月の声が見えなくて

凪司工房

文字の大きさ
3 / 4

3

しおりを挟む
 十月半ばの日曜日。朝から瑠那は不機嫌だった。演奏会があることは分かっていたし、吾朗のカレンダーにもちゃんと書き込んであったのだけれど、前日も残業で遅くなり、今朝は目覚ましが電池切れで止まっていて、台所に立ったのはもう七時を回っていた。八時を過ぎても彼女は髪のセットが出来ておらず、水筒や携帯用の食事、財布や身分証などといった必需品の小物に着替えを詰めたポーチやバッグ、何より演奏会で使用するハープの搬出も全然手つかずのままだった。

「ああ、いいですよ。僕らでやりますんで……あ」

 予定の八時よりも早くに玄関前にバンをつけたトレーナー姿の男性は、派手な柄の靴下で上がり込み、瑠那のネグリジェ姿を見て赤面する。

「斉藤君はこっち。ごめんね、瑠那。吾朗さん。こいつ、予定通りって言葉を知らなくて」
「いや、こっちこそすみません。昨日ちょっと遅くて」
「いいわよ。荷物の運び出しはやるから、瑠那の方、お願い」
「あ、はい」

 同じ楽団でヴァイオリニストの飯尾由佳は着ているものこそラフなジャージだが、髪型はしっかりと生花のように盛り上がっていた。化粧も濃い、舞台仕様だ。

「あ、瑠那さん。動かないで。今髪を整えてるから」
「うー!」

 彼女の長い髪は癖が強く、本当なら一度洗ってから乾かした方が早く整う。けれどその時間もない為、無理矢理にブラシで整えようとするのだけれど、それがあちこち引っかかって痛いらしい。

「吾朗さん。そっちをわたしが代わるわ。その方が良くない?」
「ああ、そうみたいだね。じゃあ、お願いします」

 たぶん髪のことだけではないだろう。瑠那の不機嫌は誰の目にも明らかだった。
 
 吾朗は斉藤という名の若者と共に、ハープをケースに詰めると、それを玄関前のバンまで運び出す。重さは小柄な女性一人分だ。瑠那より少し軽い。
 この斉藤という若者は初めて見る顔だったが、何かと目線が瑠那の方に向かっていた。吾朗自身にも覚えがあるその行動は明らかに彼女を気にしている。確かに瑠那は綺麗だ。あるいは可愛らしい。まだ三十にはならないものの、とてもその年齢には見えず、下手をすると高校生くらいに間違われることも度々だった。その彼女を女性として見ている男性の視線というを感じたのは久しぶりだ。

「ありがとう。手伝ってもらって」
「いいんすよ。それより旦那さん、いつも大変ですね」
「大変? かな」
「大変だと思いますよ。だって瑠那さん目が見えないじゃないですか。けど演奏はすっごくて。うちの楽団でもピカイチですよ。花なんです。舞台上の薔薇なんです。あ、いや、百合? 胡蝶蘭? とにかく誰だって彼女に惚れますよ」
「そうか。ありがとう」

 自分のことではないけれど、そこまで言われると悪い気はしない。ただその演奏を今日は見に行ってやることが出来なかった。

「ごめんなさいね。いつもバタバタとしちゃって」
「いや、俺の方こそ迷惑ばかりおかけして」
「あ、瑠那。挨拶はいいの?」

 彼女は何も言わず、顔すら合わせないままバンの助手席に乗り込む。その姿に吾朗も美保も苦笑を突き合わせたが、運転席に座っている斉藤は隣に乗り込んできた瑠那を見てニヤニヤとしている。
 こうして彼女は演奏会へと出かけていった。
 
 けれどその日、瑠那は家には戻ってこなかった。彼女が戻りたくないと言い張ったのだそうだ。飯尾美保から電話があり、しばらく彼女の家に泊まらせると言っていた。
 原因は分からないでもない。最近頻繁ひんぱんに口にする「月が聞こえる」というやつだ。
 
 ――月なんか聞こえるはずがない。
 
 それは吾朗に聞くまでもなく事実だろう。
 それでもあまりに頻繁にそれを口にするものだから、吾朗も仕事の合間にネットの情報程度だったが、月について調べてみた。
 
 月というのはあの空に浮かんでいる月のことだろう。他の月を吾朗は知らない。地球からすれば衛星ということになる。衛星は惑星の周囲を回っている小さな星のことだ。昼間は明るくてほとんど見えないことが多いが実はずっとどこかに存在している。それも月というのは同じ面だけを地球に向けて回っていると云う。笑顔ならずっと笑顔のまま。その裏側にどんな悲しい顔を持っていたとしても決してその表情を見せることはない。
 
 その月に音は存在するのだろうか。宇宙空間には基本的に空気は存在しない。僅かばかりの粒子があってもほぼ真空だ、と云われている。音は振動であり、空気がないと伝えることが出来ない。
 その事実だけで月から音なんて聞こえるはずがないということは分かるのに、何故ああも頑なに彼女は「月が聞こえる」と言い張るのだろう。それとも彼女なりの何かの比喩なのだろうか。
 翌日も、そのまた翌日も吾朗は家に一人だった。予定されていた取引先との面談がキャンセルとなり、珍しく昼過ぎに家に帰ってきたその日もやはり、家に瑠那の姿はなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

一条さん結婚したんですか⁉︎

あさとよる
恋愛
みんなの憧れハイスペックエリートサラリーマン『一条 美郷(※超イケメン)』が、結婚してしまった⁉︎ 嫁ラブの旦那様と毒舌地味嫁(花ちゃん)....とっ!その他大勢でお送りしますっ♡ ((残念なイケメンの一途過ぎる溺愛♡))のはじまりはじまり〜 ⭐︎本編は完結しております⭐︎ ⭐︎番外編更新中⭐︎

裏切りの街 ~すれ違う心~

緑谷めい
恋愛
 エマは裏切られた。付き合って1年になる恋人リュカにだ。ある日、リュカとのデート中、街の裏通りに突然一人置き去りにされたエマ。リュカはエマを囮にした。彼は騎士としての手柄欲しさにエマを利用したのだ。※ 全5話完結予定

王太子殿下との思い出は、泡雪のように消えていく

木風
恋愛
王太子殿下の生誕を祝う夜会。 侯爵令嬢にとって、それは一生に一度の夢。 震える手で差し出された御手を取り、ほんの数分だけ踊った奇跡。 二度目に誘われたとき、心は淡い期待に揺れる。 けれど、その瞳は一度も自分を映さなかった。 殿下の視線の先にいるのは誰よりも美しい、公爵令嬢。 「ご一緒いただき感謝します。この後も楽しんで」 優しくも残酷なその言葉に、胸の奥で夢が泡雪のように消えていくのを感じた。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」「エブリスタ」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎泡雪 / 木風 雪乃

処理中です...