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第一章 「もう恋なんてしない」
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「先生。心配したんですよ」
息を切らせながら村瀬ナツコは膝に手を置いて、何度も「先生」と口にする。
「村瀬さん。ここ外だからね」
「分かってますよ。ほんと、先生に何かあったらわたしの監督責任になるんですから」
まるで保護者のような口ぶりだ。
ただ実際、なるべく人との接触を避けたい原田の面倒な要求を通してくれ、色々と折衝を重ねてくれている彼女にはそれなりに世話になっていた。
「それにしてもなんで先生、文庫新刊発売の視察がしたいって言って下さらなかったんですか? やはりわたしが女だからですか? もっと髪とか切った方が良いですか?」
そこまで地味になってもおそらく君は女性らしさを消せないよ。
と口に出そうとして、止めておく。更にヒステリックに盛り上がられても原田が困るだけだ。とにかく「わかった」と連呼して、何とか彼女の血圧を下げようとする。
「やっぱりアンタ先生なんだ!」
ああ……。
待合室から出てきた彼女は、その目立つ大きな瞳を原田に向けて子供のようにきらきらとさせていた。短いスカートの一部が捲れ上がり、腿に張り付いている。もう少しでショーツが見えてしまうかと思ったが、布地があるようには感じなかった。きっと村瀬ナツコが持っていないような狭い布地面積のものを履いているのだろう。
そこまで想像して、二人に対して失礼だなと、原田は苦笑する。
「何か勘違いしているようだが、僕はその結城某ではないよ」
「え? 嘘だ。だってこれアンタじゃん」
彼女は手にしていた恋愛教室の著者近影を見せる。
「そんな後ろ姿で同じ人物かどうかなんて分からないだろう?」
「何言ってんのよ。ほら、このコート。あんたのと同じじゃん。それにここ。後ろの旋毛。全く同じ位置にある」
原田は村瀬ナツコを睨みつけた。
どうしても彼女が著者近影を載せたいというので仕方なく後ろ姿ならと妥協した結果が、これだった。
「あのね、ここに写っているのは確かに彼なんだけど、結城貴司先生じゃないのよ。ほら、影武者とかあるでしょう。そういう系なの」
「今は歴史の話してないから。とにかく、お願い」
彼女は村瀬ナツコを腕を払い除け、原田の前に出る。
「お願い。アタシに恋愛を教えて」
真っ直ぐな混ざり気のない瞳が、原田を捉えて離さない。
「ここに書いてあったんだ。恋は病気だって。未だに治療法が見つかっていない、全人類が逃げられない呪いなんだって。けど恋を学ぶことでその病気に対して抗体ができる。抗体ができれば今までみたいに恋で苦しんだりすることがなくなるって!」
それは小説恋愛教室の中で、主人公の女子高生が出会った大学教授から言われる言葉だった。酷い失恋をして死まで考えていた彼女に、生きる力を与える為に口にした彼の嘘の言葉だった。
「ただのフィクションだ。それに恋愛というのは」
瞳が水分を伴って潤んでいた。
その瞳の形、だろうか。よく似ている。学生時代に原田が初めて恋というものを知ったある女性の、不純物の一切ないあの瞳だ。一度見つめられたらもう離れられない。そういう吸引力のある眼差しだった。
「いいじゃないですか、先生」
そう提案したのは村瀬ナツコだ。
「どういうことかな」
何を言い出すんだ、と内心では思っていたが、原田はぐっと堪えて彼女の意見を聞く。
「最近先生スランプ気味だったじゃないですか。やっぱり今の若い女子の気持ちをもっと知った方が原稿も捗ると思うんですよ」
村瀬ナツコは原田の反応を見るように覗き込んだが、彼は嫌嫌と小刻みに首を横に振り続ける。
「人に教えると勉強になるっていうしさ。もう観念しなよ、センセ」
その女は村瀬ナツコの隣に立ち、「ねー」と何故か意気投合して笑っている。
それから一歩二歩前に出て原田の手を掴もうとしたので、慌てて後ずさると、
「と、とにかく近づかないでくれ。また倒れたら困る」
注意してから、一メートルの距離を確保した。
「じゃあ、アタシに教えてくれる?」
そんな原田に再び近づく振りをして、女は笑う。
「先生」
村瀬ナツコは諦めろとばかりに苦笑を浮かべている。
「……わかった。ただし、一ヶ月だけ」
「ほんとに?」
「それじゃあその一ヶ月は先生の原稿の締め切り止めておきます。これなら良いですよね?」
その提案はありがたかった。
「まあ、仕方ないな」
「それじゃあセンセ。アタシに恋愛教室、して下さいね」
――何が恋愛教室だ。
内心で愚痴っていたが、原稿の締め切り延期の為だと我慢する。
「アタシは沖愛里。愛に里って書いて、愛里だよ。宜しく」
彼女は戸惑うことなく右手を差し出す。
――沖、愛里か。
それは原田の初恋の女性の名前に、よく似ていた。
彼女の名は、沖優里。
原田を女性アレルギィに追いやった女性だった。
息を切らせながら村瀬ナツコは膝に手を置いて、何度も「先生」と口にする。
「村瀬さん。ここ外だからね」
「分かってますよ。ほんと、先生に何かあったらわたしの監督責任になるんですから」
まるで保護者のような口ぶりだ。
ただ実際、なるべく人との接触を避けたい原田の面倒な要求を通してくれ、色々と折衝を重ねてくれている彼女にはそれなりに世話になっていた。
「それにしてもなんで先生、文庫新刊発売の視察がしたいって言って下さらなかったんですか? やはりわたしが女だからですか? もっと髪とか切った方が良いですか?」
そこまで地味になってもおそらく君は女性らしさを消せないよ。
と口に出そうとして、止めておく。更にヒステリックに盛り上がられても原田が困るだけだ。とにかく「わかった」と連呼して、何とか彼女の血圧を下げようとする。
「やっぱりアンタ先生なんだ!」
ああ……。
待合室から出てきた彼女は、その目立つ大きな瞳を原田に向けて子供のようにきらきらとさせていた。短いスカートの一部が捲れ上がり、腿に張り付いている。もう少しでショーツが見えてしまうかと思ったが、布地があるようには感じなかった。きっと村瀬ナツコが持っていないような狭い布地面積のものを履いているのだろう。
そこまで想像して、二人に対して失礼だなと、原田は苦笑する。
「何か勘違いしているようだが、僕はその結城某ではないよ」
「え? 嘘だ。だってこれアンタじゃん」
彼女は手にしていた恋愛教室の著者近影を見せる。
「そんな後ろ姿で同じ人物かどうかなんて分からないだろう?」
「何言ってんのよ。ほら、このコート。あんたのと同じじゃん。それにここ。後ろの旋毛。全く同じ位置にある」
原田は村瀬ナツコを睨みつけた。
どうしても彼女が著者近影を載せたいというので仕方なく後ろ姿ならと妥協した結果が、これだった。
「あのね、ここに写っているのは確かに彼なんだけど、結城貴司先生じゃないのよ。ほら、影武者とかあるでしょう。そういう系なの」
「今は歴史の話してないから。とにかく、お願い」
彼女は村瀬ナツコを腕を払い除け、原田の前に出る。
「お願い。アタシに恋愛を教えて」
真っ直ぐな混ざり気のない瞳が、原田を捉えて離さない。
「ここに書いてあったんだ。恋は病気だって。未だに治療法が見つかっていない、全人類が逃げられない呪いなんだって。けど恋を学ぶことでその病気に対して抗体ができる。抗体ができれば今までみたいに恋で苦しんだりすることがなくなるって!」
それは小説恋愛教室の中で、主人公の女子高生が出会った大学教授から言われる言葉だった。酷い失恋をして死まで考えていた彼女に、生きる力を与える為に口にした彼の嘘の言葉だった。
「ただのフィクションだ。それに恋愛というのは」
瞳が水分を伴って潤んでいた。
その瞳の形、だろうか。よく似ている。学生時代に原田が初めて恋というものを知ったある女性の、不純物の一切ないあの瞳だ。一度見つめられたらもう離れられない。そういう吸引力のある眼差しだった。
「いいじゃないですか、先生」
そう提案したのは村瀬ナツコだ。
「どういうことかな」
何を言い出すんだ、と内心では思っていたが、原田はぐっと堪えて彼女の意見を聞く。
「最近先生スランプ気味だったじゃないですか。やっぱり今の若い女子の気持ちをもっと知った方が原稿も捗ると思うんですよ」
村瀬ナツコは原田の反応を見るように覗き込んだが、彼は嫌嫌と小刻みに首を横に振り続ける。
「人に教えると勉強になるっていうしさ。もう観念しなよ、センセ」
その女は村瀬ナツコの隣に立ち、「ねー」と何故か意気投合して笑っている。
それから一歩二歩前に出て原田の手を掴もうとしたので、慌てて後ずさると、
「と、とにかく近づかないでくれ。また倒れたら困る」
注意してから、一メートルの距離を確保した。
「じゃあ、アタシに教えてくれる?」
そんな原田に再び近づく振りをして、女は笑う。
「先生」
村瀬ナツコは諦めろとばかりに苦笑を浮かべている。
「……わかった。ただし、一ヶ月だけ」
「ほんとに?」
「それじゃあその一ヶ月は先生の原稿の締め切り止めておきます。これなら良いですよね?」
その提案はありがたかった。
「まあ、仕方ないな」
「それじゃあセンセ。アタシに恋愛教室、して下さいね」
――何が恋愛教室だ。
内心で愚痴っていたが、原稿の締め切り延期の為だと我慢する。
「アタシは沖愛里。愛に里って書いて、愛里だよ。宜しく」
彼女は戸惑うことなく右手を差し出す。
――沖、愛里か。
それは原田の初恋の女性の名前に、よく似ていた。
彼女の名は、沖優里。
原田を女性アレルギィに追いやった女性だった。
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