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第三章 「旅立ち」
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アルタイ族は水だけあれば何十日でも生き延びられる。
餓死することはまず無いが、それでも極限まで水分が失われれば体の表面は乾燥してガラス状となり、心臓は止まりそうなほど遅くになり活動状態が極限まで低くなる。そうやって充分な水分が得られるまで待っていることが出来る。永く生きることだけに主眼を置いた体の構造となっている。
「どうしたものかな」
里を出たはいいが、ウッドは何も旅の準備をしていなかったので当然食料も水も野宿する為の装備も持ち合わせてはいなかった。自分だけならまだしも同行者がいる。それも旅をするにはどう考えても向いてなさそうだ。
試しに彼女に旅の経験を訊いてみたが「楽しそう」と答えただけだった。
袋の中から頭だけを出し、本人はどういうつもりか分からないが、ウッドには何だか幼体のお守りでも押し付けられた気分になる。
ネモは物珍しそうに森の様子を見てきょろきょろとしているが、今までに一体どんなところで育ったのだろう。いやそもそも、彼女は何故あそこに居たのだ。何故ウッドの前に現れたのか。
「ネモ。お前は一体」
「あっ」
ウッドが訊ねようとしたところで、彼女はまた何かを見つけて声を上げる。アルタイ族には絶対に発することの出来ないその甲高い声はウッドの低い声を勢いよく遮った。
「今度は何だ」
「あーれ」
ネモが指差した先に居たのは鳥だった。小型の鳥で日光に照らされて毛並みが青く光るのが特徴だ。ブルーバードと呼んでいるが本当の名をウッドは知らない。そもそも以前の彼なら鳥に名があるなどという考えを持つことすら無かった。
「あれがどうかしたか」
「美しい」
ネモが上機嫌で発した言葉に、またもウッドは耳を疑った。
――うつくしい。
アルタイ族にとっては決して口にすることのない言葉だ。遥か昔に消え去った、古代人の言葉。その言葉が死んでしまったのは、今のアルタイ族にとってそれが必要ない、使わない言葉になってしまったからだ。
うつくしい。そんな言葉で表現するような容姿を持ち合わせていないし、鳥を見て何かを感じるということも無い。アルタイ族にとって言葉とは、道具であり、他者を攻撃する武器であり、多くの者を統率する為の命令であった。
「う、つ、く、しい」
自ら口に出して言ってみて、ウッドはその何とも歯がゆい感覚に笑いがこみ上げてくる。
「お前らはいつもこんな言葉を使っているのか」
ネモに言ったが、彼女は意味が分からないといった表情でぽかんとしているだけだ。
「いや、いい」
ウッドは首を振り、再び黙り込む。アルタイ族の多くはそう喋らない。無駄話はしない、といった方がいいだろう。ともかく、こういった些細な事で言葉を交わしたりはしない。森を歩いていても鳥になど関心を持たないし、鳥を見つけたところでそれは食料になるかならないか、といった判断しかしない。青い鳥は食べる部分は殆どないし、何より味が淡白でその青い羽根は弱い神経毒を含んでいる。毒矢の材料にこそなるが、あれを取って食べる者は殆どいない。
「大丈夫か」
中でもウッドは喋らない。ヤナはそんなウッドのことを「返事坊主」と揶揄した。返事しかしない墓守だからだ。
神事を司る者を卑下して「坊主」と呼ぶ。それも本物の坊主なんて殆どお目にかからない。帝国か、それに近い規模の大都市くらいにしか彼らは居ないのだ。大きな功績を残した権力者にのみ、通常は墓を作ることが認められる。弱者には何も与えられない。それがアルタイ族の掟だった。
「だいじょぶ、だよ」
彼の心配も他所に、ネモはまるで観光気分で目をくるくるとさせている。そんな様がウッドをより不安にさせる。まだよく分かっているメノの里付近の森ならいいが、この先どんな過酷な場所を旅して回らなければならないか分からない。ペグ族がどれくらい耐久力のある種族なのか分からないが、それでもどう考えても長旅は辛そうだ。それはたとえウッドが殆どの行程を彼女を背負っていたとしても、だ。
そこでふと、ウッドは思った。彼女はどこに行きたいのか。どこに行きたかったのか。それは最初の何故彼女があそこに居たのか、に戻る思考だった。
「ネモ。お前は何故」
改めて質問を投げ掛けようとして、ウッドはそれに気づいた。ネモは真っ直ぐに何かを見つめている。その視線の先にあったのは――。
「あれ、か」
大きく盛り上がった沢山の土塊と、そこから小さく精一杯に天に向かって伸びている木の芽だった。それを見て、ネモはそっと目を閉じる。口を小さく開け、周りの空気をゆっくりと吸い込んだ。
ウッドは自分の左の肩の上で何かをしようとしているネモに、ある種の予感を感じた。すうっと、彼女の声が響く。
それは何とも胸が痛くなる声だった。
歌。
彼女は歌っていた。
言葉はゆっくりと音に乗り、
風に溶け込んで流れていく。
彼にはその羅列を追いかけることは出来ないが、
空気が重量を持っていることは分かった。
足が重くなり、
また、己の瞳から雫が溢れている。
これは「悲しい」――そう言った。
そう。
悲しい。かなしい。
「何だ」
歌は消え、一瞬にして空気が凍る。
