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98.溺れる者は藁をもつかむ。
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ハイネスが意識を失ったユウラを運び込んだのは、
戦艦ではなく、武器を持たないただの旅客船だった。
一応は王族専用のものだが、製造も古く決して華美なものではない。
「ハイネス様、近衛府よりカルシア様を
奪還することに成功しました」
兵卒がハイネスに向かって敬礼した。
身に纏う群青の騎士服は、カルシアの親衛隊であることを示す。
「そうか」
ハイネスは張りつめていた表情を和らげて、安堵の吐息を吐いた。
そして自嘲する。
カルシアの親衛隊といっても、その数はしれている。
ウォルフの率いる戦艦『Black Princess』や、
ルーク・レイランドが率いる戦艦『White Wing』が
この船に本気で追ってきたならば、
万に一つも勝ち目はない。
水面に沈みゆく泥船のように、
ゆっくりと船体が水に溶けて傾いているかのような
感覚を覚えて、
ハイネスは身震いした。
(溺れるものは、藁にもすがる……か)
ハイネスはそんな言葉を噛み締めて、目の前に坐する女に視線を向けた。
対面する応接用の安楽椅子には、仮面の女が座っている。
プラチナブロンドの美しい髪を背に流し、
白に金の縫い取りの施された騎士服を身に纏っている。
容姿こそは月の女神の仮面に覆われて、
伺い知ることはできないが、
その手足はすらりと長く、
膝の上で組んだ脚線も美しい。
彼女と初めて出会ったのは、ハイネスが無実の罪を着せられて
アーザス国に囚われているときだった。
自分の身を案じたカルシアが、
その乳母を通じて、
彼女に『請け』を依頼したのだ。
絶対絶命の状況に陥った自分を、
この仮面の女騎士は、アーザス国の戦況の混乱に乗じて
いとも簡単に救い出した。
その鮮やかな手腕から、今ではすっかりカルシアの信頼を得て、
近習の一人として仕えている。
カルシアの親衛隊『群青』のメンバーを率い、
着任からのこの短期間で、
国内最強クラスの傭兵部隊を作り上げた。
そして先日、管制塔を襲った解放戦線『暁の女神』というテロリスト集団こそ、
仮面の女騎士セレーネ・ウォーリアが率いる傭兵部隊なのである。
圧倒的に不利な状況のなかでハイネスが掴んだのは、
この傭兵部隊だった。
ハイネスは対峙する仮面の女騎士を見つめ、
微かに目を細めた。
仮面に隠された素顔と同様に、
その素性も素行もわかりはしない。
ただ、闇の情報筋でまことしやかに囁かれているのは、
この仮面の女騎士は、
金さえ積めばどんな汚れ仕事でも引き受けてくれるのだという。
その報酬として国を傾けるほどの金額を要求されたとか、
希少な宝石を要求されたとか、
噂は絶えないが、
皆が口をそろえていう。
この仮面の女騎士の実力は確かであり、その作戦は緻密である、と。
請けた依頼は必ずやり遂げるのだと。
闇の世界に生きる者は、雇用主からたった一度でも信用を失えば
その世界で生きていくことはできない。
ハイネスは今、その噂の真相が真実であると、
身をもって理解しつつある。
この部隊は難攻不落と言われたレッドロラインのセキュリティーを搔い潜り、
すでに近衛府からカルシアを救い出し、
陽動を起こし、その末に第一皇子ウォルフ・レッドロラインの婚約者を
この場に連れてくることに成功させたのだ。
「とりあえずは、第一関門の突破に成功したということか」
女はあくまで無機質な声色でそう言って、
ガラスの応接テーブルの上に置かれたティーカップを手に取った。
ソーサーを片手で受けて、
口元に紅茶を運ぶ仕草も上流階級に属する者特融の品の良さがある。
「金ならばいくらでも払う」
ハイネスはガラステーブルに純金のコインのぎっしりと詰まった袋を女の前に置いた。
女はそんなハーネスに物憂げな視線を向ける。
「次なる関門はカルシアと私をリアン国に亡命させることだ」
ハイネスは対照的に殺気に血走った眼差しを女に向ける。
「できるのか?」
訝しむようにそう問うたハイネスをはぐらかすかのように、
「さあな」
ととぼけて見せる。
「貴様っ!」
頭に血の気が上ったハイネスが、女の襟元に手をかけた。
女の手がハイネスの手首を、いとも簡単に捻りあげた。
ハイネスの表情が苦悶に歪む。
「勘違いするな。我々はお前たちの配下に下った覚えはない。
その命が我々の手中にあることを忘れるな」
女は淡々と無機質な声色で言う。
「わ……わかった。非礼は詫びよう。
それよりも、我々の亡命の件だが、
請け負ってくれるな?」
少し青ざめた顔でハイネスが念を押す。
「我々が出る幕もなく、リアン国の王族とは親しいのであろう?」
女が欠伸を噛殺して明後日の方向を向く。
「そこにたどり着くまでの段取りと、案内を頼むといっているのだ」
ハイネスがいら立ったように、ガラステーブルを叩いた。
「ほ~う」
女はあくまで気乗りしない風情で、ハイネスを見つめた。
「そうだ、この赤毛の女を使え」
応接用のソファーの置かれた向こう側に、衝立で仕切られたスペースがあり、
簡易ベッドが置かれている。
こちらからは死角になるが、そこに一人の少女が横たえられている。
女が立ち上がり、少女の横たえられた簡易ベッドに歩いていく。
ベッドの端に腰を掛けて、頬にかかった髪をそっと払ってやる。
「彼女は?」
そう問う女の声に生気が戻った。
少女を慈しむかのような、ある種の懐かしさをもって少女に触れる。
「将軍家の娘ユウラ・エルドレッドだ。
ウォルフ・フォン・アルフォード……
いや、第一皇子ウォルフ・レッドロラインの婚約者なのだそうだ」
女が動きを止めた。
「無敵の軍神の、恐らく唯一の弱点だ」
ハイネスの脳裏に、カルシアに殴られて泥の中にうずくまるユウラに走り寄り、
きつくカルシアを睨み据えた、ウォルフの表情が過った。
ウォルフは人をひとり殺しかねない、
憎悪のこもった眼差しでカルシアを睨みつけていた。
ハイネスの薄い銀縁の眼鏡の奥が、鈍く光を帯びる。
「彼女をうまく使え」
それは底冷えのするような、声色だった。
戦艦ではなく、武器を持たないただの旅客船だった。
一応は王族専用のものだが、製造も古く決して華美なものではない。
「ハイネス様、近衛府よりカルシア様を
奪還することに成功しました」
兵卒がハイネスに向かって敬礼した。
身に纏う群青の騎士服は、カルシアの親衛隊であることを示す。
「そうか」
ハイネスは張りつめていた表情を和らげて、安堵の吐息を吐いた。
そして自嘲する。
カルシアの親衛隊といっても、その数はしれている。
ウォルフの率いる戦艦『Black Princess』や、
ルーク・レイランドが率いる戦艦『White Wing』が
この船に本気で追ってきたならば、
万に一つも勝ち目はない。
水面に沈みゆく泥船のように、
ゆっくりと船体が水に溶けて傾いているかのような
感覚を覚えて、
ハイネスは身震いした。
(溺れるものは、藁にもすがる……か)
ハイネスはそんな言葉を噛み締めて、目の前に坐する女に視線を向けた。
対面する応接用の安楽椅子には、仮面の女が座っている。
プラチナブロンドの美しい髪を背に流し、
白に金の縫い取りの施された騎士服を身に纏っている。
容姿こそは月の女神の仮面に覆われて、
伺い知ることはできないが、
その手足はすらりと長く、
膝の上で組んだ脚線も美しい。
彼女と初めて出会ったのは、ハイネスが無実の罪を着せられて
アーザス国に囚われているときだった。
自分の身を案じたカルシアが、
その乳母を通じて、
彼女に『請け』を依頼したのだ。
絶対絶命の状況に陥った自分を、
この仮面の女騎士は、アーザス国の戦況の混乱に乗じて
いとも簡単に救い出した。
その鮮やかな手腕から、今ではすっかりカルシアの信頼を得て、
近習の一人として仕えている。
カルシアの親衛隊『群青』のメンバーを率い、
着任からのこの短期間で、
国内最強クラスの傭兵部隊を作り上げた。
そして先日、管制塔を襲った解放戦線『暁の女神』というテロリスト集団こそ、
仮面の女騎士セレーネ・ウォーリアが率いる傭兵部隊なのである。
圧倒的に不利な状況のなかでハイネスが掴んだのは、
この傭兵部隊だった。
ハイネスは対峙する仮面の女騎士を見つめ、
微かに目を細めた。
仮面に隠された素顔と同様に、
その素性も素行もわかりはしない。
ただ、闇の情報筋でまことしやかに囁かれているのは、
この仮面の女騎士は、
金さえ積めばどんな汚れ仕事でも引き受けてくれるのだという。
その報酬として国を傾けるほどの金額を要求されたとか、
希少な宝石を要求されたとか、
噂は絶えないが、
皆が口をそろえていう。
この仮面の女騎士の実力は確かであり、その作戦は緻密である、と。
請けた依頼は必ずやり遂げるのだと。
闇の世界に生きる者は、雇用主からたった一度でも信用を失えば
その世界で生きていくことはできない。
ハイネスは今、その噂の真相が真実であると、
身をもって理解しつつある。
この部隊は難攻不落と言われたレッドロラインのセキュリティーを搔い潜り、
すでに近衛府からカルシアを救い出し、
陽動を起こし、その末に第一皇子ウォルフ・レッドロラインの婚約者を
この場に連れてくることに成功させたのだ。
「とりあえずは、第一関門の突破に成功したということか」
女はあくまで無機質な声色でそう言って、
ガラスの応接テーブルの上に置かれたティーカップを手に取った。
ソーサーを片手で受けて、
口元に紅茶を運ぶ仕草も上流階級に属する者特融の品の良さがある。
「金ならばいくらでも払う」
ハイネスはガラステーブルに純金のコインのぎっしりと詰まった袋を女の前に置いた。
女はそんなハーネスに物憂げな視線を向ける。
「次なる関門はカルシアと私をリアン国に亡命させることだ」
ハイネスは対照的に殺気に血走った眼差しを女に向ける。
「できるのか?」
訝しむようにそう問うたハイネスをはぐらかすかのように、
「さあな」
ととぼけて見せる。
「貴様っ!」
頭に血の気が上ったハイネスが、女の襟元に手をかけた。
女の手がハイネスの手首を、いとも簡単に捻りあげた。
ハイネスの表情が苦悶に歪む。
「勘違いするな。我々はお前たちの配下に下った覚えはない。
その命が我々の手中にあることを忘れるな」
女は淡々と無機質な声色で言う。
「わ……わかった。非礼は詫びよう。
それよりも、我々の亡命の件だが、
請け負ってくれるな?」
少し青ざめた顔でハイネスが念を押す。
「我々が出る幕もなく、リアン国の王族とは親しいのであろう?」
女が欠伸を噛殺して明後日の方向を向く。
「そこにたどり着くまでの段取りと、案内を頼むといっているのだ」
ハイネスがいら立ったように、ガラステーブルを叩いた。
「ほ~う」
女はあくまで気乗りしない風情で、ハイネスを見つめた。
「そうだ、この赤毛の女を使え」
応接用のソファーの置かれた向こう側に、衝立で仕切られたスペースがあり、
簡易ベッドが置かれている。
こちらからは死角になるが、そこに一人の少女が横たえられている。
女が立ち上がり、少女の横たえられた簡易ベッドに歩いていく。
ベッドの端に腰を掛けて、頬にかかった髪をそっと払ってやる。
「彼女は?」
そう問う女の声に生気が戻った。
少女を慈しむかのような、ある種の懐かしさをもって少女に触れる。
「将軍家の娘ユウラ・エルドレッドだ。
ウォルフ・フォン・アルフォード……
いや、第一皇子ウォルフ・レッドロラインの婚約者なのだそうだ」
女が動きを止めた。
「無敵の軍神の、恐らく唯一の弱点だ」
ハイネスの脳裏に、カルシアに殴られて泥の中にうずくまるユウラに走り寄り、
きつくカルシアを睨み据えた、ウォルフの表情が過った。
ウォルフは人をひとり殺しかねない、
憎悪のこもった眼差しでカルシアを睨みつけていた。
ハイネスの薄い銀縁の眼鏡の奥が、鈍く光を帯びる。
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