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第五章 「シーソーゲーム」

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 結局原稿は百五十枚程度の分量になったが、これを一旦初稿として村瀬ナツコに提出して、指摘部分を修正しつつ更に雑誌掲載用に削らなければならない。最終的に読者の目に届くまでには何度も手が入れられ、とんちんかんな表現や明らかに間違った内容は消え去ってしまう。初稿を作るまでは山登りの印象があるが、一旦書き上がってしまった後にはただひたすらに研磨して鏡の表面を生み出す作業に似ている、と原田は思っていた。

 サイドテーブルの上のスマートフォンが震える。
 何か言い忘れたことでもあったのかと手に取ると、愛里からではなかった。
 メールだ。
 名前は原田佳寿はらだけいじゅとある。叔父だった。
 用件は見なくても分かっている。
 それでも返事をしないと次は電話が掛かってくる。
 溜息を一つ落とすと、忙しいからという言い訳を打ち込もうとする。けれどその指が、動かない。目の前がかすんで、うまく文字が見られなかった。

 と、電話ではなくインタフォンが鳴らされた。
 応対に出てみると、やはり叔父だった。今日はどうやら直接マンションまで足を運んだらしい。確かに先月は何とか無理を言って断ったから、今月はどうしても連れて行きたかったのだろうが、滅多にないことに脈が早くなった。

「なんだ。いるのなら返事くらいしてくれよ」

 玄関の鍵を開けると、眼鏡を掛けた小太りの男性が入ってきて、

「しかしこっちは寒いな」

 と言いながら革靴を脱いだ。

「えっと、コーヒーで?」
「朝はもう食べたのか?」

 リビングまで通すと、テーブルに愛里が用意してくれた朝食があるのを叔父は見つけた。

「貴明君。一人暮らしだったな?」
「え、ええ。そうですよ。ちょっと仕事が立て込んでて、準備したけど、まだ食べてないんです」

 皿の上には白菜の和物、焼いた秋刀魚さんま。ご飯茶碗と湯呑みは逆さにして伏せられている。キッチンに目をやればコンロの上に味噌汁の入った赤い鍋があった。

「一人暮らしが長いと料理も上達するもんだな」

 妙な誤解をされても困るので「ええ、まあ」と苦笑を返しておく。

「叔父さんは今朝こっちに?」

 静岡から新幹線で出てきたが東京駅から電車の数が多くて参ったという話を、いつもの調子でされ、それに適当に相槌を返しながらコーヒーを注いだ。
 新幹線の中で弁当を食べたという叔父の前で、原田は急いでご飯を食べる。ゆっくり味わえば美味しく食べられただろうが、目の前にしかつらの親戚がいるのだ。とてもそんなどころではなかった。

「ところで、今日は行けるんだろうね」

 嫌、と言える空気ではない。
 原田は頭の中で原稿を午前中に送らなければならないと伝えて何とか断れないかとシミュレーションしてみたが、「送るまで待つ」と言い出しかねないと簡単に想像できて止めてしまった。

「少しだけ待ってて下さい」

 結局中途半端なままで初稿を提出してしまうことに決め、諦観ていかんと共に食器を洗った。
 今日こそは、父に会わなければならない。
 この世で一番苦手な、生き物に。
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