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今は秋。それを感じられるのも経験による学習の力だと、夏川大輝は知っていた。
僅かに濡れた歩道には銀杏の落ち葉が八十パーセントほど敷き詰められている。そこをスニーカーで踏みつけながらコートの襟をすり抜けて吹き込んでくる風の冷たさに、もう秋も終わりを迎えるのだなと漠然と感じた。
五分ほどで真っ白な三階建ての屋根が半球のドーム状になっている建物が見えてくるが、その玄関脇に植わっている銀杏の樹はいつの間にか剪定され、二階の高さまでになっていた。おそらく人間の手によるものだろうが、その切り方が何とも雑で、これなら剪定用のロボットを導入した方がいくらもマシだろうと思える。いつになれば全ての退屈な作業が人間の手を離れ、アンドロイドたちのものとなるのだろう。
現在では多くの仕事がアンドロイドに置き換わっているとはいえ、それが間違っていないかを監視するというお払い箱になった人間の為の無駄な仕事が創出されているという、実にくだらない状況があり、そういった不毛な仕事の輪廻をいい加減に断ち切りたいと、夏川は考えていた。
玄関の小さな扉には取っ手が存在しない。脇の認証用の台にIDカードをタッチし、正規の人間だと認められるとそこで初めてドアが開く。
クリーム色の壁に囲まれた空間は温度二十七度、湿度四十八パーセントに年間を通して保たれている。ずっと中にいれば季節を忘れる道理だ。だからこそ、夏川は毎日面倒な出勤という作業を自らに課していた。必要なら仮眠室という名の設備の揃った個室が所員一人一人に割り当てられており、外出することなく作業に集中できる環境が整えられていた。
通路を一分も歩くとコートが少し暑いと感じられ、研究室に到着する頃にはすっかり抜いで夏川は上はシャツとネクタイだけになっている。研究室は二つの空間で構成されており、ドアを潜った最初の部屋は壁いっぱいのモニタと複数台のパソコンが動いているだけの質素な箱だ。そのデスクの一つで、既に白衣を着た女性が作業をしていた。彼女は一度だけ振り返り、それから顔をモニタに戻して挨拶を口にする。
「おはようございます、夏川さん」
「ああ、おはよう、柊君。何か急ぎの件はなかったかな」
そんな柊有希にけだるげに挨拶を返すと、さっさと自分の前までやってきてマウスを操作する。セキュリティコードを片手で入力すると、すぐに画面が線香花火の背景に切り替わった。その画像に特に意味はない。少し前までは深海のほとんど黒といっていいものだったから、それよりは多少明るくなった、というだけだ。
白衣に袖を通した夏川が席に腰を下ろすと、ちょうどそのタイミングで彼女がコーヒーを淹れてもってきてくれる。だがその彼女はやや暗い表情を浮かべたまま「一件だけ」と口にした。
「自分で見るよ」
良い予感よりも悪い予感の方が当たるのは人間の生存本能というやつだろうか。そんなことを考えながら端末から仕事用のメールサーバにアクセスする。そこには三通も同じ名前の差出人がリストされていて、一件は昨夜の深夜に、二件目は朝方で、最後はつい五分前だ。夏川はいつも定時の九時に出所する。また可能な限り残業はしないことに決めていた。
仕事以外の時間は自分の人生に使うべきだと、大学時代の恩師であるロジャー・カーネル博士から厳しく言われていた。ただ時折仕事と研究の境界が曖昧になる彼にとって、どこまでを仕事と割り切ればいいのか未だに分からない。
「どうされるんですか、こちらの案件」
受けない――とは言えない、と思いつつも、簡単ではないなと感じていた。
ここ武蔵川先端科学研究所はアンドロイド用AIの学習施設として、天堂コーポレーションがおよそ二十億ドルを投じて建造したものだ。既に医療や工業分野では多くのアンドロイドが活躍しているが、まだまだ普段の生活に馴染んでいる段階までには至らない。それは高性能アンドロイドの知能を形成する基本AIの学習コストが高すぎる為であり、大量生産が困難なことが大きな障害となっている。そこで実験的に一度に多くのアンドロイドのAI学習を行えるよう設備を整え、また各国から優秀な人材を引き抜き、研究に当たらせている。今では簡単なものであれば実用的なレベルになりつつある、と言えた。
夏川もまだ三十二という若さながら、ここでは「教授」待遇で仕事に従事している。
しかしここでは原則として個人の依頼は受けていない。全てがアンドロイドを製造している業者相手のものばかりだ。ただ研究として例外的に一固体へのAI学習も請け負っている。その噂を聞きつけた訳ではないだろう。
安藤祐司。それはこの研究所を保有する天堂コーポレーションの大口株主の一人、安藤忠徳氏の孫の名前だ。何度か彼からの依頼は引き受けていて、その度に苦い思いをしている。だから今回は断ろうと思っていたのだが、その依頼内容を目にし、夏川の判断が揺れていた。
――夏を教えてやってもらいたいんだ。
僅かに濡れた歩道には銀杏の落ち葉が八十パーセントほど敷き詰められている。そこをスニーカーで踏みつけながらコートの襟をすり抜けて吹き込んでくる風の冷たさに、もう秋も終わりを迎えるのだなと漠然と感じた。
五分ほどで真っ白な三階建ての屋根が半球のドーム状になっている建物が見えてくるが、その玄関脇に植わっている銀杏の樹はいつの間にか剪定され、二階の高さまでになっていた。おそらく人間の手によるものだろうが、その切り方が何とも雑で、これなら剪定用のロボットを導入した方がいくらもマシだろうと思える。いつになれば全ての退屈な作業が人間の手を離れ、アンドロイドたちのものとなるのだろう。
現在では多くの仕事がアンドロイドに置き換わっているとはいえ、それが間違っていないかを監視するというお払い箱になった人間の為の無駄な仕事が創出されているという、実にくだらない状況があり、そういった不毛な仕事の輪廻をいい加減に断ち切りたいと、夏川は考えていた。
玄関の小さな扉には取っ手が存在しない。脇の認証用の台にIDカードをタッチし、正規の人間だと認められるとそこで初めてドアが開く。
クリーム色の壁に囲まれた空間は温度二十七度、湿度四十八パーセントに年間を通して保たれている。ずっと中にいれば季節を忘れる道理だ。だからこそ、夏川は毎日面倒な出勤という作業を自らに課していた。必要なら仮眠室という名の設備の揃った個室が所員一人一人に割り当てられており、外出することなく作業に集中できる環境が整えられていた。
通路を一分も歩くとコートが少し暑いと感じられ、研究室に到着する頃にはすっかり抜いで夏川は上はシャツとネクタイだけになっている。研究室は二つの空間で構成されており、ドアを潜った最初の部屋は壁いっぱいのモニタと複数台のパソコンが動いているだけの質素な箱だ。そのデスクの一つで、既に白衣を着た女性が作業をしていた。彼女は一度だけ振り返り、それから顔をモニタに戻して挨拶を口にする。
「おはようございます、夏川さん」
「ああ、おはよう、柊君。何か急ぎの件はなかったかな」
そんな柊有希にけだるげに挨拶を返すと、さっさと自分の前までやってきてマウスを操作する。セキュリティコードを片手で入力すると、すぐに画面が線香花火の背景に切り替わった。その画像に特に意味はない。少し前までは深海のほとんど黒といっていいものだったから、それよりは多少明るくなった、というだけだ。
白衣に袖を通した夏川が席に腰を下ろすと、ちょうどそのタイミングで彼女がコーヒーを淹れてもってきてくれる。だがその彼女はやや暗い表情を浮かべたまま「一件だけ」と口にした。
「自分で見るよ」
良い予感よりも悪い予感の方が当たるのは人間の生存本能というやつだろうか。そんなことを考えながら端末から仕事用のメールサーバにアクセスする。そこには三通も同じ名前の差出人がリストされていて、一件は昨夜の深夜に、二件目は朝方で、最後はつい五分前だ。夏川はいつも定時の九時に出所する。また可能な限り残業はしないことに決めていた。
仕事以外の時間は自分の人生に使うべきだと、大学時代の恩師であるロジャー・カーネル博士から厳しく言われていた。ただ時折仕事と研究の境界が曖昧になる彼にとって、どこまでを仕事と割り切ればいいのか未だに分からない。
「どうされるんですか、こちらの案件」
受けない――とは言えない、と思いつつも、簡単ではないなと感じていた。
ここ武蔵川先端科学研究所はアンドロイド用AIの学習施設として、天堂コーポレーションがおよそ二十億ドルを投じて建造したものだ。既に医療や工業分野では多くのアンドロイドが活躍しているが、まだまだ普段の生活に馴染んでいる段階までには至らない。それは高性能アンドロイドの知能を形成する基本AIの学習コストが高すぎる為であり、大量生産が困難なことが大きな障害となっている。そこで実験的に一度に多くのアンドロイドのAI学習を行えるよう設備を整え、また各国から優秀な人材を引き抜き、研究に当たらせている。今では簡単なものであれば実用的なレベルになりつつある、と言えた。
夏川もまだ三十二という若さながら、ここでは「教授」待遇で仕事に従事している。
しかしここでは原則として個人の依頼は受けていない。全てがアンドロイドを製造している業者相手のものばかりだ。ただ研究として例外的に一固体へのAI学習も請け負っている。その噂を聞きつけた訳ではないだろう。
安藤祐司。それはこの研究所を保有する天堂コーポレーションの大口株主の一人、安藤忠徳氏の孫の名前だ。何度か彼からの依頼は引き受けていて、その度に苦い思いをしている。だから今回は断ろうと思っていたのだが、その依頼内容を目にし、夏川の判断が揺れていた。
――夏を教えてやってもらいたいんだ。
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