3 / 4
3
しおりを挟む
「日奈子、ごめんなさい」
琴海は席から立ち上がると、深々と頭を垂れた。
「じゃあ、やっぱりほんとに不倫してたの?」
「何を言っても理解してもらえないとは思うけれど、日奈子の目にはそう映っても仕方ないと思ってる」
「琴海さん」
琴海、さん? ――娘は雄吾の言葉を鸚鵡返しにして、表情を引きつらせた。明らかに嫌悪している。けれど彼の方は淡々としたものだ。
「先に勘定を払っておくよ」
レシートを手に席を立ち、レジに並びに行ってしまった。
残された琴海は睨むようにして自分を見ている娘に「出ましょうか」と口にするのが精一杯だった。
調布にある深大寺は蕎麦とだるまで有名な寺院だ。何でもあの西遊記に出てくる三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵を守護した深沙大王がその由来らしい。都内では浅草寺に次ぐ古い歴史を持つ古刹で、毎年このそばまつりの時期には多くの人が集まる。
境内にやってくると既に人だかりが出来、そば守観音供養祭が始まっていた。本殿の前、砂利の敷かれた上に椅子と机が並び、白装束に身を包んだ僧たちが蕎麦を打っている。集まっている人たちは手にしたスマートフォンで何度も写真を撮り、その度に拍手のような音が湧いた。
「日奈子ちゃんは、僕たちのことをどこまで調べたのかな」
その野次馬の列から少し離れたところに立ち、娘を前にして琴海と雄吾は険しい表情を浮かべている。
「全部よ。それにその“日奈子ちゃん”て気持ち悪いから」
「ああ、すまない。では日奈子さん。君はどこまで知っている?」
「三十六年前の長屋火災事件」
「そこまでは調べたのか。よくがんばったね」
「がんばったって何? 保村雄吾さん。あなたが火を点けたんでしょう? そしてお母さんとあなたの家族を焼き払った。そうなんでしょう?」
「日奈子、それは」
「ああ、そうだよ」
「雄吾さん?」
「僕は、家族を殺した」
やっぱり――そう呟いて娘は琴海を見た。けれどその琴海は不可解な表情を雄吾に向けている。
「新聞記事に載っていたのは火事で長屋が全焼したこと、そこに暮らしていたうち二家族がほぼ全員死んだこと、生き残った子どもがそれぞれ一人ずついたこと、くらいだろうか。当時もね、いかつい顔の刑事が僕が預けられた施設を何度も訪れていたよ。けれどまだ八歳の子どもが悪意をもって火を放ったというストーリーは、多くの大人には受け入れられなかったようだ。実際、現場を調べた捜査官からも僕の父親のジャンバーがストーブに落ちて激しく燃えた形跡があったと言っていたしね」
「そんなの、目撃者が自分と母さんしかいないなら、分からないじゃない」
「日奈子」
「母さんはさ、黙って見逃したのなら共犯なんだよ? 自分の親を殺す手伝いをしたってことなんだよ?」
「僕の家族も、琴海さんの家族も、酷いものだった。君にとって家族は憎むべきものじゃないだろう? けれどね、世の中には愛なんてものもなく、ただひたすらにここから逃げ出したいという、そういう家庭だってあるんだよ」
琴海は雄吾の、普段にない強い語気から、あの頃、怯えながら夜を過ごした日々を思い返していた。
まだ琴海も雄吾も、互いに名前を漢字で書けなかった頃だ。長屋とは呼ばれていなかったが、薄い壁と共同のトイレ、風呂は近所に銭湯があり、そこを使うしかなかった。雄吾の父親は現場仕事で稼いだ金をすぐに博打に突っ込む、貧乏神の化身のような男だった。母親はそんな父親の愚痴を酒の肴にして、雄吾たち子ども相手に管を巻いている女だった。
琴海の方はシングルマザーで、詳しくは知らないが水商売をしている女性だった。だから父親の顔を彼女は知らない。いつも父親だと紹介された男性は異なる人間で、男がいないと駄目な女だった。その上、子どもを酷く毛嫌いしていた。
年の瀬のある日だ。琴海は眠れなくて、雄吾にそっと合図をする。壁を一定のリズムで三度、叩くのだ。彼も同じリズムで繰り返す。
最初の頃はただそれだけで良かった。誰かが自分の境遇を理解してくれている。ただ一人でも味方が傍にいる。そう感じられるだけでその一日を生き延びることが出来た。
それがいつしか二人でこっそりと長屋を抜け出すようになり、その日も、寒空の下、彼が持ち出した薄い毛布を二人で巻いて、夜空を見上げていた。冬は空が澄んでいてよく星が見えるらしい。大きな三角形を形成するシリウス、プロキオン、ベテルギウスの一等星。そのベテルギウスを中心にカペラ、アルデバラン、リゲル、シリウス、プロキオン、ポルックスで形成されるダイヤモンド。今でも当時のことを思い出して、琴海は夜空を見上げていた。
火事に気づいたのは消防車のサイレンを耳にしてからだった。長屋の前に戻った時には既に、どうしようもないくらい大きな火の手となって、建物は真っ赤に燃えていた。
そう。赤だ。
あれほど綺麗で恐ろしい赤は人生で未だに目にしていない。
「証拠はない。ただ殺したいと思っていたのは確かだ。仮に放火罪が成立したとしても既に当時の時効十五年は過ぎているし、今更蒸し返されても誰も得をする人間なんていない。君がどう思うか、という問題が残るが、それだけだろう?」
「違う」
日奈子は強く首を左右に振る。
「母さんをその件で脅しているんでしょう? わたしにとっては大きな問題だわ」
「琴海さん。君は僕に脅されているそうだよ」
「ねえ、日奈子。本当に違うのよ。あれは」
「じゃあ何で? なんで十年間も二人でこそこそこんなところで出会ったりしていたのよ! わたしずっとおかしいと思ってたんだよ?」
琴海は席から立ち上がると、深々と頭を垂れた。
「じゃあ、やっぱりほんとに不倫してたの?」
「何を言っても理解してもらえないとは思うけれど、日奈子の目にはそう映っても仕方ないと思ってる」
「琴海さん」
琴海、さん? ――娘は雄吾の言葉を鸚鵡返しにして、表情を引きつらせた。明らかに嫌悪している。けれど彼の方は淡々としたものだ。
「先に勘定を払っておくよ」
レシートを手に席を立ち、レジに並びに行ってしまった。
残された琴海は睨むようにして自分を見ている娘に「出ましょうか」と口にするのが精一杯だった。
調布にある深大寺は蕎麦とだるまで有名な寺院だ。何でもあの西遊記に出てくる三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵を守護した深沙大王がその由来らしい。都内では浅草寺に次ぐ古い歴史を持つ古刹で、毎年このそばまつりの時期には多くの人が集まる。
境内にやってくると既に人だかりが出来、そば守観音供養祭が始まっていた。本殿の前、砂利の敷かれた上に椅子と机が並び、白装束に身を包んだ僧たちが蕎麦を打っている。集まっている人たちは手にしたスマートフォンで何度も写真を撮り、その度に拍手のような音が湧いた。
「日奈子ちゃんは、僕たちのことをどこまで調べたのかな」
その野次馬の列から少し離れたところに立ち、娘を前にして琴海と雄吾は険しい表情を浮かべている。
「全部よ。それにその“日奈子ちゃん”て気持ち悪いから」
「ああ、すまない。では日奈子さん。君はどこまで知っている?」
「三十六年前の長屋火災事件」
「そこまでは調べたのか。よくがんばったね」
「がんばったって何? 保村雄吾さん。あなたが火を点けたんでしょう? そしてお母さんとあなたの家族を焼き払った。そうなんでしょう?」
「日奈子、それは」
「ああ、そうだよ」
「雄吾さん?」
「僕は、家族を殺した」
やっぱり――そう呟いて娘は琴海を見た。けれどその琴海は不可解な表情を雄吾に向けている。
「新聞記事に載っていたのは火事で長屋が全焼したこと、そこに暮らしていたうち二家族がほぼ全員死んだこと、生き残った子どもがそれぞれ一人ずついたこと、くらいだろうか。当時もね、いかつい顔の刑事が僕が預けられた施設を何度も訪れていたよ。けれどまだ八歳の子どもが悪意をもって火を放ったというストーリーは、多くの大人には受け入れられなかったようだ。実際、現場を調べた捜査官からも僕の父親のジャンバーがストーブに落ちて激しく燃えた形跡があったと言っていたしね」
「そんなの、目撃者が自分と母さんしかいないなら、分からないじゃない」
