1 / 4
1
しおりを挟む
朝から耳にするにはスムージーミキサーの音というのは何とも耳障りだ。それでも料理が得意とはいえない冴木吾朗にとって、彼の妻の健康の為にはこれが一番手っ取り早く、しかも美味い。何度かボタンを押し、なるべく細かく潰れるように確認しながら、吾朗はこの生活がもう三年も続いているのだなと、一人口元を緩ませる。
「吾朗しゃん」
「ああ、ごめん。起こしちゃったか。おはよう、瑠那」
「ううん」
足元までを覆う薄い白のワンピースのパジャマはネグリジェと呼ぶそうだが、吾朗が買ったものでも、彼女が選んだものでもない。瑠那の友人の飯尾由佳からの結婚祝いの一つだった。よく見れば裾がほつれてぴょこんと糸が垂れていた。足を引っ掛けないように繕わないといけないと思いつつも、裁縫も苦手な吾朗の中ではどうしても優先順位を下げてしまう。
「今できるから」
「うん」
彼女は宙にその細い腕を彷徨わせ、ダイニングテーブルの端を見つけると、それを伝って自分の椅子まで歩き、ちゃっかりと座る。それから既にテーブルの上の皿に盛ってあるものがいつものベーコンエッグだと、匂いを嗅いで確かめていた。彼女はオムライスにハンバーグ、それにカレーライスと、子どもが好きなものが好物で、和食育ちだった吾朗とは少しズレている。
今朝のスムージーはバナナと林檎、それにレモン汁が沢山入っている。酸味があまりに強いと彼女が嫌がるものだから、なるべく入れないようにと思うのだが、どうにも塩梅が難しい。今日の出来具合はどうだろう。
と、甲高い音でトースターが焼き上がりを知らせた。その音にミーアキャットのように驚いたのは瑠那さんだ。彼女は耳が良い。とても良い。吾朗が玄関のドアを開ける前にその足音だけで帰ってきたことが分かる。それくらい耳が良いのは、彼女の生活にとって音が欠かせないものだからだ。
「それじゃあ、いただこうか」
吾朗は出来上がったスムージーを大きなコップに二人分注ぎ、それを置いてから、彼女の右隣りに座った。夫婦で対面に座らないことを、会社の事務の上村美保なんかは「新婚みたいだね」と笑うのだが、こういうスタイルになったのもそうせざるを得ないというある事情からだった。
瑠那はまず右手で自分の手前を探る。そこには先割れスプーンがあり、それをぎゅっと握ると、左手でベーコンエッグの皿を探した。その端に触れると自分の方に少し引き寄せ、それからスプーンの先で突き刺す。ぐっと体を前傾させ、そのまま口へと持ち運んだ。半分を噛み千切ると半熟の卵は彼女の口元を黄色く濡らす。けれど満足そうにはぐはぐと咀嚼してそれを飲み込むと「うん!」と美味しいの意思表示をした。
それを見て、吾朗は自分も食べ始める。トーストにはたっぷりと杏のジャムが塗られている。このジャムは塚本課長の奥さんの土産物だった。小さく齧るとその僅かな酸味が口の中に広がり、トーストされた食パンの甘みと混ざり合って何とも美味しい。隣を見ると瑠那もトーストに齧りついていたが案の定、口の周囲はジャム塗れだ。それを吾朗は用意してあるタオルで拭う。一瞬彼女は嫌そうな表情をするけれど、それでも綺麗になると笑顔に戻り「ありがと」と吾朗に伝える。
彼女の言葉は貴重だ。あまり普段からそう喋らない。口を開いても「うん」とか「ううん」とか、イエス・ノーの意思表示くらいで、どちらかといえば吾朗があれこれと話しかけることをにこにことして聞いている方だった。それでもこのささやかな時間こそが、吾朗と瑠那にとっての幸せで、日常だった。
そう。冴木吾朗の妻、瑠那は目が見えない。それを承知の上で結婚して三年、大変だけれども幸せと感じる日々を吾朗は過ごしていた。
そのはずだった。
「ねえ、吾朗しゃん。月、聞こえた?」
「え?」
「月、聞こえた」
「聞こえないよ、何も」
時折、こういう訳の分からないことを口走る。吾朗はそれに対して適当に流さず、きちんと答えるようにしているが、最近よく彼女は「月が聞こえる」と言う。演奏会が近づいているから神経が高ぶっているのだろう。この時の吾朗は単純にそう考えていた。
「吾朗しゃん」
「ああ、ごめん。起こしちゃったか。おはよう、瑠那」
「ううん」
足元までを覆う薄い白のワンピースのパジャマはネグリジェと呼ぶそうだが、吾朗が買ったものでも、彼女が選んだものでもない。瑠那の友人の飯尾由佳からの結婚祝いの一つだった。よく見れば裾がほつれてぴょこんと糸が垂れていた。足を引っ掛けないように繕わないといけないと思いつつも、裁縫も苦手な吾朗の中ではどうしても優先順位を下げてしまう。
「今できるから」
「うん」
彼女は宙にその細い腕を彷徨わせ、ダイニングテーブルの端を見つけると、それを伝って自分の椅子まで歩き、ちゃっかりと座る。それから既にテーブルの上の皿に盛ってあるものがいつものベーコンエッグだと、匂いを嗅いで確かめていた。彼女はオムライスにハンバーグ、それにカレーライスと、子どもが好きなものが好物で、和食育ちだった吾朗とは少しズレている。
今朝のスムージーはバナナと林檎、それにレモン汁が沢山入っている。酸味があまりに強いと彼女が嫌がるものだから、なるべく入れないようにと思うのだが、どうにも塩梅が難しい。今日の出来具合はどうだろう。
と、甲高い音でトースターが焼き上がりを知らせた。その音にミーアキャットのように驚いたのは瑠那さんだ。彼女は耳が良い。とても良い。吾朗が玄関のドアを開ける前にその足音だけで帰ってきたことが分かる。それくらい耳が良いのは、彼女の生活にとって音が欠かせないものだからだ。
「それじゃあ、いただこうか」
吾朗は出来上がったスムージーを大きなコップに二人分注ぎ、それを置いてから、彼女の右隣りに座った。夫婦で対面に座らないことを、会社の事務の上村美保なんかは「新婚みたいだね」と笑うのだが、こういうスタイルになったのもそうせざるを得ないというある事情からだった。
瑠那はまず右手で自分の手前を探る。そこには先割れスプーンがあり、それをぎゅっと握ると、左手でベーコンエッグの皿を探した。その端に触れると自分の方に少し引き寄せ、それからスプーンの先で突き刺す。ぐっと体を前傾させ、そのまま口へと持ち運んだ。半分を噛み千切ると半熟の卵は彼女の口元を黄色く濡らす。けれど満足そうにはぐはぐと咀嚼してそれを飲み込むと「うん!」と美味しいの意思表示をした。
それを見て、吾朗は自分も食べ始める。トーストにはたっぷりと杏のジャムが塗られている。このジャムは塚本課長の奥さんの土産物だった。小さく齧るとその僅かな酸味が口の中に広がり、トーストされた食パンの甘みと混ざり合って何とも美味しい。隣を見ると瑠那もトーストに齧りついていたが案の定、口の周囲はジャム塗れだ。それを吾朗は用意してあるタオルで拭う。一瞬彼女は嫌そうな表情をするけれど、それでも綺麗になると笑顔に戻り「ありがと」と吾朗に伝える。
彼女の言葉は貴重だ。あまり普段からそう喋らない。口を開いても「うん」とか「ううん」とか、イエス・ノーの意思表示くらいで、どちらかといえば吾朗があれこれと話しかけることをにこにことして聞いている方だった。それでもこのささやかな時間こそが、吾朗と瑠那にとっての幸せで、日常だった。
そう。冴木吾朗の妻、瑠那は目が見えない。それを承知の上で結婚して三年、大変だけれども幸せと感じる日々を吾朗は過ごしていた。
そのはずだった。
「ねえ、吾朗しゃん。月、聞こえた?」
「え?」
「月、聞こえた」
「聞こえないよ、何も」
時折、こういう訳の分からないことを口走る。吾朗はそれに対して適当に流さず、きちんと答えるようにしているが、最近よく彼女は「月が聞こえる」と言う。演奏会が近づいているから神経が高ぶっているのだろう。この時の吾朗は単純にそう考えていた。
0
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
一条さん結婚したんですか⁉︎
あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎
嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡
((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜
⭐︎本編は完結しております⭐︎
⭐︎番外編更新中⭐︎
裏切りの街 ~すれ違う心~
緑谷めい
恋愛
エマは裏切られた。付き合って1年になる恋人リュカにだ。ある日、リュカとのデート中、街の裏通りに突然一人置き去りにされたエマ。リュカはエマを囮にした。彼は騎士としての手柄欲しさにエマを利用したのだ。※ 全5話完結予定
王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく
木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。
侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。
震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。
二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。
けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。
殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。
「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」
優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。
※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。
表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。
※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。
©︎泡雪 / 木風 雪乃
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる