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それから一週間ほど経ったある週末、吾朗は外がすっかり暗くなってしまってもまだ会社に残り、パソコンに向かっていた。
吾朗の会社は中小企業向けの品質管理システムの開発と販売、保守を行っていて、吾朗のメインの業務は営業と保守だった。大半は外を出歩いて、どうですかと声を掛けて回るのが仕事だが、忙しいとこうしてデスクワークにも出張することになる。今日は古いシステムから新しいものへと移行する際のデータの移動がどうしてもスクリプトでは上手くいかず、全てを手作業で行うという力技で間に合わせることになり、その担当分を外回りをして帰ってきた後に作業していた。
人の好い吾朗はよく周囲から頼られる。ただ図体が大きくていつもにこにことしているから頼みやすいというのもあるのだろう。けれどそういう吾朗だって何でもかんでも受けていている訳ではない。その根本には妻である瑠那の為、という気持ちがあった。彼女が少しでも暮らしやすいようにヘルパーを頼んだり、家に目が悪い人用のバリアフリーなリフォームを施したりと、何かと費用が掛かる。その足しにでもなればと思っていつも「いいですよ」と答えるのだ。
「あれ? 冴木さんまだやってたんですか。もう明日で大丈夫ですよ。大半の作業終わりましたし」
薄暗い中で彼の上だけが明るい。そこに姿を見せたのは事務の上村智子だ。まだ大学を卒業したばかりだが、何かと気が利くと社内では評判だ。
「でも今日の分は今日終えておかないとどんどん荷物が貯まっていくだろう?」
「あー、そういうタイプでしたね、冴木さんて。意外性なんだった」
「意外性、ですか?」
「そうですよ。見た目はもっとズボラリアンじゃないですか。けど、これでマメできちっとしてるなんて意外性しかないです」
似たようなことを付き合い始めた頃の瑠那からも言われたことがある。彼女はその度に「もっとおおざっぱ」と言うのだけれど、こればかりは性分だからどうしようもない。
「そういえば、もうすぐ奥さんの演奏会ですっけ。行かれるんですか?」
「以前は行ってたんだけど、最近は仕事の方が忙しくて」
瑠那は目が見えない。けれど彼女はハープを弾く、ハープ奏者だった。吾朗が最初に彼女を見たのも大学の時に無理やり友人に連れて行かれた演奏会で、そこで彼女は正に光り輝いていた。音楽で感動するなんてそれまでの吾朗の人生では経験がなかったが、我慢ができずに涙をぼろぼろと流してしまったのはその場の雰囲気に流されたとかではなく、心の底から何かが震わされたからだった。もしあの日、コンビニのアルバイトを代わってやって演奏会に行けなかったとしたら、今の瑠那との生活はなかっただろう。
「冴木さんすごくよくやってくれてるし、課長だって少しくらい休ませてくれますよ。行った方が絶対にいいです」
「それは、分かってるんだけどね」
「じゃあ、お先です」
オフィスに一人残り、キーボードを叩く音がカタカタとだけ響いていた。ふと窓の外を見ると随分と明るくて、一日曇っていたのにその隙間から大きく見える八十パーセントほどの月が綺麗だ。彼女はこの月が聞こえるという。見えるではなく、聞こえるなのだ。けれど吾朗がどんなに耳を澄ませてみたところで入ってくるのは車のクラクションやパトカーのサイレン、そんな街の雑踏だった。
結局、吾朗が家に辿り着いたのは深夜を回り、もう一時近くになっていた。流石に家の中は真っ暗で、足音一つ立てるのにも気を遣う静けさが支配していたけれど、彼女の部屋を覗くとベッドが空っぽだった。まだ寝ていない。食堂で待っているのだろうか。けれど食堂も台所も明かりが点いていないし、人はいない。すぐに浴室に走ったが、そこも使った形跡がない。
――まさか。
吾朗は慌てて廊下の突き当りのドアの前まで行く。それは他の部屋と違い、やや分厚い、金属製のものだ。ドアノブではなくレバーになっていて、ゆっくりと回してから力を入れて手前に引くと、中から透き通った音色が響いてきた。ハープだ。
ハープというのはギリシア語のβのような姿をした弦楽器で、大きなものだと四十七本も弦がある。けれどピアノに比べればずっと少なく、ペダルやレバーで音階を変えて色々な音に調整するものらしい。音が鳴る原理や彼女が使っているものがどのタイプなのか吾朗はよく理解していないが、簡単に弾いているように見えて、実際に触らせてもらうと頭がこんがらがって上手く演奏出来ないものであることは確かだ。
吾朗はしばらくドアを開けたまま、そこで久しぶりの瑠那のハープに聞き入ってしまった。
おかえり――という笑顔を浮かべた彼女に、窓から月明かりが注いでいた。真っ暗な部屋でも彼女には関係がない。目が見えないのだ。小さい頃は多少なりとも見ることが出来たらしいが、今ではほぼ光が捉えられない。吾朗の顔もその手で触れて形を想像するしかない。そういう意味では出会った時からずっと彼女は吾朗の顔を知らないままだ。
「月、聞こえた?」
「月は出てるよ。けど瑠那さん、いつも言ってるだろう? 適度に休まないと駄目だって」
吾朗が準備をしないと食事をしないまま演奏を続けてしまう。彼女はずっとそうだったと言うけれど、それは彼女の両親が気遣ってやりすぎないように止めていたからだ。
案の定、翌日から三日間、彼女は寝込んでしまった。
吾朗の会社は中小企業向けの品質管理システムの開発と販売、保守を行っていて、吾朗のメインの業務は営業と保守だった。大半は外を出歩いて、どうですかと声を掛けて回るのが仕事だが、忙しいとこうしてデスクワークにも出張することになる。今日は古いシステムから新しいものへと移行する際のデータの移動がどうしてもスクリプトでは上手くいかず、全てを手作業で行うという力技で間に合わせることになり、その担当分を外回りをして帰ってきた後に作業していた。
人の好い吾朗はよく周囲から頼られる。ただ図体が大きくていつもにこにことしているから頼みやすいというのもあるのだろう。けれどそういう吾朗だって何でもかんでも受けていている訳ではない。その根本には妻である瑠那の為、という気持ちがあった。彼女が少しでも暮らしやすいようにヘルパーを頼んだり、家に目が悪い人用のバリアフリーなリフォームを施したりと、何かと費用が掛かる。その足しにでもなればと思っていつも「いいですよ」と答えるのだ。
「あれ? 冴木さんまだやってたんですか。もう明日で大丈夫ですよ。大半の作業終わりましたし」
薄暗い中で彼の上だけが明るい。そこに姿を見せたのは事務の上村智子だ。まだ大学を卒業したばかりだが、何かと気が利くと社内では評判だ。
「でも今日の分は今日終えておかないとどんどん荷物が貯まっていくだろう?」
「あー、そういうタイプでしたね、冴木さんて。意外性なんだった」
「意外性、ですか?」
「そうですよ。見た目はもっとズボラリアンじゃないですか。けど、これでマメできちっとしてるなんて意外性しかないです」
似たようなことを付き合い始めた頃の瑠那からも言われたことがある。彼女はその度に「もっとおおざっぱ」と言うのだけれど、こればかりは性分だからどうしようもない。
「そういえば、もうすぐ奥さんの演奏会ですっけ。行かれるんですか?」
「以前は行ってたんだけど、最近は仕事の方が忙しくて」
瑠那は目が見えない。けれど彼女はハープを弾く、ハープ奏者だった。吾朗が最初に彼女を見たのも大学の時に無理やり友人に連れて行かれた演奏会で、そこで彼女は正に光り輝いていた。音楽で感動するなんてそれまでの吾朗の人生では経験がなかったが、我慢ができずに涙をぼろぼろと流してしまったのはその場の雰囲気に流されたとかではなく、心の底から何かが震わされたからだった。もしあの日、コンビニのアルバイトを代わってやって演奏会に行けなかったとしたら、今の瑠那との生活はなかっただろう。
「冴木さんすごくよくやってくれてるし、課長だって少しくらい休ませてくれますよ。行った方が絶対にいいです」
「それは、分かってるんだけどね」
「じゃあ、お先です」
オフィスに一人残り、キーボードを叩く音がカタカタとだけ響いていた。ふと窓の外を見ると随分と明るくて、一日曇っていたのにその隙間から大きく見える八十パーセントほどの月が綺麗だ。彼女はこの月が聞こえるという。見えるではなく、聞こえるなのだ。けれど吾朗がどんなに耳を澄ませてみたところで入ってくるのは車のクラクションやパトカーのサイレン、そんな街の雑踏だった。
結局、吾朗が家に辿り着いたのは深夜を回り、もう一時近くになっていた。流石に家の中は真っ暗で、足音一つ立てるのにも気を遣う静けさが支配していたけれど、彼女の部屋を覗くとベッドが空っぽだった。まだ寝ていない。食堂で待っているのだろうか。けれど食堂も台所も明かりが点いていないし、人はいない。すぐに浴室に走ったが、そこも使った形跡がない。
――まさか。
吾朗は慌てて廊下の突き当りのドアの前まで行く。それは他の部屋と違い、やや分厚い、金属製のものだ。ドアノブではなくレバーになっていて、ゆっくりと回してから力を入れて手前に引くと、中から透き通った音色が響いてきた。ハープだ。
ハープというのはギリシア語のβのような姿をした弦楽器で、大きなものだと四十七本も弦がある。けれどピアノに比べればずっと少なく、ペダルやレバーで音階を変えて色々な音に調整するものらしい。音が鳴る原理や彼女が使っているものがどのタイプなのか吾朗はよく理解していないが、簡単に弾いているように見えて、実際に触らせてもらうと頭がこんがらがって上手く演奏出来ないものであることは確かだ。
吾朗はしばらくドアを開けたまま、そこで久しぶりの瑠那のハープに聞き入ってしまった。
おかえり――という笑顔を浮かべた彼女に、窓から月明かりが注いでいた。真っ暗な部屋でも彼女には関係がない。目が見えないのだ。小さい頃は多少なりとも見ることが出来たらしいが、今ではほぼ光が捉えられない。吾朗の顔もその手で触れて形を想像するしかない。そういう意味では出会った時からずっと彼女は吾朗の顔を知らないままだ。
「月、聞こえた?」
「月は出てるよ。けど瑠那さん、いつも言ってるだろう? 適度に休まないと駄目だって」
吾朗が準備をしないと食事をしないまま演奏を続けてしまう。彼女はずっとそうだったと言うけれど、それは彼女の両親が気遣ってやりすぎないように止めていたからだ。
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