2 / 100
第壱乃段
人形師の女
しおりを挟む
約束してね、と女は言った。
陰鬱とした暗がりの森の小路を抜けた先に彼岸花が目立つ庭が広がった。その奥に見える二階建ての洋館が女の住居らしい。男はそれを見上げて笑み、彼女に促されるまま玄関を潜った。出会いは取材の場だった。彼女は若き人形師として一部で名を知られ、作家志望の男は一度話を聞きたいと思っていた。偶然個展のチケットが手に入り、何度か会う内に徐々に惹かれていった。
案内されたのは彼女の仕事部屋だった。黒光りする木戸が音もせずに開くと、入ってきた彼女はティーセットをテーブルに置き、男がまじまじと見つめているその巨大な箱まで歩いてくる。
「これは個展に出さないのか?」
透明な箱の中には等身大の男性の人形が収められていた。彼女の作品はそのリアルさ以上に指から髪の毛一本一本に至る丁寧な仕事ぶりが評価されていたが、今目の前にいる人形は個展で見たものとは全然違う迫力だ。苦悶に満ちた表情で必死に何かを訴えかけている。彼女は首を横に振る。
「これはとても大切なものなの」
そうか、と頷いた男は紅茶を一口飲み、改めて人形を見る。その男の背に向け、彼女は尋ねた。
「ところでどうしてあの方とキスなんてされたの?」
男は一瞬背筋を伸ばした。それが予期していた質問だったからだ。
「酒の席で断りきれなかったというのもある。その場のノリというのかな。けど安心して欲しい。彼女とは何もない」
「覚えていらっしゃいますか、約束」
それは女が付き合う時に男と交わした「浮気はしない」という文言のことだった。
「たった一度のことだろう?」
「たった一度」
彼女は言葉を重ねる。
「その一度で充分だと、私は思うのです」
涼しげな声だったが女の表情は真剣そのものだ。眉を立てることも寝かすこともせず、ただ真っ直ぐ向けられたその視線に男はたじろいだ。
「白い布を汚すには一滴の墨汁があれば良い、そう思いませんか?」
彼女の涼やかな表情に男は何も答えず視線を床に向けようとしたが、急な目眩だった。舌先から痺れを感じ、そのままカップを落としてしまう。歩く為の足は出ず、床板に強か右頬を打ち付けたが、その痛みすら感じないまま意識は闇に沈んでいった。
◆
「ここが君の仕事部屋か。この箱は?」
「新作を入れる為の箱よ」
女は案内した白シャツの男性に紅茶を勧めながら、こう口にした。
「一つ、約束して欲しいの。浮気はしない、と」
男の足元の絨毯には黒くなった小さな染みが残っていた。
陰鬱とした暗がりの森の小路を抜けた先に彼岸花が目立つ庭が広がった。その奥に見える二階建ての洋館が女の住居らしい。男はそれを見上げて笑み、彼女に促されるまま玄関を潜った。出会いは取材の場だった。彼女は若き人形師として一部で名を知られ、作家志望の男は一度話を聞きたいと思っていた。偶然個展のチケットが手に入り、何度か会う内に徐々に惹かれていった。
案内されたのは彼女の仕事部屋だった。黒光りする木戸が音もせずに開くと、入ってきた彼女はティーセットをテーブルに置き、男がまじまじと見つめているその巨大な箱まで歩いてくる。
「これは個展に出さないのか?」
透明な箱の中には等身大の男性の人形が収められていた。彼女の作品はそのリアルさ以上に指から髪の毛一本一本に至る丁寧な仕事ぶりが評価されていたが、今目の前にいる人形は個展で見たものとは全然違う迫力だ。苦悶に満ちた表情で必死に何かを訴えかけている。彼女は首を横に振る。
「これはとても大切なものなの」
そうか、と頷いた男は紅茶を一口飲み、改めて人形を見る。その男の背に向け、彼女は尋ねた。
「ところでどうしてあの方とキスなんてされたの?」
男は一瞬背筋を伸ばした。それが予期していた質問だったからだ。
「酒の席で断りきれなかったというのもある。その場のノリというのかな。けど安心して欲しい。彼女とは何もない」
「覚えていらっしゃいますか、約束」
それは女が付き合う時に男と交わした「浮気はしない」という文言のことだった。
「たった一度のことだろう?」
「たった一度」
彼女は言葉を重ねる。
「その一度で充分だと、私は思うのです」
涼しげな声だったが女の表情は真剣そのものだ。眉を立てることも寝かすこともせず、ただ真っ直ぐ向けられたその視線に男はたじろいだ。
「白い布を汚すには一滴の墨汁があれば良い、そう思いませんか?」
彼女の涼やかな表情に男は何も答えず視線を床に向けようとしたが、急な目眩だった。舌先から痺れを感じ、そのままカップを落としてしまう。歩く為の足は出ず、床板に強か右頬を打ち付けたが、その痛みすら感じないまま意識は闇に沈んでいった。
◆
「ここが君の仕事部屋か。この箱は?」
「新作を入れる為の箱よ」
女は案内した白シャツの男性に紅茶を勧めながら、こう口にした。
「一つ、約束して欲しいの。浮気はしない、と」
男の足元の絨毯には黒くなった小さな染みが残っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
麗しき未亡人
石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。
そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。
他サイトにも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる