68 / 72
第六十八話イリオス『キャンバス』
しおりを挟む
クローゼットから画材を出して、
イリオスはイーゼルにキャンバスを立てかけた。
特有の少し黴臭いような湿った臭いが妙にしっくりときて、
不思議に懐かしいと感じる。
手元には、古びたスケッチブックがある。
パラパラとページをめくってみると、
そこには幼い日に、自分が描いたであろう
何点かの絵があった。
とても作品と言える代物ではない。
他人が見ればただの落書きである。
しかし当時の自分はまるで画伯にでもなったかのように、
いたって真剣にこの絵に取り組んでいたのを記憶している。
拙くともそこにはちゃんと自分の世界があり、
その描写の中に精神を投影し、
一心に移り行く心を綴った。
これは確かに時間というカイロスから切り取られた、
自分の心の一部なのだ。
「うっわーこんなの描いてなんだな」
気恥ずかしさを伴った、甘やかな郷愁を胸に持て余しつつ、
イリオスはその落書きに目をやる。
怪獣。
正義のヒーロー。
そして少女の絵。
少女の絵を見たイリオスが、一人赤面する。
(バカだなぁ、俺……)
イリオスは頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。
この画力では、おそらく自分以外の人には
これが誰であるのかが、バレることはないだろう。
しかしイリオスは自覚している。
これは自分のれっきとした黒歴史だ。
しかも現在進行形の黒歴史ときているから始末に負えない。
この少女は、幼い日のセシリアだ。
今も変わらず、セシリアのことが好きだった。
初めて会った日のことは思い出せない。
それくらい幼いころから、ゼノアやセシリアとは休暇の度に
何度も顔を合わせていた。
彼女への好意を意識したのは、いつだったか。
イリオスはキャンバスに木炭を走らせる。
写実的なタッチの少女のデッサンが浮かび上がる。
そうだ。
セシリアへの好意を自覚したのは、母親の記念会の日だった。
記念会というのは、亡き人の命日に近しい人と集まって、
その人を偲ぶ会のことだ。
自分が産まれて直ぐに、母親は死んだのだと聞かされて育ったので、
母親については、何一つ知らなかった。
そもそも自分にとって母親という存在は、
最初から存在しなかったものなので、
寂しいという感情が湧かなかった。
しかしこの日だけは特別で、母親の身の回りの物が飾られたり、
大きく写真が飾られたり、集う人たちが母の在りし日のことを
口々に語っていた。
自分の知らない母という存在が、
確かにこの世に存在していたのだということを、
嫌でも自覚させられる日だった。
在ったはずの存在が、そこにいない。
それはずっと前から胸に抱いてはいても、蓋をし続けていた
空虚感を嫌が応にもむき出しにした。
皆が知っている母のことを、自分は何ひとつ知らない。
そう思うとたまらなくなった。
寂しさを覚えないということは、
決して渇いていないということではない。
知らないという事は、ある種の救いであり、
同時にもっとも残酷なことでもある。
「自分は……もっていないんだ。
もっとも愛すべき人との思い出を
何一つ持っていないんだ」
そんな傷心を持て余した自分は、
物置に隠れて、一人で泣いていた。
物置だから当たり前なのだが、
そこは狭くて、暗くて、ひどく寒かった。
このとても閉鎖された空間が、自分にとっては
この世の果てであり、そこに一人で蹲る自分は
どこまでも孤独なのだと知った。
ここで自分が泣いていることは、絶対に
誰にも気付かれていないと思っていた。
しかしなぜだか、
セシリアにはバレてしまっていたらしい。
そしたらセシリアはどこかからホットミルクと、
ブランケットとボックステイッシュを持ってきて、
黙って俺に差し出した。
俺が泣いていることを知ると、
セシリアはその泣き顔を見ないように、
背中をくっつけて座った。
俺の嗚咽の音だけがする薄暗い物置の中で、
そうやってセシリアは俺に温もりをくれた。
結局望んだ温もりは手に入らなかったし、
この胸は引き裂かれそうに痛んだが、
妙に背中だけは温かかったのを記憶している。
人はこれを救いと呼ぶのだろうか。
その微かな温もりが、今も俺を生かしていることを
お前はきっと知らないだろう。
キャンバスの木炭はリアルな少女を浮き上がらせる。
夢見るような眼差しで微笑みかける少女の絵。
「さて、どうするかな」
イリオスは独り言ちる。
「そうだなぁ。タイトルはさながら
『暁の女神』……なーんてな」
呟きとともに、イリオスは寂し気な微笑を浮かべる。
この少女の微笑みはきっと
自分ではない少年に向けられたものだ。
下絵のままの少女の絵をイーゼルから下ろして、
別のキャンバスを置く。
イリオスは立ち上がり窓に向かう。
月は見えない。
幾重にも雲が重なった闇の夜に、
果たして自分は何を見るのか。
イリオスは自身にそう問うて、瞼を閉じた。
少女が泣いている。
とイリオスは思った。
少女の涙もまた、自分ではない
少年を想って流されているのだろう。
その背中に今も残る温もりの残像に、
イリオスは自身の宿命を思う。
俺たちはきっと見つめ合う事はできないだろう。
そういう運命なのだ。
それでもなお、自分は彼女の微笑みを守る覚悟があるか?
