97 / 100
第十乃段
外は雨、コーヒーの湯気
しおりを挟む
目を閉じると雨とドリッパーの上で小さく弾けるコーヒーの泡の音だけが耳に入ってくる。白髪の混ざる初老の店主は誰もいない店内を見て、今日は遅いな、と思った。
時刻は十時五十二分。十一時でモーニングが終わり、ランチタイムに切り替わる。
彼は小説家らしい。
店主は小説というものを殆《ほとん》ど読まないから、彼の作品のことをよく知らない。偶に明るい髪色の女性の方がやってきて相談しているのを見ると、一部で支持されているものの売れていない、という評価のようだ。
彼はいつも窓際ではなく一番奥の席に背を向けて座る。世間から顔を隠すようにして持ってきたノートパソコンを広げると、ああでもないこうでもないとぶつぶつと言いながら、キーボードを打ち込む。店内には彼の打鍵音とお代わりのコーヒーを落とす音だけが響く。
そんな空間と時間を店主は愛していた。
「あの、すみません」
初めて見る顔だった。女性客が入口のドアを開け、覗き込むようにして声を掛けた。
「お一人様ですね?」
「あ、いえ。その」
彼女は口ごもってから申し訳なさそうに「ここで働かせてくれませんか」と言った。
アルバイトやパートの募集は出していない。店主の男は彼女にそのことを伝えたが、彼女の方は「お金は要りませんから」とまで言い出す。
何か訳ありなのだろう。
しばらく様子を見るということで、簡単な仕事の手順を教えて少し働いてもらうことにした。
ただこの日、午後になっても彼は店に現れなかった。
その週末は珍しく客の多い日だった。朝から一日雨で、雨宿りをしていく人がいたからだろう。
彼女はすぐに仕事を覚え、教えなくてもあれこれと自分で工夫して、店主はただコーヒーを淹れ、ケーキを出したり、サンドイッチを作ったりするだけで良かった。洗い物も彼女が隙を見てやってくれた。
その雨は更に一週間ほど続いた。
やっと晴れ間が見えたと思ったその日の朝、ようやく彼が店に姿を現した。
疲れた様子で顔色も悪い。姿勢も背中が曲がり、店に入ってきた瞬間に倒れてしまうんじゃないかと思ったくらいだ。
彼は「ホットとクラブハウスサンド」とぼそりと告げ、決まった席へと歩いていく。いつもと違っていたのはその注文を受けたのが彼女だったことだ。
「いつものホットコーヒーとクラブハウスサンドですね。かしこまりました」
その声に驚いた彼は、照れたように「それでお願いします」と言ってから、やはり背を向けてノートパソコンを鞄から取り出した。
時刻は十時五十二分。十一時でモーニングが終わり、ランチタイムに切り替わる。
彼は小説家らしい。
店主は小説というものを殆《ほとん》ど読まないから、彼の作品のことをよく知らない。偶に明るい髪色の女性の方がやってきて相談しているのを見ると、一部で支持されているものの売れていない、という評価のようだ。
彼はいつも窓際ではなく一番奥の席に背を向けて座る。世間から顔を隠すようにして持ってきたノートパソコンを広げると、ああでもないこうでもないとぶつぶつと言いながら、キーボードを打ち込む。店内には彼の打鍵音とお代わりのコーヒーを落とす音だけが響く。
そんな空間と時間を店主は愛していた。
「あの、すみません」
初めて見る顔だった。女性客が入口のドアを開け、覗き込むようにして声を掛けた。
「お一人様ですね?」
「あ、いえ。その」
彼女は口ごもってから申し訳なさそうに「ここで働かせてくれませんか」と言った。
アルバイトやパートの募集は出していない。店主の男は彼女にそのことを伝えたが、彼女の方は「お金は要りませんから」とまで言い出す。
何か訳ありなのだろう。
しばらく様子を見るということで、簡単な仕事の手順を教えて少し働いてもらうことにした。
ただこの日、午後になっても彼は店に現れなかった。
その週末は珍しく客の多い日だった。朝から一日雨で、雨宿りをしていく人がいたからだろう。
彼女はすぐに仕事を覚え、教えなくてもあれこれと自分で工夫して、店主はただコーヒーを淹れ、ケーキを出したり、サンドイッチを作ったりするだけで良かった。洗い物も彼女が隙を見てやってくれた。
その雨は更に一週間ほど続いた。
やっと晴れ間が見えたと思ったその日の朝、ようやく彼が店に姿を現した。
疲れた様子で顔色も悪い。姿勢も背中が曲がり、店に入ってきた瞬間に倒れてしまうんじゃないかと思ったくらいだ。
彼は「ホットとクラブハウスサンド」とぼそりと告げ、決まった席へと歩いていく。いつもと違っていたのはその注文を受けたのが彼女だったことだ。
「いつものホットコーヒーとクラブハウスサンドですね。かしこまりました」
その声に驚いた彼は、照れたように「それでお願いします」と言ってから、やはり背を向けてノートパソコンを鞄から取り出した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
マグカップ
高本 顕杜
大衆娯楽
マグカップが割れた――それは、亡くなった妻からのプレゼントだった 。
龍造は、マグカップを床に落として割ってしまった。そのマグカップは、病気で亡くなった妻の倫子が、いつかのプレゼントでくれた物だった。しかし、伸ばされた手は破片に触れることなく止まった。
――いや、もういいか……捨てよう。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる