9 / 24
第八話 人形
しおりを挟む
「……っ……んっ……くふぅっ……」
今度は瑞樹くんが、少し離れたところで腹筋をはじめた。
頬を紅潮させ、熱い吐息とともに
時折微かに漏れる艶めかしい声が聞こえてくる。
今はこの場所に、二人きりなのである。
よせばいいのに、やっぱり視線が彼を追いかけてしまうのだ。
弾んだ息のなかで、
彼の肌理の細かい白い肌が、少し汗ばんで、淡く色づいている。
「……」
私はトイレに駆け込んだ。
「あれ? ひょっとして水無月さん、体調悪いんですか?」
瑞樹君が心配そうに、私の顔を覗き込んでくる。
「いっ……いや、そういうわけでは……ないんだが」
私は言葉を濁した。
むしろ色々元気過ぎて困っている。
「無理しちゃだめですよ。
今日はもうシャワーを浴びて帰りましょう」
その心遣いは大変ありがたいのだが、
彼の唇から発せられた
『シャワーを浴びて』の単語に、
律儀に反応してしまう己が恨めしい。
「さ……先に行っててくれないか?
私は少し休んでから、行くよ」
なんとかぎこちなく笑みを浮かべて、
そう言うと、
「そうですか。では、先に汗を流してきます」
そう言って彼はシャワールームに歩いて行った。
シャワー室は薄い扉を隔てて隣にあるのだが、
俺の座っている場所から
淡い曇りガラス越しに、彼の身体のラインがバッチリと見えてしまうのだ。
神経が過敏になっているのか、
微かな衣擦れの音さえ、聞こえてしまう。
(まずいっ! はやくこの場所を立ち去らねばっ!)
私の理性は、明確にそう告げているのだが、
身体が動かない。
(曇りガラス越しのボディーラインって……
なんか直接見るより……エロいかも)
そして水音が聞こえてくる。
扉一枚を隔てて、
今彼は……。
(いっ一糸纏わぬ瑞樹君は……さぞかし美しいだろう……な)
そんな思考に持っていかれそうになって、
「ダメだっ! ダメだっ! ダメだ、ダメだ、ダメだっ!」
私は必死に頭を振った。
「何がダメなんです?」
着替えを終えた瑞樹君が、ちょこんと俺の隣に腰かけた。
そして自身の膝をぽんぽんとたたく。
「うん? どうしたんだい? 瑞樹くん」
私が首を傾げると、
「膝枕をしてあげます。ちゃんとシャワーを浴びてきたので、
汗臭くないですよ?」
そう言って瑞樹くんはにっこりと笑った。
天使ですか? 天使なんですか? 君はっ!
私は間髪を入れずに、彼のまろやかな膝に頭を置いた。
瑞樹君は……優しいなぁ。
なんかちょっと、泣きそうになった。
今まで形式的な恋愛なんてものは、
それなりに数をこなしてきたつもりだ。
お互いの虚栄心のために、
薄い笑みをはりつけて、
刹那を楽しんで
身体を重ねて。
それ以上でもそれ以下でもない関係。
そういう恋愛ができることを、
大人なのだと思っていた。
だけどそれはひどく味気なかったんだ。
この人は、そんな私の殺伐とした人生に
舞い降りた天使なのかもしれない。
柄にもなく、ふとそんなことを思って自嘲する。
きっかけは彼の面影が、彼女によく似ていたから。
私の人生に唯一、暖かなものをくれた少女。
いくら初恋とはいえ、
別に執着しているわけではないんだ。
今ではもう、優しい思い出となって、
記憶の澱に埋もれている。
ただ、懐かしいと感じて、追いかけたんだ。
だけど私は恐らく、今は彼女の幻影ではなく、
瑞樹君自身を……。
ふとそんなことを考えて、
私は自らの思考を打ち消す。
いや、まて?
そうじゃないだろ?