イリオスは自問する。
そして自嘲した。
問うまでもない。
(お前の背中は俺がきっちり守ってやる)
イリオスはキャンバスに別の絵を描く。
殺伐とした荒野を照らす満月。
「無垢な光が見たいものだな」
イリオスはそう呟いて、キャンバスに命を吹き込む。
イリオスはイーゼルにキャンバスを立てかけた。
特有の少し黴臭いような湿った臭いが妙にしっくりときて、
不思議に懐かしいと感じる。
手元には、古びたスケッチブックがある。
パラパラとページをめくってみると、
そこには幼い日に、自分が描いたであろう
何点かの絵があった。
とても作品と言える代物ではない。
他人が見ればただの落書きである。
しかし当時の自分はまるで画伯にでもなったかのように、
いたって真剣にこの絵に取り組んでいたのを記憶している。
拙くともそこにはちゃんと自分の世界があり、
その描写の中に精神を投影し、
一心に移り行く心を綴った。
これは確かに時間というカイロスから切り取られた、
自分の心の一部なのだ。
「うっわーこんなの描いてなんだな」
気恥ずかしさを伴った、甘やかな郷愁を胸に持て余しつつ、
イリオスはその落書きに目をやる。
怪獣。
正義のヒーロー。
そして少女の絵。
少女の絵を見たイリオスが、一人赤面する。
(バカだなぁ、俺……)
イリオスは頭を掻きむしりたい衝動に駆られた。
この画力では、おそらく自分以外の人には
これが誰であるのかが、バレることはないだろう。
しかしイリオスは自覚している。
これは自分のれっきとした黒歴史だ。
しかも現在進行形の黒歴史ときているから始末に負えない。
この少女は、幼い日のセシリアだ。
今も変わらず、セシリアのことが好きだった。
初めて会った日のことは思い出せない。
それくらい幼いころから、ゼノアやセシリアとは休暇の度に
何度も顔を合わせていた。
彼女への好意を意識したのは、いつだったか。
イリオスはキャンバスに木炭を走らせる。
写実的なタッチの少女のデッサンが浮かび上がる。
そうだ。
セシリアへの好意を自覚したのは、母親の記念会の日だった。
記念会というのは、亡き人の命日に近しい人と集まって、
その人を偲ぶ会のことだ。
自分が産まれて直ぐに、母親は死んだのだと聞かされて育ったので、
母親については、何一つ知らなかった。
そもそも自分にとって母親という存在は、
最初から存在しなかったものなので、
寂しいという感情が湧かなかった。
しかしこの日だけは特別で、母親の身の回りの物が飾られたり、
大きく写真が飾られたり、集う人たちが母の在りし日のことを
口々に語っていた。
自分の知らない母という存在が、
確かにこの世に存在していたのだということを、
嫌でも自覚させられる日だった。
在ったはずの存在が、そこにいない。
それはずっと前から胸に抱いてはいても、蓋をし続けていた
空虚感を嫌が応にもむき出しにした。
皆が知っている母のことを、自分は何ひとつ知らない。
そう思うとたまらなくなった。
寂しさを覚えないということは、
決して渇いていないということではない。
知らないという事は、ある種の救いであり、
同時にもっとも残酷なことでもある。
「自分は……もっていないんだ。
もっとも愛すべき人との思い出を
何一つ持っていないんだ」
そんな傷心を持て余した自分は、
物置に隠れて、一人で泣いていた。
物置だから当たり前なのだが、
そこは狭くて、暗くて、ひどく寒かった。
このとても閉鎖された空間が、自分にとっては
この世の果てであり、そこに一人で蹲る自分は
どこまでも孤独なのだと知った。
ここで自分が泣いていることは、絶対に
誰にも気付かれていないと思っていた。
しかしなぜだか、
セシリアにはバレてしまっていたらしい。
そしたらセシリアはどこかからホットミルクと、
ブランケットとボックステイッシュを持ってきて、
黙って俺に差し出した。
俺が泣いていることを知ると、
セシリアはその泣き顔を見ないように、
背中をくっつけて座った。
俺の嗚咽の音だけがする薄暗い物置の中で、
そうやってセシリアは俺に温もりをくれた。
結局望んだ温もりは手に入らなかったし、
この胸は引き裂かれそうに痛んだが、
妙に背中だけは温かかったのを記憶している。
人はこれを救いと呼ぶのだろうか。
その微かな温もりが、今も俺を生かしていることを
お前はきっと知らないだろう。
キャンバスの木炭はリアルな少女を浮き上がらせる。
夢見るような眼差しで微笑みかける少女の絵。
「さて、どうするかな」
イリオスは独り言ちる。
「そうだなぁ。タイトルはさながら
『暁の女神』……なーんてな」
呟きとともに、イリオスは寂し気な微笑を浮かべる。
この少女の微笑みはきっと
自分ではない少年に向けられたものだ。
下絵のままの少女の絵をイーゼルから下ろして、
別のキャンバスを置く。
イリオスは立ち上がり窓に向かう。
月は見えない。
幾重にも雲が重なった闇の夜に、
果たして自分は何を見るのか。
イリオスは自身にそう問うて、瞼を閉じた。
少女が泣いている。
とイリオスは思った。
少女の涙もまた、自分ではない
少年を想って流されているのだろう。
その背中に今も残る温もりの残像に、
イリオスは自身の宿命を思う。
俺たちはきっと見つめ合う事はできないだろう。
そういう運命なのだ。
それでもなお、自分は彼女の微笑みを守る覚悟があるか?
イリオスは自問する。
そして自嘲した。
問うまでもない。
(お前の背中は俺がきっちり守ってやる)
イリオスはキャンバスに別の絵を描く。
殺伐とした荒野を照らす満月。
「無垢な光が見たいものだな」
イリオスはそう呟いて、キャンバスに命を吹き込む。
0
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
完璧(変態)王子は悪役(天然)令嬢を今日も愛でたい
咲桜りおな
恋愛
オルプルート王国第一王子アルスト殿下の婚約者である公爵令嬢のティアナ・ローゼンは、自分の事を何故か初対面から溺愛してくる殿下が苦手。
見た目は完璧な美少年王子様なのに匂いをクンカクンカ嗅がれたり、ティアナの使用済み食器を欲しがったりと何だか変態ちっく!
殿下を好きだというピンク髪の男爵令嬢から恋のキューピッド役を頼まれてしまい、自分も殿下をお慕いしていたと気付くが時既に遅し。不本意ながらも婚約破棄を目指す事となってしまう。
※糖度甘め。イチャコラしております。
第一章は完結しております。只今第二章を更新中。
本作のスピンオフ作品「モブ令嬢はシスコン騎士様にロックオンされたようです~妹が悪役令嬢なんて困ります~」も公開しています。宜しければご一緒にどうぞ。
本作とスピンオフ作品の番外編集も別にUPしてます。
「小説家になろう」でも公開しています。
兄様達の愛が止まりません!
桜
恋愛
五歳の時、私と兄は父の兄である叔父に助けられた。
そう、私達の両親がニ歳の時事故で亡くなった途端、親類に屋敷を乗っ取られて、離れに閉じ込められた。
屋敷に勤めてくれていた者達はほぼ全員解雇され、一部残された者が密かに私達を庇ってくれていたのだ。
やがて、領内や屋敷周辺に魔物や魔獣被害が出だし、私と兄、そして唯一の保護をしてくれた侍女のみとなり、死の危険性があると心配した者が叔父に助けを求めてくれた。
無事に保護された私達は、叔父が全力で守るからと連れ出し、養子にしてくれたのだ。
叔父の家には二人の兄がいた。
そこで、私は思い出したんだ。双子の兄が時折話していた不思議な話と、何故か自分に映像に流れて来た不思議な世界を、そして、私は…
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる