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第4章 茶器と美しい姉妹 編

第34話 呉服屋の凋落

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鎌倉、東慶寺の近くで呉服屋を営んでいた『山村屋やまむらや』は、未曽有みぞうの危機に瀕していた。

これまで玉縄たまなわ藩の御用聞きとして、商売繁盛していたのだが、本多正信ほんだまさのぶの死去に伴い、藩主が新しく松平正綱まつだいらただつなに代わった途端、呉服所※1の看板を下ろすことになったからである。

玉縄藩からの仕事がなくなると、次第に経営は傾き始め、五代目である権兵衛ごんべえの顔は日に日に険しいものへと変わっていく。

そこに店を立て直すための融資の話が舞い込んだ。
但し、それにはある条件が示されるのだった。

権兵衛は、その条件を満たすため、妻の紫乃しのを屋敷内で探す。

「紫乃、紫乃はどこへ行った?」
「はい。こちらです」

お勝手から、妻の声が聞こえてくるのに対して、権兵衛は、あからさまに嫌な顔をした。
恐らく、夕食の準備をしているのだろうが、そのような事は他の家の者に任せるように、いつも言っていたのである。

ところが、働き者の紫乃は、体を動かしていないと気がすまないらしく、ついつい手伝いをしてしまうようだった。
また、言い聞かせねばならぬと思った権兵衛だが、今はそんな事よりも重要な話がある。

紫乃が、お勝手から顔を出すと、居間に来るように命じた。
それは融資を得るための条件が、紫乃に大きく関係していたからである。

ほどなくして、妻がやって来ると自分の前に座らせた。
咳ばらいを一つした後、権兵衛はつらつらと山村屋の歴史を語り出す。

要は百年以上続いて、自分が今、五代目だということを言いたいのだが、ここら辺は酒に酔うと、いつも権兵衛に聞かされる話なので、紫乃にとっては耳にタコであった。

本題は、その次にある。

「今、山村屋は非常に厳しい状況にあるのだが、さるお方から融資の話をいただいている」
「それは、ありがたいことでございますね」

紫乃は相槌を打ちながらも、そこまで経営状態が悪いことを初めて知るのだった。

藩御用聞きから外れたのは確かに痛手だったが、それを挽回しようとして権兵衛が他の事業に手を出したのが、ケチのつき始めと記憶する。
その新事業とやらに失敗し、先月、店をたたんだことは、すでに耳に入っていた。

紫乃からすれば、地道に呉服屋だけの商売をしていれば、いいと思うのだが、権兵衛にとって、自分の代で呉服所ではなくなったことが、よほど気にくわないのであろう。
何としても自分の手で山村屋の隆盛を極めたいと考えているようだった。

「それで、融資についてだが、ある条件がある」

それは当然そうなる。ただで金子を出す物好きなどいないことくらい、あまり商売に携わっていない紫乃にだって分かることだ。

「それは、どのような条件なのでしょうか?」
そう問いかけると、権兵衛の目が妖しく光った。紫乃は、嫌な予感に見舞われるのだった。

「先方は、『紫白一対しはくいっついの茶器』を所望している」
「えっ」

紫乃は、思わず絶句する。それは嫁入りの際に、父から頂いた大切な茶器なのだ。
その父親は、すでに他界しており、言わば形見とも呼べる品。
おいそれと、他人に渡せるものではない。それに・・・

「私が大事にしているものと知って、おっしゃっていますか?」
「分かっているが、お前もすでに山村屋の人間だ。お家のために尽くすのは、当然のことだろう」

権兵衛は紫乃に頼むでもなく命令をしてきている。その当たり前のように、何でも思い通りになるという態度が癪に障った。

手をついて頭を下げて来るのなら、紫乃も少しは考えたかもしれないのだが、これでは納得のしようがない。
紫乃は権兵衛と結婚して、三年。初めて、反抗するのである。

「お断りします。あれは父の形見、私の大切な茶器をお渡しすることはできません」
「何だと」

権兵衛は激高し、立ち上がった。そして、その勢いで紫乃に手をあげる。
「お前の意見など聞いていない。こちらは気を聞かせて、前もって報告してやったのに、何だ、その態度は!」

叩かれた勢いで畳の上に倒れた紫乃は、キッと睨み返すが権兵衛は痛痒を感じない。
この家では、自分が絶対だという自負があるのだった。

「勝手に持っていくぞ」
「お止めください」

足元にすがる紫乃を振り払って、権兵衛は居間を出て行く。
紫乃の部屋で家探しをするつもりなのだろう。

だが、茶器はすぐに見つかると思われる。紫乃がそれは大切に、毎日、磨いては見やすい場所に置いているからだ。
ただ、それでは、権兵衛は絶対に納得しないことも知っている。

あの茶器だけでは、とはならないためだ。
紫乃は急いで、文をしたためる準備を始めた。妹に、この家には絶対に近づかないよう伝える必要があるからである。
そこに権兵衛が、すごい勢いで戻って来た。

「もう一つの茶器はどこだ?」

紫乃は口を固く結び、答えるのを拒絶する。
権兵衛の罵声と激しい追及も、血を分けた妹のことを思えば耐えることができた。

いずれ、もう一つの茶器の所有者を権兵衛に気づかれるとしても、自分の口からは決して、妹が持っているとは言うまいと誓う紫乃だった。

※1 呉服所:大名などの御用聞きとなる呉服店のこと
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