電子カルテの創成期

ハリマオ65

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第21話:カルテ電子化の失敗でSEになる

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 ただ、このニュースの出先がわかると、君もまずいだろうと言った。確かに、それはそうですがと言った。絶対に君に対して、迷惑も掛けないし、義理を欠く事もするつもりはないと断言した。以上、君の話した情報は、ほぼ間違いないことがわかったと言う報告を終了と言った。

 その後、珍しく、木下先輩が可愛い女の子のいるスナックに連れて行ってくれた。この所、不景気なせいか、お客が少ないのと言い、グラマー娘と、スレンダーで色っぽいお姉さんが、1人ずつ、ついて、お酌して、たわいもない話をして、彼女たちが、歌い、最後は、体を密着させて、チークダンスまで踊った。

 木下先輩は、上機嫌で、でれでれ状態。ついに看板まで飲み続け精算とお願いすると1人1万円で合計2万円。先輩が、今日は、俺のおごりだと言い、カッコをつけて支払ってくれた。しかし、2万円を支払うと先輩の財布の中身は、いくらも残ってないのはわかった。急に酔いが覚めると、腹が減り、屋台のラーメンを食べることにした。

 11月の寒い夜中、熱いラーメンは、体に染みわたり信じられない位、うまかった。お勘定と言うと800円と言われ悪いが、俺は金がないと先輩が言うと、わかってますと答え常本が支払った。そして1984年12月を迎えると、木下先輩に、アメリカ出張が命ぜられたと情報が飛び込んできた。

 昼休み木下先輩に会うと12月10日から仕事納めの12月27日まで行って、1年後輩と一緒に、マッキントッシュとクラリス社、ファイルメーカーの事を詳しく調査することを命ぜられたらしい。場合によっては、現在の大型コンピュター部門から、汎用型のミニコンピューター部門に配置転換になるかも知れないと言われたようだ。

 その時、これは、俺にとっても、千載一遇のチャンスなんだと、ぽつりと言い、成功したら、絶対に常本には、できるだけの事はしてやると、方を叩いた。それを聞き、成功を祈ってます。間張ってきて下さいと言うと、本当のお前は優しい奴だなと言うと、木下先輩の目が潤んでいるように見えた。

 そして1984年が終わり1985年があけた。1985年の出勤初日、木下先輩が昼、何時もの所に行くと来ていてた。新年の挨拶をすると、木下先輩が、お陰様で、マッキントッシュの子会社クラリスとソフトウェアの日本でのミニコン分野での独占契約が取れそうだと話していた。

 クラリスでもパーソナルコンピューターソフトとしても、最初にマッキントッシュ版のソフトを千ドルで発売するそうだと打ち明けた。そして、木下先輩が、そのソフトをミニコンに応用して、カルテの電子化の実現を見めざすことになったと報告した。

 その後、1985年の4月、木下先輩が課長に抜擢され、10人のチームを率いて、医療用カルテの電子化チームのリーダーになった。しかし、木下先輩が、中小病院や大型開業医、大病院をチームで訪問して回ると、思ってもみない、問題がある事が、わかった。

 それは、医者には、患者さんの情報も保護しなくてはならないという守秘義務があり情報が漏れるようなコンピュター化には基本的には、反対した。皮肉にも1985年4月、アメリカでは、クラリス社から独立したフォースアウト社が、ファイルメーカー、バージョン1.0を発売した。

 しかし、まさか、本格的ータベースを作るには、あまりにも非力なソフトウェアだったようで、全く評判が良くないと聞かされた。そして、カルテの電算化については、日本では、遅々として進まなかった。そのため1985年12月に木下先輩がチームリーダの医療用カルテの電子化チーム解散となった。

 解散後、木下先輩が、意気消沈して、常本の手に入れた情報を横取りした報いだと反省した。そして、あろう事か、静めの直属の上司になり、最大30人の現在のサービスエンジニア・チームのリーダーとなった。その仕事というのは、小型コンピュータのオフィスコンピューターのソフト管理という、全くクリエイティブとは、縁遠い仕事をさせられるはめになった。

 日本電気が自社のオフコンのソフトウェアを売り込んだ会社で、もしトラブルが発生すると、直ぐに飛んで行き原因を究明し、5~10人のチームでプロクラムの間違いを捜して、訂正する仕事、現在のサービスエンジニアの始まりだった。
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