鎮火

凪司工房

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「日奈子、ごめんなさい」

 琴海は席から立ち上がると、深々とこうべを垂れた。

「じゃあ、やっぱりほんとに不倫してたの?」
「何を言っても理解してもらえないとは思うけれど、日奈子の目にはそう映っても仕方ないと思ってる」
「琴海さん」

 琴海、さん? ――娘は雄吾の言葉を鸚鵡返おうむがえしにして、表情を引きつらせた。明らかに嫌悪している。けれど彼の方は淡々としたものだ。

「先に勘定を払っておくよ」

 レシートを手に席を立ち、レジに並びに行ってしまった。
 残された琴海は睨むようにして自分を見ている娘に「出ましょうか」と口にするのが精一杯だった。
 
 調布にある深大寺は蕎麦とだるまで有名な寺院だ。何でもあの西遊記に出てくる三蔵法師のモデルになった玄奘三蔵げんじょうさんぞうを守護した深沙大王じんじゃだいおうがその由来らしい。都内では浅草寺に次ぐ古い歴史を持つ古刹で、毎年このそばまつりの時期には多くの人が集まる。
 
 境内にやってくると既に人だかりが出来、そば守観音供養祭が始まっていた。本殿の前、砂利の敷かれた上に椅子と机が並び、白装束に身を包んだ僧たちが蕎麦を打っている。集まっている人たちは手にしたスマートフォンで何度も写真を撮り、その度に拍手のような音が湧いた。

「日奈子ちゃんは、僕たちのことをどこまで調べたのかな」

 その野次馬の列から少し離れたところに立ち、娘を前にして琴海と雄吾は険しい表情を浮かべている。

「全部よ。それにその“日奈子ちゃん”て気持ち悪いから」
「ああ、すまない。では日奈子さん。君はどこまで知っている?」
「三十六年前の長屋火災事件」
「そこまでは調べたのか。よくがんばったね」
「がんばったって何? 保村雄吾さん。あなたが火を点けたんでしょう? そしてお母さんとあなたの家族を焼き払った。そうなんでしょう?」
「日奈子、それは」
「ああ、そうだよ」
「雄吾さん?」
「僕は、家族を殺した」

 やっぱり――そう呟いて娘は琴海を見た。けれどその琴海は不可解な表情を雄吾に向けている。

「新聞記事に載っていたのは火事で長屋が全焼したこと、そこに暮らしていたうち二家族がほぼ全員死んだこと、生き残った子どもがそれぞれ一人ずついたこと、くらいだろうか。当時もね、いかつい顔の刑事が僕が預けられた施設を何度も訪れていたよ。けれどまだ八歳の子どもが悪意をもって火を放ったというストーリーは、多くの大人には受け入れられなかったようだ。実際、現場を調べた捜査官からも僕の父親のジャンバーがストーブに落ちて激しく燃えた形跡があったと言っていたしね」
「そんなの、目撃者が自分と母さんしかいないなら、分からないじゃない」
「日奈子」
「母さんはさ、黙って見逃したのなら共犯なんだよ? 自分の親を殺す手伝いをしたってことなんだよ?」
「僕の家族も、琴海さんの家族も、酷いものだった。君にとって家族は憎むべきものじゃないだろう? けれどね、世の中には愛なんてものもなく、ただひたすらにここから逃げ出したいという、そういう家庭だってあるんだよ」

 琴海は雄吾の、普段にない強い語気から、あの頃、怯えながら夜を過ごした日々を思い返していた。
 
 まだ琴海も雄吾も、互いに名前を漢字で書けなかった頃だ。長屋とは呼ばれていなかったが、薄い壁と共同のトイレ、風呂は近所に銭湯があり、そこを使うしかなかった。雄吾の父親は現場仕事で稼いだ金をすぐに博打に突っ込む、貧乏神の化身のような男だった。母親はそんな父親の愚痴を酒のさかなにして、雄吾たち子ども相手に管を巻いている女だった。
 琴海の方はシングルマザーで、詳しくは知らないが水商売をしている女性だった。だから父親の顔を彼女は知らない。いつも父親だと紹介された男性は異なる人間で、男がいないと駄目な女だった。その上、子どもを酷く毛嫌いしていた。
 
 年の瀬のある日だ。琴海は眠れなくて、雄吾にそっと合図をする。壁を一定のリズムで三度、叩くのだ。彼も同じリズムで繰り返す。
 最初の頃はただそれだけで良かった。誰かが自分の境遇を理解してくれている。ただ一人でも味方が傍にいる。そう感じられるだけでその一日を生き延びることが出来た。
 それがいつしか二人でこっそりと長屋を抜け出すようになり、その日も、寒空の下、彼が持ち出した薄い毛布を二人で巻いて、夜空を見上げていた。冬は空が澄んでいてよく星が見えるらしい。大きな三角形を形成するシリウス、プロキオン、ベテルギウスの一等星。そのベテルギウスを中心にカペラ、アルデバラン、リゲル、シリウス、プロキオン、ポルックスで形成されるダイヤモンド。今でも当時のことを思い出して、琴海は夜空を見上げていた。
 火事に気づいたのは消防車のサイレンを耳にしてからだった。長屋の前に戻った時には既に、どうしようもないくらい大きな火の手となって、建物は真っ赤に燃えていた。
 そう。赤だ。
 あれほど綺麗で恐ろしい赤は人生で未だに目にしていない。

「証拠はない。ただ殺したいと思っていたのは確かだ。仮に放火罪が成立したとしても既に当時の時効十五年は過ぎているし、今更蒸し返されても誰も得をする人間なんていない。君がどう思うか、という問題が残るが、それだけだろう?」
「違う」

 日奈子は強く首を左右に振る。

「母さんをその件で脅しているんでしょう? わたしにとっては大きな問題だわ」
「琴海さん。君は僕に脅されているそうだよ」
「ねえ、日奈子。本当に違うのよ。あれは」
「じゃあ何で? なんで十年間も二人でこそこそこんなところで出会ったりしていたのよ! わたしずっとおかしいと思ってたんだよ?」
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