「隠れてろ」
ウッドはネモの頭を袋の中に押しやり、右手は腰の後ろに吊り下げた剣の柄を握った。
餓死することはまず無いが、それでも極限まで水分が失われれば体の表面は乾燥してガラス状となり、心臓は止まりそうなほど遅くになり活動状態が極限まで低くなる。そうやって充分な水分が得られるまで待っていることが出来る。永く生きることだけに主眼を置いた体の構造となっている。
「どうしたものかな」
里を出たはいいが、ウッドは何も旅の準備をしていなかったので当然食料も水も野宿する為の装備も持ち合わせてはいなかった。自分だけならまだしも同行者がいる。それも旅をするにはどう考えても向いてなさそうだ。
試しに彼女に旅の経験を訊いてみたが「楽しそう」と答えただけだった。
袋の中から頭だけを出し、本人はどういうつもりか分からないが、ウッドには何だか幼体のお守りでも押し付けられた気分になる。
ネモは物珍しそうに森の様子を見てきょろきょろとしているが、今までに一体どんなところで育ったのだろう。いやそもそも、彼女は何故あそこに居たのだ。何故ウッドの前に現れたのか。
「ネモ。お前は一体」
「あっ」
ウッドが訊ねようとしたところで、彼女はまた何かを見つけて声を上げる。アルタイ族には絶対に発することの出来ないその甲高い声はウッドの低い声を勢いよく遮った。
「今度は何だ」
「あーれ」
ネモが指差した先に居たのは鳥だった。小型の鳥で日光に照らされて毛並みが青く光るのが特徴だ。ブルーバードと呼んでいるが本当の名をウッドは知らない。そもそも以前の彼なら鳥に名があるなどという考えを持つことすら無かった。
「あれがどうかしたか」
「美しい」
ネモが上機嫌で発した言葉に、またもウッドは耳を疑った。
――うつくしい。
アルタイ族にとっては決して口にすることのない言葉だ。遥か昔に消え去った、古代人の言葉。その言葉が死んでしまったのは、今のアルタイ族にとってそれが必要ない、使わない言葉になってしまったからだ。
うつくしい。そんな言葉で表現するような容姿を持ち合わせていないし、鳥を見て何かを感じるということも無い。アルタイ族にとって言葉とは、道具であり、他者を攻撃する武器であり、多くの者を統率する為の命令であった。
「う、つ、く、しい」
自ら口に出して言ってみて、ウッドはその何とも歯がゆい感覚に笑いがこみ上げてくる。
「お前らはいつもこんな言葉を使っているのか」
ネモに言ったが、彼女は意味が分からないといった表情でぽかんとしているだけだ。
「いや、いい」
ウッドは首を振り、再び黙り込む。アルタイ族の多くはそう喋らない。無駄話はしない、といった方がいいだろう。ともかく、こういった些細な事で言葉を交わしたりはしない。森を歩いていても鳥になど関心を持たないし、鳥を見つけたところでそれは食料になるかならないか、といった判断しかしない。青い鳥は食べる部分は殆どないし、何より味が淡白でその青い羽根は弱い神経毒を含んでいる。毒矢の材料にこそなるが、あれを取って食べる者は殆どいない。
「大丈夫か」
中でもウッドは喋らない。ヤナはそんなウッドのことを「返事坊主」と揶揄した。返事しかしない墓守だからだ。
神事を司る者を卑下して「坊主」と呼ぶ。それも本物の坊主なんて殆どお目にかからない。帝国か、それに近い規模の大都市くらいにしか彼らは居ないのだ。大きな功績を残した権力者にのみ、通常は墓を作ることが認められる。弱者には何も与えられない。それがアルタイ族の掟だった。
「だいじょぶ、だよ」
彼の心配も他所に、ネモはまるで観光気分で目をくるくるとさせている。そんな様がウッドをより不安にさせる。まだよく分かっているメノの里付近の森ならいいが、この先どんな過酷な場所を旅して回らなければならないか分からない。ペグ族がどれくらい耐久力のある種族なのか分からないが、それでもどう考えても長旅は辛そうだ。それはたとえウッドが殆どの行程を彼女を背負っていたとしても、だ。
そこでふと、ウッドは思った。彼女はどこに行きたいのか。どこに行きたかったのか。それは最初の何故彼女があそこに居たのか、に戻る思考だった。
「ネモ。お前は何故」
改めて質問を投げ掛けようとして、ウッドはそれに気づいた。ネモは真っ直ぐに何かを見つめている。その視線の先にあったのは――。
「あれ、か」
大きく盛り上がった沢山の土塊と、そこから小さく精一杯に天に向かって伸びている木の芽だった。それを見て、ネモはそっと目を閉じる。口を小さく開け、周りの空気をゆっくりと吸い込んだ。
ウッドは自分の左の肩の上で何かをしようとしているネモに、ある種の予感を感じた。すうっと、彼女の声が響く。
それは何とも胸が痛くなる声だった。
歌。
彼女は歌っていた。
言葉はゆっくりと音に乗り、
風に溶け込んで流れていく。
彼にはその羅列を追いかけることは出来ないが、
空気が重量を持っていることは分かった。
足が重くなり、
また、己の瞳から雫が溢れている。
これは「悲しい」――そう言った。
そう。
悲しい。かなしい。
「何だ」
歌は消え、一瞬にして空気が凍る。
「隠れてろ」
ウッドはネモの頭を袋の中に押しやり、右手は腰の後ろに吊り下げた剣の柄を握った。
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