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第七章 「遥かな大地」
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孤独な旅はある種、気が楽だった。
フロスは埋めておいたウッドの剣は何故か残しておいてくれたらしく、それを掘り返し、他にも幾つか残されていた物資を頭陀袋の中に放り込み、北を目指して休まずに歩いた。
上体と下腿部を覆うだけの簡素な警備兵用の甲冑だったが、それでも何があるか分からない。この前のように突然ミスリルに襲われるかも知れない。気休め程度かも知れなかったが、多少熱かったりしてもウッドはそのまま着て旅を続けた。
暗い森。
果てしなく広大な川。
底知れぬ沼。
岩ばかりの山。
長くどこまで続くか分からない洞窟。
真っ暗な夜も、豪雨で霧むせぶ昼も、構わずに歩き続けた。
途中幾つか小さな里を見つけたが、立ち寄ることはせず、遠巻きに素通りした。
道中、何度となくネモの歌声が聴こえたような気がしたが、どれも気のせいだった。
眠っていないから流石に疲れているのかも知れない。
けれどそれでもウッドは立ち止まらなかった。彼女が居ないことが分かった瞬間、感じたことがある。まるで体の半分がごっそりと失われてしまったのかのような空虚感。それは日増しに強くなり、何故彼女から離れてしまったのだろうと、数え切れないほどの後悔をした。
ネモのことを思うだけで自然と涙が溢れ出たこともあった。
この「悲しさ」は何なのだろうか。それは今までに感じたどの「悲しみ」とも違った。ずっと強く、ずっと痛い。槍で胸を貫かれても、これほどの痛みを感じることは出来ないだろう。腕を半分斬り落とされたところで、これほどの喪失感は生まれないだろう。自分の存在がこんなにも軽く、薄っぺらになり、それと同時にどんどんネモを求める気持ちは膨らんでいった。
歩きながら見る夢にはネモが現れ、その最後にはいつも、彼女が助けを求める。「た・す・け・て」と声が出せないながらに必死にウッドを呼ぶ。それに応えようと必死に走るが、いつもウッドの手が彼女を掴む前に目が覚めた。
そんな日々を最初は数えていたが、徐々に昼夜の区別がつかなくなり、やがて日にちが過ぎるのを数えることを止めた。
風が変わったのは、それから更に何日も経ってからだった。
襟首に入り込み、そのまま全身を締め付けるような冷たい風だった。
遠くは白く煙り、それが波を打って向かってくる。気づけばウッドの着る甲冑の一部が凍っていた。
地面は禿げ上がり、僅かに残る小さな草も枯れ、踏み締める大地は薄っすらと白く霜がかっていた。ところどころに氷が張り、雪が溜まり、歩いていくほどに世界は白く、全てが銀色に変わっていくようだ。
ここが『極限の大地』と呼ばれる場所なのかも知れない。
そんな風に笑ったつもりで吐き出した息はその場で凍ってしまったように思えた。
ウッドは豪雪の中を進んだこともあるが、それでもこれほど体の機能が落ちたことは無かった。今は一歩一歩が重く、けれど動いていなければその場に氷の彫像として固まってしまいそうだった。
果たしてフロスはこんな場所を歩いて行ったのだろうか。フロスはいいとしてもネモはこんな環境で生き抜くことが出来るのだろうか。
徐々に足が上がらなくなっていく。意識も途切れがちだ。今はただ前に進むことだけだった。吹雪は止むことがなく、視界は全て白だった。歩いているのか、進んでいるのか、それすら分からない。それは絶望の砂漠の比では無かった。
寒い。ただ寒い。けれど冷たくて寒いのとは違う。もう温度など感じないほどになっていて、おそらく皮膚など凍りついてしまっているのだろう。
ウッドはただ意識のみで歩いていた。体がその通りに機能しているかどうか怪しいものだったが、それでも止める訳にはいかなかった。
ネモに会うまでは倒れない。彼女を守ると誓ったのだ。この手で、この体で。
風の音が止んだ。
吹雪は続いている。
と、どこからか、聴こえてくる。
歌か。
いや、違うか。
やはり風の音か。
闇。
音。
風。
光。
目に見えて、手に触れられるものたち。
耳に聴こえず、確かめられないものたち。
沢山のものが流れ、落ち、また流れる。
時間は無限で、有限で、世界を満たして、世界を壊す。
全てが一つに、溶け合っていた。
そこでは何もかもが一緒だった。
けれど、それはやがて二つに分かれる。
一つはウッドに。
もう一つはネモに。
やがて光は闇と分かれ、天と地が分かれ、川と陸が分かれ、山と谷が生まれ、世界が生まれた。
「お、俺は……」
目覚めるとそこは、知らない空間だった。
今までにウッドが目にしたどの壁面とも異なる。
しいて喩えれば、甲冑などを作る鉄鋼で壁を作ればこのようになるかも知れない。だがそんな技術などお目にかかったことは無い。
ここはどこだろう。ウッドは上半身を起こそうとしたが、力が入らなかった。
「動かない方がいいですよ。あなたは相当疲労していましたから」
物腰の柔らかい声だった。
「ここは」
「あなた方の言葉で言えば『極限の大地』でしたか。その、丁度地下になります」
「あんたは?」
その声の主はアルタイ族にしては小さく、ペグ族にしては大きい。膝下まですっぽりと覆うような真っ白なローブを羽織り、部屋の隅の棚の前で何やらごそごそとしている。
部屋の様子は壁がちょっと変わっている程度で、普通に四角形を組み合わせたような小部屋だった。その端にベッドが二つ、少し離れて並んでいて、一つにウッドが寝かされていた。独特の臭気は薬だろうか。だが里の調合師が作る薬ほど鼻にはつかない。清潔な感じがした。
片方の壁にはびっしりと大きな棚が並べられ、そこには小瓶がいっぱい置かれている。
「これでいいでしょう」
その声の主は振り返ると、粉末の載った紙を手にウッドに近づいてくる。
「それは何だ」
「栄養剤です。飲んで下さい」
彼はウッドにその紙と水の入ったコップを渡し、
「これを?」
尋ねたウッドに微笑んで頷いた。危険なものだとは思わなかったが、それでも飲むことには抵抗がある。ウッドはどうしたものかと思案していると、彼はまず自分の名前を口にした。
「私はユウゾウと言います。あなたが探していたユマ族の者です」
フロスは埋めておいたウッドの剣は何故か残しておいてくれたらしく、それを掘り返し、他にも幾つか残されていた物資を頭陀袋の中に放り込み、北を目指して休まずに歩いた。
上体と下腿部を覆うだけの簡素な警備兵用の甲冑だったが、それでも何があるか分からない。この前のように突然ミスリルに襲われるかも知れない。気休め程度かも知れなかったが、多少熱かったりしてもウッドはそのまま着て旅を続けた。
暗い森。
果てしなく広大な川。
底知れぬ沼。
岩ばかりの山。
長くどこまで続くか分からない洞窟。
真っ暗な夜も、豪雨で霧むせぶ昼も、構わずに歩き続けた。
途中幾つか小さな里を見つけたが、立ち寄ることはせず、遠巻きに素通りした。
道中、何度となくネモの歌声が聴こえたような気がしたが、どれも気のせいだった。
眠っていないから流石に疲れているのかも知れない。
けれどそれでもウッドは立ち止まらなかった。彼女が居ないことが分かった瞬間、感じたことがある。まるで体の半分がごっそりと失われてしまったのかのような空虚感。それは日増しに強くなり、何故彼女から離れてしまったのだろうと、数え切れないほどの後悔をした。
ネモのことを思うだけで自然と涙が溢れ出たこともあった。
この「悲しさ」は何なのだろうか。それは今までに感じたどの「悲しみ」とも違った。ずっと強く、ずっと痛い。槍で胸を貫かれても、これほどの痛みを感じることは出来ないだろう。腕を半分斬り落とされたところで、これほどの喪失感は生まれないだろう。自分の存在がこんなにも軽く、薄っぺらになり、それと同時にどんどんネモを求める気持ちは膨らんでいった。
歩きながら見る夢にはネモが現れ、その最後にはいつも、彼女が助けを求める。「た・す・け・て」と声が出せないながらに必死にウッドを呼ぶ。それに応えようと必死に走るが、いつもウッドの手が彼女を掴む前に目が覚めた。
そんな日々を最初は数えていたが、徐々に昼夜の区別がつかなくなり、やがて日にちが過ぎるのを数えることを止めた。
風が変わったのは、それから更に何日も経ってからだった。
襟首に入り込み、そのまま全身を締め付けるような冷たい風だった。
遠くは白く煙り、それが波を打って向かってくる。気づけばウッドの着る甲冑の一部が凍っていた。
地面は禿げ上がり、僅かに残る小さな草も枯れ、踏み締める大地は薄っすらと白く霜がかっていた。ところどころに氷が張り、雪が溜まり、歩いていくほどに世界は白く、全てが銀色に変わっていくようだ。
ここが『極限の大地』と呼ばれる場所なのかも知れない。
そんな風に笑ったつもりで吐き出した息はその場で凍ってしまったように思えた。
ウッドは豪雪の中を進んだこともあるが、それでもこれほど体の機能が落ちたことは無かった。今は一歩一歩が重く、けれど動いていなければその場に氷の彫像として固まってしまいそうだった。
果たしてフロスはこんな場所を歩いて行ったのだろうか。フロスはいいとしてもネモはこんな環境で生き抜くことが出来るのだろうか。
徐々に足が上がらなくなっていく。意識も途切れがちだ。今はただ前に進むことだけだった。吹雪は止むことがなく、視界は全て白だった。歩いているのか、進んでいるのか、それすら分からない。それは絶望の砂漠の比では無かった。
寒い。ただ寒い。けれど冷たくて寒いのとは違う。もう温度など感じないほどになっていて、おそらく皮膚など凍りついてしまっているのだろう。
ウッドはただ意識のみで歩いていた。体がその通りに機能しているかどうか怪しいものだったが、それでも止める訳にはいかなかった。
ネモに会うまでは倒れない。彼女を守ると誓ったのだ。この手で、この体で。
風の音が止んだ。
吹雪は続いている。
と、どこからか、聴こえてくる。
歌か。
いや、違うか。
やはり風の音か。
闇。
音。
風。
光。
目に見えて、手に触れられるものたち。
耳に聴こえず、確かめられないものたち。
沢山のものが流れ、落ち、また流れる。
時間は無限で、有限で、世界を満たして、世界を壊す。
全てが一つに、溶け合っていた。
そこでは何もかもが一緒だった。
けれど、それはやがて二つに分かれる。
一つはウッドに。
もう一つはネモに。
やがて光は闇と分かれ、天と地が分かれ、川と陸が分かれ、山と谷が生まれ、世界が生まれた。
「お、俺は……」
目覚めるとそこは、知らない空間だった。
今までにウッドが目にしたどの壁面とも異なる。
しいて喩えれば、甲冑などを作る鉄鋼で壁を作ればこのようになるかも知れない。だがそんな技術などお目にかかったことは無い。
ここはどこだろう。ウッドは上半身を起こそうとしたが、力が入らなかった。
「動かない方がいいですよ。あなたは相当疲労していましたから」
物腰の柔らかい声だった。
「ここは」
「あなた方の言葉で言えば『極限の大地』でしたか。その、丁度地下になります」
「あんたは?」
その声の主はアルタイ族にしては小さく、ペグ族にしては大きい。膝下まですっぽりと覆うような真っ白なローブを羽織り、部屋の隅の棚の前で何やらごそごそとしている。
部屋の様子は壁がちょっと変わっている程度で、普通に四角形を組み合わせたような小部屋だった。その端にベッドが二つ、少し離れて並んでいて、一つにウッドが寝かされていた。独特の臭気は薬だろうか。だが里の調合師が作る薬ほど鼻にはつかない。清潔な感じがした。
片方の壁にはびっしりと大きな棚が並べられ、そこには小瓶がいっぱい置かれている。
「これでいいでしょう」
その声の主は振り返ると、粉末の載った紙を手にウッドに近づいてくる。
「それは何だ」
「栄養剤です。飲んで下さい」
彼はウッドにその紙と水の入ったコップを渡し、
「これを?」
尋ねたウッドに微笑んで頷いた。危険なものだとは思わなかったが、それでも飲むことには抵抗がある。ウッドはどうしたものかと思案していると、彼はまず自分の名前を口にした。
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