「日奈子」
「母さんはさ、黙って見逃したのなら共犯なんだよ? 自分の親を殺す手伝いをしたってことなんだよ?」
「僕の家族も、琴海さんの家族も、酷いものだった。君にとって家族は憎むべきものじゃないだろう? けれどね、世の中には愛なんてものもなく、ただひたすらにここから逃げ出したいという、そういう家庭だってあるんだよ」
琴海は雄吾の、普段にない強い語気から、あの頃、怯えながら夜を過ごした日々を思い返していた。
まだ琴海も雄吾も、互いに名前を漢字で書けなかった頃だ。長屋とは呼ばれていなかったが、薄い壁と共同のトイレ、風呂は近所に銭湯があり、そこを使うしかなかった。雄吾の父親は現場仕事で稼いだ金をすぐに博打に突っ込む、貧乏神の化身のような男だった。母親はそんな父親の愚痴を酒の肴にして、雄吾たち子ども相手に管を巻いている女だった。
琴海の方はシングルマザーで、詳しくは知らないが水商売をしている女性だった。だから父親の顔を彼女は知らない。いつも父親だと紹介された男性は異なる人間で、男がいないと駄目な女だった。その上、子どもを酷く毛嫌いしていた。
年の瀬のある日だ。琴海は眠れなくて、雄吾にそっと合図をする。壁を一定のリズムで三度、叩くのだ。彼も同じリズムで繰り返す。
最初の頃はただそれだけで良かった。誰かが自分の境遇を理解してくれている。ただ一人でも味方が傍にいる。そう感じられるだけでその一日を生き延びることが出来た。
それがいつしか二人でこっそりと長屋を抜け出すようになり、その日も、寒空の下、彼が持ち出した薄い毛布を二人で巻いて、夜空を見上げていた。冬は空が澄んでいてよく星が見えるらしい。大きな三角形を形成するシリウス、プロキオン、ベテルギウスの一等星。そのベテルギウスを中心にカペラ、アルデバラン、リゲル、シリウス、プロキオン、ポルックスで形成されるダイヤモンド。今でも当時のことを思い出して、琴海は夜空を見上げていた。
火事に気づいたのは消防車のサイレンを耳にしてからだった。長屋の前に戻った時には既に、どうしようもないくらい大きな火の手となって、建物は真っ赤に燃えていた。
そう。赤だ。
あれほど綺麗で恐ろしい赤は人生で未だに目にしていない。
「証拠はない。ただ殺したいと思っていたのは確かだ。仮に放火罪が成立したとしても既に当時の時効十五年は過ぎているし、今更蒸し返されても誰も得をする人間なんていない。君がどう思うか、という問題が残るが、それだけだろう?」
「違う」
日奈子は強く首を左右に振る。
「母さんをその件で脅しているんでしょう? わたしにとっては大きな問題だわ」
「琴海さん。君は僕に脅されているそうだよ」
「ねえ、日奈子。本当に違うのよ。あれは」
「じゃあ何で? なんで十年間も二人でこそこそこんなところで出会ったりしていたのよ! わたしずっとおかしいと思ってたんだよ?」
0
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
冷たい王妃の生活
柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。
三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。
王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。
孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。
「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。
自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。
やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。
嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる