77 / 88
第九章 「恋人よ」
8
しおりを挟む
ずっと大切にしてきた想いのはずだった。
もっと何かしら彼女の言葉を、返答を貰えるものだと思っていた。
けれど現実はこんなものだ。
いつだって期待を裏切りながら自分の心を壊していく。
原田は呆然としたまま、通路を歩いていた。
「あの」
その後ろから声を掛けられる。
振り返ると沖葉子が集中治療室のドアを開けて、こちらに小走りに向かってくるのが分かった。
「何でしょうか」
当然だが、血縁関係にないという葉子の顔は優里、愛里のどちらとも似ていない。細い一重の目にお餅のような丸顔が昭和美人という連想をさせた。
「あなたが原田貴明さん……いえ、もう一人の結城貴司さんですよね?」
誰から聞いたのだろう。
原田は一瞬どう答えるべきか迷ったが、ひとまず頷いておいた。
「それが?」
「失礼でしたら謝ります。ただ、ひょっとしたら優里さんが冷たい態度を取ったのかな、と思いましたので」
図星だった。
「良かったらそこで少し話しませんか」
原田の様子を伺うように見やると、葉子は待合室に手を向ける。
正直一人切りになりたい気分だったが、断ることも出来ず、原田は頷くと彼女に代わってドアを開けた。
部屋は畳敷きになっていて、互いに靴を脱いで上がる。
簡易式のベッドが二つと、積み上げられた毛布、それに奥にコンロと流し台も備え付けられていたが、それらを使ってお茶を淹れようという気分にはならなかった。
机を囲んで対面になると、原田は「何か買ってきましょうか?」と尋ねてみる。
「原田さんが欲しければ。でも、そこまでお時間は取らせませんよ」
彼女の目的がよく分からない。
それでも正座から少しだけ足を崩すと、
「恋愛教室、読ませていただいてます」
葉子はそんな言葉から会話を始めた。
「文章は全てあなたがお書きになられているんですよね?」
「ええ、そうです」
「けど、話の内容や、出てくる人間たちの考え、感情。そういったものは優里さんが考えられたものですよね?」
彼女から直接聞いた訳ではないのだろうか。
葉子がどこまで知っているのか分からず、原田は曖昧な返事を返してしまう。
「月に一度だけ、という約束だったんです」
「何がですか?」
不思議な雰囲気の女性だった。
考えていることがよく分からないが、頭の回転が悪い風にも見えない。かと言ってわざと惚けたような話し方をしているようでもない。捉え処がない人物、というのはこういう人間のことかも知れなかった。
「見舞いをね、許可してもらっていたんです。優里さんに」
ああ。
愛里から少しだけ聞いたことを思い出す。ただ彼女はその時に、沖優里は義母のことを酷く嫌っていると言っていた。
「私はこんなですから、色々と優里さんを苛つかせたりすることもありまして。それでも母親になろうとして、色々と努力をしてみたんです。恋愛教室を読む、というのも、その一つでした。最初は結城貴司という著者のことがお好きなのかな、と思っていたんですけれど、よくよく読んでみればご自分と、それにあの人……ああ、優里さんの前でないから良いかしらね、宗親さん、優里さんの父親ね、彼のことがそこには描かれていたの」
それは初耳だった。
原田はてっきり優里自身の恋愛に対する考えを准教授と女子大生の二人の関係性で表現したものだと思い込んでいた。それにモデルがいたとは、考えが及ばなかった。
「お聞きになられていないかも知れないわね。優里さん、自分のことは殆ど話さないでしょう? けど、近くで見てきた人間にはよく分かるの。実際、宗親さんと前の奥さん……里美さんは大学の先生と生徒という関係からご結婚なされたものでしたしね」
「それじゃあ……前の奥さんとは別れられた、ということですか?」
そう口に出してしまってから、原田はそれがまだ世間には未発表のプロットの出来事だったと思い出す。
「ご存知ないんですか? 死別されたんですよ。詳しい事情はまた愛里さんにでも聞いて下さい。けれど、今でも口には出されませんが、優里さんは思っていると思いますよ。あの人の所為で母親が死んだのだと」
原田君も父親に母親を殺されたのね。
そんなことを以前優里が書いていたことを思い出した。
「そして、それこそが大きな勘違いだと」
「どこが勘違いなんでしょうか」
「原田さんのお父様は、ご存命?」
はい。と低く頷く。
「お母様は?」
「亡くなりました」
「そう」
葉子は一度目を伏せてから原田の表情を探るように見ると、続けた。
「どんなご関係だったかは分からないけれど、あなたはどう思っているの? 二人の関係が、間違っていた。そう考えているのではなくて?」
まるでその言葉は優里から発されたもののように、原田には思えた。
「事実、母は父の所為で亡くなったんです。だから、そこにはどんな理屈を捏ねたところで、悲しい関係だったと言うしかありませんよ」
「それを愛とは、呼べない?」
「呼べません」
「では、恋とは?」
その言葉で、原田には施設で必死に母晴美の名を呼ぶ姿が思い出された。
「二人の関係がどうだったかなんて、結局は本人たちにしか分かり得ないものなんだと、私は思うの。いいえ。本人たちですらよく分かっていない。分かり合えていない。そういうものなんじゃないかしら」
「何が、言いたいんですか」
この苛立ちを、毎月沖優里は感じていたのかも知れない。
そんな原田の目を正面から見て、沖葉子は口を開いた。
「優里さんを、愛してあげて下さい」
その瞳から、涙が落ちる。
「あの人は誰の愛情も受け入れようとしない。今度一緒に暮らそうとあの人が言ってくれたけれど、きっと断るわ。そうなればもう二度と関係の修復ができなくなるかも知れない。愛里さんもいつかは優里さんから離れる。そうなれば、あの子は一人になってしまう。そうなってしまうことが、私には一番辛いことなんです。あの子の母親になれなくても、それは仕方ない。けれど、家族という関係になってしまった彼女の、親という立場ではありたいの」
葉子の言葉に、原田は自分が大きな勘違いをしていたのかも知れない、と気づいた。
立ち上がる。
靴に足を通して、葉子を見る。
「あの……もう少しだけ、優里さんの傍に居てあげて下さい。僕にはまだ、すべきことがあったと、思い出しました。絶対にまた戻ってきます。だからそれまでは、彼女を一人にしないであげて下さい。お願いします」
「……はい」
その返事を背に、原田は部屋を出た。
エレベータの場所を確認すると、走り出す。
本当の恋愛教室を、
君と私の恋愛教室を、
終わらせる為に。
もっと何かしら彼女の言葉を、返答を貰えるものだと思っていた。
けれど現実はこんなものだ。
いつだって期待を裏切りながら自分の心を壊していく。
原田は呆然としたまま、通路を歩いていた。
「あの」
その後ろから声を掛けられる。
振り返ると沖葉子が集中治療室のドアを開けて、こちらに小走りに向かってくるのが分かった。
「何でしょうか」
当然だが、血縁関係にないという葉子の顔は優里、愛里のどちらとも似ていない。細い一重の目にお餅のような丸顔が昭和美人という連想をさせた。
「あなたが原田貴明さん……いえ、もう一人の結城貴司さんですよね?」
誰から聞いたのだろう。
原田は一瞬どう答えるべきか迷ったが、ひとまず頷いておいた。
「それが?」
「失礼でしたら謝ります。ただ、ひょっとしたら優里さんが冷たい態度を取ったのかな、と思いましたので」
図星だった。
「良かったらそこで少し話しませんか」
原田の様子を伺うように見やると、葉子は待合室に手を向ける。
正直一人切りになりたい気分だったが、断ることも出来ず、原田は頷くと彼女に代わってドアを開けた。
部屋は畳敷きになっていて、互いに靴を脱いで上がる。
簡易式のベッドが二つと、積み上げられた毛布、それに奥にコンロと流し台も備え付けられていたが、それらを使ってお茶を淹れようという気分にはならなかった。
机を囲んで対面になると、原田は「何か買ってきましょうか?」と尋ねてみる。
「原田さんが欲しければ。でも、そこまでお時間は取らせませんよ」
彼女の目的がよく分からない。
それでも正座から少しだけ足を崩すと、
「恋愛教室、読ませていただいてます」
葉子はそんな言葉から会話を始めた。
「文章は全てあなたがお書きになられているんですよね?」
「ええ、そうです」
「けど、話の内容や、出てくる人間たちの考え、感情。そういったものは優里さんが考えられたものですよね?」
彼女から直接聞いた訳ではないのだろうか。
葉子がどこまで知っているのか分からず、原田は曖昧な返事を返してしまう。
「月に一度だけ、という約束だったんです」
「何がですか?」
不思議な雰囲気の女性だった。
考えていることがよく分からないが、頭の回転が悪い風にも見えない。かと言ってわざと惚けたような話し方をしているようでもない。捉え処がない人物、というのはこういう人間のことかも知れなかった。
「見舞いをね、許可してもらっていたんです。優里さんに」
ああ。
愛里から少しだけ聞いたことを思い出す。ただ彼女はその時に、沖優里は義母のことを酷く嫌っていると言っていた。
「私はこんなですから、色々と優里さんを苛つかせたりすることもありまして。それでも母親になろうとして、色々と努力をしてみたんです。恋愛教室を読む、というのも、その一つでした。最初は結城貴司という著者のことがお好きなのかな、と思っていたんですけれど、よくよく読んでみればご自分と、それにあの人……ああ、優里さんの前でないから良いかしらね、宗親さん、優里さんの父親ね、彼のことがそこには描かれていたの」
それは初耳だった。
原田はてっきり優里自身の恋愛に対する考えを准教授と女子大生の二人の関係性で表現したものだと思い込んでいた。それにモデルがいたとは、考えが及ばなかった。
「お聞きになられていないかも知れないわね。優里さん、自分のことは殆ど話さないでしょう? けど、近くで見てきた人間にはよく分かるの。実際、宗親さんと前の奥さん……里美さんは大学の先生と生徒という関係からご結婚なされたものでしたしね」
「それじゃあ……前の奥さんとは別れられた、ということですか?」
そう口に出してしまってから、原田はそれがまだ世間には未発表のプロットの出来事だったと思い出す。
「ご存知ないんですか? 死別されたんですよ。詳しい事情はまた愛里さんにでも聞いて下さい。けれど、今でも口には出されませんが、優里さんは思っていると思いますよ。あの人の所為で母親が死んだのだと」
原田君も父親に母親を殺されたのね。
そんなことを以前優里が書いていたことを思い出した。
「そして、それこそが大きな勘違いだと」
「どこが勘違いなんでしょうか」
「原田さんのお父様は、ご存命?」
はい。と低く頷く。
「お母様は?」
「亡くなりました」
「そう」
葉子は一度目を伏せてから原田の表情を探るように見ると、続けた。
「どんなご関係だったかは分からないけれど、あなたはどう思っているの? 二人の関係が、間違っていた。そう考えているのではなくて?」
まるでその言葉は優里から発されたもののように、原田には思えた。
「事実、母は父の所為で亡くなったんです。だから、そこにはどんな理屈を捏ねたところで、悲しい関係だったと言うしかありませんよ」
「それを愛とは、呼べない?」
「呼べません」
「では、恋とは?」
その言葉で、原田には施設で必死に母晴美の名を呼ぶ姿が思い出された。
「二人の関係がどうだったかなんて、結局は本人たちにしか分かり得ないものなんだと、私は思うの。いいえ。本人たちですらよく分かっていない。分かり合えていない。そういうものなんじゃないかしら」
「何が、言いたいんですか」
この苛立ちを、毎月沖優里は感じていたのかも知れない。
そんな原田の目を正面から見て、沖葉子は口を開いた。
「優里さんを、愛してあげて下さい」
その瞳から、涙が落ちる。
「あの人は誰の愛情も受け入れようとしない。今度一緒に暮らそうとあの人が言ってくれたけれど、きっと断るわ。そうなればもう二度と関係の修復ができなくなるかも知れない。愛里さんもいつかは優里さんから離れる。そうなれば、あの子は一人になってしまう。そうなってしまうことが、私には一番辛いことなんです。あの子の母親になれなくても、それは仕方ない。けれど、家族という関係になってしまった彼女の、親という立場ではありたいの」
葉子の言葉に、原田は自分が大きな勘違いをしていたのかも知れない、と気づいた。
立ち上がる。
靴に足を通して、葉子を見る。
「あの……もう少しだけ、優里さんの傍に居てあげて下さい。僕にはまだ、すべきことがあったと、思い出しました。絶対にまた戻ってきます。だからそれまでは、彼女を一人にしないであげて下さい。お願いします」
「……はい」
その返事を背に、原田は部屋を出た。
エレベータの場所を確認すると、走り出す。
本当の恋愛教室を、
君と私の恋愛教室を、
終わらせる為に。
0
あなたにおすすめの小説
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇
☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
紙の上の空
中谷ととこ
ライト文芸
小学六年生の夏、父が突然、兄を連れてきた。
容姿に恵まれて才色兼備、誰もが憧れてしまう女性でありながら、裏表のない竹を割ったような性格の八重嶋碧(31)は、幼い頃からどこにいても注目され、男女問わず人気がある。
欲しいものは何でも手に入りそうな彼女だが、本当に欲しいものは自分のものにはならない。欲しいすら言えない。長い長い片想いは成就する見込みはなく半分腐りかけているのだが、なかなか捨てることができずにいた。
血の繋がりはない、兄の八重嶋公亮(33)は、未婚だがとっくに独立し家を出ている。
公亮の親友で、碧とは幼い頃からの顔見知りでもある、斎木丈太郎(33)は、碧の会社の近くのフレンチ店で料理人をしている。お互いに好き勝手言える気心の知れた仲だが、こちらはこちらで本心は隠したまま碧の動向を見守っていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる