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第五話「私らしく」
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「それじゃあ、一月ほどの間、ずっと彼女たちIFの姿は見えていない訳だね?」
診察室には向日葵の絵が飾られていて、私はそれを眺めながら三浦先生の質問に答えていく。
「岩根さんが見たという別のIFだけれど、彼が現れてから何か大きな変化はありましたか?」
「よく分かりません。私自身はそう変わっていないようにも思いますが、先生から見て何か違いがありますか?」
自分の変化なんて、そう簡単に自覚できるのなら、私はもっと上手く生きられている気がする。大学も、サークルも、仕事も、家族のことも、何もかもが大きな変化なんてない。ただ椚木先輩のように私以外の変化はあったり、斉藤さんみたいに新しい人間関係が生まれたりはしたけれど、それが私自身に大きな影響を与えたとも思えない。
「特別な違いは感じませんが、そうですね」
先生はうっすら伸びた顎髭を撫でてから、眼鏡の目を私に向けていつにない優しい笑みを見せてこう続けた。
「部屋に入ってくる時に、私の目を見てから挨拶をしていました。以前は決して私の目を見ませんでしたから、変化といえば変化でしょうか」
そうなのだろうか。自分では意識したことがなかった。もしそれが誰かの影響だとすれば、いつも真っ直ぐに私を見つめてくれた子犬のような目の彼の所為かも知れない。
「それでは次は三ヶ月後で良いですかね」
「はい。次も宜しくお願いします」
そう答えて頭を軽く下げた私を、何故か先生は驚いた顔で見ていた。
クリニックを出ると、うろこ状になった雲が青い空に綺麗に並んでいた。
人通りの少ない路地を、駅に向かって歩き出す。
スニーカーの足音は自分にだけ響いて、それはたぶん普通のことなのだろうけれど、この一月ばかり、ふとした瞬間に訪れる「わたし」という感覚に戸惑っていた。
きっと誰もが生まれながらにして持っていて、それは「ワタシ」でも「私」でもなく「わたし」なのだけれど、いつからかそれが「私」だったり「僕」だったり或いはもっと他の、その場限りの自分になるのだろう。
わたしがその場専用のワタシになる。
きっとそんな器用さでみんなは迷うこともなく生きている。
でも時々私のような、上手くその場の自分を繕えなくて、どうしていいのか分からないまま、他人と距離を離すことで何とかやりくりしなければいけないような、そんな人もいる。
私にとってきょう子やキョウコの存在は、わたしやワタシを上手く扱えない私という人間を助ける為の、世界からの贈り物だったのかも知れない。
大通りに出ると急に車の音や人の声がよく響いてきて、私は一瞬自分の存在を見失いそうに感じたが、立ち止まり、ゆっくりと空を見上げてから呼吸を整え、今一度視線を戻すと、鼓動も気持ちも落ち着きを取り戻していた。
駅を目指して歩いていく。
すれ違う人、追い抜いていく人、コンビニに入っていく人、タクシーを呼び止めている人、待ち合わせをしているカップル、ベビィカーを押している母親、ハンカチで額を拭うスーツの男性、台車を押して走っていく運送会社の人、そして私の目の前で立ち止まったシャツの少年。
振り返った彼は少しだけ翔太郎に似ている気がしたが、私の脇を素通りしていく。
振り返ると小学生たちの待ち合わせの群れに彼が合流していて、楽しそうな笑い声を上げていた。
私は彼らに背を向けて、歩いていく。
わたしで、
ワタシで、
私らしく。(了)
診察室には向日葵の絵が飾られていて、私はそれを眺めながら三浦先生の質問に答えていく。
「岩根さんが見たという別のIFだけれど、彼が現れてから何か大きな変化はありましたか?」
「よく分かりません。私自身はそう変わっていないようにも思いますが、先生から見て何か違いがありますか?」
自分の変化なんて、そう簡単に自覚できるのなら、私はもっと上手く生きられている気がする。大学も、サークルも、仕事も、家族のことも、何もかもが大きな変化なんてない。ただ椚木先輩のように私以外の変化はあったり、斉藤さんみたいに新しい人間関係が生まれたりはしたけれど、それが私自身に大きな影響を与えたとも思えない。
「特別な違いは感じませんが、そうですね」
先生はうっすら伸びた顎髭を撫でてから、眼鏡の目を私に向けていつにない優しい笑みを見せてこう続けた。
「部屋に入ってくる時に、私の目を見てから挨拶をしていました。以前は決して私の目を見ませんでしたから、変化といえば変化でしょうか」
そうなのだろうか。自分では意識したことがなかった。もしそれが誰かの影響だとすれば、いつも真っ直ぐに私を見つめてくれた子犬のような目の彼の所為かも知れない。
「それでは次は三ヶ月後で良いですかね」
「はい。次も宜しくお願いします」
そう答えて頭を軽く下げた私を、何故か先生は驚いた顔で見ていた。
クリニックを出ると、うろこ状になった雲が青い空に綺麗に並んでいた。
人通りの少ない路地を、駅に向かって歩き出す。
スニーカーの足音は自分にだけ響いて、それはたぶん普通のことなのだろうけれど、この一月ばかり、ふとした瞬間に訪れる「わたし」という感覚に戸惑っていた。
きっと誰もが生まれながらにして持っていて、それは「ワタシ」でも「私」でもなく「わたし」なのだけれど、いつからかそれが「私」だったり「僕」だったり或いはもっと他の、その場限りの自分になるのだろう。
わたしがその場専用のワタシになる。
きっとそんな器用さでみんなは迷うこともなく生きている。
でも時々私のような、上手くその場の自分を繕えなくて、どうしていいのか分からないまま、他人と距離を離すことで何とかやりくりしなければいけないような、そんな人もいる。
私にとってきょう子やキョウコの存在は、わたしやワタシを上手く扱えない私という人間を助ける為の、世界からの贈り物だったのかも知れない。
大通りに出ると急に車の音や人の声がよく響いてきて、私は一瞬自分の存在を見失いそうに感じたが、立ち止まり、ゆっくりと空を見上げてから呼吸を整え、今一度視線を戻すと、鼓動も気持ちも落ち着きを取り戻していた。
駅を目指して歩いていく。
すれ違う人、追い抜いていく人、コンビニに入っていく人、タクシーを呼び止めている人、待ち合わせをしているカップル、ベビィカーを押している母親、ハンカチで額を拭うスーツの男性、台車を押して走っていく運送会社の人、そして私の目の前で立ち止まったシャツの少年。
振り返った彼は少しだけ翔太郎に似ている気がしたが、私の脇を素通りしていく。
振り返ると小学生たちの待ち合わせの群れに彼が合流していて、楽しそうな笑い声を上げていた。
私は彼らに背を向けて、歩いていく。
わたしで、
ワタシで、
私らしく。(了)
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