるかもしれない。
しかし、入院中にアルフレッド執事長を始め、カールやメアリーが見舞いに来たことで、ブランはあの屋敷で一人ではないことを思い出した。
(お父様の帰ってこない屋敷で耐える必要なんてないけど、でも僕はボナパルト家の次男だから……)
心配してくれる彼らのために、ブランは侯爵邸の門をくぐる。
葬儀はとっくに終わったというのに、屋敷は主人を失った悲しみで薄暗く、花も俯いていた。
(きっと奥様や双子たちもお父様を亡くして悲しんでいるはず。……もしかしたら僕たちは同じ悲しみを共有できるかもしれない)
ブランは玄関の前に立ったが、やはり気が重く扉を開く気になれない。
手を伸ばしては脳裏によぎる辛い日々に足がすくんでしまうのだ。ブランは屋敷に入らず、窓からそっと中の様子を伺った。
どうやらリビングで誰かが言い争っているようだ。窓から見えるのはミランダ夫人と執事長アルフレッド。そして何人かの使用人たちだった。
「あまりにも横暴です!坊っちゃんは血の繋がりはなくとも侯爵家の一員ではありませんか。どうか亡き旦那様の御心を継いでくださいませ!」
「お黙り!!バルドロイの落とし子ならまだしも、何の血縁もない、褐色肌の子供なんて!」
どうやら、ブランの処遇について言い争っているらしい。
(今日、僕が退院するって聞いたんだ……。やっぱり奥様は僕がいるのが嫌なんだな)
「バルカ人はこの帝国において奴隷なの!除籍するのが当然の行動よ!敗戦国の卑しい者にこれ以上この屋敷を好きにはさせません!」
「ブランお坊ちゃんはこのお屋敷で自由だったことなど一度もありませんでした。奥様が小さな身体に鞭打っていたのですから!」
「なんと無礼な!」
ミランダの扇子がアルフレッドの頬を打った。
アルフレッドの眼鏡が床に落ち、額から血が垂れる。
「執事長……!」
「奥様、なんということを!」
「お黙り!使用人の分際で勝手に口を開くのではありません!バルドロイ亡き今、ボナパルト家当主は私の息子であるデレクであり、私はこの屋敷の女主人ですよ!」
ミランダの高圧的な態度に、使用人たちは眉をひそめた。何人かが反論しようと口を開くが、アルフレッドがそれを止める。
「奥様。私は生涯バルドロイ様にお仕えすると誓いました。貴族としての責務すら全うできないあなた方にこれ以上関わる気はありません。ここに集まった使用人一同、本日でお暇させていただきます」
「……なんですって?」
アルフレッドの言葉に使用人は「待ってました」と言わんばかりに動き出した。その場に集まった大体数が荷物をまとめて屋敷を出ようとする。おそらくバルドロイの葬式後からずっと準備していたのだろう。
もちろんミランダがそれを良しとするはずもなく、おもむろに扇子で自分に手を切りつけると近くにいた使用人を振り向かせてその頬を思い切り叩いた。
「いいえ、駄目よ——」
——そして命令する。
「“恋文(ラブレター)”。お前は生涯、この私に忠誠を誓い奴隷として働くのだ」
誰もが「何を馬鹿なことを」と言おうとした。しかし、打たれた使用人はぼーっとミランダを見つめて頷く。
「はい、ご主人様」
「お、おい、どうしたんだよ?」
先ほどまで荷物をまとめていたにも関わらず、跪いてミランダの足に口づけている。
その額にはミランダが好むバラの模様が浮かび上がっていた。
「彼に何をした!」
「知らなかった?——私の固有スキル“恋文(ラブレター)”は、私の血を飲んだ者を魅了状態にするのよ」
(血?いつのまに飲ませた……?さっき頬を打った時に?)
(——それより固有スキル!奥様も持っていたんだ……!)
「精神攻撃の固有スキル……!まさかバルドロイ様にも使ったのではないだろうな!」
アルフレッドは驚愕した。数十年仕えてきたがまさかミランダが固有スキルを持っているとは思ってもみなかったのだろう。正直、ミランダにそこまでの魔力量はなかったからだ。
「残念だけど、バルドは私よりも強かった。軍人だものね。だから私のスキルは効かなかったわ。——でも、お前たちのような下等貴族には十分」
「……!それなら力づくで出ていくまで!」
使用人たちが魔法を使おうと手を掲げるも、ミランダはそれを嘲笑って指を鳴らす。
パチンッ!
それと同時に全員の額に紋様が浮かんだ。
「なっ、いつの間に……!」
「この数十年で私の血を飲ませる機会はいくらでもあった。最初からお前たちに逃げ場はないのよ」
アルフレッドが悔しそうに奥歯を噛みしめるも、紋様が完成する頃には目から光が消え、膝をついていた。
使用人たちがいくら魔法適性があろうと、元伯爵令嬢だったミランダを前に精神攻撃で抗えることはない。
(自分の意志を奪われてしまった……!)
一部始終を見たブランは声を殺して隠れた。
(どうしよう……もう屋敷にいてもアルフレッドさん達は助けてくれない……!僕だけでは逃がしてあげることもできない)
(そもそも、奥様はお父様が亡くなったことに何も感じてないの?どうしてあんなに派手な格好ができるんだ。まるでパーティーみたいに……!)
ブランは恐ろしいと思う反面、今までになかった怒りが身を焦がすように湧いてくるのを感じた。一緒に悲しんでくれる人はもうこの屋敷にはいない。
ミランダが使用人を蹴りながら言う。
「魔法が使える者は全員外で見張りをしていなさい。使えぬ者は屋敷の掃除を。あの小僧が我が家の敷居を跨いだら、すぐに殺して森に捨ててくるように」
パチン、と扇子を閉じる音がする。それを合図に足音が玄関に近づく。
(まずい!早く逃げなきゃ。二度とここに戻って来ちゃダメだ……!)
ブランは走る。
長らく手入れした庭も、毎朝掃除をした正門も、もう二度と来ることはないだろう。
あの屋敷で頑張れたのは数少ない味方がいたからだ。だが、もう彼らは味方じゃない。戻れば彼らに殺される。
(どうして……!どうして……ッ!僕から大切な人を奪わないで、神様!)
ブランは生まれて初めて全力で走った。
病み上がりの虚弱な身体では屋敷から数ブロック離れた広場に来るだけで息を切らしてしまう。
広場には洗礼式で亡くなった貴族を追悼する石碑が設立されていた。
名前のそばに溢れんばかりの献花がされている。
ブランはその中から一つの名前を見つけた。
【バルドロイ・シリウス・ボナパルト】
しっかりと刻まれた名前を指でなぞりながら何度も口に出す。
抱きしめてくれた温もりも、包み込んでくれた手の大きさも、はっきりと思い出せた。
「お父様……お父様ッ!」
そんなブランの小さな背中を、人々は嫌悪の目で見ていた。
「……見て、ほらアレ」
「あぁ、噂の?」
「そうそう、侯爵家の寄生虫でしょう」
この広場は王宮からも近く、貴族の出入りが多いため、特にブランのような異質な者は目立つ。
ブランはいつもの視線に肩身を縮こまらせた。視線と言葉が怖い。見ないでほしい、放っておいてほしいのに、誰もそれを許してくれない。
「……でも聞いた?特級の方々が容認しつつあるって噂よ」
「でも反対派もいるって聞いたわ。侯爵がバルカ人だって申告せずに養子縁組したって」
「侯爵も物好きよねぇ。……もしかしてそういう人種をコレクションするのが好きなのかしら?」
「さぁ。先日の洗礼式の事故で亡くなってしまったから、もう真実はわからないけど」
どんどんと大きくなる雑音に、ブランは耳を塞いで蹲った。
(うるさい、うるさい!もうやめて!お父様を好き勝手に言わないで!)
ヒュッ、コン。
ブランの頭に痛みが走る。
——石だ。額を生ぬるいものが滑り落ちる感覚に、石が飛んできた方向を見た。
「うわ!見ろよ、本当に汚ぇ肌の色~!」
「髪も真っ黒だぜ?悪魔みたいで気味悪ぃ」
「おい目の色も見てみろよ!本当にばあちゃんが言った通りだ!」
両手に石を持ってこちらを見るのは、おそらく平民の子供だった。しばらく神宮で入院していたとはいえ、ブランが着ている服は決してみすぼらしいものではない。白く、清潔で質のいい服だ。それだけで貴族だとわかるはず。
それなのに、平民でさえブランを格下だと思っている。
「アレは鎖をつけて飼うんだろ?なんで飼い主が近くにいないんだ?」
「首都でアレを飼ってる奴なんていないだろ、汚ぇもん。あいつどっかから逃げてきたんじゃねぇ?」
「花でも食べようってのか?気持ち悪ぃ~」
「おら、出てけよ!この街から!」
ヒュッ、ヒュッ。
ゴッ、ゴツ。
石が投げられる。ブランは何も言わずただ縮こまった。
この暴力も飽きたら終わる。あの子たちが飽きるまで何も言わず、動かず、反撃しない。
それまでの間、ブランは頭の中で繰り返した。
(お父様、アルフレッドさん、メアリーさん、カールさん……!)
大切な人を指折り数える。
(もう我儘言わないから。服も家も何も望まないから……!だからもう僕を一人にしないで。僕も一緒に連れて逝ってよ!)
ぽつぽつと雨が降り始める。
「——あら」
「雨だわ……!」
分厚い雲に覆われた空が、死者を追悼するように泣き始めた。
雨は数秒で土砂降りに変わり、街行く人たちは急いで店に駆け込んだり、家へ走ったりしている。
「うわぁ!すごい雨だ。家に帰ろう!」
「はやく中に入らなきゃ、びしょびしょになっちゃう!」
石を投げていた子供たちもブランのことなど忘れてしまったかのように急いで路地裏へと走っていった。
先ほどまでの賑わいが嘘のように、雨の音だけが広場を支配する。
(……ようやく、静かになった)
自分の心臓の音すらも聞こえないほど、大きな雨の音。人がいなくなってようやく、強張った体を緩めた。
(この雨は、お父様のいる天国からきたのかな)
額の血が雨に流されて慰霊碑に落ちる。
元からブランの片手で埋まるだけしかいなかった大切な人は、今や殆どいなくなってしまった。
——ただ一人を残して。
「——こんなところでどうしたんだい、ブラン君」
頭上から影が差し、肌に当たる雨が止む。ブランはその暖かい声に強く手を握りしめた。
片手に残る、最後の一人だ。
ゆっくりと振り返れば、そこには傘を指しブランを覗き込む成不がいた。
「……成不さんッ!」
「最近は君の涙ばかり見る気がするね」
「会いたかったです……っ!」
洗礼式の事件後、とにかく治療と調査とで忙しくしていた成不とは、1週間ぶりほどになるだろうか。
彼が帝国最強の氷雨であることが分かってから、彼は白の袴を着るようになった。どうやら彼の正体を知らなかったのはブランだけでなく、殆どの人に隠していたらしい。
(雪のように真っ白な髪、グレーの優しい眼。新聞でみたままの姿だ……。本当に氷雨様なんだな)
ブランは真っ白な袴が見慣れず、抱き着きたい衝動を堪えて控えめに袴の裾を握る。
成不は困ったように笑みを浮かべた。
「私に会いたかったんだろう?じゃあ遠慮しないで」
「……!」
「退院おめでとう。もう少し安静が必要だけど、ある程度なら遊んでも平気だよ」
成不は白い衣装が血で汚れることも気にせずブランを抱きしめた。神官服から漂う冬の香りと、涼しい治癒魔法の感覚。ブランはその温もりを力いっぱい抱きしめた。
「成不さん……!僕、もう頑張れないッ!お父様がいない世界で生きる意味がないんです!なんで僕、あの時一緒に死ななかったんだろう……!」
「……侯爵のことは、心からお悔やみするよ」
成不は小さなブランを抱きかかえると歩き始めた。
「君に話があるんだ。……暖かいお茶でも飲みながら話そう」
ブランは小さく頷いた。
落ちないように回した手に白く美しい髪が触れる。ブランの褐色の肌と相まって、まるでシルクのように見えた。着物の裾から見える肌も、服も瞳も、すべて。彼を構成するすべてが白く美しい。
(僕とは正反対だ……)
――――「成不の屋敷」
てっきり神宮へ行くのかと思っていたが、成不は郊外にある小さな家へ案内した。白い石づくりの控えめな家だ。
「成不さん、ここは?」
「私の家だよ」
ブランは耳を疑った。
「成不さんの?……でも、成不さんはあの“氷雨”様なんでしょう?もっと大きなお屋敷に住んでるのかと思ってました」
「ははは!確かに特級でこんなに小さい家に住んでる人は私以外にいないね」
外観も同じく、内装も質素だ。
「……以前、成不さんは教えてくれましたよね。着飾ることも貴族の務めだって。でも成不さんは氷雨様なのに見習いのふりをしてましたし、お屋敷にもお金を掛けていません。どうしてですか?」
「神宮か皇宮に行くことが多くてこの家にはあまり帰ってこないから、お金をかけるところが無くてね。見習いの格好をしていたのは、……そうだな。——特級ほどになるとね、自由に外を歩けないし、誰かと仲良くすることも気を付けなきゃいけなくなるんだ。上級貴族は基本的にそうだけど。特級は彼らよりもずっと政治に近い。……今は理解が難しいと思うけど、私が見習いの格好をしていなかったら君を治療することは出来なかったんだよ」
成不はリビングを通り過ぎて、ブランを抱えたまま浴室へと向かった。
雨と血で濡れているためだろう。
「氷雨の姿では、こんな土砂降りに隠れてでしか君を助けてあげることができない。……無力だね」
浴室へブランを下ろすと、成不も上着を脱いだ。白い服の所々にブランの血が付いている。
「あ、血が……。ごめんなさい」
「ん?あぁ、いいんだよ。何着も持ってるから。討伐任務の時にも汚してるし、これぐらい気にしないで」
成不は汚れてしまった羽織を適当な籠に入れると、ブランの前にしゃがみ込んだ。
「ほら、お風呂に入ろう。身体が冷えてしまっているから温めないと」
「……成不さんも一緒にはいるんですか?」
「そうだよ。病み上がりだし、君お風呂の使い方わからないでしょ」
成不が手早くブランの服を脱がし始めた。
「……確かに、お風呂にはあんまり入ったことがありません」
「今まではどうしていたんだい?」
「今日みたいな雨の日は浴びるだけで楽でした。晴れてる日は井戸の水とか、近くの湖とかで水を浴びていました」
「冬はさぞかし辛かっただろう」
「冷たいけど、傷は洗わないと悪化しますから」
「……そうだね」
成不は自分も脱ぐと、ブランを連れて湯舟へ向かった。
(——あ、お風呂の形が違う?)
広い浴室には大きな木製の湯舟があるだけ。床も大理石ではなく、金属も見当たらない。しかしその空間は質素のように見えて何故か重厚感があった。
「じゃあ、龍安風の風呂を見るのは初めてだね」
成不はお湯の温度を見ながらブランへ言った。
「はい。バスタブがすごく大きいんですね」
「仲間や家族と入るために大きく作られているんだ」
「みんなで?お風呂は一人で入るものじゃないんですか?」
「龍安では信頼を確認しあうための習慣みたいなものかも。ほら、湯あみは武器が持ち込めず、最も無防備になる瞬間だろう?だから、一緒に風呂に入るということは相手のことを心から信用しているという意味になるんだ。身分も立場も着飾ったものをすべて取り払って、一人の人間として何もかもを曝け出す。“裸の付き合い”ってやつだね」
「……つまり、成不さんは僕を信用してくれているんですか?」
「もちろんだとも。……まぁ、私の能力だと逆に水場の方が強いんだけどね」
成不を見上げようとしたところで、お湯を頭から掛けられる。
湯舟から漉くって、また掛ける。
熱いくらいのお湯が今はちょうどよかった。
「さ、入るよ。熱いから気を付けて」
「……はい」
成不に抱きかかえられ、湯舟に下ろされる。
木でできた風呂はお湯から木と花の香りが漂ってきて心を穏やかにさせた。
雨の匂いとは違う、優しい香り。
「ジャスミンのいい香りだろう」
成不はブランが口を開くまで何も聞き出すことはなかった。ただお風呂を楽しんでいるように見える。
ブランは深く湯舟に座りながら聞いた。
「ねぇ成不さん……」
「ん~?」
「……成不さんはいつも僕を助けてくれますよね。お父様がいない間も、洗礼式の時も。どうして僕にここまでしてくれるんですか?」
「理由は沢山ある。——君はどうしてだと思う?」
「わかりません。僕は無知なので……」
「そんなに難しく考えなくていい。結局は生きてほしいからさ」
「——ただ、それだけ?」
「これが一番重要なんだよ。もっと意味を込めて言うと“君には生きていてもらわなければ困る”。理由は沢山あると言ったろ?」
「その沢山ある理由は、何ですか?」
「長くなるし難しい話だよ。しっかり理解してもらいたいから、君が歴史と政治を学んでから少しずつ教えていくことにしよう」
「……少しずつ、ですか」
「やっぱり理由を全部聞いてからじゃないと、私を信用できないかい?」
困ったような表情で笑う成不にブランはすぐさま首を横に振った。
「そんなまさか!!心から頼りにしてます」
「ふふっ、ありがとう。でも君が気になるのは至って当然の反応だよ。警戒するに越したことはない。……でも私は君を決して傷つけたりしないと約束するから、生きることを検討してもらえないだろうか」
ブランは首を傾げた。まるでこちらに主導権があるかの物言いだ。
ブランは生まれてこの方、自分で何かを決めたことがなかったので成不の言っている意味がわからなかった。
「君、さっき言ったろ?“もう頑張れない。お父様がいない世界で生きる意味がない”って」
成不はお湯に落ちた長い髪を高く結いながら言った。
「まだ死にたいかい?」
その言葉に先ほどまで胸を占めていた暗い気持ちが戻ってくる。
(そっか。もうお父様も侯爵邸のみんなも……)
「……生きたいとか、死にたいとか、わかりません。成不さんが傍にいてくれるのは嬉しいけど、今までの生活は全部お父様のためだった。でも今はみんな居なくなっちゃったから」
「“みんな”? ……屋敷でなにか見たのかい」
「……はい。実は——」
ブランは自分が屋敷で起こったことを包み隠さずに話した。
成不は終わるまで黙って聞き、時折こめかみを抑えた。
「——それで、もうアルフレッドさん達は……」
「……なるほど。思いのほか傷が深い」
一通りの話を聞くと、成不はブランの手を引いて湯から上がった。
「ではもう侯爵家に戻ることはないね」
「……はい」
身体をタオルで軽く拭いた後、ブランの肌に香油を塗って柔らかい生地の服を着せる。
成不も龍安領の着物を羽織り、ブランの手を引いてリビングへと向かった。
「そこで君に提案なんだが、——このまま私の家に住まないか?」
コト、と目の前にティーカップが置かれる。薄い黄緑色が美しいお茶だ。
「僕が、成不さんの家に?」
「実はね、君は最初から侯爵邸に戻ることはできなかったんだよ。本当は退院と合わせて私が迎えに行くはずだったんだけど、仕事で遅れて入れ違いになってしまった」
「……どういうことですか?」
「侯爵が亡くなった後、臨時当主の座に就いたボナパルト夫人は、葬儀の手配よりも先に君を除籍した。つまり、君はボナパルトの姓をはく奪されたということだ。家主から許可を貰わない限り、侯爵邸の敷居を跨ぐことは法的に許されなくなった」
ブランは衝動的に机を叩いた。大声を出しそうになるのを抑え、必死に唇を噛む。
(血の繋がらない僕とお父様の、唯一の絆だったのに……!)
「……落ち込むのも無理はない。君が最も愛した人の名だ」
「もう……っ本当にどうしようもなく、腹が立つんです……!名前も服もご飯も全部、お父様から貰ったもので、最初から僕の物なんてこの身体しかないけど!それでも僕のことを想ってつけてくれた名前だったのに……!お父様の息子でいられる唯一の証明だったのに……!なんで僕が一番奪われたくないものばかり……ッ!!」
ブランの伸びた犬歯が下唇を切った。それに気づかず尚も唇を噛みしめる様子に、成不はお茶を勧める。
「ボナパルトという名は君にとって初めてもらった宝物だったんだね。とても残念なことだ。しかし、彼が最期に残した言葉を覚えているか?」
「……僕の、本当の名前ですか」
「あぁ。私が君を助ける理由の一つだ」
「……あんまり覚えてません。僕はお父様と同じ家名がいいので」
成不はブランの口から垂れる血を拭って言った。
「“覚えていない”?——彼が命を懸けて遺した言葉がそんなに軽いと思うか?」
「……」
「君の本名は“ブラン・ハンニバル・バルカ”。かつてバルカ王国を納めた王族の名だ。君は現存する貴族の中で最も貴重な血を引いている」
「……“敗戦国の血”でしょう」
「君は何もわかっていないな。——まぁ正しい教育を受けていないのだから仕方がないが」
「……僕が無知なことは、僕が誰よりも知っています」
「いや、自覚できていない。君は帝国人から言われるがままのバルカ人を信じて、何も知ろうとしていない。無知よりも愚かな行動だ」
成不の目は少しだけ鋭く、怒っているように見える。
ブランは愚かだと言われたことに少し胸を痛めた。成不はいつも優しかったから突き放されたと感じたのだ。
「……ごめんなさい。でも僕には何がそんなに大事なことなのかわからないんです」
「それを今から学んでいくんだ。私と共にね。——君の敬愛する父がなぜ最も重要なことを黙っていたのか、なぜ君を助けたのか、なぜ私に託したのか。君が知らなければいけないことは山のようにある」
ブランは改めて成不とその家を見た。
小さな部屋、質素な家具、窓を叩く雨の音。
薄い光を反射する成不の白い髪が、キラキラと光っていて綺麗だ。
(成不さんは帝国中が憧れる氷雨様なのに……)
「……本当に、僕なんかがここに住んでもいいんですか?成不さんと一緒に」
「もちろんだよ。むしろそうでなくては困る」
「侯爵家を除籍された捨て犬ですけど」
ブランが自嘲すると成不は笑った。
「夫人が君を除籍したのはむしろいい流れだよ」
「いい流れ、ですか?」
「侯爵は予め、自分の死後に後見人設定の書面が最高裁判所へ届けられるよう手配してあったんだ。だから夫人が進んで除籍してくれたおかげでスムーズに後見人手続きが進んだってわけだね。ちなみに後見人は私だよ」
「成不さんが僕の後見人?いつのまに……」
「君が入院している間に書類承認は終わって、昨日、正式な文書が私のところへ届いたよ」
成不はそう言って立ち上がると、宝箱のように厳重な箱から一枚の封筒を取り出して持ってきた。
「これが、その文書ですか?」
「そう。このたった1枚の紙きれが、私と君を家族にした」
「!」
ブランはバッと顔をあげて成不を見た。
「本当に成不さんが僕の家族になってくれるんですか?」
「あぁ、もちろんだとも。さっきからそう言ってるだろう。裁判所の許可は下りたし、お風呂も一緒に入って腹を割った。これで私と君は家族も同然。——あとは君が認めてくれればいいんだけど」
“家族”という言葉に水色の瞳が宝石のように輝く。
ブランは弾かれたように立ち上がり、勢いのまま成不へ抱き着いた。
ガチャン、と茶器が鳴る。
「おっと」
「うんッ、うん!なるよ、僕は成不さんの家族になる……!」
首に回された腕は古傷が多く目立ち、細く頼りない。
成不はふと昔を思い出してブランを強く抱きしめた。
「遅れたけど、成人おめでとう」
応援ありがとうございます!
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