(私は今日、瑞樹君の従妹の花子さんに出会ってだな……)
私は高速で目を瞬かせる。
(凛とした立ち居振る舞いの彼女に恋をしてだな)
いや、本当はそうじゃ無いのかもしれない。
胸の奥がどんよりと重い。
『っていうかさ、顔だけで人を好きになるってどうなのさ』
先ほどの瑞樹君の言葉が、脳裏を掠める。
瑞樹君が言う通り、私は彼女のことを何一つ知らない。
私が好きなのは
瑞樹君によく似た彼女の顔なのだ。
そう気がついて、私は下を向く。
ああ、また私の悪い癖が出てしまったのだ。
「どうしたんです?」
黙りこくった私を心配して、
ひょいと瑞樹君が私の顔を覗き込んだ。
「あっ、いや、なんでもない」
私は瞼を閉じた。
幼いころ、私は母の形見だと
父から貰った白鳥のガラス細工の工芸品を壊してしまったことがある。
『繊細なものだから、
決して触れてはいけないよ』ときつく言われていたのに、
母が恋しくて、恋しくて。
母の温もりを感じたくて、それをガラスケースから出して、
この胸に抱いた。
だけど残酷にも指の間から、それは滑り落ちた。
硬質な音とともに、床にたたきつけられて粉々になって、
私は必死にそれを拾い集めようとしたら、指を切った。
痛くて、痛くて、涙が出た。
だけど白鳥のガラス細工は、もう二度と元には戻らなかったんだ。
私はそこから教訓を得た。
本当に大切なものには、決して触れてはいけないのだ。
ちゃんとガラスケースに保管して、
少し距離を置いて、眺めるくらいがちょうどいい。
だから、また人形を見つけたんだ。
瑞樹君によく似た面差しの。
美しい幻影。
私はその幻影を都合よく愛でただけなのだ。
そんな自分が心底醜くて悲しいと思った。
「水無月さん、泣いているの?」
瑞樹君にそう問われて、ハッとした。
「私は……泣いているのか?」
その事実に私はひどく狼狽した。
今度は瑞樹くんが、少し離れたところで腹筋をはじめた。
頬を紅潮させ、熱い吐息とともに
時折微かに漏れる艶めかしい声が聞こえてくる。
今はこの場所に、二人きりなのである。
よせばいいのに、やっぱり視線が彼を追いかけてしまうのだ。
弾んだ息のなかで、
彼の肌理の細かい白い肌が、少し汗ばんで、淡く色づいている。
「……」
私はトイレに駆け込んだ。
「あれ? ひょっとして水無月さん、体調悪いんですか?」
瑞樹君が心配そうに、私の顔を覗き込んでくる。
「いっ……いや、そういうわけでは……ないんだが」
私は言葉を濁した。
むしろ色々元気過ぎて困っている。
「無理しちゃだめですよ。
今日はもうシャワーを浴びて帰りましょう」
その心遣いは大変ありがたいのだが、
彼の唇から発せられた
『シャワーを浴びて』の単語に、
律儀に反応してしまう己が恨めしい。
「さ……先に行っててくれないか?
私は少し休んでから、行くよ」
なんとかぎこちなく笑みを浮かべて、
そう言うと、
「そうですか。では、先に汗を流してきます」
そう言って彼はシャワールームに歩いて行った。
シャワー室は薄い扉を隔てて隣にあるのだが、
俺の座っている場所から
淡い曇りガラス越しに、彼の身体のラインがバッチリと見えてしまうのだ。
神経が過敏になっているのか、
微かな衣擦れの音さえ、聞こえてしまう。
(まずいっ! はやくこの場所を立ち去らねばっ!)
私の理性は、明確にそう告げているのだが、
身体が動かない。
(曇りガラス越しのボディーラインって……
なんか直接見るより……エロいかも)
そして水音が聞こえてくる。
扉一枚を隔てて、
今彼は……。
(いっ一糸纏わぬ瑞樹君は……さぞかし美しいだろう……な)
そんな思考に持っていかれそうになって、
「ダメだっ! ダメだっ! ダメだ、ダメだ、ダメだっ!」
私は必死に頭を振った。
「何がダメなんです?」
着替えを終えた瑞樹君が、ちょこんと俺の隣に腰かけた。
そして自身の膝をぽんぽんとたたく。
「うん? どうしたんだい? 瑞樹くん」
私が首を傾げると、
「膝枕をしてあげます。ちゃんとシャワーを浴びてきたので、
汗臭くないですよ?」
そう言って瑞樹くんはにっこりと笑った。
天使ですか? 天使なんですか? 君はっ!
私は間髪を入れずに、彼のまろやかな膝に頭を置いた。
瑞樹君は……優しいなぁ。
なんかちょっと、泣きそうになった。
今まで形式的な恋愛なんてものは、
それなりに数をこなしてきたつもりだ。
お互いの虚栄心のために、
薄い笑みをはりつけて、
刹那を楽しんで
身体を重ねて。
それ以上でもそれ以下でもない関係。
そういう恋愛ができることを、
大人なのだと思っていた。
だけどそれはひどく味気なかったんだ。
この人は、そんな私の殺伐とした人生に
舞い降りた天使なのかもしれない。
柄にもなく、ふとそんなことを思って自嘲する。
きっかけは彼の面影が、彼女によく似ていたから。
私の人生に唯一、暖かなものをくれた少女。
いくら初恋とはいえ、
別に執着しているわけではないんだ。
今ではもう、優しい思い出となって、
記憶の澱に埋もれている。
ただ、懐かしいと感じて、追いかけたんだ。
だけど私は恐らく、今は彼女の幻影ではなく、
瑞樹君自身を……。
ふとそんなことを考えて、
私は自らの思考を打ち消す。
いや、まて?
そうじゃないだろ?
(私は今日、瑞樹君の従妹の花子さんに出会ってだな……)
私は高速で目を瞬かせる。
(凛とした立ち居振る舞いの彼女に恋をしてだな)
いや、本当はそうじゃ無いのかもしれない。
胸の奥がどんよりと重い。
『っていうかさ、顔だけで人を好きになるってどうなのさ』
先ほどの瑞樹君の言葉が、脳裏を掠める。
瑞樹君が言う通り、私は彼女のことを何一つ知らない。
私が好きなのは
瑞樹君によく似た彼女の顔なのだ。
そう気がついて、私は下を向く。
ああ、また私の悪い癖が出てしまったのだ。
「どうしたんです?」
黙りこくった私を心配して、
ひょいと瑞樹君が私の顔を覗き込んだ。
「あっ、いや、なんでもない」
私は瞼を閉じた。
幼いころ、私は母の形見だと
父から貰った白鳥のガラス細工の工芸品を壊してしまったことがある。
『繊細なものだから、
決して触れてはいけないよ』ときつく言われていたのに、
母が恋しくて、恋しくて。
母の温もりを感じたくて、それをガラスケースから出して、
この胸に抱いた。
だけど残酷にも指の間から、それは滑り落ちた。
硬質な音とともに、床にたたきつけられて粉々になって、
私は必死にそれを拾い集めようとしたら、指を切った。
痛くて、痛くて、涙が出た。
だけど白鳥のガラス細工は、もう二度と元には戻らなかったんだ。
私はそこから教訓を得た。
本当に大切なものには、決して触れてはいけないのだ。
ちゃんとガラスケースに保管して、
少し距離を置いて、眺めるくらいがちょうどいい。
だから、また人形を見つけたんだ。
瑞樹君によく似た面差しの。
美しい幻影。
私はその幻影を都合よく愛でただけなのだ。
そんな自分が心底醜くて悲しいと思った。
「水無月さん、泣いているの?」
瑞樹君にそう問われて、ハッとした。
「私は……泣いているのか?」
その事実に私はひどく狼狽した。
0
あなたにおすすめの小説
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
鈴木さんちの家政夫
ユキヤナギ
BL
「もし家事全般を請け負ってくれるなら、家賃はいらないよ」そう言われて鈴木家の住み込み家政夫になった智樹は、雇い主の彩葉に心惹かれていく。だが彼には、一途に想い続けている相手がいた。彩葉の恋を見守るうちに、智樹は心に芽生えた大切な気持ちに気付いていく。
家を追い出されたのでツバメをやろうとしたら強面の乳兄弟に反対されて困っている
香歌奈
BL
ある日、突然、セレンは生まれ育った伯爵家を追い出された。
異母兄の婚約者に乱暴を働こうとした罪らしいが、全く身に覚えがない。なのに伯爵家当主となっている異母兄は家から締め出したばかりか、ヴァーレン伯爵家の籍まで抹消したと言う。
途方に暮れたセレンは、年の離れた乳兄弟ギーズを頼ることにした。ギーズは顔に大きな傷跡が残る強面の騎士。悪人からは恐れられ、女子供からは怯えられているという。でもセレンにとっては子守をしてくれた優しいお兄さん。ギーズの家に置いてもらう日々は昔のようで居心地がいい。とはいえ、いつまでも養ってもらうわけにはいかない。しかしお坊ちゃん育ちで手に職があるわけでもなく……。
「僕は女性ウケがいい。この顔を生かしてツバメをしようかな」「おい、待て。ツバメの意味がわかっているのか!」美貌の天然青年に振り回される強面騎士は、ついに実力行使に出る?!
【完結済】俺のモノだと言わない彼氏
竹柏凪紗
BL
「俺と付き合ってみねぇ?…まぁ、俺、彼氏いるけど」彼女に罵倒されフラれるのを寮部屋が隣のイケメン&遊び人・水島大和に目撃されてしまう。それだけでもショックなのに壁ドン状態で付き合ってみないかと迫られてしまった東山和馬。「ははは。いいねぇ。お前と付き合ったら、教室中の女子に刺されそう」と軽く受け流した。…つもりだったのに、翌日からグイグイと迫られるうえ束縛まではじまってしまい──?!
■青春BLに限定した「第1回青春×BL小説カップ」最終21位まで残ることができ感謝しかありません。応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
【完結】それ以上近づかないでください。
ぽぽ
BL
「誰がお前のことなんか好きになると思うの?」
地味で冴えない小鳥遊凪は、ずっと憧れていた蓮見馨に勢いで告白してしまう。
するとまさかのOK。夢みたいな日々が始まった……はずだった。
だけど、ある出来事をきっかけに二人の関係はあっけなく終わる。
過去を忘れるために転校した凪は、もう二度と馨と会うことはないと思っていた。
ところが、ひょんなことから再会してしまう。
しかも、久しぶりに会った馨はどこか様子が違っていた。
「今度は、もう離さないから」
「お願いだから、僕にもう近づかないで…」
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる