宝生の樹

丸家れい

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第一章

魔物

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「大丈夫かえ」

 びくりと身体を震わせた東は声が聞こえた方へ恐る恐る顔を上げる。

 黒い靄が立ち込めていた。
 声の主は、青の母親――幸子だ。東は幸子とは一度しか会ったことがないが、忘れられるわけがなかった。
 美弥藤家に連れて来られた東が最初に驚いたのが、幸子の存在だったからだ。
 
 幸子には魔物が憑いていた。

 東の父親にも妖怪が憑いていたが、妖怪よりも魔物の方が闇が深く、力が強い。

 青が保親に部屋替えを申し入れしている際に同じ部屋に幸子もいたのだが、東は初めて見る魔物を直視できなかったことを覚えている。

 魔物に憑かれるだけあって幸子の気には、生き物が住めなくなった沼のような淀んだ涅色くりいろが覆っている。ところどころ黴が生えたように黒くくすんで、でこぼこと歪な形をしていた。

 幸子は自分の利益しか考えず、青を自分の駒としか考えていない。

 青の気を病ませている元凶は、幸子だった。

 幸子の影を覆っていた黒い靄が、虫が集まるように凝縮され、黒い外套を被った人の形を成していく。

 衣擦れの音とすり足の音が近づいてくる。

 東が身構えると、漆黒の打掛の裾を払って腰を下ろした幸子が柔らかく笑んだ。

「そう、警戒するでない。私は、知っておるぞ」

 東は布作面の下で眉根を寄せた。

「な、なにを?」

 腰を下ろした幸子が、静かに言った。

「そなた、巫覡の才があるだろう?」

 含み笑いを滲ませた幸子の声音に東は口を噤んだ。

「そう怖がるでないよ。……実は、私も巫覡の才があるのだ。私とそなたは同類ということになるな」

 東は黙って目を見張る。

「困ったことに私の才は大したことがない。せいぜい、小物の妖怪が見える程度。しかし、そなたは違うだろう? ……侍女が聞いておったぞ。雨が降ったと喜んだ村人が屋敷に訪れていたとき、そなたは『溜池を一杯にする』と言ったそうじゃないか」

 東は強気に言ってみせる。

「それで、どうして僕に巫覡の才があると思うんです」

「ただの予言であれば、『溜池の水を一杯にする』ではなく『一杯になる』というだろう?」

 それに、と幸子は真っ赤な唇を歪めて笑う。

「村で起きていた不可解な現象も解決したそうではないか。そのようなこと、一介の人間ができると思うかえ?」

 唇を引き結んで俯いた東の耳の奥で、青の言葉が過る。

 自分の能力を他人に知られてはいけないと言われていたのに。

 幸子は一層優しく、猫なで声を出して言った。

「そなたに頼みたいことがあるのだ。数少ない同類の頼み、聞いてくれるだろう?」
 
 するすると東の肩に幸子の腕が伸ばされる。蛞蝓が這うような感覚に東は咄嗟に幸子の腕を振り払った。

「嫌だ」

「ふふ、……ふはははは」

「何がおかしい」

「おまえは何か勘違いをしていないかえ?」

 東はじっと幸子を――幸子の背後で佇む魔物を見据えた。
 幸子と共に魔物が口を開く。

「『おまえが女児ではなく、男児だということを――しかも、生きているだけで罪人である白人だということを私が知らないとでも思っているのかえ』」

 幸子の声高な声と魔物の地獄から這い出してきたような爛れた声が重なり合い、空間を歪める音に東の背中が、ぞぞぞと粟立つ。

「『青は私に内緒事はできないからね。……私がおまえの存在を怪しんでいたら、教えてくれたよ。青が心配だと、ほろりと涙を見せれば私の言うことを聞いてくれるのさ。馬鹿みたいに優しい青は私の自慢の娘よ。……さぁ、どうなると思うかえ。青が連れてきた子が、白人だったとなれば。青が白人を匿っていると明らかになればどうなるだろうね』」

 くつくつと幸子と魔物は笑う。

 そんなのわかりきっていることだ。

 東は拳を握り締めて、口を開いた。

「僕に、何をしてほしいの」

 幸子は、得たり、と人差し指で赤い唇をなぞりながら言う。

「『いい子。……しぶとく生きている國保の命を奪っておいで』」

「は……?」

 唇を戦慄かせる東に構うことなく、幸子は続けた。

「『簡単なことでしょう? おまえなら』」

 嫌悪感を帯びた鼓動が喉を突いて、呼吸が浅くなる。

 できるわけがない。

 そんなことさせないでくれ、と背を向けて逃げようとしたが、足が動かなかった。床に縫い留められたかのように、微動だにしない。

 魔物が、ぬるりと黒い爪の先を伸ばして、困惑している東の額に触れた。瞬間、否応なく東の脳裏に映像が流れてくる。

 床に臥せている國保の姿、國保の周りには憔悴しきった國保の母親・章子あきこと章子に寄り添っている保親の姿が。國保を挟んだ反対側には医者が桶で身拭いを絞っている。

 そして視点は國保に移り、胸の中を映し出す。

 國保の心臓が、熱を孕んでうねっている。

 東が國保の心臓を認めるのと同時に、右手が熱くなり妙な感覚が這う。
 どくり、どくりと波打つその感覚は、心臓の動きと連動しているようだった。

 手のひらに嫌な汗が滲み出す。

 魔物が感心したように笑った。

『わかっているようだね。その掌を握り潰すだけさ。それで國保の心の臓が止まる。簡単なことだろう?』

 魔物が昏く囁く。

『やれ。お前にしかできないことだからね』

 東が奥歯を噛み締めて、無言の抵抗を示すと魔物が喉の奥で笑った。

『嬉しいだろう? 誰かに認められたいのだろう? 誰かに必要とされたいのだろう? 私にはみえる。お前の闇が。孤独な闇が……』

「……黙れ」

 自身が魔物に取り憑かれていることを知らない幸子は、突然声を発した東に訝しげに顔を顰めた。

『私の言うことを聞けば、楽になる。私がお前を必要としているからね』

「黙れ!」

『優しくしてやっているのがわからんのか』

 語調を低くした魔物の声音に東は息を呑んだ。

『幸子のような大した力もない雑魚など捨て置いて、お前の意識を乗っ取ってやろうか』

 魔物の尖った爪が、つ、と額から頬を伝って首元を下った。そして、東の胸中を探るように柔く引っ掻く。

『お前の思考を欲望のままに動かしたらどうなるだろう。……何が欲しい? 豊かな暮らしか、金か……いや、青か?』

 身じろぎした東に、魔物が密やかに笑う。

『私は青が嫌いだ。綺麗すぎるからねえ。だが、……光の存在が、憎しみを抱き、夥しいほどの陰の気を放つ瞬間を想像すると、たまらぬな。清き青は、豊潤な陰の気を放ってくれるだろうねえ』

 東は歯噛みして、唸り声を上げた。

「なんのためにこんなこと」

 魔物は嘲笑う。

『なんのために? 人が放つ闇が心地よいからだよ。ただそれだけのこと』

 面白そうに笑う魔物に東は呆然とする。

 そんなことのために、人を陥れようとするのか。

 言葉を紡げない東に黒い魔物は淡々と言った。

『青を大切にしたいだろう? 私は優しいから、お前を乗っ取ることはやめてやる。仲良くしようじゃないか』

 東は陰鬱に顔を歪めた。

 すべては自分が招いたことだ。

 喉を上下させ、東は深紅の瞳を強く瞑る。
 従順な東に魔物は会心の笑みを浮かべた。

 右手を波打つ命の感覚から、逃げ出したくなる。

 東は下唇を噛み締めて、震える右手を柔く握り締めた。
 手の中にある國保の命の感覚に涙が溢れそうになる。
 
『もっと、強くだよ。……あぁ、まだお前の力では足りないのか。私の力を分けてあげるよ』

 魔物の優しい言の葉に宿る力が、東の右手を無理やり動かす。
 怯える東の心に反して、強く、強く拳を握り締めた。

 生きたいと、足掻く命の感触に東は顔を背ける。
 
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 せめて、安らかに。

 こんなことを願う自分は卑怯だ。
 罪悪感から逃げたくて願っている。

 それでも願わずにはいられなかった。
 
 ごめんなさい。
 せめて、安らかに。

 東が何度も心の中で呟いていると、拳の中にあった波打つ感覚が次第に弱くなっていく。そして、ぴたりと感覚が凪いだ。

 魔物の満足げに笑う昏い音が、色を失った東を深淵へ落としていった。
 
 再び震え出す拳を開くことができない。
 東は拳を額にくっつけて蹲った。

 ごめんなさい。

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